新たな習慣
カスティリーニ侯爵邸に引っ越して一ヶ月が経った。
生活のリズムも整い、穏やかな日々が続いている。
朝のアリッサの仕事はマージョリーの身支度の手伝いから始まる。
ロドニーとマージョリーは同じベッドに寝ていて、先に起きたロドニーが身支度を済ませ、それからアリッサがマージョリーの手伝いをする。
顔を洗い、髪を梳かし衣服を着替える。
ベルトラン邸ではロドニーが着替えを手伝ってくれていたが、カスティリーニ侯爵邸では使用人を手配してくれ、手伝ってくれるようになった。
ロドニーでも出来ないことはないが、やはり彼も年齢的なものがあり、無理はさせられない。
それから朝食となる。
朝食の介助はロドニーが行う。
それくらいは出来ると、彼が申出た結果だ。
朝食もカスティリーニ侯爵邸の厨房から運んできてくれている。
離れのキッチンでは厨房の見習いが最後の仕上げをし、温かい食事を提供してくれる。
内容もマージョリーが食べやすいように、工夫してくれている。
歯も悪いため、マージョリーは噛む力が弱くなっていた。だから食材は細かく切り、柔らかいものにしている。
パンは牛乳に浸してパンがゆにしたり、フレンチトーストが多い。
野菜はポタージュにしたり、すり潰したりする。お肉は挽肉などが多い。
色味も考えてくれていて、食事が彼女の楽しみになっている。
フードプロセッサーやミキサーがあるともっといいが、この世界にはないので手でやるしかない。
侯爵邸では人でも多いので、その辺りの手の込んだことがしてもらえる。
これもエルネストの協力があったから出来ることだ。
朝食が終わると、ロドニーとマージョリーは散歩に出かける。
ベルトラン邸では小さな庭しかなく、しかも庭の手入れまでは行き届かなかった。
しかしカスティリーニ侯爵邸の庭はとても広く、色とりどりの花が咲き乱れ、散策にはもってこいだ。
午前中は二人で過ごす。その間にアリッサはドロシーの勉強を見る。
そして昼食にまた離れに戻り、午後、マージョリーが昼寝をしている間に、またドロシーと過ごす。
マージョリーが昼寝から起きると、少しリハビリを手伝い、入浴をさせる。
それも今まではアリッサ一人で対応していたが、侯爵邸の使用人が手伝ってくれて随分楽になった。
そして時折ドロシーも離れにやってきては、ベルトラン卿たちと過ごす。
子供のいない彼らはドロシーを孫娘のように可愛がり、アリッサが目を離すとすぐに甘いお菓子を食べさせたりする。
カスティリーニ家の祖父母は既に亡く、母方のディレニー伯爵家には祖父母のいるようだが、あまり接点がないのか、ドロシーから彼らのことを聞くことはなかった。
ドロシーが首にした教育係も、ディレニー伯爵夫人が推薦してきたと言うことだったし、これは何かあるのだろうと思ったが、アリッサが口を出すことでもないとも思った。
夕食を済ませ、マージョリーが寝室に入ると、アリッサの自由時間になる。
自由時間と言っても、マージョリーの看護記録を付けたり、ドロシーの勉強の準備をしたりと書類仕事が待っている。
そして全てが終わると、アリッサも寝る前に少し庭を散歩するようになった。
エルネストは、ドロシーに勉強を教えている時に、覗きに来ることがある。
ただドロシーとアリッサの様子を黙って見つめ、いつの間にかいなくなっている。
時折、彼女が夜の散歩に出ると、窓の方から庭を見ている彼を見かけることがあった。
ドロシーから朝食と夕食は彼と一緒に取ることが多いと聞き、叔父と姪が上手くいっているようで安心する。
夕食時の話題はもっぱら今日は何の勉強をしたか、ということらしい。
エルネストが彼女が何をしたか、とても気にしているとドロシーが言っていた。共通の話題があることで話も弾むらしく、アリッサはほっとした。
土曜日、お給料の一週間分を受け取る際に、アリッサはドロシーの成績についてエルネストに報告している。
「ドロシーから聞いている。君は数字が得意なのか」
「得意と言うほどでは・・」
最初の週に報告に行くと、そう聞かれた。
微分積分などは忘れてしまったが、簡単な計算なら前世の記憶があれば容易く出来てしまう。
ブリジッタの時は難解だったが、有紗の記憶があればその点は楽勝だった。
「これについて、計算してみてくれ」
そう言われて、エルネストが見せてくれた書類は、差し引き帳簿だった。複雑な計算式ではなく足し算引き算の知識があれば、難なく出来てしまう類いのものだ。
ただ、金額が大きい。
どうやらそれはカスティリーニ家の家計簿のようだ。内容に食費や使用人の給与、被服費などがあったからだ。
「これくらいなら・・でも、ちょっと癖のある字ですね」
「兄の字なんだ。今、昨年からの帳簿を見直しているところだ。そろそろ今年の国に納める税を支払う時期だからな」
「そうですか。あ、ここ、ちょっと引き算を間違っていますね」
「どこだ?」
「ここです」
帳簿を彼の方に向け、指を差す。それをエルネストが覗き込んできたので、指に彼の吐息がかかって、ドキリとする。
真面目な会話をしているのに、変に意識してしまった自分を戒めた。
「ああ、本当だ。ありがとう、助かった。何度計算しても翌月の繰越額と合わなくて、全部で五冊もあるのに、最初で躓いてしまった」
「どういたしまして。あの、よろしければ、お手伝いしましょうか?」
目の前にはまだ同じような簿冊が四冊もある。見かねて申出た。
「しかし、君も疲れているだろう?」
「いえ、明日は休みですから。特に用事もありませんし」
日曜日がアリッサの休みになっている。
休みの日は街へ出たり、ゆっくり朝寝をしたりして過ごすだけで、特に決まった用事も無い。
「そんなことを言われると、遠慮せずお願いしてしまうぞ」
「はい」
「ありがとう。では、そこに座ってくれ。ああ、そうだ。お茶を飲むか?」
「是非いただきます」
それから土曜の夜は、そうしてエルネストと共に帳簿を確認して過ごすのが彼女の習慣になった。