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 ある日、それは俺にとっては何万回と繰り返したただの平日であり、ただの出勤日であり、ただの六月六日であり、ただの金曜日であった。もし夏の色が空に現れワイシャツが肌に張り付く今日でなく都会の埃が地面を転がるような秋の金曜日でも俺の心境に何か変化があるなんてことはあり得ない。
 陽が落ちる頃には会社近くの繁華街は大いに賑わい、日本のインフレの一端を担っている電柱は泥酔者によってあっという間に汚されるだろう。
 ああ、嫌だ。
 普通、金曜日と言うのは俺達サラリーマンにとっては期待を含んだ曜日である。家族で出かけるだの、仲間と遊びに行くだの、趣味に興じるだの、スキルアップの為に勉学に励むだの、ただ寝るだの、休日出勤をするだの――好きにしたら良い。俺には何の関係も無い奴らがどう時間を使おうが知った事ではない。
 この歳で独身なんて特に珍しくも無い。
 その言い訳はついさっき無効になった。つい九時間前、今日という日が始まってから俺は少数派になってしまった。しかし、だからといって生活スタイルが大幅に変化することは無い。だから今日はただの平日なのだ。
 ああ、嫌だ。
 このままホームでずっと電車を待っていたい。何かの間違いと何かの偶然が何個も重なって一生電車を待ち続けていたい。そんな風に思うのは何も今日に限ったことではなく、俺は七年、いや八年前の初出勤日から続けて今日に至るまでそう思っている。
 ああ――
 よくドラマなんかで、今の俺のようにホームで立っている主人公が物語の重要人物を見たり出会ったりして、周りの音が小さくなり若干映像がスローモーションになる場面がある。今自分が思い出している映像が過去に見た本当の記憶なのか、この場に合う映像記憶を脳が捏造したのか分からないが、ともかく俺は今その状態にある。
 瞳孔が広がる感覚に加えてまるで耳に届かない環境音。辛うじて聞こえるのはあと数秒で到着する電車を運ぶ車輪と鋼製の線路から出る引き延ばされた金属音で、俺の脳は視覚に全集中力を投じていた。視覚から入る情報の処理に。
 ホームの向かい側の窓の外、そこには少女がいた。
 もしここが自宅最寄りの駅ではなく会社最寄りの駅だったら、もし下に道路を通しているタイプの駅でなかったなら、もし彼女が空中にいるのではなかったのならば、俺は走り出したりはしなかっただろう。
 久しぶりに走り、久しぶりに人とぶつかった。キセルをしたのは初めてだ。後ろからは駅員数人の足音と俺を呼び止める声が飛んでくる。しかし後ろを振り返ろうとは一度も思わなかった。
 階段を駆け下り、出口付近の手すりを掴み急カーブをして、俺は辿り着いた。
「うわ、見つかった」
 少女は言った。
 宙に留まりながら。
 日光に照らされる純白のレースを揺らしながら。
 繊細で今にも折れてしまいそうな翼を背負いながら。
 頭上に光の輪を浮かせながら。
 彼女は煌めいていた。
 


「なんてこった」
「・・・・・・」
「なんてこったなんてこったなんてこった」
「・・・そんなに言わないでよ」
「お前・・・ああ、くそ」
 何も言えない。俺は彼女を責めることができない。全ては自分の早とちりであり、今の状況は勘違いと間違いに対する当然の報いなのだ。
「ねえ」
 本当に、ああ、なんてことだ。自分のしでかしたしくじりの重さを今更認識するなんて――
「ねえ」
 失格だ。社会人として、大人としてとしてあるまじき行動だった。もう俺は以前の生活に、十数分前の一般的なサラリーマンに戻ることはできない。絶対に。これからの人生は下り坂だ。せめて道があるなら良い、あまり考えたくないが俺はもう既に崖から落ちている最中なのかもしれない。
「ねえ!」
「・・・なんだ」
「ごめんなさいって、謝ったじゃない。そもそも本来、私は謝らなくてもいいんじゃないの?」
 語気を強くして彼女は言う。
「私は何も頼んでないし、何も求めてなかった。むしろ私は被害者よ!」
「うるさい黙っててくれ。そんなことは・・・俺が一番分かってるよ」
 食器棚からインスタントコーヒーを取り出す。調味料、もしくは保存食糧専用の棚があるのでそのどちらかに入れても良いのだが、頻繁に取り出すに加えてこれを特別視している為、こうして自分の目線よりも少し高い位置に置いてあるわけだ。俺にとってコーヒーはただの嗜好品の一種ではなく、中学二年生の冬休みに背伸びをして父親の愛飲していた缶コーヒーを飲んでから・・・特別なのだ。
 蓋を回した時点で香る苦み。かなり深く焙煎されたことが容易に想像できる。味を覚えている口内と喉にはもう唾液が満ちていて、はやくはやくと体がせがんでいる。蓋と容器が完全に分離し、その間を微小な粉が部屋に差す日光に照らされ、魅惑的を通り越して蠱惑的であった。
 もしも無人島に漂流するなら間違いなくコーヒー豆を持って行くし、この世からコーヒーが消えてしまったら俺が一から栽培する。コーヒーという概念そのものが無くなれば、その時には同じ様に俺自身も消えてしまうに違いない。それ程までに俺は――
「それインスタントじゃん」
「黙れ。今、現実逃避してんだ」
 思い出させるなよ。このインスタントコーヒーは会社の給湯室から勝手に持ち出したもので、そもそも俺はそこまでのコーヒー愛好家ではない。コーヒーよりはむしろコーラの方が好きだ。
「というか、ナチュラルに心を読むな」
「口に出てた。ぶつぶつ、頭がおかしくなったんじゃないの?」
「おかしくなりそうだよ。おかしくなってくれた方が良いね」
 自宅に自分以外が居るのは久々だったが、少しも嬉しくはなかった。
 そもそも何で俺の部屋にこんな、名前も知らない女の子がいるかと言うと――思い出したくない。しかし残酷にも記憶は目まぐるしく頭の中を駆ける。
 俺が見たもの、それは宙を浮かぶ少女だった。ゆらゆらと。ふわふわと。そのあまりにも現実味の無い光景に、彼女に見入っている俺に気付いた彼女は、
「うわ、見つかった。・・・あ、やば、ああっ」
 と驚き戸惑い、そのままこちらに向かって落っこちてきた。思わず前に出した両手にすとんと、いや、ずしんと収まった彼女。これくらいの女子の全国平均体重は知らないが、多分標準的なのだろうと思われる重さと、自分の足元には明らかに既製品の翼と蛍光灯。現実が戻って来たような気分だ。
「なんだ、これ」
「あ、ちょ、降ろしてもらっても良い?ですか?」
「君・・・今、飛んでた?」
「ま、まあね」
 作り物の翼と、ひびの入った蛍光灯――俺は考える。浮いていた時の彼女の格好と空中に浮いていたのを考えると、ベタに天使だと思うだろう。事実、俺はさっきまでそんなことを思っていた。一瞬だったが、上位存在だと。しかし光の輪も羽も偽物だった。しかし、飛んでいたのは本当だ。改めて辺りを見ても、マジックの種の様なものは無いし――いや、素人が判断することではない。今の科学技術は、恐らく、多分、相当進歩しているだろうからきっと目には見えない程に細く作られた凄まじく頑丈な糸で彼女と駅の外壁を繋いで、何らかの拍子にそれが切れてしまったのかもしれない。頑丈な糸が、何らかの拍子で・・・。
「あ、あのさ、ねえ聞いてる?降ろして欲しんだけど」
 どう見たって普通の女の子にしか見えない。女子高校生くらいだろうか。何だかさっきまでの神々しさみたいなものが今の時点では全く見られない。
 俺はてっきり――
「率直に訊こう。お前は何だ?」
「何だって言われたら・・・」
「はあ、天使じゃないのか」
「これはコスプレ。下に落ちてるの見れば分かるでしょ?ただの超能力者だし」
 下を指さしながらあきれ顔でそういう彼女。そうか、コスプレ。そういえばこの間、ここら辺をそんな集団が闊歩していたな。お祭り騒ぎのかなり大きいイベントだった。
 普通はアニメや漫画のキャラを真似することが多いと思うが、彼女は天使をチョイスしたらしい。蛍光灯と、子供が着けて遊ぶような羽で・・・。
「安っぽすぎんだろ!」
 俺は馬鹿だ。大馬鹿だ。
 ホームで彼女を見た時、あの時てっきり飛び降りをしたのだと勘違いしてしまった。ネット記事でよく見る『子供の自殺』だと――しかし間違いだった。というかそれが本当でも、走って駅から出たとて到底間に合う距離じゃなかった。それなのに俺は彼女を助けようと――違う。今しているこれは、ただの言い訳だ。自分は最低な人間ではないと、そう思い込みたいがための薄っぺらすぎる見え透いた嘘。
 俺は日常から逃れる道を求めていた。
 久しぶりだ。一体いつから感情だけで行動するのを辞めていただろう。いつから何にでも理屈を求め、理由を生み出してきた。そんな悪癖とも言いえる習慣が齎したのが、これ。日常から逃れる理由として子供の自殺という世間においてかなりセンシティブとされている問題に食らいついた。それも瞬間的に。
 常に探していたのだろう。あたりを付けていたのだろう。だから飛びつけた。しかし格好の餌だと踏んだそれは、彼女は、相応しい理由ではなかった。
 彼女を下から見た時、俺は高揚した。自殺なんてものじゃない、もっと非日常的な事態に自分が招かれたのだと、八年を労働者として生き、誰かの指示の元でしか行動してこなかった結果どろどろに溶け切ってしまった俺の脳味噌は信じてしまった。
 そう、たった今、やっと言語化することができた。
 しかしだからといって何の意味も無い。こいつは死にたがりの若者でもなければ空から堕ちてきた天使でもない。ただの低予算コスプレイヤーで、ただの超能力者なのだ。
 ――は?
「超能力とな?」
 彼女はわざとらしく口を両手で隠した。
「君、何してんの」
 振り返るとそこには二人の警察官が立っていた。職務質問というやつか。初めての経験――何でだろうか。もしかして駅構内でのぶつかり稽古さながらの走り抜けタックルをしたことだろうか、それとも堂々とキセルをしたからだろうか、もしくは今、薄着で、しかも裸足でいる女の子を抱えているからだろうか。
 そのどれでも良い。
 ともかく――俺は走った。
 そしてそのままの勢いで自宅に帰って来たのがついさっきのことである。
「パニックになったんだ」
「は、パニック?それで私を誘拐したの?」
「誘拐とか!・・・言うな、そんな物騒なこと」
「事実してるじゃない!あなたは警察に追われながら私をこの男臭立ち込める部屋に引きずり込んで・・・コーヒーを飲んでる」
「ほら、全然物騒じゃない」
「逆に怖いわよ。ムカデ人間2にありそうなシーンね」
「あんなサイコ映画知ってる女が家に居るなんておっかないね」
「あれはれっきとしたホラー映画よ。観たことないけど」
 彼女の虚しい抵抗を最後に両者ともが黙りこくり、沈黙が流れ、両者ともが深い溜息をついた。もう疲れてしまった。あの警察官二人を撒けたのは奇跡に近いが、それでも事の大きさを考えたら段取りの積まれた捜査をされるだろう。それでなくとも、会社には遅刻、いや無断欠勤だ。もう出社する気力は無い。今日も、明日も、明後日も、俺はもうサラリーマンには戻れないし戻らない。今、そう決めた。
 勤続年数8年と数ヶ月、子供の頃から部活も習い事も長続きしなかった俺にしては十分頑張っただろう。
 もういいだろう。
「よし、行くぞ」
 俺はカップをシンクに置き言った。
「・・・どこに?次はどこに逃げるの?」
「逃げない。逆だ」
「逆?」
「警察署。自首するんだよ。自首」
 現実的に見て、このまま家におそらくは未成年であろう少女を置いておくのは現代においてあまりにもリスキーだ。というかもう既に一線を越えている。未成年誘拐――この間見たニュースだと息子夫婦の家に居た孫を誘拐したとして祖父母が懲役十ヶ月を求刑されていた。血縁関係があってもそれくらいなのだから、このままでは例え前科の無い俺でも相当な実刑を処されるかもしれないのだ。
「よし、行くぞ」
「だ、駄目!」
「駄目?さっきまで誘拐とか・・・何でだ?」
「駄目、とにかく駄目」
「何だ、お前ずっとここにいたいのか。いいか、俺はお前の事情なんか知らないし知りたくもない。ただこれ以上罪を重くしたくないからせめて外には出ていけ。その後のことは知らん好きにしろ」
「待って!」
「待たない。一緒に玄関を出るんだ」
「待って待って!さっきから、もう、何なの。私、超能力者なんだけど!」
「そうか、よし外に出よう」
「見てほら!飛べるんだよ!?」
「すごいな、外に出よう」
「空を飛べるの!さっきも見たでしょ?」
「そうか、俺は飛べない。外に出よう」
 これ以上の新要素を人生に追加したくない。駅での俺は冷静じゃなかった。あんな感情に身を任せるなんて、今更どうしようもないが。
「あんた冷静すぎ。普通はもっと驚いたりするんじゃないの?」
 彼女はまるで俺を軽蔑するような、そして拒絶するような視線を送りながらそう言った。
「意外とこんなもんだろ。いきなり本物が表れたところで心の底から驚く奴の方が少数派だと思うぞ」
「・・・でも、私が浮いてるのをあなたは見た」
「そうだ、見たし、恐らくあれは本物の・・・超能力なんだろうよ。いいか、驚くっていうのは、つまり事実に対して脳の処理が間に合わなかった時に人間は驚くんだ」
「それどういう意味?」
「お前が空を飛べるまるで映画の世界から飛び出てきたような超能力者だっていうのを俺の脳味噌はまだ完全に信じていないってことだよ」
 確かに彼女の言う通り、今までの物事を整理するならば、俯瞰で見るならば、俺は冷静すぎる。映画でもアニメでも漫画でもドラマでも、超常現象には叫び声や茫然とした顔がセットなのだから、彼女の主張も理解できる。
 彼女の主張を否定するならば、今の俺は全然冷静ではない。
 駅でのあの光景を思い出す度に鼓動は不規則に速まり足の力が抜けてしまう。今もそうだった。その度にきっと、俺の脳はそれら情報を根底のところで拒絶しているのだろう。画面を見るように現実を見ている。
「俺はお前を見た時に心が現実から離れてしまったんだ。だから驚き、パニックになってとんでもない行動を取ってしまった。これが自己分析の結果。だが今、丁度良く脳が現実逃避をしてくれている今、今のうちに警察にこの身体を運ぶんだよ。出向いた方が好印象だ」
 俺の的確で適切で丁寧な説明を聴いた彼女はわざとらしく細い人差し指と親指を顎に当てて、何かを考えている。何をどう考えているのか、というか本当に何かを考えているのかは分からないが。その時間を長いと思い幾度目かの催促をしようとした時、こちらよりも先に向こうの口が開いた。
「それ、あまり良い行動とは思えないんだけど」
――は?
「そもそも警察が今もあなたを追ってるっていうのはただの予想でしょ?」
「まあ、そうだ。でも客観的に見れば俺はお前みたいな子供を攫った男だ。いずれ大々的な捜査に発展するに決まってる」
「大丈夫。警察は面倒事を嫌うからそんな事にはならない」
「それは楽観的すぎる。警察でもないのにそんないい加減なことを言うな」
「分かるわよ」
 だって、私のお父さん警察官だもん。
 その情報は理由にも気休めにもならず、より一層、焦燥感が増すばかりだった。
 警察官?親が?警察官の・・・子供?警察は身内が事件に巻き込まれるとより熱心になると聞くぞ。この間コンビニで立ち読みした分厚いルポ漫画にそんな描写があった。彼女の親の組織内での立ち位置は知らないが、もしも上層部とかの子供だったら――恐ろしい。恐ろしい恐ろしい。恐ろしい恐ろしい恐ろしい恐ろしい恐ろしい。
 過酷な取り調べを受けたりするのだろうか。わざとじゃないみたいに足を踏まれたり、何日も拘留して精神的に追い詰めたり・・・するのだろうか、そんなこと。されるのだろうか、あんなこと。
 事が本格的になる前に。
 はやく。
 自首を。
「だから待ってって!」
 玄関の扉に掛けた手を身体全体で止める彼女。だがもうなりふり構っていられないのだ。
「もういいお前は出なくていい。俺一人で行く。だから行かせてくれ」
「駄目、親にバレちゃうから・・・!」
「別に良いじゃねえか・・・!保護して貰え。そんで俺のことはなるべく良いように言うんだぞ!」
「まだ・・・もう少しだけ!」
 もっと鍛えておけば良かった。こんかなか細い腕との力比べでほぼ均衡だなんて、しかし、俺の方が強い。タックルするように扉を押すと金属音を立てながら勢いよく外の光が差して来た。
 よし、勝った。
 後ろを振り返るとさっきまでの元気は何処へ行ったのか、彼女は地面にへたり込んでいた。疲れた――とも違う、諦めたと言った表情だ。
「はあ・・・もういいだろう。玄関まで来たんだ。早くお前も――」
 彼女の、玄関前での攻防で破れた服の向こうに見たもの、前かがみの姿勢もあってそれは、それらははっきりと俺の目に入った。
 大小様々な夥しい数の痣。
 その殆どが赤黒く変色していて、最初から露出していた手先足先と首から上の色の白さとの比較もあって――。
「お前、それ、どうしたんだ」
 訊くべきではないと、後から後悔した。答えが分かっているからではなく、本人の心情を考慮したからではなく、訊いてしまえばそれは、彼女の口から出た答えを聞いてしまえばそれは――共有することになるから。
「私、今日、十年ぶりに外に出たのよ」
 それを皮切りに、彼女は言葉を続けた。
 まるで遺言のように。
 彼女は語った。



 もし自分の子供が他の子供と違ったらどうする?
 自分の子供なのだから、我が子なのだから、愛の結晶なのだから、どんな風でもかけがえのない大切な存在なのだから愛情を注ぐに決まっている。
 ――なんて常識、子供である私、娘でしかない私にとってそれは世間の常識をただ引用しただけ。ただの子供の私はそんな期待を押し付けるべきじゃなかった。親の常識なんて各親が決めるものよ。私は介入できない。できなかった。
 初八歳の時だったわ。大きなトラックがスリップしてきたの。私はただ怖いと思ったわ。その短い時間、たった数年しか生きていなかったのに色んな記憶がぐるぐる巡って、そのまま目を瞑った。
 聞こえたのは鼓膜が破けるんじゃないかってくらいの轟音で、ガラス片が全て落ちきるまで私には聞こえ続けた。次に聞こえたのは近くにいた友達が私を呼ぶ声で、それは下から聞こえた。
 圧巻の景色だったわ。大体五メートルくらいだった思うけれど、それでもそこから見た景色は今までにないものだった。
 しばらくそのままでいるとすぐに大人たちが駆け付けたわ。皆、電柱で潰れたトラックよりも、血塗れの運転手よりも、私の方を見てた。
 怖いって、そう思ったわ。だって、皆が私をそういう目で見ていたんだもの。ほら、子供って共感しやすいものでしょ?その場にいる全員が私に向けて恐怖の目線を送っていたのよ。
 私は泣いた。泣くしかなかった。宙に浮かんだまま、ただ、えんえんって、女の子らしくね。暫くして急に足に力が入らなくなって――しばらくしてお父さんが車で迎えに来たわ。膝から血を流してた私を車に優しく乗せて、それから野次馬達としばらく話した後に、車は病院じゃなくて家に向かったわ。
 ああ、今のもそう。子供が事故に巻き込まれたら病院に連れて行くものだなんて、押しつけがましい。常識だなんて、ああ、もう、嫌になっちゃう。
 家に帰ると私を腕を惹かれてソファに座らされたわ。母親がすぐに絆創膏を貼ってくれた。でも、お父さんはずっと窓の外を見てた。いえ、体を向いていたわ。
 何があったのかとお母さんが言って、お父さんは「再発したらしい」と一言だけ呟くように答えた。青ざめたお母さんが私に尋ねたわ。
「もう一回飛べる?」
 とね。
 不気味だった。親が。
 でも飛んだわ。やり方は身体が覚えてた。まるでずっと前からそうだったみたいに私はその場で浮いて見せた。その瞬間からよ。二人の視線が変わったわ。不気味な、まるで――化物を見るみたいにね。
 それから私はお母さんと一緒に生活するようになった。文字通り、常にね。ご飯も、お風呂も、トイレも、寝るときも、常に一緒。
 私はずっと、怒られている気分で、心底居心地が悪かったし、何より自分が今置かれている状況がよく分からなくて、それが一週間続いて、お父さんが帰って来た。手に犬用のケースを持って。
 車に揺られながら、口を開かない二人の後ろ姿を交互に見ていたわ。暫くして、私はその狭いケースの中で久しぶりに熟睡したの。母親の視線が無いからだったのかもね。いや、そうだとしか考えられないんだけどね。
 大きな揺れで目が覚めると、そこは全く知らない部屋だった。トイレとテレビが置いてあって、他には何もないの。ケースの扉が開いて外に出た。その時にはもう二人とも扉の外にいて、私が近付くと分厚い扉は閉じちゃった。閉じ込められたと分かった頃にはもう遅くて、その鉄板が貼られたドアはピクリともしなかった。扉だけじゃない。恐らく窓がある壁にも全面に鉄板よ。
 そこから私は両親を見なくなった。たまにドアの下に取り付けられた小さなスライドドアからご飯が出るだけで、その度に出してとお願いしたけれど・・・無駄だったわ。
 自分が不都合で不要なものになってしまったのだと完全に理解した時、その日を最後に泣くことはなくなったけれど、でもだからといって何も変わらなかった。
 壁に食器を投げたの。そんなこと、今まで一度だってしたことないのに、お椀を投げちゃったのよ。そうしたら壁に穴が空いた。それをフォークで掘ったら――鉄板があったわ。向こうの部屋の壁に貼ってあったのね。一度だけ部屋の外から凄い音がしたことがあったから、その時に取り付けたんでしょうね。あの一週間は私の部屋全てを改造するのには足りなかったのかしら。でも、それで私は絶望しなかった。その穴を広げて大きくして、壁一面を剥がして、そしたら見えたの、光が。
 隣にもう一部屋あるなんて知らなかった。壁に板を貼っているなら、その壁ごと崩しちゃえばって思ったの。
 そうすれば出られる。抜け出せる。
 その穴をもっと広げようと悪戦苦闘していた時、扉が開いたわ。
 久しぶりに見たお父さんは、所謂おじさん体形ってやつになっていて、スーツを着てたわ。仕事帰りだったみたい。
 私は頭が真っ白になって、部屋の角に逃げたの。天井側のね。ひさしぶりだったけれどうまく飛べたと思う。その瞬間、お父さんは私を怒鳴ったわ。何て言ってたか分からないけれど、私はあの時能力を出すべきじゃなかった。
 それから私の身体には痣ができるようになって――何て言うか、気力が無くなっちゃったの。壁の外から火花が散って、それが終わった頃には前と同じ生活に戻ったわ。
 酷い親だと思う?
 でもね、ご飯が無かった日は一度も無かったし、音は出なかったけれどテレビもあったのよ?
 それだけが唯一の救いだった。
 ご飯とテレビ。
 私のことを考えてくれるって――でも、今日、お父さんがね、ドアを開けて、「外に出よう」って言ったの。
 立ち尽くす私の腕を引っ張って、お風呂場に連れて行かれたわ。「体を綺麗にしないと」って、お湯が張ってあったわ。それで――お父さんは私の頭を湯船に沈めたわ。
 ああ、私、殺されるんだって、確信した。
 でも抵抗しようなんて思わなかった。ようやく全部終わるんだって、力に身を任せた。本当に、私に抵抗するつもりなんて無かったの。でも、私は抗った。
 何とか体の向きを変えて、暴れて、そんなつもりじゃなかったのに、小指がお父さんの目に入っちゃったの。蹲ってるお父さんの近くに財布が落ちてたから、咄嗟に拾って、お父さんの靴を履いて、外に出たわ。
 久しぶりの外出だったけれど、テレビを観ていたから特に困ったことも無かった。まず戦闘に行って、それから服を買って――色んな場所を巡った。初めてコンビニに入って、お菓子を買った。虫歯に少し染みたけれど、脳が沸騰しそうなくらい美味しかったわ。それから美容室に行ったの。人と話すのは随分久しぶりだったのに、私、割とおしゃべりみたい。
 でも、すぐにお金が減っちゃって、最後の出費は自分が一番してみたい事をしようと思ったの。



「服が意外と高かったから、羽とエンジェルリングはチープになっちゃったけどね」
 彼女がした話にはいくつも深堀りしたい箇所があったし、どれもが嘘だと思いたいが、どうしても自分の楽観的思考を信じることが出来なかった。
 本当の絶望を見た時、人は何もできないのだ。
 しかし、俺みたいな奴はそうでもないらしい。
 彼女の言った通り、俺は冷静が過ぎるのかもしれない。いや、もう誤魔化せないだろう。今までの人生、そんな事を言われた経験は実はいくらでもあるのだ。その都度、自分が冷淡な人間だと思うのが怖くて言い訳をしていたが、認めよう。俺は常に心のどこかに冷静さを残しているのだ。冷静なだけで、常に適切な判断が取れるとは限らない程度のものだと思いたいが。
 さて、冷静な俺は一体、彼女に何て言うんだ?
「自首するのはまた今度にしよう」
「いや、いいわ。本当はもうどうでも良いの。数時間だったけれど、楽しくて新鮮だったわ。私ね、最初から外の世界に期待してなかったの。テレビでは嫌な事ばかりだったし・・・。話に付き合ってくれてありがとう。因みにお父さんが警察官だっていうのは嘘。どんな仕事してるかなんて分からない。テレビで警察のニュースがたまにやってて、それで嘘をついたのよ。ごめんなさい。私、どこかに行くわ。それで良いでしょ?私は――もう十分」
 空元気に限界が来たという感じだ。
「駄目だ。自首はしない。だが――お前も一緒に来い」
「どこかに連れてってくれるの?でも私、もう行きたい場所なんて無いの。家に帰ろうかしら」
「そうか、だが俺はお前をどこかに連れて行く」
「同情してくれるの?同情で動くのは良くないし、同情を受けるのも良くないのよ」
 俺は跪いて、彼女の面前で言い放った。
「あんな話しといて同情しない方が無理なんだよ。俺も人間だ。もう何もする気が起こらないんなら少しは俺の同情心に付き合ってもいいんじゃないのか」
 その両親に対する怒りや当てつけからかもしれないし、世間のルールに則っただけかもしれない。役儀上この問題を放棄できないと諦めただけかもしれない。機械的に、虐待を受けていた子供と知り合った大人という役割を演じているだけかもしれない。不純な哀れみの感情があるのは確かなことだった。しかし、もし俺の心境を彼女が知ったところで、大した痛みにはならないだろう。権利ではなく義務によって行動していたと知っても、きっと彼女はすんなりと受け入れる。今のままでは、そうだ。このままでは彼女は自分に冷淡なままだ。
「お前はただ自暴自棄になっていただけだ。空を飛べるからだとか、虐待を受けていたからだとか、そんなのを抜きにしてもお前くらいの年齢の奴はよく自分を見失うもんだ」
 伏せたままの顔に皺が寄った。
「何だ怒ってるのか。だよな。お前の特徴は、自分を見出せるポイントは今の二つしかないもんな。理不尽な目に遭った、ただの被害者が今のお前だ」
 だから――
「むかつくんだ。お前みたいな奴がたったの数時間の自由で満足だと嘘をついていることがむかついて仕方ない」
「嘘じゃ・・・ない」
「いや嘘だ。お前は今まで期待が芽生える前に潰してきたんだろう。そこにお前自身の意思があったかは知らないが、それでもお前が不幸な自分に酔ってしまいそうになっていることは確かだ」
 感情が爆発したのか、まあ敢えてそうした訳だが、胸倉を掴む彼女の手が震えていた。他人の行動と思考を誘導するのはこの上なく気持ちが悪かったが、しかし仕方のない事だ。
「私は酔っていない」
 少女とは思えない眼力を向けられながら、まるで自分に言い聞かせているようだと俺は思った。
「そうか、なら諦めないはずだ。今までの遅れをどう取り戻そうかと、行動の有る無しは抜きにして、もっと焦るはずなんだ」
「私はそんな性格じゃない」
「性格の問題じゃない。選んだ選択肢の問題だ。やっと手に入れた自由が生み出す可能性の重さにお前は自分が耐えられないと判断して、自分を過小評価して、私にはこれくらいだと納得しているんだ。それが楽だからな」
「どこが!私のどこが悪いって言うの・・・。今更普通の女の子みたいになれるなんて、どれくらいの努力が必要になるか分からないじゃない。だから――」
「俺が協力してやる」
 今日初めて出会った少女。しかも超能力持ち。そして暗い過去。
 明らかになったのはそれだけではない。短い時間でいかに俺の精神構造が入り組んだ粘り気のあるものになっていたかが明々白々となった。
「どうせ明日からすることも無いしな。暇になったんだよ。駅でお前を見た時からそれは決まっていた。さっきも言ったようにお前の所為じゃない。だから気にするな。お前が自暴自棄になっているのも、実はそんなに治ってほしいと思っていない。だから、俺の暇に付き合うって形なら良いだろう」
 人は未知のものに対して恐怖を抱くものだ。どう手を付ければ分からない場合、訝し気に見て、疎ましく思い、疑い、なんだかんだ理由を付けて拒否をする。自分がどう変わるか分からないからだ。見えない将来像に怖気づいてしまう。
「俺が手伝う。俺がお前を普通にしてやる。約束しよう。少なくとも一年後、お前は自立しているよ。仮に失敗したとして、お前は何も困らないだろう?俺も何も困らない。だから実質リスクなんて無いんだよ」
 彼女は考えている――だろう。目が泳いで、乾いた唇は言葉を見失っている。彼女の頭の中で電撃駅に思考が巡っているのだろう。さっきの芝居がかったのとは比較にならない。俺は彼女の返答を待った。
「分かった」
 玄関前でのその談話はこれにて終わりを迎えた。



「ねえ、まだ?」
「もう少し待ってろ」
「もうそれ六回目」
「いや十二回目だ。お前が五分おきに訊くから、みろ、米が全然焚けない」
「速焚きモードにすれば良かったのに」
「この炊飯器にそんな高度な機能は無い。テレビで紹介されているような、高いけれど最初にそれよりも高値を出しておくことで何だか安価そうに見せている多機能炊飯器とは訳が違うんだ」
 どうせ一合、二合くらいしか焚かないだろうと通販で購入したこの小さい炊飯器は米三合が限界だ。
「カレーって三日くらい寝かせるのがベストなんじゃないの?コクが深まるらしいわよ」
「これはハヤシライスだ。ハヤシライスは出来立てが一番美味い。カレーと逆なんだ」
「へえ!そうなんだ!」
 もちろん嘘である。そもそも日頃から料理をしない俺にその類の雑学は無い。スーパーに行ったのも久しぶりだ。彼女も一緒に連れて行ったが、俺の服を着せたのは間違いだった。中年とサイズが合っていないスウェットを切る少女が平日の昼間にスーパーで買い物をしているというのは――主婦たちの目は異色なものを見るそれだった。
「ねえ誠之助」
 呼び捨てかよ。
「何だ・・・一花さん?」
「お菓子、食べても良い?」
「駄目だ我慢しろ。昼飯が終わったら食べても良いから」
「じゃあ早く米炊いて」
「米に言え」
 子供だ。彼女の話を聞いた限り、年齢は十七、八かと思ったが、それ以上に幼いのではないか。今まで社会から断絶されていたからだろうか、彼女が時折見せる仕草は『心配』を通り越して『危うさ』を感じさせるそれも、彼女が失ったものの一つだ。
 センチメンタルに浸っていると高音の電子音が鳴った。久しぶりに聞いた音と共に一花は皿とスプーンを二人分用意した。なるほど、さっきこの家の至る所を物色していたのはそういう訳があったのか。
「さあ、食べましょう」
 久しぶりの手料理だったが、思いのほかうまくできた。
 テレビで見たのか、それとも俺の真似をしているのか、食器類の扱いに特に問題は無さそうだ。以前見た、母親に二十二年間監禁自宅にされた海外の姉弟についてのドキュメンタリーを見たので少し不安だったが、スーパーでの振る舞いやここまでの会話からみて、多少の幼さはあるものの年齢相応と言えるだろう。
 それにしても、彼女のがっつき具合は何なんだ。女の子らしさは雀の涙ほどしか残っていない。
「お前、ハヤシライスは初めてなのか?」
 彼女は膨らんだ頬をすっきりさせてから質問に答えた。
「多分、はじめて、かな。でも何だかとても美味しい」
「ハヤシライスは最高だ」
「最高ね」
 それから俺達は他愛にない話をしながら舌鼓を打ち、あっという間に食事会は終わった。じゃんけんの結果、洗い物は俺が担当することになった。
 手を拭きながら、俺は一旦息を整えて一花に話しかける。
「この後、歯医者に行くから、着替えておけよ。そこに女子が来ても違和感の少ない服を見繕っておいたからな」
「ああ、これ。・・・このスウェットと大差ないと思うけど」
「ボーイッシュってやつだ」
「ふーん。てか歯医者!?」
 ああ、やっぱり引っ掛かったか。
「嫌よ。・・・小さい頃に行ったことがあるけれど、身悶えするくらい痛かったわ!」
 小さい頃、監禁される前か。
「大丈夫だ。最近は無痛治療もある。最初の麻酔注射だって、その注射用の麻酔があるくらいだ。確かシールみないたものだった気がする」
「へえ、無痛・・・」
「歯医者も最近は不況なんだろうな。無痛が現代のスタンダードだ」
「テレビで見たことあるわ!コンビニの数よりも歯医者の数の方が多いって。そうなんだ・・・凄い・・・」
 よほど治療の痛みが嫌だったのか、彼女の瞳は爛々としている。
「さっきの飯の時、左側で噛んでいただろう?虫歯を治せばもっと美味く食べられたのになあ」
「もっと、美味しく・・・」
「さあ、行くか」
「待ってて、すぐに着替えてくるから!」
 その破裂しそうな笑顔を見た二時間後、俺は睨まれていた。卵を取られた猛禽類みたいな、今にも飛び掛かってきそうな雰囲気だ。
 まあ、流行っていることは確かだが、そんな都合良く近くに無痛オプションを備えた歯医者があるとも限らない。
「ふごい、いたかっはわ」
 おや、何を言っているんだろう。あれかな、『ありがとう』とかかな。
「あと、じひひゃん、わらしなにもたべらへない」
 まあ、それは仕方がない。治療した直後から患部を使うなんてことはできないのは素人目に見ても不思議ではない。普通だろう。
「あなひゃは、うそを、ふぃいた!」
「しょうがないだろう保険証が無いと保険が効かない。つまり十割負担になる。つまり高い!三万だぞ、三万円。諦めて普通の治療にしてもらったけど、それでも七千円掛かった」
「ふぃがう!わらしはうそをふぅぁれたことに――」
 自分の阿保さ加減炸裂しっぱなしの発音に気が滅入ったのか、喋るたびに涎が落ちそうになるのが嫌になったのか、彼女はげんなりした顔でソファに戻った。まあ、無痛が高いってことは知ってたから最初から普通の治療をさせるつもりだったけれど、保険証が無いというのは後々、というかさっきもだが、課題になるだろうな。
「ありがふぉう」
「気にするな」
 コーヒーを取り出そうとして、やめた。二時間後にしよう。昼に出したオレンジジュースの味に感激し、家にあったストックを全て飲み干したくらいだから、舌はまだ子供なのだろう。そんな味覚でコーヒーを味わったら・・・でもまあ、それくらい背伸びをしてもいいだろう。
 俺は砂糖の在庫を確認した。

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