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第八十四話 弦楽

 明日はまだ暗い内に斥候を出すらしくそのメンバーにはアルヴィンも入っていた。多少土地勘があることと、術士としての能力に問題がなさそうだからだという。扱いとしては町内会と同じはずなので異例の抜擢だ。うすうす感じていたが、アルヴィンが軍に入ればあっという間に出世して、エリッツは置き去りにされてしまうのではないか。
 明日の作戦や人選を相談するのにさほど時間はかからなかった。何よりも体力を回復させることを優先するようだ。エリッツさえ乱入しなければもっと早く終わったといえなくもないが、エリッツを呼んだのはシェイルだし、会話を中断させていたのは主にリデロだ。エリッツにはどうすることもできなかった。
 ダフィットやリデロが席を立った後もシェイルはそのままそこに残っている。ダフィットが去り際にシェイルを気づかうような視線を向けたが、結局何も言わずに立ち去った。シェイルの様子が普段と違うことに気づいていたのだろう。
「休まないんですか」
「休みますよ」
 そう言いながらも一向に立ち上がる気配がない。あわよくば一緒にとたくらむエリッツはもぞもぞしながら隣に居座る。
 シェイルはそんなエリッツを不思議そうに見たが、やがて大きく息を吐いて両手で顔を覆ってしまった。一瞬泣いているように見えてあわてたが、「疲れました」という声が細く聞こえてきただけだった。
 シェイルの働きぶりを見るにつけ疲れるのも無理はないのだが、やはりフィクタールの話に起因する何かで心を占められているようにエリッツは思った。
「ロイの王弟というのはどんな方だったんですか」
 シェイルは顔をあげてエリッツを見つめたが黙っている。踏みこみすぎたかと、エリッツは「すみません、やっぱりいいです」と、腰をあげる。
「ガルフィリオ様は不器用で変な人でした」
 立ち去りかけたエリッツを追うようにシェイルがささやく。
「変な人……」
 周りには変な人が多すぎてそれだけではピンとこない。エリッツはまだ少し師と話ができそうだという喜びが出てしまわないようにあげかけた腰を一際ゆっくりとおろした。
「何をやっても裏目に出る人だったんですよね。あなたたちが北の王と呼んでいる人を他国へ逃がすため自ら囮になると公言して帝国領に入ったんですが、なんというか――、他にも目的があったのではないかと」
 シェイルは懐かしむように苦笑する。
「アルサフィア王とはかなりタイプの違う方でした。端的にいえば道楽者でしたね。よく外遊と称して他国に遊びに出かけていてあまりロイにはいないようでした。レジスにも何度か来ていたんじゃないでしょうか。ただそれなりの分別は持ち合わせていたようで、帝国領に入ることはなかったんです」
「まさか帝国領を見たかったんでしょうか」
「それもあると思います。あの方は楽器が好きで帝国の『テンシャ』という弦楽器を死ぬ前に弾きたいと言っていました。旅なれているだけあって少数の兵と帝国領に侵入し森に身を隠ししばらくは何とかしのげていたのですが」
 シェイルは言葉を切ってしばし空を仰ぐ。つられてエリッツも空を見あげるが天気はあまりよくない。月のある辺りだけがふんわりと明るかった。
「帝国軍の追っ手に見つかってしまったんですか」
「見つかるも何も――」
 シェイルは苦々しい表情で言葉をとめる。
「隙あらばどこからか入手してきたテンシャを弾きまくるんです」
 エリッツは耳を疑った。それは見つけてくれと言わんばかりの所業ではないか。確実に変な人だ。
「森の中の村落ではロイの残党の幽霊が出て夜な夜なテンシャをつま弾くと噂になっていたようです。追手に見つかるのも時間の問題でしたし、たとえその場は逃れてもガルフィリオ様と一緒にいる限り命の保証はないように思いました」
 至極まっとうな判断だ。エリッツはシェイルの顔を見つめる。予想に反してその口元はほんのりと笑みをつくっている。
「ガルフィリオ様のこと好きだったんですね」
 シェイルはゆっくりとエリッツの方を見る。それからうつむいてしばらく黙った後、少し困ったように口をひらいた。
「そうですね。そうかもしれません。憎めない方でした。ついていた兵たちはガルフィリオ様と死ぬ気でいましたから。やることなすことどうしようもない方でしたが、人を惹きつける魅力があったんですよ」
 話を聞いている限りまともそうな人ではないが、人望があったのだろう。何よりもシェイルがその人のことをずいぶんと気に入っていたのではないかという気がした。
「あ、その帝国領の森の中でうさぎを獲ったりしていたんですか」
 あの手際の良さはそういうことだろうとエリッツは思い返していた。
「いいえ、うさぎはそのずっと前からです。育ちがあまりよくないものですから、食料はその辺から調達するような暮らしだったんですよ」
 ううんとエリッツはうなりながらシェイルを見つめる。とても育ちが悪いようには見えない。うさぎを獲ってきたって何だって不思議な品格のある人だ。そういうものはラヴォート殿下や高官たちと仕事をするうちに備わるものなのだろうか。
「それでわたしも死にたくはなかったので、ガルフィリオ様のテンシャをうばって破壊したところ、激高したガルフィリオ様にえらく折檻されて沼の湿地帯に捨てられました。体中が泥にまみれて不快でした」
 どこからつっこんでいいのかわからない事態だ。
「――気がついたときにはそこには誰もいなかったんですよ」
 シェイルは急に声を沈ませた。
 敵地でひとりぼっちになってしまったのだ。しかもたった十ばかりの少年である。ずいぶんと無茶をするような子供だったようだがどれほど心細かっただろう。
「あとはフィクタールの話の通りです。ラインデルの第四師団はガルフィリオ様はレジスに逃げたと主張していましたし、全身泥まみれの子供がガルフィリオ様が捨てた奴隷だと名乗れば誰も疑わずちょうどいいとばかりに軍に迎え入れました」
 やがてシェイルはまた両手で顔をおおって深いため息をついた。
「わたし自身はガルフィリオ様はどこかで野垂れ死んでいると思っていたはずなんです。レジスにはおらず、誰も嘘をついている様子がない。記録も残っていない。敵地でそれほど長く逃げのびることなど不可能です。死んでいる以外にない。それなのに今日フィクタールに『討った』と断言されてこんなに動揺するなんて、どこかで戻ってくると信じていたんでしょうか。愚かですね」
 エリッツはいたたまれなくなって、言葉を失った。
 王弟とシェイルがどのような関係だったのかエリッツにはよくわからないが、シェイル自身はその人をとても慕っていたようだ。しかしいわゆる喧嘩別れのまま王弟は亡くなったのだ。
「エリッツ、少し……、助けてください」
 シェイルがわずかに顔をあげる。
「え?」
「少しでいいんです。長く時間はとりません」
 言うなりそっと抱きしめられる。
「父と母は目の前で死にました。それは今でも思い出すとつらいですが、自分の見たものを受け入れることは時間がかかりこそすれ不可能ではありませんでした。ただ、ガルフィリオ様は――」
 シェイルは声を詰まらせ、エリッツを抱く両腕に力をこめる。
 しばらくして小さな吐息とともにそっとその身をはなした。
「もう平気です。すみませんでした」
 エリッツは何が起こったのか理解できないまましばし呆然とする。
 そんなにすぐに立ち直らなくても。なんなら一晩中抱いていてもらってもよかったのに。心を慰めることはできないかもしれないが、体を慰めるくらいなら自信がある。
 いや、立ち直ったわけではないはずだ。そうやって心身ともに無理を重ねてきたのではないだろうか。
 エリッツはまた胸元に手を当てた。それに加えてこれがある。ますますこんなものを出して嫌な思いをさせたくない。
 エリッツは大きくため息をついた。
 周りは静かである。しかたなくランタンの火を消すと、小さく熾るたき火をたよりにアルヴィンの隣にもぐりこんだ。

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