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第一科目 現代社会

「君は吸収が早いね。特に確率が得意なのかな。標準的な問題は大方出来るみたいだから、次は応用的な問題を解いてみようか」
「はい!」
指導している女子生徒から、快活な返事が出てくる。このようなやる気のある生徒を相手にすると、こちらのモチベーションも上がるというものだ。俺の名前は青倉賢吾。東大出身の肩書きを活かし、「カラフルゼミ」という大手塾でしがない塾講師をしているアラサーだ。大手といっても給料はそこまで高くはないし、オフィスも小さなビルのワンフロアを借りているだけだけど。現在は高校生の指導を中心に担当している。
今教えている女子生徒の名前は白木透子という。彼女は都内の進学校に通う高校二年生で、その中でも成績優秀というのだから大したものだ。今は高校の予習としてベクトルを扱っているが、標準的な内容を瞬時に理解し、これから応用問題に進もうとしている。ここまで優秀な生徒は今まで見たことがなく、俺も驚いていた。
彼女の母親は教育熱心でよくクレームを入れてくる。教育熱心なのはいいことなのだが、あまりの圧に家庭内の彼女が心配となってくる。それでもこちらが干渉すべきことではない。俺がやるべきなのは淡々と授業を行うだけだ。
正直やりたくて就いた仕事ではないが、やりがいを感じる瞬間が二つある。一つは難しい問題を解いたときだ。同僚ですら匙を投げるような問題の解答が一目で分かったとき。生徒が分からないと質問してきた問題を鮮やかに解いたとき。そういったときはやりがいを感じる。もう一つは彼女のような優秀な生徒を指導するときだ。反対にやる気のない生徒を見るときはモチベーションが大きく下がってしまう。俺が勤めている塾は小学生から高校生まで幅広く指導しているが、大人より賢い小学生もいれば、反対に義務教育の内容すら怪しい高校生もいる。

授業を終えトイレに向かおうとすると、背後から声をかけられた。
「ねえ君、またクレームが入ったんだけど」
声の主は灰野実塾長だった。美人の奥さんに二人の子供と、その小太りの外見からは想像出来ないくらいの勝ち組である。割と穏やかな性格であるため、周囲からは比較的慕われている。しかし俺からしたら全く尊敬出来なかった。なぜなら中堅私大の法学部出身で、今までろくに勉強したことがない癖に塾講師を生業としているからだ。
「く、クレームですか?」
「ほら、例の中三の子だよ。直前期なのに全然成績が上がらなくて、親御さんからクレームが来ているんだ。このままじゃ、志望校合格は無理だから他の塾に行くって。もっとわかりやすく指導してあげてよ」
「で、でも彼は正直やる気がなくて…こちらも手は尽くしているのですが」
その生徒は中学三年生で受験を控えているにもかかわらず、まともに勉強しない。いくら俺が抗議しても、生徒側がやる気を出さなければ意味がない。このことを無視してクレームを入れる家庭のなんと多いことか。塾側ももっと毅然に対応すべきだと個人的に思っている。
「そんな言い訳していないでさ、頼むよ。成績を上げるのが塾講師の仕事でしょ?」
「は、はあ」
中堅私大卒の癖に、難関国立大出身の俺に指図するなと心の中で思いながら頭を下げる。そう言われても、彼にやる気がないのだから仕方がない。宿題を与えたのにやってこない、授業をまともに聞いていないのだから。こちらに責任を押し付けるのはやめてくれと言いたいところだ。

理不尽なクレームに頭を悩ませて机に座ると、また背後から声をかけられた。
「どうしたの、青倉君」
彼女は緑沢菜摘さんという、俺の先輩社員だ。この職場で唯一尊敬出来る人間である。俺に対して優しく接してくれる上に仕事も出来る。何より国立大の農学部出身だ。国立理系を出ているという事実に、俺は頭が上がらなかった。俺の方が大学のレベルは高いものの、高校時代に理科が苦手で文転した過去があるため、尊敬のまなざしで見るようになった。
「く、クレームが来たんですよ、授業が分かりにくいって…俺は難関国立大卒なのに…」
「まあ、あまり気にしなくてもいいと思うよ。こう見えて私はあなたに期待しているし」
彼女の言葉に俺は安堵した。そうだ、俺は間違っていない。なぜなら難関国立大の出身だからだ。

その後俺は授業を終え、帰りの支度をしていた。そのとき大学生アルバイトの男女二人が雑談しているのに気づいた。
男の方は黄門徹。名前を書けば受かるとされる、いわゆる「Fランク大学」の経済学部に在学中の大学一年生だ。しかし高身長でイケメンであるため、俺のような冴えないアラサーよりも女からの人気は高い。大学生活でも遊び呆けているらしいが、こんなやつを高い金を払ってまで、大学に通わせるなと以前から思っている。
女の方は村崎薫。名門私立大学の商学部に在学中の大学二年生だ。一見すると高学歴だが、重大な問題がある。彼女は学力を要する一般入試で入っていないのだ。具体的な入試方式については知らないが、学力でいったらそれこそFランク大学にしか受からないレベルだろう。近年では学力を問わない入試が増えているらしい。実に嘆かわしい。近日中に短期留学に行くらしいが、どうせ遊びに行くのだろうと内心軽蔑している。
二人とも義務教育レベルの内容ですら教えるのに苦労しているらしいが、周囲からは甘やかされている。しかし俺は許していない。容姿端麗だけど頭の中はすっからかん。似た者同士くっつくのだろうかと思いながら他愛ない会話に耳を傾ける。すると唐突に俺の話題になった。
「そういえば、青倉先生って感じ悪くないですか?」
「そうよね。事あるごとに私達の学歴を見下してきますし」
「でもあの人の授業も分かりにくいって、生徒も言っているんですよね。この前なんて、まだ英語の基礎も完成していない中一に対していきなり入試問題レベルの長文を読ませるんですから」「クレームの理由を生徒の理解力がないからって思い込んでいるのも問題だよね。生徒側のやる気のなさも問題だけど、元をたどればあの人の授業の質に起因するし。あんな授業じゃ誰だってやる気なくしますよ。その点私達は彼ほど賢くない分、基本を教えることに集中出来るんだよね」
なんだとこの低学歴、応用レベルを教えられないだけじゃないか、と思わず割り込みそうになった。しかし、今日は高校の友人と飲みに行く約束をしているんだ。早くいかないと。会話の続きが気になったが、かといって約束を反故にするわけにはいかなかったので、急いで職場を出て、駅前の居酒屋へと向かった。

ふと腕時計で時間を確認すると、夜の十一時になろうとしていた。やっぱり忙しいのかな、と思ったそのとき、背後から声が聞こえた。
「ごめんごめん、待った?」
俺は振り返る。そこには赤田蓮が立っていた。彼は高校の同級生で、そこからの長い付き合いだが、昔から変わっていない。東大法学部を卒業後、今では誰もが知る大手企業に勤務しているようで、スーツ姿が俺よりもずっと似合っている。休日明けから海外出張、それも同期の中でも最速で任命されたため、そのお祝いというわけだ。
「いやいや、大丈夫だよ、俺もさっき来たところだし」
「お互い明日は休みだし、ぱーっと飲むか!といっても、まだ荷物の準備が終わっていないんだけどな」
「おいおい大丈夫かよ?」
「まあな!」
赤田は笑いながら返事した。俺は明日仕事だが、場の雰囲気を壊したくないため、言わないでおいた。何より今日は彼との夜を楽しみたかった。店内に入り、仕事のことや昔の思い出のことなどを話していたが、彼は唐突に妙な質問をしてきた。
「そういえば、一か月程前に起こった官僚が殺された事件、覚えているか?」
「ああ…まだ犯人が明らかになっていないアレだろ?」
今から約一ヶ月前、郊外のビジネスホテルで官僚が何者かにナイフで刺されて殺害される事件が発生した。殺害現場はホテルの客室で、一向に起きてこない被害者を不審に思った支配人が様子を見に行ったところ、死体を発見したようである。防犯カメラの映像を調べた結果、犯人は警備員に変装してホテルに侵入したことが判明したが、帽子を深くかぶっていたため顔が分からず、今も犯人は捕まっていない。
「色々と疑惑がかかっていたのもあって、捜査にはかなり慎重みたいだ。マスコミには全然情報が来ないし、何なら現役官僚が殺害された事件にもかかわらず、警察の中でも一部しか捜査していないらしいぞ。何なら秘密事項になっているらしい」
「おいおいマジかよ」
何年も前に妻を交通事故で無くして以来、小学生の息子を育てるシングルファーザーとして奮闘していたようだ。その姿は好評化に繋がった一方で、色々と黒い疑惑もあった。そのため表立って捜査するわけにはいかないのだろう。
「そうそう。それとさ、一週間前に大物ママタレントが通り魔にあって殺された事件もあったじゃん。この二件って絶対に繋がってると思うんだよね」
彼女は三児のママとして有名で好感度も高いタレントだったが、先日通り魔によって刺殺された。こちらも犯人はいまだに捕まっていない。
「繋がっているって、なんで?」
「ネットの掲示板に書いてあったんだよ。殺害に使われた凶器が同じ形状だったうえに、二つの現場に同じものが置かれていたってさ」
「でも、あくまでネット上の情報だろ?」
「まあ、そうなんだけどさ。まとめサイトに書いてあっただけだし。でも何となくとはいえ、そう思ってしまうんだよなあ」
俺もインターネットはよく使うが、ほとんど学歴関係のスレや動画のコメント欄などでレスバトルをすることにしか使っていない。しかし賢い人の直感というのは馬鹿に出来ない。その後は他愛ない話が続いた。ネットで話題になったゲームの話を彼から聞いたり、高校時代の友達が結婚した話で盛り上がったり、互いの仕事に関する愚痴を言ったりした。楽しい時間は一瞬で過ぎ去り、日付が変わったところで解散となった。幸い互いに家が近いため、終電を逃して帰れない、という羽目にはならなかった。俺は明日の仕事に対する憂鬱な気持ちと共に、帰路についた。
明日から惨劇が俺の身を襲うとは、夢にも思わずに。

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