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【*】日々


 例のお店――富貴楼。結局その空間は、愛おしい場に変化した。店を切り盛りするお倉は勿論であるが、伊藤と、誘われた山縣にとっても、それは貴重な場所だった。

 後に元老と呼ばれた山縣の、若かりし頃――その時代の空気感は、独特の時流もあり、それぞれがそれぞれの観念から国に尽くしていたといえる。

 けれど……変わらないものもあるのだと、晩年山縣は考えた。
 時代が変化し、付き合う者が去っていき、また新たな対人関係が生まれた時、ふらりと新しい店へと出向けば、そこにもやはり『空間』がある。

 ただ、そうではあっても、懐かしむ事は許されるだろう、と。
 山縣は瞼を閉じて考えていた。

 たとえば伊藤の事、お倉の事。

「――山縣?」

 不意に名を呼ばれたものだから、驚いて山縣は目を開けた。そこに広がる光景は、懐かしい在りし日の富貴楼であり、正面には伊藤がいる。傍らには、お酌をするお倉の姿がある。

「っ」
「どうしたんだい? 狐につままれたような顔をして」
「……あ、いや……」

 我に返った山縣は、己が白昼夢を見ていたのだろうかと、困惑した。老年の己は、瞬きをしている一瞬の長い夢の中において、盟友ともいえる伊藤を暗殺事件で失ったし、お倉とは宴の約束を果たせなかったはずだった。だが、こうして目を見開いた今、まだ自分達は健在で若く、そうだ、そうではないか、未来について語り合っていたはずだ。

「伊藤」
「ん? なんだい?」
「今、俺はここにいるよな?」
「本当にどうしたんだい? 山縣はいつ、幽霊になったんだい?」
「……ああ。俺から見れば、お前が幽霊だけどな」
「はぁ? 僕は健康だけどね?」
「酒浸りで?」
「――そりゃあさ、山縣ほど規則正しくはないけどねぇ」

 二人のそんなやりとりに、クスクスとお倉が笑う。彼女は何年たっても、本当に美を保っている。別段、山縣は美醜で他者を好きになったり、判断したりするわけではない。ただ、お倉の人柄は、現在では一目置いている。

「なぁ、伊藤」
「どうかしたの?」
「俺より先に逝くなよ」
「それは健康管理に気をつけろって意味かい?」
「それもある」
「それ以外も?」
「嫌な……白昼夢を見たんだよ」
「夢で感傷的になるなんて、山縣らしくもないな」

 伊藤が喉で笑って頬を持ち上げる。お倉は相変わらず微笑みながら、伊藤が飲み干した酒盃に酒を注ぐ。それもそうだなと考えながら、山縣は細く長く吐息した。だが、と、思う。

「俺が感傷的になったらおかしいか?」
「別にそうはいっていないだろう? けどね――悪い未来なんて予想しても意味がないよ。
未来には希望を持たないとな。だから海を渡ったりできたんだよ、僕は」
「……ああ」

 確かに己とは違う渡航を、伊藤がした事も、明確に山縣は理解している。

「自分に希望を持たなければ、一刻を変えるような希望を持つのも難しいと、僕は思うよ」
「……でもな。誰にでも等しく、死は訪れるだろう?」
「それは君の子供の話かい?」
「いいや。俺は今、伊藤と――お倉の話をしている。お前達がいなくなりそうで、無性に怖いんだよ」

 暗い瞳で、口元だけで山縣が笑うと、二人が顔を見合わせた。

「山縣にそれだけ想われるというのは、悪い気はしないけどね」
「私ももったいないですよ」
「茶化すな」

 はぁと大きく溜息をついてから、片手で山縣が酒盃を持ち上げる。口に含んだ日本酒は、いつもより甘く感じた。その甘さが、忌々しい。故郷の味とは異なる酒が、この場で振る舞われるのも珍しいなと感じたその時、山縣はハッとして息を飲んだ。

 今度こそ目を見開く。
 眼前には、伊藤の葬儀の場が広がっていた。今しがた見ていた方こそ夢だったのだと、気づかされた瞬間だった。びっしりと、嫌な汗をかいていて、全身が総毛だっている。ツキンと頭痛がしたから、指先でこめかみに触れた。

 嗚呼――やはり、人は逝く。それを思い知らされる。
 けれど、懐かしい記憶に浸ることは、やはり許されるはずだと、この時も感じた。



 晩年。
 山縣は愛着ある庭園を一望できる場所に佇み、季節の移り変わりを感じながら、当時見た白昼夢について考えていた。今は、ただ一人、この場にいる。池に竹が水を落とす音に耳を傾けながら、咲き誇る椿を視界に捉える。

 もうすでに、幾度もの季節が廻った。
 けれど一度も、富貴楼での日々を忘れた事はない。それは愛おしく懐かしい、温かい記憶の連続だ。泣いた日もあった。怒った日もあった。けれど――山縣は、今思い出しても一番表情が穏やかになり、笑ってしまいそうになる事がある。

 それは、伊藤が総理大臣になり得ると、そう予兆を感じた夜の一幕だ。

「俺の予想は的中したな」

 自分の後押しだってあったのは間違いないが、後押ししたいと思わせたのは、まぎれもない伊藤の実力だ。伊藤は、親友だった。そして親友になり得たのは、伊藤に確固たる実力があったからだけではない。やはり、彼が未来の対極を見据え、そこに希望を抱いていたからだ。大日本帝国というこの国の逝く末に広がる道、そこを照らし出す陽光のような明るい灯の姿。それらを――どちらかといえばネガティブな己は、石橋をたたくようにして、なんとか維持しようと試みた中において、ただ、伊藤は『信じていた』。伊藤が信じる世界が、正しく明るいことを山縣は祈ったから、だからこそ、共にいる時、この国の未来の光が見えたのだろうと、今振り返れば強く感じる。

「なぁ、伊藤? 俺は、お前がいなくても、希望がきちんと見えるようになった。だがそれはな、お前が俺に教えてくれたからでもあるんだぞ?」

 独白した山縣は、池に浮かぶ楓の色づいた紅い葉を見る。
 そして双眸を伏せてから、しっかりと目を見開き、空を見上げた。本日は、あいにくにも曇天で、白い雲が世界を圧迫しているようではあったが、これもまた、一つの空の表情だ。それすらも、愛おしい。

 きっと今後、国難も迫るだろう。いいことばかりが起きるわけではないはずだ。
 それでも――決して、山縣は未来への希望を忘れたりはしない。それは、この人生において、皆が教え、導いてくれたからだ。元老として、今、導き手のように言われる事も増えたが、そうなるまでには様々な出会いと別れがあった。その全てが、山縣にとっては現在、愛おしくてたまらない。

「俺は、まだ生きるぞ。この寿命が尽きるまで、この国の未来を、必ず見据え、よりよいものにきっとする」

 そんな山縣の決意を聞くものは、その場には誰もいなかったけれど。
 嘗て過ごした仲間たちは、きっと耳にせずとも知っていただろう。

 このようにして、山縣の日々は、流れていくのだった。

 それは、それは、幸せな。
 一人の人物の軌跡である。きっといつか、誰かがその生を振り返る時、その者にもまた、おそらく希望を与えてくれるような、そんないつかの偉人の過去だ。その記憶は、大日本帝国、ひいては日本国の礎となる。その基盤は、きっと後世において、悪しざまに言われる場合もあるかもしれないが、語り継ぐものもいるのだろう。未来は、開かれているのだから。

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