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取り引き

 わざとでないことを伝えるため、アリッサは全てを語った。
 もちろん、前世の記憶を思い出した部分は伏せて。
 不貞を働いたという噂を真に受けた御者が、自分にも味合わせろと彼女を襲ったこと。
 馬車の轍が人気の無い場所へ続いているのを不審に思い、駆けつけてくれたブルーム卿のことも。
 三日間熱を出して寝込んで、その後あの御者が崖から転落して亡くなっていたことがわかり、その時修道院を逃れるために咄嗟に身分を偽ったことを。

「それからのことは、先程侯爵が仰った通りです。あの、侯爵様?」

 彼女の話を聞いていた侯爵は手の甲に血管が浮き出るほど、手を強く握りしめていた。その顔は険しく、怒りに赤く染まっていた。

「万死に値するべき、恥ずべき行為だ。生きていれば地獄まで追い詰めて痛めつけてやるものを」

 宙を睨みつけるその目は既にこの世にいない御者に向けられているようだ。

(まさか、怒ってる?)

鋭いその視線が自分に向けられたらと思うと、それだけで心臓が止まりそうになる。
 
「気がついたときには既に私は亡くなっていることになっていて、ですので、最初から仕組んだことではなかったんです。別人に成りすましたことは悪いと思いますが…」

 ここでもう一度、故意ではなかったことを伝える。

「そんな目にあっていたとは…辛かっただろう」

 ようやく怒りを収めた侯爵が、彼女の方を振り返る。
 その瞳には彼女…ブリジッタを憐れに思う感情が現れていた。

「過ぎたこととは言え、そのような経験を簡単に忘れられるはずがない。しかもその前にも同じようなことがあって、よく耐えてきたな。男だって圧倒的力の前には為す術もない時がある。それを、あなたは経験し乗り越えてきたのか。大変だったな」
「………」

 アリッサはどう言えばいいかわからなかった。
 誰もが彼女…ブリジッタが悪いと責め、誰も彼女に優しい言葉をかけてくれなかった。
 家族でさえも、醜聞を恐れ彼女を遠くの修道院へ追いやることで、解決しようとした。
 ブルーム卿夫妻には御者のことで親切にしてもらったが、彼らは夜会でのことを知らない。
 あの夜会での出来事以降、初めて彼女の立場に寄り添った言葉を、彼女が欲しかった言葉を、初対面の侯爵からもらえるとは思わなかった。
 しかも、彼はそのことを克服した彼女を褒めてくれた。
 涙がこぼれそうになり、慌てて彼女は下を向いた。
 それだけで、今日ここに来て良かったと思った。
 しかし、ここで泣いてはいられない。
 彼女の境遇に同情的な侯爵なっている今なら彼女がブリジッタ・ヴェスタだと言うことを黙ってもらえるだろうという確信を持った。

「あ、ありがとうございます」

 声が震える。これはここで失敗してはいけないという緊張からだ。
 だが、彼には泣いているように聞こえることだろう。

「私の状況をご理解いただけたなら…」
「見逃せというなら、その代わり、君は何をしてくれる?」
「え?」

 今まさに交渉しようとして、先手を打たれた。
 慌てて顔を上げて彼を見る。
 うっすらと滲む涙は嘘ではないので、彼には泣き真似をしているとは、思われない筈だ。
 新緑の瞳が彼女を真っ直ぐ捉える。

「交渉するなら、人にものを頼むなら、ただというわけにはいかない。そこはちゃんと私にも利益がないと」

 狡猾に彼は口元を緩ませ笑った。 

「り、利益…つまりお金?」

 まさか口止め料を要求されているのか。
 でも働き始めたばかりで、それに見合うだけのお金を彼女は工面できない。

「私、お金は持っていません」
「君からお金をせびらなければならないほど、不自由はしていない」

 憮然として彼が言う。

「お金じゃないなら・・何ですか?」
「君は君自身に価値があるとは思わないのか?」
「え、私、ですか? え、えええ、あ、あの、まさか」

 侯爵の言葉の意味に気づいて、彼女は慌てて胸の前で腕をクロスさせて、彼から身を護るように上半身を仰け反らせた。
 
(まさか、黙っていてほしかったら体で払えとか、そんなこと?)
「そ、そそそそそそ、それは」


 顔を真っ赤にして彼を見上げる。ブリジッタは今年二十歳。貴族であれ平民であれ、そろそろ結婚適齢期だ。もちろん胸もそこそこあり、スケベ心で見れば十分魅力的だ。

 林藤有紗は既婚者だったから、当然そっちの方は経験有りだが、ブリジッタ・ヴェスタは今のところ未経験である。
 
「ドロシーのことだが」
「え、ド、ドロシー嬢?」
「そうだ。君がブリジッタ・ヴェスタなら、最低限の淑女教育は受けているだろう?」
「それは・・一応成り上がりとは言え、私が恥を掻かないようにと母が家庭教師をつけてくれましたから」
「あの子にその教育をしてやってくれないか」
「私が・・ですか?」
「そうだ。もしかして、他のことと勘違いしたか?」

 上から彼女の顔を覗き込み、そう尋ねてくる彼の顔は、何を勘違いしたのかちゃんとわかっていると書いてあった。

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