バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

不語 鬼子 前編

 夜遅くなった街道を歩く者あり。半人半妖で、方向音痴の辻ヶ先遊行(つじがさきゆぎょう)である。旅先の町では、宿がなく、途方に暮れていた。廃寺でも探すかと、ため息をつきながら、空を見上げた。そこには、雲一つない星空があった。青白いものや赤いもの、光りの強いものや、弱いもの。様々な星が光り輝いて、美しい情景だ。風が優しく吹き、秋草を揺らす。秋も入りであり、それほど肌寒くはない。土手に横になって、遊行は眺めていた。
 今は、九角竜天子(くかくりゅうてんし)の出資により、毎日宿に泊まれるだけの金銭を頂戴している。しかも、曲独楽により、金銭が足りなくなっても、その場で稼げるようになった。しかし、それも最近のことである。それまでは草を枕に、星空を天蓋にして、虫の音を聴きながら眠ることもよくあった。
 物騒に思えるかもしれないが、案外野宿している者の持ち物を盗む者はいない。
 遊行は、懐かしさを覚えた。今日は、ここで野宿をしよう。そして、目を瞑れば、旅の疲れもあってか、すぐ眠りについた。

 昔むかし、ヒトが踏み入れてはいけない、龍神の森があった。そこには、その名の通り、その森には龍神がいらっしゃる。龍神は、人々に水の恵みを与え、近くの山の噴火や、鉄砲水、土砂災害から守って下さる。その他にも神々や妖怪がいると信じられていた。
 近くの村の娘・おも(●●)は、母親の調子が悪いため、薬草摘みをしていた。おも(●●)は、薬草を摘むのに夢中で、禁足の地である龍神の森に、足を踏み入れてしまった。おも(●●)は、いつの間にか森の中へ入ってしまったことに、気がついた。そして、その場へ跪き、手を擦り合わせて、龍神へ拝む。
「龍神様、貴方様の住まう地へ踏み入れてしまった、愚かな私を許してくだされ」
しかし、もう手遅れであった。
 おも(●●)は、振り返って帰ろうとした。ところが、来たばかりの道はなく、鬱蒼とした藪が続いていた。こんな藪の中を進んできた覚えは、おも(●●)にはなかった。おも(●●)は、へたりと崩れ落ちる。涙を流し、自分の過ちを呪った。
 急いでおも(●●)は、後ろの藪をかき分けかき分け、森から出ようとする。しかし、藪は何処までも続いている。昏い水の中を藻掻く様に、おも(●●)は進んでいった。藪からは一向に出られない。
 ギャーギャーと妖怪か何かの声がした。藻掻くおも(●●)を嘲笑っているかのようだ。
 バサバサと、翼の羽ばたく音が聞こえた。そして、いきなり影が差したのだ。そのことに気がついたおも(●●)は、見上げた。すると、大きな翼の生えた妖怪がいるではないか。おも(●●)は、その妖怪と目が合った。一気に鳥肌が立つ。逃げ出そうとしたのも束の間、おも(●●)は、鳥の妖怪に捕まり、連れていかれてしまった。
 鳥の妖怪に攫われたおも(●●)は、妖怪の棲み処に連れていかれた。棲み処には、鳥の妖怪のみならず、牛のような角が生えた一つ目の妖怪や、なんとも薄気味悪い笑みを浮かべた老人のような妖怪、毛むくじゃらの妖怪など、数匹の妖怪がいた。そして、おも(●●)は、鳥の妖怪に下ろされると、数匹の妖怪はおも(●●)を取り囲む。おも(●●)は、逃げられないように、四肢を押さえつけられてしまった。妖怪たちが、おも(●●)の躰をじろじろと眺めている。
「ひひひ。久しぶりのヒトじゃ」
「しかも、若い女子よ。楽しみじゃのう」
「皆の者、俺に感謝しろよ」
おも(●●)は、恐れ戦き、神仏に願った。その願いも空しく、妖怪たちの手が、おも(●●)に向かって伸びる。最初に取り囲んだ妖怪たちだけでなく、他の妖怪たちも匂いに群がり、集ってきた。妖怪たちの宴は、連日連夜続いた。

 麓の村では、若い娘がいなくなったと、騒ぎになっていた。病がちの母を思い、薬草を摘みに出かけたが、数日帰ってこなかった。娘は神隠しにあったのだと、村人たちは決めつけた。しかし、いなくなったおも(●●)の姉であるおわ(●●)は、諦めきれずにおも(●●)を探し続けた。村の外の山や森の近くまで、朝早くから日が暮れるまで、方々を探し続けた。妹は絶対帰ってくると信じて。
 黄昏時に、村に帰ろうとしたおわ(●●)は、村に近寄ろうとする、女性の姿が見えた。よろよろと、今にも倒れそうな女性に、心優しいおわ(●●)は、助けようとした。しかし、近寄ったおわ(●●)は、我が目を疑った。信じたくなかった。しかし、ボロボロの衣を纏い、傷だらけになったその女性は、間違いなく自分の妹であるおも(●●)であった。
 おわ(●●)は、急いで自分が羽織っていた羽織をおも(●●)に被せた。そして、人目を偲んで、家へと連れ帰る。
 おわ(●●)は、おも(●●)の手当をした。汚れたおも(●●)の体をぬるま湯で拭ってやる。痛々しい妹に、直視できなかった。病がちの母は、娘が帰ってきたことに泣いて喜んだ。
おも(●●)、心配したんだよ。いきなりいなくなってしまうから。お前が神隠しに遭ったんではないかと、気が気じゃなかったよ。何処を彷徨っておったんだい?」
おも(●●)は、傷の手当てを受けながら、弱々しく答えた。
「母上、ご心配をおかけしました。されど、神隠しにあった方が良かったのかもしれません」
おも(●●)は、ぽつりぽつりと話し始めた。龍神の森に迷い込んでしまったこと。妖怪に攫われたこと。そして、妖怪に無体をされたこと。そして、何とか逃げ帰ったこと。
 母とおわ(●●)は、おも(●●)に起こった出来事を信じたくなかった。涙を零すおも(●●)を、母と姉は抱きしめた。おも(●●)は、声を殺して泣き続けた。
 翌日には、おも(●●)がボロボロになって帰ってきたことで、村で噂になった。その噂は、小さな村ではすぐに広まってしまい、その日の内に全員に伝わってしまった。こういった噂は、何も悪くない被害者が、さも悪いように言われてしまう。母娘の家に石を投げつけたり、話しかけても無視をされたり、村八分にあった。とうとう居た堪れなくなった母と娘は、村を出ていくことにした。
 
 病弱な母親のために、近い小さな村に母娘は住んでもいいかを訊ねた。病弱な者がいるにもかかわらず、追い出そうとする者はいない。聡明な村長は、この母娘に何か事情があることを察する。彼女たちを憐れんだ村長は、空き家を一軒紹介した。母娘はそこに住まわせて貰うことになった。
 母娘が移り住んでから、二月が経った。おわ(●●)おも(●●)は、一生懸命働いた。そして、村人たちとも仲良くなる。この村は気がいい人が多く、母娘に優しかった。
 ある日、おも(●●)は気分が悪いと、吐き気を催していた。そして、梅干しを食べるようになり、炊き上がった釜の蓋を開けると、口を押え、厠へ駆け込む。その症状に、母親は覚えがあった。
 翌日、おわ(●●)おも(●●)が働きに出かけようとすると、母親がおも(●●)は調子が悪いからと、休むように言った。二人きりになったとき、母親はおも(●●)に問いかけた。
おも(●●)、あんた子を孕んでいるんじゃないかい?」
おも(●●)は、口を押えながら、目を見開いた。信じたくなかった。しかし、言われてみれば、ここのところ、月の物が来ていないのだ。おも(●●)は呆然とした。母親は何も言わず、おも(●●)を抱きしめた。
 夕方帰ってきたおわ(●●)にも、おも(●●)の懐妊を告げた。おわ(●●)は驚いて、足をよろめかせる。そして、おわ(●●)は、おも(●●)の肩を掴んで詰め寄った。
「お腹の子の父親は誰なんだい?」
「これ、おわ(●●)。よしなさい」
おも(●●)は視線を逸らし、黙ってしまった。そのおも(●●)の様子に、おわ(●●)は察してしまった。心当たりは、末恐ろしいあの時のこと。おも(●●)は、妖怪の子を孕んでしまったのだ。
 医者に診せたくても、医者には通えなかった。何故なら、また噂になってしまうからだ。
 早いうちに手を打とうと、おも(●●)に堕胎をさせようとした。おも(●●)は、深夜の冷たい川に、下半身を浸からせたり、鬼灯の根や茎を煎じたものを飲んだ(鬼灯の毒は、堕胎に効果があると信じられていた)。泣く泣く、母親とおわ(●●)は、おも(●●)の腹を蹴った。しかし、そんな努力も空しく、おも(●●)の腹は傍目に分かるほど膨らんでいった。
 村人たちは、おも(●●)の相手の男を邪推する噂をした。村長は、村人を叱って、母娘を憐れみ、村に留まるように言った。村長は、彼女の妊娠が望まぬものであることを理解した上で、医者を紹介した。そして、村の医者に診せて、堕胎のためにどうすればよいのかを相談した。ありとあらゆる手段を行ったが、一向に堕胎は出来なかった。
 おわ(●●)は、産婆を手伝うようになった。そして手ほどきを受ける。女の働き口として役に立つのは勿論であったが、おも(●●)にもしものことがあったときは、自分で立ち会わないといけないという思惑もあった。

 あの事件から十ヶ月が経った。おも(●●)の腹は、かなり大きくなり、通常の場合の臨月を迎えていた。しかし、起きるはずの陣痛が、中々起きない。結局、十二ヶ月を経過しても、陣痛は起きない。死産も考えられたが、おも(●●)の腹は膨らみ続ける。流石に、これには村人も村長も不気味に思った。居心地の悪さもあり、三人は、村から出ていった。
 三人は、人里離れた場所に空き家を見つけた。竈もあり、雨風も凌げる。何よりも、人目に触れないことが一番だった。おわ(●●)は、布団やら鍋やら必要なものを、何回も往復して買いに出かけた。すでに孕んでから一年半が経過したが、おも(●●)に陣痛はない。立つことも儘ならないほど、おも(●●)の腹は膨らんだ。化物の子を孕んだ妹は、姉の目から見ても不気味であった。

 それから六ヶ月が経った。おも(●●)に陣痛は起きない。病弱にも関わらず、二度の旅をし、半年間もあばら家で過ごした母親は亡くなった。最期まで、自分の病気よりも、娘の体を心配していた。出来ればきちんとした墓に埋め、供養したいと思うが、それは叶わず、寂れた家の脇に埋め、運べる大きな石を墓石のように積み上げた、粗末な墓を造り、経を幾度も唱えた。

 更に七ヶ月の月日が流れた。通算して二年七ヶ月である。これは、普通の妊娠期間が十月十日なのだが、その三倍の期間だ。もう、おも(●●)は、腹が大きすぎて、横向きにしか寝られない状態だった。
 ある丑三つ時に、おも(●●)は蹲り、脂汗をかいて、唸っていた。おわ(●●)は、陣痛が始まったと、すぐに飛び起きた。日頃からおわ(●●)は心構えが出来ており、すぐに準備に取り掛かる。
 力んでも力んでも、お腹の子は中々出てこなかった。おも(●●)は、苦しそうに目をひん剝き、涙が溢れる。呼吸を整えようとしても、苦痛で儘ならなかった。脂汗が止まらない。
 正午ごろ、やっと赤子の頭が出てきた。血塗れの頭には毛が薄ら生えている。おわ(●●)が赤子の頭を掴むと、赤子はぎょろりとおわ(●●)を見上げた。そして、目が合った。おわ(●●)は度肝を抜かれ、身の毛が弥立つ。おわ(●●)は心を落ち着かせて、赤子の頭を引っ張った。頭が出れば、後は楽になるとふんでいたが、思ったよりも赤子の胴体が大きい。おも(●●)はじたばたと悶え苦しみ、絶叫した。こうしてる間にも、おも(●●)は体力を消耗する。早く楽にしてやりたいと、おわ(●●)は引っ張り出すが、悪戦苦闘である。
 逢魔が時になり、おも(●●)の胎の中から、赤子が全て出てきた。長丁場だった出産が終わる。太いへその緒を切った。おわ(●●)は汗を拭った。
おも(●●)、終わったよ。苦しかったろ……」
おわ(●●)は、大きな赤子を抱きかかえ、おも(●●)に告げた。しかし、長い妊娠期間と大きすぎる赤子の出産に、おも(●●)は力尽き、息絶えていた。
 おわ(●●)は、急いで赤子を産湯に浸からせた。既に、身の丈が二尺六寸(大体80センチメートル)近くある赤子は、男の子であり、湯に、生えていた髪の毛がゆらゆらする。薄ら開いた口には、既に乳歯が数本生えていた。紛れもない鬼子である。おわ(●●)は、鬼子の首を締めようと、両手を首に回した。力を込めた瞬間、鬼子は小さな手で、おわ(●●)の両手を握った。おわ(●●)は恐れ戦き、飛び退いてしまう。なんて恐ろしくて、気味が悪い赤子なのだろう。
 鬼子を洗い終えたおわ(●●)は、魂が抜けたかのように、座り込んだ。そして、おも(●●)の遺体を見つめる。なんて可哀想な妹なのだろう。龍神の森に迷い込んだばっかりに、化物の子を孕み、我が子に苦しめられて死んでしまった。これも、禁足の地に土足で入った天罰だというのか。まだ、十七だというのに。
 おわ(●●)は、幽鬼の様にゆらゆらと立ち上がり、斧を手にした。そして、くうくうと眠る鬼子に近寄り、鬼気迫る顔をして、一気に斧を振りかざした。斧は、鬼子の頭頂にざっくりと入った。頭の三割くらい斧が食い込んでいる。おわ(●●)は、嗤った。
「ははは。くたばったか、化物め」
斧が刺さった鬼子は、目を見開いた。そして、そのままゆらゆらと起き上がり、倒れこんだ。おわ(●●)はあまりの恐怖に、言葉にならない叫びを上げた。鬼子は斧を重そうにしつつも立ち上がり、おわ(●●)に近寄った。その顔はにたりと笑みを浮かべ、乳歯が見えている。おわ(●●)はがたがたと震えながら、後ずさりをする。
「まんま」
あまりの恐ろしい光景に、おわは狂死した。

 斧の重さに、鬼子はよろめいて、尻もちをついた。どうにも頭の上が重くて痛いのだ。
「うー」
唸りながら、鬼子は頭の上に手を伸ばし、確認するように触っていると、何かが刺さっていることに気がついた。鬼子は、身を返したりしているうちに、なんとか斧が外れる。
 鬼子は、屍二体に近寄った。それぞれ揺すってもピクリともしない。鬼子は、這い回り、家を出る。頭の傷は、閉じつつあった。
 鬼子は、家の外を出ていく。喉が乾き、腹が空いていた。川の方へ這ってきて、水を飲もうとした。しかし、顔を水面に近づけると、ごろりとそのまま川へ落ちてしまった。鬼子は、己がどうなっているのかも分からず、ただ息苦しさを覚えた。腹を空かせていたのが良かったのか、沈むことなく浮き上がる。赤子は泣き叫び、川下へと流れていった。
 
 子どもが授からない夫婦がいた。二人は毎日のように、朝に夕に神仏に祈った。
 妻が川で野菜を洗っていると、子どもの声が聞こえてくる。ハッとした妻が辺りを見回すと、川上から子どもが流れてくるではないか。驚いた妻は、ずぶ濡れになるのも構わず、川へと入った。幸いなことに付近の川は浅い。妻は流れてくる子どもを拾い上げた。
 子どもは、とても大きくて丈夫な裸の男の子である。年は一歳くらいだろうか。体が大きいのに、生まれたてのような赤い顔をしている。息はあるが、体が冷え切っていたので、手拭いで体を拭いてから包んだ。そして、帰る道中は子どもを擦りながら、急いでわが家へ戻り、子どもを温めた。
 妻は、薪割りをしていた夫に、川上から子どもが流れてきたことを報告する。妻の話を聞いて、夫は驚き、子ができない自分たちへの授かりものだと思った。きっと川上で飢饉か何かがあり、口減らしのために子どもを流したが、幸運にもその途中で溺れ死ぬことなく、妻の目に留まったのだろう。急いで家へと帰り、子どもを見た。
 二人は急いで湯を沸かし、子どもを風呂へ入れた。そして、夫は、近所の子どもがいる家へ行き、訳を話して、使わない子どもの服を数枚、譲ってもらった。家に帰ると、子どもは風呂で温まり安心したのか眠っていた。妻が嬉しそうに、子どもを寝かしつけているのを見ると、夫の胸をじんわりとさせる。
 二人は子どもを育てることにした。「捨て子は良く育つ」と言う通り、丈夫に育つと考えられている。運よく川に流されても死ななかった子どもなら、強運も持ち合わせているだろう。名前は何にしよう。二人は子どもを見ると、穏やかに眠っている。なんとも可愛らしい寝顔に、二人は頬が緩むのであった。考えた末に、二人は「捨吉(すてきち)」と名付けた。

 夫婦は、周りの人に子育ての仕方を教わりながら、捨吉を育てた。その甲斐もあってか、捨吉はすくすくと丈夫に育った。捨吉は、同じ年頃の子どもよりも大きく、目鼻立ちがはっきりしている。そして、力があり、優しい。なんと将来有望な子どもなのだろうか。我が子の成長ぶりを見て、夫婦は嬉しくなるのであった。
 捨吉を拾ってから、七年の月日が経過した。捨吉は、病一つすることのない、元気な少年へと成長した。
 捨吉について、夫婦には二つ悩み事があった。それは、迷い癖と、夜に歩き回ることである。迷い癖は酷く、家にも辿り着けないことがあるので、夫婦は家の庭に栃の木を植えた。
 とある日の夕暮れ時のことである。捨吉の村に、行者がやってきた。捨吉一家が、農作業から家まで帰る途中のことである。捨吉の義父は、行者に話しかけた。
「これはこれは行者様。どちらから参られたのですか」
「拙僧は、大和国(やまとのくに)(今の奈良県)の吉野から来ました」
「日が暮れると危のうございます。今宵は、わが家にお泊りになられてはどうでしょうか」
「ありがたきお申し出、かたじけない。貴方様に、御仏の加護が有らんことを祈りましょう」
行者は、捨吉の家に泊まることになった。行者は、捨吉のことをじいっと見つめている。そして、捨吉の義父に話しかけた。
「あの子は、拾い子ですか?」
「えっ。よく分かりましたね。そうなんですよ。七年前に、川から流れてきたあの子を拾ったんです。わが家には、子が無かったものですから、嬉しかったもんです」
「あの子は何か癖がありますか?」
「そうですね。迷い癖と、夜に歩き回ることですね」
「歩き回る?」
「ええ。時々、丑三つ時に起きだして、どこかへ行くんですよ。ある日、おいらが『捨吉、厠か?』と声をかけても、寝惚けているんだか答えもせずに、ふらふらと出ていったんです。追いかけたら、厠ではなく、そのまま村の中を歩き回ってたんで、驚いたんですが……」
行者は、捨吉の癖の話を聞いた途端、考え込んでしまった。行者から見て、捨吉は何か不思議なものでもあるのだろうか。捨吉の義父は、義母の手伝いをしている捨吉を、不安そうに眺めた。
 その夜、丑三つ時のことである。捨吉が、何かにおびき寄せられるかのように、ふらふらと母屋から出てきた。今宵は新月であり、月明りのない闇が広がっている。捨吉は、この何も見えないような暗闇の中を、よろめきながらも真っ直ぐに歩いていく。村の外へ出ていこうとしたとき、背後から声がした。
「小童、そこから先へは行ってはならぬよ」
行者である。彼は、捨吉の癖を聞いて、今宵もその癖が出てくるのかと、眠らずに見張っていた。そして、捨吉が家から出ていくのを見て、追いかけてきたのだ。持っていた錫杖がシャラリと鳴る。捨吉がピクリとする。すると、村の外の茂みから、声がした。
「誰だい。わっちの邪魔をする者は……」
行者は、声のした方を見た。闇夜の中から現れたのは、八つの脚に八つの目、大きな絡新婦(じょろうぐも)であった。絡新婦は、二本の脚で糸を絡めとると、捨吉が引き寄せられていった。光りのない闇に紛れて見えないが、捨吉には八本の糸が四肢や頭、胴に絡まっている。どうやら、捨吉の夜に歩き回る癖は、この絡新婦の糸によるものだったのだ。行者は、絡新婦と捨吉の間に駆け寄り、錫杖で糸を断ち切ろうとする。しかし、細い割には絡新婦の糸は丈夫で、しかも粘り気がある。中々、錫杖では断ち切れなかった。
「わっちの糸を切ろうなどと、無駄なことをする」
絡新婦は、幾重にも纏めて鋼の如く強靭になった糸を、行者へ向けて飛ばした。行者は、ひらりと身を躱し、後ろへと跳んだ。
「夜な夜なこの子を、その糸でおびき寄せていたのか?」
行者は問いかけた。その間にも絡新婦は、糸を手繰り寄せて捨吉を自分の近くまで来させた。そして、無数の脚で眠る捨吉に絡みついた。更に、絡新婦は捨吉の顔の横に、自分の顔を寄せた。
「そうさ。なんせこの子はヒトと妖の子だから、誘いやすいんだよ」
「なんだと!?」
行者は驚いた。捨吉からは、他の者からは感じることのない、異様さを感じていた。それがなんだかは皆目見当がつかなかった。その異様さの理由は、捨吉がヒトと妖の子であったからなのだ。行者は、捨吉への理解を深めるために、更に絡新婦へ問いかける。
「その子を呼び寄せて、何をしているんだ」
「この子はヒトよりも生気が強いけど、何分未熟だから、今のうちに唾をつけているのさ。今は、この子を通して村を探り、村の男どもの生気を喰らっているがね。待ち遠しいねぇ。早く喰いたいもんだよ」
絡新婦は、四つの目で行者を見ながら、捨吉の頬を舐める。捨吉はされるがままだ。捨吉が余りにも絡新婦に近すぎて、行者は動けなかった。この絡新婦、隙が無いのだ。
「そうだ、今宵はあんたを喰っちまおうかねぇ」
絡新婦は、脚の一本を行者に向ける。行者は怯むことなく、絡新婦に錫杖を向ける。一触即発の空気が、絡新婦と行者の間に漂う。絡新婦は、糸を行者へと放つ。糸は、行者の錫杖に絡まってしまった。行者の力では、強靭な糸を引き千切ることができない。ずるずると絡新婦の方へと引きずられてしまう。
 行者は、腰に括りつけていた法螺貝を取り出して、高らかに吹いた。法螺貝の音は、如来の説法の声を象徴する。そして、魔を祓う効果があった。絡新婦に効くかどうかは分からないが、一縷の望みをこの法螺貝の音にかけたのだ。一瞬、法螺貝の音を聞いた絡新婦は怯むが、特に変わった様子はない。
「はん。そんな貝笛の音がわっちに効くもんか」
絡新婦は、大きな口でにたりと笑った。行者は、法螺貝の音が絡新婦に効かなかったので、険しい顔をしている。首にかけている念珠を手に取り、構えの姿勢をとった。そんな時、絡新婦の脚に抱きつかれていた捨吉が目を覚ました。法螺貝の音で驚き、起きてしまったようだ。捨吉は絡まれていた糸を難なく千切って解き、脚の合間を縫ってから、行者の元へ駆け寄った。怖かったのか、行者の後ろに隠れ、篠懸(すずかけ)を少し握っている。そして、覗き込むようにして、絡新婦の様子を伺っている。
「小童、何故わっちの糸が切れた」
絡新婦が捨吉に問う。その声は大きくもないのに、びりびりと空気が揺れる。捨吉は怯えながらも答えた。
「知らない。なんとなく切れた」
絡新婦の催眠に使う糸は、攻撃などに使う糸よりも強度が劣る。法螺貝の音は絡新婦自身には効かなかったが、捨吉の催眠を解くには効果があったのだ。催眠が切れてしまえば、糸は脆いものなのだ。絡新婦は折角の獲物が逃げたので、少し狼狽している。その隙を、行者は見逃さなかった。行者は、経を唱えながら最多角念珠(いらたかねんじゅ)(山伏が持つ数珠)を構え、こちらへと向けた絡新婦の脚の一本に巻きつけた。絡新婦は、念珠の効果で全身を縛り上げられたように動けなくなった。
「ぎいいいやあああああ」
絡新婦は、金切り声をあげた。行者は、そのまま柴打(しばうち)(山伏が持つ刀)でもって、絡新婦の首を切った。首が落ちた絡新婦は、爆ぜるかのように、無数の小さな蜘蛛になり、散り散りに逃げていった。あの小さな蜘蛛が妖になるには、かなりの年月が必要になるだろう。行者は逃げ遅れた蜘蛛の子を、何匹か踏み潰した。捨吉は、行者に駆け寄った。
「あ、ありがとうございました」
捨吉は、深々と頭を下げて、行者に礼を述べた。行者は、満面の笑みを浮かべた。
「いや、こちらも君に礼が言いたいほどだ。どうもありがとう」

 一番鶏が鳴き、深い闇だった空が明るみ始めた。行者は捨吉の手を取り、家へと向かう。行者は捨吉に訊ねた。
「捨吉くんは、あの蜘蛛を知っていたのか?」
その問いに捨吉は、こくりと頷く。そして答えた。
「あの大きな姿ではなかったけど、この前、夕暮れ時に村の境に大きな蜘蛛の巣が張ってあったんです。それに引っかかったことがあります」
なるほどと、行者は納得した。夕暮れ時とは逢魔が時のことであろう。村の境に巣を張り、獲物を待ち構えていた時に、捨吉は引っかかってしまったので、絡新婦は捨吉を利用したのだ。
「他に、何か妖の類で困ったことはないかな」
行者は、更に捨吉に問いかけた。捨吉は、ゆっくりと答える。
「昔から、亡者や妖が見えたんだ。でも、周りは気がついていないみたいで、言えなかったんです」
行者は、繋いだ捨吉の手が、震えているのが分かった。捨吉を見ると、顔を俯かせ、繋いでいないもう片方の手は、着物の裾を強く握っている。捨吉の足元には、水滴がぽたぽたと落ちた。声を殺して泣いている。人知れず、この幼い子は恐ろしいものと向き合ってきた。しかも、今回は見るだけでなく、実際に襲われたのだ。絡新婦が、この子はヒトと妖の子だと言っていた。ヒトでもなく、妖でもないということは、ヒトとしても妖としても生きてはいけない。この子は生気が強く、妖気に敏感だ。幼いながらも体躯に恵まれている。行者は、捨吉に退魔の力を身に着けさせようと考えた。行者は、捨吉の正面に向かい、視線を合わせた。そして、出来るだけ優しい表情を浮かべて述べた。
「辛かっただろう。だけど、君の生涯でこういったことが何度も起きるだろう。これからそういうことが起きた時のための術を、拙僧と共に習得しないかい?」
捨吉は目を見開いた。そして、行者に問う。
「それって、おっとさんやおっかさんと離れなくてはいけないのですか?」
行者は静かに頷いた。まだ、年端もいかない子どもだ。取り分け、この子は親に愛されて育ったことだろう。親と離れることに対して、未練があるのだ。どうにも迷っている捨吉に、行者は目を細める。
「今すぐでなくてもかまわないさ。幼いうちは、親に甘えるのも孝行だ。これを持っているといい」
行者は、捨吉の頭を優しく叩く。そして、数枚の木簡を捨吉に渡した。木簡は、いわゆる護符であり、厄除けになるものである。捨吉は、木簡をまじまじと見つめている。
「持っていれば、低俗な妖魔からなら、君を護ってくれるだろう」
 家に戻った行者と捨吉は、捨吉の両親と共に朝食を食べた。絡新婦に襲われた話は、二人にはしない。朝食を食べ終えると、行者は部屋に捨吉の両親を呼んで、二人と話した。捨吉は霊や妖が見えること。霊や妖に憑りつかれやすいこと。護符を持たせたこと。両親は、信じられないような話であったが、黙って聞いていた。ひと通り話終えると、行者は出立の準備を整えた。
 いざ、出立という時、行者は捨吉に話しかけた。
「捨吉君。数年の内に、また来よう。その時には、あのことを考えてくれ」
「あのこと」とは、妖魔に対する術を習得することであろう。
「必ず、必ずここへやって来る。それまで、元気で暮らすんだぞ」
そして、行者は捨吉の手を取り、己の小指と捨吉の小指を絡ませた。捨吉は戸惑ったが、約束を厳守するための風習なんだそうだ。捨吉は、ぎゅっと胸元で木簡を握る。捨吉の中では、返事はもう決まっていた。笠を掲げ、行者は歩いていく。その姿を捨吉はずっと見つめていた。今度お会いできるときは、行者に弟子入りすると心に誓った。しかし、行者は捨吉の元へ来ることはなかった。約束した後、妖怪に殺されてしまったからだ。

 四年の月日が流れた。捨吉は、数えで十三歳になろうとしていた。もう、大人ほどの身長があり、落ち着いた優しい性格もあって、村人達に愛された。また、捨吉は、自分が夫婦の実子ではないことに、薄々気がついていた。その確認は未だにとれてはいない。
 捨吉のいる村に、法師が一人やって来た。多くの峠や街道を通って、はるばる来た彼は、一軒の家、いや一人の子を探している。彼は、一人の村人に声をかけた。村人は、法師よりも背が高く、立派な体格をしていた。
「すんません。愚禿は銘安(めいあん)といいます。この村に捨吉いう子、知りませんか?」
「捨吉なら俺ですけど……」
「お前かい。子どもや聞いとったけど」
「何故、俺のこと知ってるんですか?」
捨吉は見知らぬ法師を怪しむ。法師と名乗る銘安は、見るからに胡散臭いのだ。髪はぼさぼさで、服装は汚れがちでよれよれ、無精ひげも生えている。そして、服装からは酒の匂いがした。恐らくは腰に吊るしてある瓢箪だろう。銘安は、捨吉が訝しんでいるのも気づかずに、答える。
「ああ、行者の格宗(かくそう)さんから、お前のことを聞いたんや」
「格宗さん?」
「四年位前に行者が来よったろ。そのお方や」
捨吉はピクリと反応する。
「なんで、行者様じゃないんですか?」
銘安は、後頭部を掻き毟りながら、捨吉の問いに答える。掻き毟った頭からは、頭垢や虱が飛び散った。
「格宗さんは、妖怪退治の際に亡くなった。その前に、愚禿にお前のこと頼みよった。せやから来たんや」
捨吉は、驚き悲しんだ。あんなに優しくて強いお方が亡くなったことが、信じられなかったのだ。痛いくらいに両の拳を強く握り、戦慄いた。涙が零れてしまう。
「……ないと嫌だ」
「うん?言いたいことははっきり言いや」
「行者様じゃないと嫌だ」
捨吉は、顔を上げ、はっきりと言った。銘安の顔色が変わる。そして、捨吉の胸倉を掴んだ。
「それ、本気で言っとるんか」
銘安は声を低くして、怒りの形相で捨吉に言った。銘安は、この時本気で怒っていた。そして、捨吉の頬を叩いた。
「我儘言うなや。死んだ人間は帰ってこうへん。せやけど、生前の未練は残る。そんだけ慕っとるんなら、何故その未練を晴らそうとせんのや。それが一番の供養じゃろ」
捨吉の目からは、涙が溢れて止まらなかった。その場にしゃがみ込んで、大きな体を小さく丸め、声を殺して泣く。その傍らに銘安は座り、捨吉の頭を抱き寄せた。
「叩いてすまんかったな。格宗さんは、愚禿を助けてくださったんや。そうでなければ愚禿も死んどった。『報恩』って言葉がある。二人で格宗さんの恩に報いたろ」
先ほどとは異なり、銘安の声は優しくなった。捨吉は泣きながら、深く深く頷いた。
 夕暮れ時になり、銘安と捨吉は、捨吉の家へと向かった。捨吉の義母は、驚いてしまった。それは、捨吉が見知らぬ法師を連れ、頬が腫れて泣き腫らした顔で帰ってきたからだ。
「捨吉や、その方はどなた?何かあったの?」
義母は、心配そうに捨吉に訊ねる。捨吉は答えにくかった。己が悪いと理解しているからだ。銘安は、一歩前に出てきて、捨吉の義母の問いに答える。
「愚禿は銘安と言います。妖怪退治を生業にしている破戒僧です。知り合いから、幽霊や妖が見える逸材がいると聞いて、畿内(京の都の周辺。現代の京都・大阪・奈良)から来たんですよ。そんで、その逸材が子どもや聞いとったんですが、愚禿よりも大きくて、『愚禿より大きいやないかい』とツッコミ入れたら泣いてしまって。大人気ないことしました。本当にすいません」
銘安は、腰を直角に曲げて、義母に謝った。義母は困った顔で銘安を見つめている。義父が農作業から帰ってきて、四人で話し合うことにした。銘安は、捨吉の家に泊まることになる。
「ところで、銘安さん。貴方が畿内から、捨吉を探しに来たということですが、誰の紹介ですか?」
「四年前に行者の格宗さんってお泊りになったでしょ。そんで、この子が霊や妖が見えるからって、木簡を渡したって聞いとります」
「ああ。あの行者様か。覚えております。半信半疑だったのですが、あのお方の御陰で、息子の夜に歩き回る癖が無くなったんですよ」
「本当は格宗さんが迎えるのが一番なんでしょうけど、格宗さん殺されてしまいまして……」
「そうでしたか。捨吉、このことについて、お前はどう考えているんだ」
捨吉は、膝の上の拳をぎゅっと握って、両親に体を向ける。
「おっとさん、おっかさん。実は、行者様と約束をしていました。数年の内に必ず来るから、その時までに考えていてほしいって。ずっと俺の中ではもう決まってて、行きたいと思ってました」
両親は驚いた顔をしている。まさか、捨吉がそこまでの覚悟を決めていたことに気がつかなかった。親の知らないところでも子は成長するものだと、感心する。捨吉は、両親に平伏した。
「おっとさん、おっかさん。お願いします。捨吉は、銘安様の元で修行したいと思っています。どうかお許しください」
両親は、黙って聞いている。義父は腕を組み、少し悩んだ後に言った。
「わかった。捨吉にそこまでの覚悟があるのであれば、そうしなさい。今まで言わなかったが、お前は拾い子でな、おっとさんとおっかさんが拾ってきた子どもなんだ。しかし、実の子のように大事に思っている。おっとさんとおっかさんは、お前の覚悟を信じ、送り出そう。そして、辛かったなら帰ってきなさい」
「おっとさん、ありがとうございます」
捨吉は、義父に感謝を述べた。義母は黙って聞いている。
 話し合った結果、捨吉が銘安と共に旅立つのは七日後になった。旅立つための準備を親子は進めていく。義父は、捨吉の履く草鞋を丹精込めて作り、義母は、脚絆を縫った。二人とも、捨吉が怪我をしないように願いを込めた。
 銘安は、その間に滝で体を洗ったり、刃物で髭を剃ったりして身なりを整えていた。最初とは違う有り様に捨吉は驚いた。

 あっという間に日は過ぎ、捨吉が出立する日がやって来た。身綺麗になった銘安は、両の拳を床につけ、堂々とした態度で礼をした。
「捨吉君のご両親、愚禿が責任をもって、大事な息子さんをお預かりします。捨吉君であれば、きっとよく妖怪を退治する者となるでしょう」
「不束な息子ではありますが、どうぞよろしくお願いします」
捨吉の両親も深々と頭を下げて挨拶をする。銘安は、最初に会った時とは別人のようだ。今日は畿内訛りが出ておらず、丁寧に挨拶をした。捨吉の両親にしてみれば、大事な一人息子を預けるのだから、それに礼節をもって答えるのが、銘安の流儀であった。人が変わったような銘安を見た捨吉が、呆けたように見ていた。それを見透かしたのか、銘安は捨吉の頭を手で強く押さえつけた。
「お前も挨拶しいや」
押さえつけられた捨吉は、額と鼻を床にぶつけた。そして、三人を真似るように手を顔の下に持ってきて挨拶をした。
「えっと……おっとさん、おっかさん、長い間お世話になりました。捨吉は銘安様と一緒に旅をして、強くなります。どうか、いつまでもお元気でお過ごしください」
拙いながらも、捨吉の挨拶を聞いた両親は、涙を大量に流していた。
 挨拶を終えた捨吉は、両親に見送られて銘安と共に旅立った。両親の寝る間も惜しんで作った脚絆と草鞋を、捨吉は身に着けている。両親は無理したような笑顔で見送った。
「ほな、行くで」
銘安は、捨吉の背中を平手で叩いた。
「おっとさん、おっかさん、さようなら」
手を振りながら、捨吉は歩き出す。そして、前を向き歩き出した。両親の声が聞こえてきたので、振り返ろうとしたが、それは銘安が許さなかった。
「歩き出した以上は、振り返ったらあかん。それがこの道に入る覚悟いうもんや」
銘安の声が低いことに驚いた。そうだ、もう歩き出したのだ。捨吉は、胸元で拳を握り、両親への思いを自らの中に押し殺した。そして、自らの歩む道を全うする覚悟を決めた。迷いのない目で、銘安の方を見る。
「ところで師匠、これからどうするんですか?」
銘安は口角を上げて言う。
「それでええ」

 旅を始めた銘安と捨吉は、辻にある岩に腰掛けて一休みをした。そこには大きな木があり、木陰になっていて気持ちがいい。捨吉は、今までこんなに歩いたことがないので、疲れてしまった。捨吉は、竹の水筒の水を飲む。喉を通り抜け、体のあちこちが潤う初めての感覚に、「五臓六腑に染み渡る」という言葉の意味が分かる気がした。ぷはあと息を吐き出すと、疲れが抜けて気持ちよくなった。捨吉が水のおいしさにご満悦でもう一口水を飲んでいると、銘安は話しかけてきた。
「ところで、お前の名前変えようや思うんやけど」
捨吉は魂消てしまった。驚いて、水が気管や鼻の管に入ってしまい、咳き込んだ。鼻の奥がツンと痛む。咳き込みながら、捨吉は問う。
「何故ですか!?」
「いやあ、お前の名前、あんまり縁起よくないねん。吉を捨てるに通じるからなあ。妖怪退治は縁起って大事なもんで、名前も無視できんのや。命名っていうのもあって、縁起のいい名前か否かは人生を左右するで」
十年以上その名前で呼ばれてきたので、捨吉には違和感はなかったが、そう言われてみればと、納得のいく話であった。相手は超常の生き物であるから、縁起でもって運を味方にするのも、妖怪退治には大事なことなのだろう。
「では、どういった名前がいいんですか?」
捨吉は、身を乗り出して銘安に尋ねた。銘安は、人差し指を天へ向けて話し始めた。
「そうやなあ。『遊行(ゆぎょう)』なんてどないや」
「ゆぎょう……」
漢字の知識が無い捨吉は、銘安の言う名前の意味が分からなかった。銘安は一本の小枝を拾ってきて、土に書き始めた。捨吉は、銘安の書いた「遊」と「行」の字をまじまじと見つめる。銘安は小枝を持ったまま、それぞれの字を差しながら説明した。
「こっちの字は遊ぶ。興の赴くままに楽しむとか、ぶらぶらするとかいう思い込みが強いけど、学問を修め、見聞を広めるっちゅう意味もある。そんでこっちの字は行く。どっかへ行くとか、人のする行いのこっちゃ」
捨吉は、銘安の説明を頷きながら聞いた。続いて、銘安は小枝で二つの字を丸で囲んでから差した。
「二つ合わさると、あてもなく歩き回るとか放浪するって意味もあれば、修行のために諸国を巡り歩くって意味もある。」
「その名前って縁起がいいんですか?」
新しい名前の意味は理解できたが、いまいち縁起のいい名前だとは、捨吉には思えなかった。今の名前よりはいいことだけは理解できたが。特に、捨吉は己の生来の迷い癖を自覚しているため、なおさらそう思ってしまった。
「正直どっちにもとれるやろ。無意味に歩き回っとるのか、有意義に修行をしとるのか。せやから、それはお前の行動と考え方次第っちゅうこっちゃ」
銘安は小枝の先を捨吉に向け、口角は上がっているが、真面目な顔をして捨吉を見つめている。師匠の底知れない凄みに、ぞくりと寒いものが捨吉の背骨を駆け上った。捨吉は新しい名前について考えた。己の行動と考え方で、意味合いが変わるという名前。今まで他人よりも損していると思っていた迷い癖も、考え方次第では有意義なのかもしれないと、前向きな気持ちになった。そして、なんとも言えない昂揚が捨吉の中に湧きだした。捨吉は、隣の銘安に体を向けて、深々と頭を下げる。
「師匠、いい御名前をお与え下さり、ありがとうございます。捨吉改めこの遊行、頂いた御名前を大事にしたいと思います」
銘安は、弟子が名前を気に入ったようで嬉しかった。この「遊行」という名前は、実は格宗が付けた名前であり、捨吉のことで、格宗が銘安に託したことの一つである。
「ほな、そろそろ行くで」
銘安は、一休みを終えて重い腰を上げた。捨吉も立ち上がり、師匠の後ろをついて歩く。
 こうして、捨吉改め遊行は、新しい生涯を始めたのである。彼にとっての長い永い旅の始まりだ。

しおり