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第二科目 倫理

かつて私が犯した殺人を、自分は今でも覚えている。忘れたくても忘れられない。今でもそのときのことは夢に見てしまう。冷たくなった死体の顔、腹部に刺さった包丁とそこから流れ出る血、血で染まった両手、これらの光景が今も私を苦しめるのだ。
そしてその過去が自分を突き動かす。今日のターゲットの生活については調査済みである。旦那が出張中なのをいいことに、子供に仕事だと嘘をつき、夜遅くまで若い男と遊び呆けている最低な女だ。しかしその習慣が私にとっては好都合だった。深夜に閑静な住宅街を一人で歩いている彼女は、格好のターゲットだ。
年不相応のブランドもので着飾った彼女の背後に忍び寄った。彼女は気配に気づいて振り返ったが、もう遅い。私は左手に持っているナイフを彼女の腹部に突き刺した。ナイフを抜こうとした際、彼女は私の腕を強く掴んだが、それが最期の抵抗となった。しかし、これで終わりではない。私には他にやるべき「仕上げ」があった。マスクとサングラスで変装しているとはいえ、長居するのは危険だ。私はすぐに「仕上げ」を終えると、この場を離れ、夜の闇へと姿を消した。

翌日は七時に出社した。今日は金曜日だが祝日でもあるため、朝から中心に授業がある。
「おはよう、青倉君」
「おはようございます。あれ、緑沢さん、その格好どうしたんですか?」
彼女は暑がりであるため、普段は冬でもワイシャツ姿で仕事している。まして今は九月であるとはいえ、まだ夏の暑さが少しだけ遺っている。にもかかわらず今日はスーツのジャケットを着ているため、疑問に感じた。
「ああこれ?今日は保護者に向けた説明会があるからさ」
そういうと彼女は即座に仕事に取り組んだ。俺とあまり変わらない年齢なのに、このような重要な仕事を任せられるくらい出世した。流石は国立の農学部出身だけあって優秀だと舌を巻いた。今日最初に教える相手は白木だ。彼女は最近やる気、成績共に上昇中であるため、こちらとしても指導し甲斐がある。多くの人が休む祝日の出勤のときは毎回憂鬱になっていたが、彼女のために真面目にやろうとほんの少しだけ思っていた。
しばらくして、事務の方から連絡が来た。どうやら彼女は体調を崩してしまったらしく、今日は休むらしい。やる気のある彼女だからこそ、少しは気合を入れて頑張ろうと思うことが出来た。それゆえにやる気がなくなってしまった。彼女の授業に使うはずだった時間で、ため息とともに貯まった事務作業を進めようとしたそのときだった。
「警察だ」
オフィス内に遠慮なく入ってきた中年の刑事が声を上げた。

今から約二時間前、当塾に通う白木透子の母親・真奈美さんの遺体が発見された。
鑑識の報告によると、彼女は昨日の夜十一時ごろに、公園を歩いているところを何者かに襲われ、ナイフで刺されて殺されたらしい。現場は夜になると人通りがほとんどなくなるため、事件の目撃者はいなかった。それどころか、朝ランニングしていた近所の人が発見するまで、ずっと放置されたままだったと警察の人は言っていた。
しかし、私達に聞きたいことというのは、事件のことではなかった。捜査のために被害者の家に向かったところ、娘の透子は不在だったらしい。今日は体調不良だと聞いていたが、家にいないとはどういうことだと疑問に思った。
「事件に巻き込まれたかもしれません、探しましょう」
そう発したのは緑沢さんだった。その言葉に同意し、俺たちも一帯を捜索することにした。

二時間後、彼女は警察官の一人に無事発見され、警察署内に保護された。どうやら友達とカラオケに行っていたららしい。他の奴らは無事だったことを喜んだが、俺は違った。
「おい、何で塾をサボってたんだ?え?」
俺は彼女を詰めた。塾の同僚はもちろん、日頃凶悪犯に対して厳しく取り調べを行っている刑事も引いていた。
「だって!先生の授業ってわかりにくいし!うざいし!他の先生の方が分かりやすい!」
「なんだと!」
俺は大人げなく激高した。そのときだった。俺の目の前に緑沢さんが立ちふさがると、すぐさま左手を大きく振り、俺の頬に衝撃を与えた。俺は危うく倒れそうになった。
「いい加減にして!」
緑川さんが口を開く。普段優しい彼女が声を荒げ、俺の頬を叩いた。何が起こったのか一瞬理解出来なかった。それは周りの人も同様だった。
「あの、ちょっといいですかな?」
警部が気まずそうに口を開いた。
「あくまで形式的なものになりますが、皆さんのアリバイについて尋ねてもよろしいですかな?いや、あくまで形式的なものですので」
ここまで形式的という言葉を連呼されると逆に胡散臭い。それにしても、犯行時刻は夜の十一時前後だ。そんな夜遅くにアリバイなどあるわけがない、と思ったが、自分にはあることを思い出した。
「の、飲み会していました。高校時代の友人と」
俺は少し緊張しながら答えた。店の名称や一緒に飲んだ友人の名前を聞かれなかったということは、本当に事務的な質問に過ぎなかったのだろう。
「ほう。他の皆さんはどうですかな」
同僚は皆首を横に振った。ドラマなら一人だけアリバイがある分かえって怪しまれるところだ。おまけに面談で揉めることもあったため動機もある。もっとも僕が犯人ではないことは他でもない僕自身が一番分かっている。
「まあ安心してください。あくまで形式的なものなので、皆さんを容疑者扱いしているわけではありません。今日のところは一旦帰ってもらって構いません。もしかしたら今後も伺うかもしれませんが、悪しからず」

警察から許可が下りたため、そのまま沈黙と共に、僕らは警察署を離れた。白木はまだ保護されているらしい。帰り道、気まずさと共に夕方の繁華街を歩いていた。街中は賑やかになりつつあるが、それでも俺たちの口はなかなか開かなかった。しばらくして、緑沢さんが口を開いた。
「まさか…彼女が犯人だなんて思ってないでしょうね?」
「そ、それは…」
正直、思っていないといえば嘘になる。よりにもよってこのようなタイミングで塾をサボるなんて、疑われても仕方がない。
「さっきは手荒なことをして申し訳なかったと思っているわ。でも、教え子を信じられない塾講師なんて、私はどうかと思う。それと、あなたは確かに頭が良くて優秀よ。でもそれだけで世の中を生きていくことは出来ない。そんなこと、本当はとっくに気づいているんじゃない?」
自分の胸が突き刺されるような感覚に襲われた。
「最近ネットで授業を受けられるサービスとかが充実しているから、塾講師や学校の先生の人員が削減されるのではないかって声をたまに聞くわ。でもただ単に勉強を教えるだけでなく、一人一人の生徒に向かい合って勉強するのを支えるのが塾講師の仕事だと、私は思ってる」
「そう…ですね」
俺に反論の余地はなかった。一人一人に向き合う、自分にはたしてそれが出来ているのだろうか。あるいはこれから出来るようになるのだろうか。そんなことを思いながら、俺は塾へと歩いていた。

その後残りの授業や事務作業を終え、帰宅した。時計を見ると夜の十時を過ぎていた。家に帰って、日課のビールを嗜む。スーパーで買った安物だが、仕事終わりにはこれが格別だ。
ビールを飲みながら、昼間の彼女に言われた言葉を受け、俺は自分の過去を想起した。中学時代は上位を取ることが楽しかったが、気分が乗らない日や勉強が順調に進まない日もたまにあった。嫌いな同級生にちょっかいをかけられた日や好きな女の子に告白して断られた日、部活の練習が上手くいかなかった日などだ。それでも毎日のように勉強した。運動が苦手な分、勉強で輝きたかったからだ。それが功を奏し、進学校に入学することが出来た。
高校に入ると、壁にぶつかる機会はより多くなった。授業の難しさや進度の速さに躓き、いわゆる「深海魚」になり、毎日のようにネットに浸っていた。大学に入ったのだって、一年間浪人して必死に勉強したからだ。現役時代はまともに勉強せずに全落ちした。そのため、浪人時代は猛勉強した。投げ出しそうになったことは一度や二度ではなかった。第一志望だった東大にこそ落ちたが、後期で難関国立大に入学することが出来た。
世の中自分の過去を棚に上げて若い世代を批判する人が多すぎると前から思っていた。三流大学出身なのに生徒の成績に難癖をつける講師を何人も見てきたからだ。しかし、本当は俺も同じようなものではないだろうか。俺は教え子に対して偉そうに「サボるな」「勉強しろ」などと言えるのだろうか。
「よし、決めた!」
僕は自分に言い聞かせるように声を出して言った。考え事をしているうちに徐々に酔いは覚めていったが、最早仕事しているときよりも頭が冴えているのを感じた。教え子一人助けられなくて、何が講師だ。僕は事件の真相を暴くことを決めた。

翌日の日曜日は世間一般と同様に、僕も休みである。しっかりと休んで疲れを取った僕は、時間のある休日を活用し、事件について調べようと支度をして家を出た。
まず白木の家へと向かい、インターホンを鳴らした。居留守を使われているのだろう。まあ、あんなことを言ってしまったんだから仕方がないと諦めた。
「あれ、あなた刑事さん?」
突然声をかけられた。化粧っ気のない中年女性がそこにはいた。エコバッグを持ち歩いているところを見ると、買い物帰りの主婦だと考えられる。
「いえ、違います。白木さんを担当している塾講師です」
「そうなの。いやね、あの子も可哀想な子なのよ。旦那さんが国立大を出て大企業に勤めているエリートなんだけど、大学を出ていない彼女はそれに引け目を感じているから、幼い頃から勉強漬けにしていたの。その癖彼女は旦那が単身赴任中なのをいいことに子供を放置して毎日遊び呆けていたわ。多分事件の日もそうだったんじゃないかしら」
「そうだったんですか…」
面談で会ったとき、やたら年の割に派手な化粧をすると思っていたが、まさか男遊びをしていたとはと正直驚いた。同時に白木君がそんな環境にいたことに気づけなかった自分の不甲斐なさを心の中で嘆いた。
「さっき塾講師っておっしゃってましたけど、もしかして青倉って方?」
「え、ええ…」
「この間透子ちゃんと話したんだけどね、かなり腕のいい先生みたいね。どんな問題に対してもしっかり答えてくれるいい先生だって言ってたわ」
「え、そうなんですか」
意外な言葉に思わず驚いた。他の先生に比べて授業が分かりにくいという声を頂いたことはあったが、優秀な彼女にとってはこのくらいのレベルの方が丁度いいのだろうか。昨日の彼女の言葉は反発心から来るものだったのかもしれない。彼女に謝らなければという思いが一層強まった。近所の人に礼を言いながら、僕はその場を後にしようとした。

「ちょっとすみません…って、あんたはこの間の塾講師じゃねえか」
また突然声をかけられた。と言っても最初は隣人の方に話しかけるつもりだったようだが。今度は男性、それも昨日塾に突撃してきた人物である。
「あなたは、確か警察官の…」
「山吹っていうんだ。こう見えても天下の警視庁捜査一課の警部だ、よろしくな。それにしても、塾講師が探偵ごっことは、驚いたねえ」
「ご、ごっこじゃありません」
「こいつは失礼。でもタクシードライバー、温泉旅館の女将、フリールポライターに葬儀屋の社長…色々な職業の人が探偵役になっているけど、塾講師はレアじゃないか?」
俺は黙ったままでいた。
「ところで塾講探偵さん、ここだけの話だけど、遺体が握っていたこれに心当たりあるかい?」彼は現場にあった遺留品の写真を見せてきた。いかにも悪そうな感じを醸し出している和装のキャラクターのフィギュアだった。いかにも悪代官という雰囲気を漂わせていたが、彼の悪行への報いと言わんばかりに、ナイフか何かで深い傷がいくつもついていた。
「こ、これは…」
それを見て、思わず声が漏れた。この前赤田と飲んだとき、彼が見せてくれたゲームパッケージに、このキャラクターが写っていたからだ。

僕は山吹警部と一緒に、赤田の家を訪ねた。部屋の真ん中には着替えなどが詰まったスーツケースが置かれていた。普段散らかしている僕とは対照的に、彼の部屋は全体的に整頓されており、これから遠くに行くことをにおわせていた。
「すまんな赤田。明日から出張だというのに」
「いや、それはいいんだけど…何かあったのかい?」
その後警部の口から、事情が彼に伝えられた。
「急にどうしたんだと思ったら、事件現場にそんなものが…」
「ええ、そこにいる彼から、以前あなたが言っていたゲームのキャラだと言われたんだ。このフィギュアのキャラについて教えてはくれないか?」
以前の僕なら「高学歴の俺らにそんな偉そうにするな、まして彼は東大だぞ」とでも言っていただろう。しかしそんな空気ではないことは、いくら学生時代空気が読めない人、いわゆるKY扱いされていた僕でも分かる。
彼の話によると、このRPGは戦国時代を舞台にしたRPGで、このキャラクターは通称「悪魔大名」と呼ばれている敵役らしい。彼は表向き庶民に優しい大名として振る舞っていたが、自分は裏で悪事を働いているようだ。しかも自分の息子の実績を横取りして善良さを演出しており、余計に質が悪い。主人公は父親からの命を受け、彼の陰謀を止めに行く、というのがストーリーである。十年以上前に発売した当時はほとんど売れなかったが、ひょんなことで話題となり、ネット上でちょっとした話題になっているらしい。いわゆるクソゲーと呼ばれる類のゲームのようだが、不思議とちょっと面白そうだと感じてしまった。
「じゃあ、ありがとうございました」
「僕からもありがとう。そうだ、海外出張のお土産、楽しみにしてるぜ。気をつけてな」
警部と僕が礼を言った後、僕らは部屋を後にした。

彼に話を聞いた後、僕と警部はタワマンの外に出た。
「それにしても、お前さんの友人は凄いとこに住んでいるなあ。到着したときはびっくりしたけど、中も豪華でまたびっくりだよ」
僕は心の中で頷いた。高校時代から彼の優秀さは痛いほど知っている。勉強だけでなくスポーツ、芸術といったあらゆる分野で万能だった。特に印象に残っているのは所属していたクイズ研究部での活躍である。彼は高校一年生にもかかわらず、高校対抗のクイズ番組で自校を優勝へと導いた実績がある。その後も数々の成果を残して時の人となり、彼のクイズの腕は超高校級と評された。どこかの学園にスカウトされてもおかしくないが、そのくらい彼は優秀だった。
「それで、お前さんはこの後どうするんだ?」
「そうですね。明日は朝早いので、ここで一旦帰ろうかと」
そう僕が言うと、二人は解散した。

家に帰ってベッドに横たわると、自分の高校時代のことを思い返していた。進学校に在籍していたとき、進度の速さや内容の難しさで挫折したが、僕を苦しめたのはそれだけではない。赤田を中心に「同じ人間なのか?」と疑ってしまうような人間に囲まれ、劣等感を拗らせたというのもまた一因だ。進学校は僕のような「勉強だけの人間」しかいないと思っていた。しかし予想に反して万能型の人間が多いことに衝撃を受けた。勉強だけでなく、スポーツや芸術といった方面でも一流の生徒が少なくなかった。その事実は僕にとって大きな壁となり、卑屈な性格になってしまったというわけだ。楽しい思い出も多かったから、進学校に行ったことは後悔していないけど。
そんなことを考えながら、僕の意識は遠のいていった。

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