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不語 鬼子 後編

 遊行(ゆぎょう)銘安(めいあん)と共に旅を始めてから、一月が経った。出立の日はあれほど真面目にしていた銘安は、瓢箪の酒を飲み始め、出会った日のように酒臭くなった。千鳥足で覚束ない小柄な師匠を連れて、遊行は辟易し始める。そして、妖怪退治に関することを、何一つ教えてくれないのだ。遊行はため息をついた。
 銘安は、朝は日が高くなってから出発し、日が傾きもしないうちに泊まるべき廃寺やあばら家を探し始めて、見つければそこで酒を飲み始める自堕落な生活であった。毎日のように銘安は二日酔いに頭を痛め、遊行は水を飲ませた。
「師匠は何故、お酒をたくさん飲まれるのですか?」
という最初の頃の遊行の問いに、銘安はこう答えた。
「妖怪に接しとるとなあ、五臓六腑に妖怪の悪い気が溜まんねん。酒には浄めの効果があってなあ、躰ん中の悪い気を浄化してくれるんや」
遊行は、この師匠の話をその時は本当だと信じていた。しかし、妖怪退治もしていないのに、毎日毎日酒を浴びるように飲んでいるので、最近では呆れてしまう。こういうのが酔っぱらいの戯言であると知るのは、もう少し先のことである。

 銘安と遊行の師弟は、とある郷村に辿り着いた。郷村に入った途端、やたらと注目を浴びる。注目を浴びた途端、銘安は自らが妖怪退治を生業にしていることを語りだし、何か困ったことはないかを村人に尋ねている。遊行は、銘安の少し後ろを、荷物を抱えて聞いていた。村人の一人には心当たりがあるようで、銘安に話していた。
「そういえば、時折夜になると、名主様の屋敷から怪しい呻き声がするんです」
「ほうほう。ほな名主様のお屋敷に行ってみたろ」
村人の案内により、名主の屋敷に連れてってもらった。
 名主の屋敷に立ち寄ってから、銘安は話を聞いていた。
「愚禿は諸国を巡って、妖怪を退治しとる銘安と申します。こっちは弟子の遊行いいます。村のもんからこの屋敷で変な呻き声がするって伺ったんですが、お心当たりとかありますか?」
名主は突然の訪問に驚いたようであった。
「いえ、呻き声なんて聴こえたことは御座いません」
名主はやたらと手拭いで顔の汗を拭っている。
「ほんまですか?村人が数人聞いたと言っておりますが」
銘安は、じっと名主の顔を見ながら問い詰めている。名主は俯きがちで会話をしている。
「きっと、猫の声でも聞いたんではないでしょうかね。では、今日はわが家にお泊りになられては如何ですか。実際にお確かめになられてください」
「ほんまですか!!いやこれはおおきに」
銘安は、先ほどとは打って変わって明るい顔になり、名主の手を取っている。名主は銘安に困っているようだった。銘安と遊行は、広い座敷に案内された。銘安は畳の上にごろんと大の字に寝転がった。こんなに綺麗な屋敷に泊まるのは初めてなことなので、遊行はそわそわした。寝転がった銘安は、遊行に話しかける。
「なあ、あの名主のことどう思う?」
「俺は特に……」
「そうか。愚禿はなあ、あの名主は何か隠そうとしとるんちゃうかと踏んでんねん」
「何かってなんですか?」
銘安は、起き上がって、扇子を遊行の鼻先に付けながら、遊行の問いに答える。
「せやなあ。表沙汰にしとうないもんでもあるんやないかと」
「表沙汰にしたくないもの……」
銘安は、伸びをしてから立ち上がった。
「ほな行くで。今のうちに屋敷の中を見て回ろ」
遊行も急いで立ち上がり、屋敷の者に断ってから見て回ることにした。名主というだけあって、屋敷は広い。庭には大きな池や鹿威し、いくつもの蔵が存在し、年貢はここに貯めているようであった。
 遊行は、何かの気配を感じた。庭の奥に、鬱蒼とした竹藪があった。気配の元は、竹藪の奥である。遊行が笹をかき分けながら進んでいくと、小さな蔵があった。ここから気配を感じた。銘安は、遊行の後方から近寄って来る。遊行は、漆喰が剥がれ、骨組みになっている隙間から、遊行は中を覗いてみた。すると、何かと目が合った。遊行は吃驚して後ろへ下がった。もう一度確かめるために中を覗いてみると、なんと女の子が自分と同じようにこちらを覗いていた。年頃は遊行と同じくらいだろうか。遊行は、女の子に話しかけてみる。
「こ、こんにちは」
「きぃ?」
中の女の子は、奇妙な返事をした。遊行は、中の女の子がどんな子なのかを確かめようと、より大きな隙間から覗いてみた。
 暗くて分かりづらいが、女の子は、緑の黒髪をしていて、白玉の肌に頬は紅色。美しい着物を羽織り、着物の袖口からは、極彩色の翼が見えた。着物の裾からも、美しい尾羽のような物が見えている。脚は鳥のようなもので、片脚に枷がついており、枷から伸びた長い鎖が、蔵の真ん中の杭に繋がれていた。彼女の周りには、羽毛が散らばっている。遊行はその光景に、ぞくりと冷たいものが背から上った。
 遊行は、追いかけてきた銘安の元へ向かい、蔵の中の様子を伝えた。
「し、師匠、蔵の中に、鳥のような翼をした女の子がいます」
「なんやて」
銘安は、すぐに蔵の隙間から中を覗いてみると、確かに遊行の言ったとおりの女の子がいた。銘安は険しい顔をしている。そして、遊行の手を引いて、すぐに蔵から離れて、屋敷の庭へ戻った。
 銘安は、屋敷の使用人に話しかけた。如何にも長年働いていそうな、女性であった。
「すんません。あの竹藪の蔵に女の子居ったんですけど、なんか知ってます?鳥の翼生えてる子なんやけど」
屋敷の女中は、少し考えてから答えた。
「ああ、迦戀(かれん)様ですかね」
「迦戀ってなんや」
女中は、辺りをキョロキョロしてから、銘安と遊行を手招きしている。銘安と遊行は、手招きに応じて近寄り、聞き耳を立てた。女中はひそひそと話し始めた。
「ここだけの話ですよ。当主様が昔、狩りに出かけたんですけど、その時、美しい女性たちが、木に衣を掛けて、湖で水浴びをしていたんですって。彼女たちの歌が余りにも美しかったので、当主様は惚れてしまったそうです。そこで、当主様は、木に掛かっていた衣を一枚、懐に隠したそうです。そして、女性たちが湖からあがると、一人の美女が衣がないと、大騒ぎになった。そこへ当主様が出てきたそうです。一人以外の美女たちは、急いで翼の生えた姿になり、飛んで行ってしまいました。なんと、彼女たちは迦陵頻伽(かりょうびんが)だったのです。」
迦陵頻伽とは、美しい半人半鳥だ。浄土に棲み、美しい声で歌うとされている(しかし、ここでの迦陵頻伽はハーピーに近い物)。
「衣を盗まれた迦陵頻伽は、当主様に希います。衣を返してくださいと。しかし、その迦陵頻伽の美しさに惚れこんだ当主様は、返したら浄土へ帰ってしまうことを恐れました。衣を返すふりをして、油断したところを担ぎあげ、馬に乗せて攫ったのです。そして、屋敷の庭のあの蔵に連れ込んだのです。」
あの当主は、虫も殺さぬような顔をしておきながら、美女を囲うなんてことをしていたのかと、銘安と遊行は思った。
「それから、迦陵頻伽は枷に繋がれ、あの蔵にいました。」
「ちょいまち。蔵に居ったのは、子どもやで」
「ええ。蔵にいた迦陵頻伽は痩せこけ、日頃の無体により、美しい声も嗄れていきました。何ヶ月か経った頃、迦陵頻伽は卵を当主様に渡しました。『お前様との子が出来ました。しかし、私はそろそろ国へ一度帰らないと、お前様とはもう居られなくなってしまいます。衣を返してください。私は必ずやこの子を迎えに来ますので、どうかこの子を大事にお育てください』迦陵頻伽はそう言って、衣を取り戻して帰っていきました。その卵から生まれたのが、迦戀様です。この話、私がしたのは内密でお願いしますね」
女中の話を聞いた銘安と遊行は、座敷に戻って話し始めた。
「近所のもんが言うとった呻き声って、あの子なんやろな」
「あの子どうするんですか?」
遊行は、銘安に尋ねた。
「なんもせえへんよ。なんで?」
「いや、俺あの子見た時、気持ち悪いと思ったんですよ。迦陵頻伽といっても妖怪との子どもですよねえ。そういうの退治するのが、俺らの仕事じゃないんですか?」
銘安は、遊行のこの言葉に怒りが込み上げてきた。銘安は、遊行の頬を拳骨で殴り、馬乗りになった。
「なにするんですか。いきなり」
「うるさい。お前がそういうの一番言ったらあかんやろ」
「はあ。意味が分かりませんよ」
「格宗さんから聞いとるで。お前も人と妖怪の子どもなんやて」
遊行は、銘安の言葉に驚き、魂が抜けたようになった。
「お、俺が人と妖怪の子?」
「せや。せやから、お前がそれを一番言ったらあかん。その理屈なら、今ここでお前を殺すで」
馬乗りになった銘安は、遊行の首に手をかけ、力を込める。顔が本気で怒っている。遊行の顔から脂汗が噴き出した。生理的な涙が滲んだ時、銘安は力を抜いた。遊行は咳き込む。銘安は、遊行の上から退き、遊行に背を向けて話し始めた。
「あのなあ、人と妖怪の子として生まれることは、罪やないで。生まれてくることが罪な子なんて、この世にはおらん。それは、妖怪もそうや。妖怪がおることも悪いことではあらへん。悪いのは(ごう)や。愚禿はそう思う」
銘安は振り返って、今度は遊行を真っ直ぐ見据える。そして、人差し指を遊行に向けた。
「ええか。妖怪には三種類ある。妖怪といっても神様みたいなやつ。これは退治したらあかん。寧ろ不幸になる。それから、変わった生き物なだけで悪さはせんやつ。これも退治する必要はない。それと、人を食べたり悪さをするやつ。これが愚禿らが退治すべきやつや。愚禿はちょっと席外すから、頭冷やして考えや」
遊行は、銘安の話を聞いていた。
「それと、殴って悪かったな」
銘安は襖を閉めながら言った。襖の閉まる音がすると、一気に静寂になった。
 広い座敷で、たった一人になった遊行は考えた。まずは、自分がヒトと妖怪の子であると言うことだ。今まで生きてきて、初めて知ったことだ。確かに、自分は捨て子であり、親は誰だかは分からなかった。育ての親は、川から流れてくるのを拾ったと、言っていた。遊行は、格宗から貰った木簡を懐から取り出して、まじまじと眺める。格宗から聞いていたのは、妖怪に襲われやすい体質であることだけだ。しかし、銘安は格宗から聞いたと言っていた。これは事実であるだろう。遊行は混乱した。木簡を握った手に力を込め、額に掲げる。何故、今まで格宗も銘安も教えてくれなかったのだろう。
 そして、銘安が言っていた「妖怪の子として生まれたことは罪ではない」という言葉。遊行の今までの認識であれば、遊行は格宗や銘安に殺されていた。しかし、二人ともそんな遊行を助け、導いてくれる。銘安は、悪いのは業、つまりはその行いであると言う。
 考えれば考えるほど、遊行は己が恥ずかしくなる。自分のことを棚に上げ、蔵の迦戀のことを気持ち悪いと言ってしまった。本人に聞かれたわけではないが、そう考えてしまった己が愚かであったと思う。遊行は立ち上がり、急いで竹藪の蔵に向かった。
「あの、ごめんなさい。俺、君と同じ妖怪と人の子なのに、それなのに君のこと気持ち悪いって思った。本当は、君のこと一番分かってあげなきゃいけないのに。本当にごめんなさい」
遊行は、蔵の隙間の前で土下座をした。土下座をして、帰ろうとする。
「きい。きい」
隙間から迦戀の声がした。遊行はハッとして、隙間を覗き込んだ。迦戀は、笑いながら、翼を隙間に向けて伸ばしていた。その余りにも美しい姿に、遊行は赦されたような気がした。目頭が熱くなり、涙を溢す。翼の羽が隙間を抜けて、こちらに出てきたので、遊行は涙を拭ってから両手で優しく包む。その羽は温かい。
「ありがとう。赦してくれて」
遊行は笑った。
 遊行は、急いで銘安の元へ戻る。途中で名主とすれ違ったことには気がつかなかった。
「師匠、どうもありがとうございました」
遊行は、銘安の前で、直角に腰を曲げて感謝をした。銘安はそれを見つめている。
「あの子にも謝りました」
銘安はポカンと口を開けた。
「別に、本人に聞かれた訳や無いんやから、謝らんでもええやろ」
「でも、あの子のこと、一瞬でも気持ち悪いと思ったことが恥ずかしかったんです。だから、どうしても謝りたくて」
「馬鹿正直な奴やなあ。まあ、それ位がええ!!」
銘安は、頼もしいものを見るような目で見つめ、遊行の肩に手を置いた。

 銘安と遊行は、夕食を馳走になった。遊行にとってこんな御馳走は、生まれて初めてだった。今日は珍しく、銘安が酒を飲まなかった。その席には、名主はいない。疑問に思った遊行は、銘安に呟いた。
「そういえば、名主さんはどこに行ったんでしょうね」
「それ、愚禿も気にしとんねん」

 先ほど遊行とすれ違った名主は、竹藪の蔵に来ていた。蔵の鍵を開け、迦戀を抱きしめる。
「迦戀や。お前の蔵に男が覗いていただろう。怖かったなぁ。色目を向けられなかったか?迦戀は綺麗だからなあ。無体はされなかっただろうが、父が確認しような」
そう言って、名主は、迦戀の羽織っただけの着物に手をかけた。そして、迦戀の衣を脱がす。そして、灯台の明かりに照らされた、迦戀の裸をじっくりと見る。名主は、蔵にやってきては迦戀の食事を持ってきたり、濡れた手拭いで体を拭く。蔵の掃除さえも自ら行い、蔵には誰も入れない。名主は、実の娘でありながらも、日に日に母に似る迦戀に夢中であった。そして、夜な夜なこうして蔵を訪れるのである。毎日のことなので、迦戀は慣れていたが、どうしたわけか、今宵は無性にそれが嫌であった。いつものように父の触れる手が、今日は気持ちの悪いものに思える。迦戀は、翼で父の手を叩いた。
「迦戀や。何故、今夜は父を避ける。今までそんなことしなかっただろう」
迦戀は、怯えるように後ろに下がる。しかし、枷に繋がれているので、少ししか動けない。娘の初めての拒絶に、名主は衝撃を受けた。
「もしや、あの男が気に入ったのか。確かに顔はいい男だったが、賤しい男だ。迦戀を誑かすなんて許すまじ。あの男、迦戀に無体をしたとして殺してしまおう」
名主は、刀に手をかけ、蔵を後にしようとした。迦戀は父を見た。父は怒りに震えている。父親のいうあの男とは、蔵で謝ってくれた彼のことだ。顔は見えなかったが、「自分と同じ」だと言ってくれた。
 迦戀は、生まれた時から蔵の中にいた。そして、迦戀は父親しか知らない。父親とはあまりにも姿かたちが違うので、己は奇異な生き物だと認識している。しかし、今までは父親が綺麗だというのでそれでも良かった。今日、迦戀は父親以外の者を初めて知った。迦戀は、「自分と同じ」と言った彼が、どんな姿をしているのか興味を持った。しかし、父がその男を殺そうとしている。止めなくてはと思い、迦戀は父親の後ろ首に噛みついた。
「ぎゃああああ」
迦戀は、自分の衣を翼でなんとか羽織る。
「きい」
父親を翼で揺さぶるが、父親は身動き一つしない。

 蔵の方で、名主の叫び声がした。銘安と遊行は急いで蔵へと向かう。そこには、迦戀に噛まれた頸動脈から血を流し、息絶えていた名主と、紅を塗ったように、口元を血で染めた迦戀の姿であった。迦戀は、遊行の姿を見ると「きいきい」と嬉しそうに鳴いた。遊行は、一歩引きさがる。迦戀は、遊行の元へ翼で飛んだ。
「遊行!」
銘安は咄嗟に叫んだ。枷があるので、迦戀は遊行の元へは飛べないが、鎖の先の杭は、いつか抜けてしまいそうだ。銘安は、懐刀を抜く。そして、慎重に近寄る。とうとう杭が抜け、迦戀は遊行の元へ飛んだ。銘安は、咄嗟に懐刀を投げた。懐刀は、迦戀の首横に深々と刺さる。遊行は迦戀に駆け寄り、その体を抱きしめた。
「迦戀、迦戀」
遊行は必死に迦戀の名を呼んだ。
 天から光りが射し、美しい迦陵頻伽が一羽、迦戀の元へ舞い降りた。迦戀の母親である。全てを見てきた迦陵頻伽は、遊行に告げる。
「娘の迦戀は、『己と同じ』という貴方に興味を持ったようです。そして、貴方を殺そうとしたその男を止めようとして、誤って殺してしまいました。もっと早く、この子を迎えに来ればよかった。せめてもの情けです。どうかこの子の亡骸を供養してあげてください」
迦陵頻伽は、迦戀の亡骸に涙を溢し、迦戀の体を撫でた。すると、迦戀の躰から金色の光りが抜け出て、迦陵頻伽はそれを持って、天へと帰って行った。きっとあれは迦戀の魂だ。遊行は崩れ落ち、美しい亡骸を抱きしめて、慟哭した。
 翌朝、迦戀の亡骸は、銘安と遊行の二人で埋めた。大き目な石を添え、銘安は経を唱える。そして、遊行は迦戀の羽根を一本、菅笠に挿す。そして、銘安と遊行は、名主の屋敷を後にした。

 数年の月日が経ち、遊行は立派な青年になった。身長は六尺五寸(大体196センチメートル)になった。あれから、銘安から妖怪退治を手伝いながら、その極意を教えてもらい、とうとう師匠の元から離れることになった。ヒトと妖怪の子であるが故の苦悩も、遊行にはあったが、銘安はその度に意見を述べてくれた。
「師匠、今までお世話になりました」
遊行は、床に手をついて、深々とお辞儀をしながら、銘安に挨拶をした。銘安は、遊行の前に正座をし、ぽつりぽつりと話し始めた。
「愚禿の御師さんはなあ、光庵いうてなあ、それはそれは変わり者だった。ツルツルの頭で愚禿言うから、皆笑うねん。他にも、妖怪に育てられた子って言いふらしとった。ほんまか嘘かは分からんけど、本当にそうかと思わせるほど、妖怪を退治するのを躊躇っとった。愚禿は御師さんに拾われてなあ、他の妖怪退治は、妖怪ならなんでも退治して稼いどったのに、愚禿の御師さんは退治せんから、ひもじい思いしたで。そんな変な方やったから、業界じゃちょっとした有名人や」
遊行は、銘安の話を黙って聞いていた。銘安は話を続ける。
「それから、御師さんはいつも言うとった。妖怪は三種類おると。一つは、妖怪や言うても神様みたいなもんで、退治すると寧ろ不幸になるやつ。一つは、子どもみたいな妖怪で、悪戯するだけのやつ。こいつらは子どもと同じで、説教したら悪さをしなくなる。そして、もう一つが人を喰い殺したり、呪い殺したりするやつ。妖怪退治は、この三つ目だけを退治すればいい。これを見極めるのは、真摯に妖怪に向き合う必要がある」
これは、銘安が普段から話している妖怪退治のコツだ。
「妖怪と人は共存できないか。これが御師さんの理想やった。格宗さんが、愚禿にお前さんのこと頼んだのはその所為なんやろな。格宗さん、旅の道中で一緒になったとき、話しかけて来たんや。光庵さんの所のお弟子さんですよねって。そんでお前さんの話されてん。きっと、そんな御師さんに育てられた愚禿やったら、お前さんを真に理解してやれると思ったんやろな。そして、一緒に妖怪退治したとき、愚禿を庇って死んでもうた」
この話は初耳だ。格宗さんが、そこまで俺のことを思ってくれていたのかと、胸が熱くなった。
「言っとくけど、愚禿は妖怪退治として育てたけど、愚禿はお前さんに妖怪退治してほしくはない。今までのは、どちらかというと、お前さんが自分の身を護るための術や。格宗さんから頼まれたのもそっちなんよ。半人半妖のお前さんなら、人も妖怪も理解できる。どっちにも真摯に向き合ってくれや」
遊行は、再度深々とお辞儀をする。そして、遊行は銘安の元を去った。

 長い長い月日が過ぎた。遊行は、銘安の元を離れ、旅に出ていた。近くに寄ったので、ふらっと義両親の顔が見たくなり、育った村へ帰ろうとした。久しぶりに帰る故郷に胸を弾ませる。どこかで、見たことのあるような中年男性に出会った。どうやら、行商に出ていたようで、故郷の村へ帰るようだ。奇しくもその村が遊行と同じなので、一緒に行くことになった。
「いやあ、あんたは背が高いなあ。小さい頃から高かったんですか?」
「そうですね。幼少から大きかったみたいです」
「そういえば、そんな子が昔いましたよ。捨吉っていって、同じ年頃で、背が高くてよく迷子になってた」
遊行は、男性の言葉にハッとした。そして、鳥肌が立ち、寒気がした。それは自分ではないか。目の前の男性は、どう見ても自分よりも年上だ。目元や口元に皺があり、白髪交じりである。一方の自分は、白髪はないし、皺もない。未だに若々しい青年の様に扱われる。しかし、年についてあまり考えたことはないが、不惑(四十歳のこと)は超えていた。
「そういえば、あんたは捨吉に似てるなあ。だけど、こんなに若いわけはないから、人違いだな。息子かな」
「た、多分他人の空似だと思います」
遊行はなんとか誤魔化した。しかし、心臓の鼓動が高まっていた。そして、歩いているうちに村に辿り着く。遊行は、ある家の前に来た。そこは、迷いやすい遊行が家に帰れるようにと、義両親が植えた栃の木がある家である。苗木だった栃の木は大きく育ち、家は朽ちていた。男性に話を聞くと、この家の夫婦は、二十年前に亡くなったという。この件で、遊行は確信した。半人半妖の自分は、ヒトとの時間の流れが異なり、老いが遅いのだ。

 遊行は非常に長い年月を生きた。老いないことを自覚した彼は、旅を続けるしかない。一所に住むことが出来ないのだ。そんな彼は、友人や恋人も作ることが出来ず、孤独であり、苦悩した。自分の年齢は、百を超えてからは数えていない。その間にも時は流れ、戦乱の時代へと変わった。目まぐるしく変わる世の中で、己だけが変わらず、いつまでも若々しい。いつまで彷徨わなければいけないのだろう。いくつもの夜を橋の下で過ごし、雨の日も風の日も歩き続ける。野盗や妖怪にも襲われ、危険な目にも遭った。流石に遊行も疲れてしまった。

 それは、ある日のことであった。遊行は、薄暗い靄のかかる山道を、ふらふらと歩いていた。前も後ろも、足元さえも靄で見えない中を、藻掻くように進んでいた。それはまるで、己の生涯のようだと、自嘲的に考えた。一匹の山犬が、遊行にやたらと吠えている。無視していたら、今度は遊行の脚絆に噛みついた。遊行は足元の山犬を見た。山犬は、小さな躰で遊行の脚絆をぐいぐいと引っ張る。遊行は、山犬が鬱陶しく思えた。どうしようかと思った瞬間、声をかけられた。
「そこのお前さん。こんな靄の中じゃ、晴れるまで儂の話でも聞かんか」
こんな老人いただろうか。白い衣を着た老人が、松明を持ち、杖を抱えて岩に座っていた。老人に従い、遊行は老人の隣に腰掛ける。松明の明かりで老人の姿ははっきり見える。赤ら顔で鼻が高く、耳たぶが長く垂れ下がっていた。真っ白な顎髭は、うねりながら長く伸びている。体格は遊行と同じくらいと、やたら大柄である。粗末な衣を頭から足先まで纏う。見るからに只者ではない雰囲気を醸していた。山犬は、老人の傍らに伏せる。老人は、傍らの山犬を撫でながら、話し始めた。
「お前さん、名は何と申す」
「俺は遊行と言います」
「そうかそうか」
老人は嬉しそうにしていた。
「失礼ですが、貴方様は何と申しますか」
「ほっほっほ。わしの名なぞ瑣末なことよ」
名前が瑣末とはどういうことなのだろうかと、遊行は思ったが、老人の態度は本当にどうでもよいかのように感じた。
「わしは悩める者を導くのが得意でのう、何か悩みはないか」
「悩みですか……」
悩みは大いにある。しかし、この見知らぬ老人に言っても良いのだろうか。遊行は横目で老人を見た。その老人の眼は鋭く、全てを見透かされてしまいそうな、そんな眼差しである。己一人で抱えた悩みは、この只ならぬ存在に話すのもいいかもしれない。遊行は一つ、息を吐きだしてから話し始めた。
「俺は、妖怪とヒトの子です。ヒトに育てられ、妖怪には幾度も襲われました。しかし、俺はヒトとは異なり、老いにくいのです。お陰で一所に住むことは出来ず、旅を続けております。しかし、もう草臥れました。俺は一体、どうすれば良いのでしょうか」
老人は頷きながら、遊行の悩みを黙って聞いている。そして、左手の人差し指で、天を差しながら答えた。
「そうじゃなあ。今までもこれからも、お前さんは見覚えのある場所に、辿り着くじゃろう。迷っても迷ってもそこへ来てしまう。弱ったときこそ、そこに帰る。今は思いつかなくても、きっと見覚えはあるはずじゃ。そこはお前さんの魂の根元にして拠り所じゃ。そこに棲むとお前さんの運が開けるじゃろう」
遊行は、そんな場所が今まであっただろうかと、顎に手を添えて考えた。
「それと、お前さんに名前を追加しよう。いわゆる名字じゃな。『辻ヶ先(つじがさき)』なんてどうじゃろうか。分かれ道の先。どんなに迷うても、分かれ道の先では進むべし。うんうん良い名字じゃ」
老人は杖で「辻ヶ先」と地面に書き、松明で照らす。照らされた字が、己の道をも照らしているように遊行は感じた。
「それから、お前さんには露払いが必要じゃな。どれ、わしからお前さんに、守り刀の懐剣を授けてやろう。賽ノ牙(さいのが)という。靄が晴れたらじっくりと眺めよ」
老人は、左手で山犬を撫でてから、山犬の尻を優しく叩いた。すると、山犬は一回鳴いてから動き出し、遊行の傍らに伏せた。
「そうら、夜も明けそうじゃ。わしはそろそろ行くかのう。さらば、よい旅を」
老人は、松明を掲げて立ち上がる。
「ありがとうございました」
遊行は、深々と礼をして老人を見送った。山犬が応えるように立ち上がって一吠えする。頭を上げた時には、老人は見えなくなっていた。そして、靄が嘘のように晴れてしまった。信じられない光景に、遊行は唖然とした。そして立ち上がると、傍らで刃物の落ちる音がした。つい今まで山犬がいた場所には、業物の懐剣が落ちていた。遊行はその懐剣を拾う。さっき老人が言った賽ノ牙とは、この懐剣のことであろう。山犬はどこへ行ってしまったのか、遊行は辺りを見渡す。すると、岩の前に崖が広がっていた。先程、山犬に噛まれていた所なんて、崖の寸前である。一歩間違えれば、深い奈落の底へ真っ逆さまだ。山犬が吠えて噛みついたのは、崖があることを遊行に知らせてくれたのだ。
「本当にありがとうございました」
遊行は目を閉じて懐剣をぎゅっと握り、感謝を述べて懐にしまった。目の前には、日が昇り始めていた。眩しさを覚えながらも、遊行は日の出をじっと見つめる。その心中には、迷いなんてなかった。何故なら、住むべき場所があると知ったからだ。

 遊行は歩き続けた。謎の老人が教えて下さった、魂の根元であり、拠り所を探している。ふと、とある森の入口に辿り着いた。それは、近隣の者に崇められる禁足の地、「龍神の森」である。遊行は、ここに何度か来た覚えがあった。しかし、足を踏み入れたことは一度もない。まさか、ここがあの老人の言う魂の拠り所ではあるまいと、遊行は思った。遊行に入れと言わんばかりに、風が後ろから吹いてくる。
 遊行が入ろうか迷っていると、誰かが出てきた。白銀の髪に、遊行と同じくらいのしっかりとした体躯。白い狩衣に赤い袴、足元は草履も履かず、裸足である。驚くべきは、頭に生える犬のような耳と、尻尾があることだ。
「よっ。ここで何してるんだよ」
遊行は咄嗟に身構え、懐剣賽ノ牙を取り出した。しかし、目の前の男性は堂々としており、腕を組んでいた。そして、賽ノ牙をじっくりと見ている。
「別に俺は狼だけど、獲って喰おうなんてしないぜ」
「狼ですか?」
「そっ。狼で、一応神の端くれってとこだな。名は大神太郎右衛門(おおがみたろうえもん)ってんだ」
目の前の男は、己を狼の神であると言う。遊行は俄かに信じがたかったが、己を襲う心算は無いらしいので、警戒は解いた。
「ここの神様って、龍神じゃないんですか?」
「龍神もいるぞ。というか、ここは竜の生息地。俺はここを縄張りにさせてもらって、見張りをしているんだ。お前はこの森に用があるんじゃないのか?」
「そもそも、ここってヒトは足を踏み入れちゃいけませんよね」
「そうだな。でも、お前は純粋なヒトじゃなく、妖怪との雑ざり物だろ?」
何故、この狼は自分がヒトではないと気がついたのだろうか。神様というの伊達ではなく、何でもお見通しなのかもしれない。遊行は総毛立つ。
「何故、分かったんですか」
「そんなの匂いでわかるさ。俺の鼻はよく利くんでな。それで、お前はここに棲みたいのか?竜宮までなら案内してやるよ」
「竜宮?」
竜宮という言葉が引っかかった。竜宮とは、御伽噺(おとぎばなし)にある「浦島太郎」に出てくる場所であろうか。あの噺では、確か竜宮は海底にあったはず。そして、ここはどちらかというと、山深くにある。こんな所に本当に竜宮なんてあるのだろうかと、遊行は疑問に思った。
「竜宮は、ここの竜達の根城だな。湖の底というか、地下にあるんだよ」
地下にあるという「竜宮」に、遊行は興味を持った。ここでの興味は、「竜宮」が御伽噺のような場所かどうかだけではない。まだ足も踏み入れたことのない、己の魂の拠り所になるかもしれない場所を知りたいというものだ。後ろから吹く風が強まり、より遊行を森の中へと誘っている。
「案内していただいてもよろしいですか」
「いいぞ。ついて来いよ」
太郎右衛門は振り返り、森の中へと入っていく。遊行はその後をついて行った。遊行は、先程の会話での疑問を、太郎右衛門に尋ねた。
「何故、俺がここに住みたいと、思われたのですか?」
「行き場を失った妖怪や神が、ここに来ることがあるんだよ。お前も、そういった奴らの一人かなと思ってさ」
遊行は、初めて足を踏み入れる森を、キョロキョロしながら歩く。そのことを察しているのか、太郎右衛門は、遊行の歩く速度に合わせ、ゆっくりと案内する。
「大神さんも、そういった方なんですか?」
「いや、俺は元々、近くの御山の茅原で生まれ、ここら一体を縄張りにしてた」
「そうなんですね」
 森の入口は鬱蒼としていたが、森の中は意外にも暗くはない。所々に池沼があり、その一つ一つが澄んでいる。渓流が近くにあるのであろうか、微かに水の流れる音がする。森に射し込む光は、優しく照らしていた。大きな木々の合間を縫うように、風が吹いている。その風の優しさは、遊行の肌に馴染む。その森は、遊行の五感を癒し、空気が肺腑を満たす。なんとも居心地のいい森だ。遊行は初めて来たにも関わらず、何故か懐かしさを覚えた。
「ここに流れつく妖怪どもは、揉め事を起こす奴が多かった。百年位前にも、森に迷い込んだヒトを襲う事が多くて、ここの竜の長が一度粛清したんだ。それからは、妖怪や神がここに棲むには、竜の長の許しが必要になった」
遊行は眉を顰め、太郎右衛門の話を聞いていた。
「まあ、悪さをするのは好くないが、生きている限り、どこかに棲み処を求めるのは、生きとし生けるものの性だろう。棲み処があれば、安心するものだ。それを無闇矢鱈に追い出すのは、どうかと思うけどな。折角ここを頼って来ているんだしよ」
 暫く歩いていると、二人は洞窟の前に辿り着いた。
「ここが、竜宮の入口だ」
如何にも深い洞窟が、目の前に広がっている。大柄な二人は身を屈め乍ら、洞窟へと入って行った。しかし、狭いのは入り口だけで、少し先へ歩くと屈まなくても平気になった。二人は中の長い階段を、少しずつ降りる。
 広がった空間があり、そこには二人の男がいた。二人の男はよく似ており、額や左右の蟀谷からは角が生えている。そして、後ろからは蜥蜴のような尻尾が生えていた。二人とも武装しており、片方は戟を、もう片方は大刀を持っていて、その武器を中央で重ねている。
「こいつらは、ここの門番だ。そんで、こいつはここに棲みたいって奴。天子様に許しを戴きたいんだけど」
太郎右衛門は、遊行と門番にそれぞれの紹介をし、端的に要件を伝えた。遊行はお辞儀をする。すると、門番は黙って各々の武器を自らに寄せ、中央が開ける。その間を、遊行と太郎右衛門は通った。
「ここの竜は、本来は角や耳がある巨大な蜥蜴のような、まあ想像通りの竜の姿なんだが、普段はヒトに似た形態をとっているんだ」
太郎右衛門は、竜宮の竜のことを、遊行に説明する。
 更に階段を降りると、地下とは思えない広い空間があった。先程の門番のような、ヒトの姿に角と尻尾が生えている者が多い。しかし、角の数は異なるようで、二本の者もいれば、五本生えている者までいる。太郎右衛門は、竜宮の竜達に声をかけながら、進んでいく。遊行はその後ろをついていった。すれ違った竜達は、遊行を見てからひそひそと話している。遊行は視線を感じて気まずくなった。
 太郎右衛門は、遊行を連れていって、とある竜の前に来た。その竜は、七本の角が生えていて、癖のある紅毛が立派であった。後ろの尻尾は黒い。位が高いのであろうか、着ている衣服は他の竜よりも上質である。太郎右衛門は、この竜の前で膝をつき、臣下の礼をとっている。遊行も見よう見まねで、同じような体勢をとった。
七角驪竜(しちかくりりょう)様、この森に棲みたいと申す者が居りましたので、連れてきました」
「太郎右衛門、その者はヒトではないのか?」
「半人半妖に御座います。故に一所に棲むことが出来ずにいる、流れ者で御座います。どうか、天子様への御目通りをお願いできますか」
「お前、名は何と言うのだ」
七角驪竜と呼ばれた男は、遊行を一瞥して問いかけた。
「私は、辻ヶ先遊行(つじがさきゆぎょう)と申します」
「遊行だな。天子様への謁見が出来るか、尋ねて来よう。ただ、御会いになって下さるか、難しいかもしれないな」
「ありがとうございます」
七角驪竜は、座っていた椅子から立ち上がり、部屋から出ていった。太郎右衛門と遊行は、その場で彼が戻るのを待っていた。
 七角驪竜が戻ってきた。しかし、その表情は険しい。
「天子様は、御会いになって下さらないそうだ」
太郎右衛門は、目を見開いた。
「どうしてですか?」
「雑ざり物であろうが、ヒトの子であれば、踏み入れることを禁ず。早々に追い出せだそうだ。|八角玄竜(はっかくげんりゅう)様とも相談したが、決定を覆ることは難しいそうだ」
 太郎右衛門と遊行は、竜宮を後にし、森の外へと出た。
「どうも、お世話になりました。別の場所を探します」
遊行は、深々と頭を下げた。太郎右衛門は、遊行の肩に手を置く。
「気が変わる。掟が変わる。長が変わる。長く生きていれば、そのどれかが変わって、棲めるようになるかもしれねえ。諦めずにまた来いよ」
太郎右衛門は、にっかりと笑った。遊行も微笑を浮かべ、再度礼をした。そして、森の入口を後にした。
 それから、苦しい時や悲しい時、命の危険に曝された時、遊行は無意識にこの森の入口へとやって来た。そして、この森が己の魂の拠り所であることを、遊行は確信する。遊行がこの森に住むようになるのは、さらに百年の時が経った。竜宮では、当代の竜の天子が亡くなり、新しい天子になっていた。既に世の中は戦乱の世も終え、新しい幕府の時代へと移ろいでいく。

 遊行は、目を覚ました。非常に長い夢を見ていたものだ。自分の一生が、走馬灯のように流れた夢であった。久しぶりに野宿をしたからか、体の節々が痛む。ゆっくりと伸びをし、体のあちこちを回す。空は宵闇から白み、東の空からは太陽が昇り始めていた。遊行は荷物を持って立ち上がり、歩き出した。今回の旅はここらで切り上げ、森へ帰ろう。

 遊行は、竜宮の奥座敷へ立ち寄った。蚕月童子(さんげつどうじ)に会うためだ。遊行の存在に気がついた童子は、遊行に声をかける。
「あっ、遊行。えっと、おかえ()(しゃ)い」
童子は、満面の笑みで遊行を迎える。格子戸を潜り抜けた遊行は、きょとんとした。笠と合羽を脱ぎ、いつものように胡坐を掻いて、座布団に座る。蚕月童子は、その向かいにちょこんと座った。
「どうしたの?急に」
遊行は微笑みながら、童子の頭を撫でる。そして、童子に問いかけた。
「えっとね、この間天子様(てんちしゃま)とお(はなち)()たの。(しょ)の時、遊行がこ()()ここへ来た()、『おかえ()(しゃ)い』って言うと、きっと遊行が(よよこ)ぶって、言って下(しゃ)ったんだ」
童子は、にこにこしながら話している。
「天子様と、どんなお話をしたの?」
遊行は、童子に再度、質問をした。童子は身を乗り出し、目を輝かせながら答えた。
「僕ね、大きくなった()、遊行と旅が()たい。それ(しょえ)でね、(いよ)んな(とこよ)へ行って、(いよ)んなことする(しゅゆ)の」
遊行はハッとした。遊行の今までの旅先での話が、目の前の子どもの憧れになっているとは思わなかったからだ。遊行にとっては、半人半妖であるが故に一所に住むことが出来ず、強いられたような旅であった。二百年にも及ぶ、彷徨い続けた男の旅は、今もって報われたのだ。遊行の胸に、温もりが生まれる。そして、遊行もまた、目の前の子どもの成長を期待し、一緒に旅をしたいと願う。
「そうだね。童子が大きくなったら、俺も童子と旅がしたい」
「本当?じゃあ、約束(やくしょく)
童子は、遊行の言葉に嬉しそうにした後、小指を立てて、遊行の前に差し出す。前に教えた、約束の風習だ。遊行は、己の小指を童子の小指にしっかりと絡ませる。指切りげんまんをした後、遊行はいつものように膝をポンと叩いた。その正面で、童子はきちんとお座りをする。今日も遊行が語りだす。

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