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5-6 Romance In Dystopia

 12月24日は終業式。学校は2時間で終わった。終礼と同時に駐輪場に下りた流雫は、ロードバイクの鍵を外し、ホルダーにスマートフォンをセットした。すぐに帰って、クリスマスの準備。その後は東京で、澪とのクリスマスデートだ。
 流雫が住むペンションでは、クリスマスだからと特別なことは殆どしない。ディナーのオードブルが増え、ケーキが振る舞われるぐらいだ。ただ、流雫自身は今日から明日まで河月にいない。代わりに、明日の分までオードブルの準備を済ませようと思っていた。
 1週間前、ついに自転車に乗ることが解禁された。以前よりペースを落としてはいるが、やはり自転車は楽しい。
 ロードバイクを走らせてペンションに帰り着くと、流雫は用意されていたホットサンドとクラムチャウダーに手を付けながら、クリスマスのレシピを眺める。満室とは云え部屋数は少ないし、レストランでもない。せいぜい十数人分だ。用意する量はそこまで多くないのだが、どうせやるなら後は火を通すだけで済むぐらいにはしたい。
 ランチを終え、コーヒーを喉に流した流雫はすぐに自分の部屋でルームウェアに着替え、キッチンに戻り猫柄のエプロンに手を伸ばした。タイムリミットは2時間。キッチンを舞台に、平和な戦いが始まった。

 2時間で、できそうだと思った準備はほぼ終わった。流雫は最後に、ショートケーキとして振る舞うためのスポンジケーキの生地を、丁寧にオーブンに入れてスイッチを押した。
「ふぅ……」
と溜め息をつきながらエプロンを外すと、再び自室に入った。
 何時ものシャツとパーカーを袖に通し、ブレスレットを手首に飾る。バッグは久々に、赤いショルダーバッグを選んだ。その底に入れた銃は、今日明日ばかりは眠ったままでいてほしい……と願いながら、流雫を最後にクリスマスプレゼントをバッグに入れた。このプレゼントのために1週間前、ロードバイクでアウトレットに行ったほどだ。
 ペンションを後にした流雫は、バスに乗り河月駅へ向かった。彼も含めて6人を乗せたバスが駅に着いたが、乗換の特急列車は15分後に着く。
 何時ものように、特急券は既にネットで購入していたため、その発券を先に済ませる。最後尾の車両、それもドアから最も遠くの列、その窓側を流雫は選んだが、それで窓側最後の1席だった。
 流雫は座席に座るとコーヒーを啜り、溜め息をつく。発車ベルの後で列車が動き出すと、流雫は軽く目を閉じた。
 ……流雫がクリスマスに、家族や親戚以外と過ごすのは、フランスでも日本でも初めてのことだった。その最初の相手が澪なのは、少し特別感を覚える。
 去年は互いにメッセンジャーアプリで、クリスマスメッセージ用のデジタルカードを送り合うだけだった。今もスマートフォンに残してあるが、その時は、こうして恋人同士になるとは思わなかったし、2人で過ごせるとは思っていなかった。だからこそ、この2日間ばかりはテロや銃と云うものとは無縁でいたかった。
 しかし、次に頭に浮かぶのは渋谷での事件だった。……もう3週間経つと云うのに。

 弥陀ヶ原はあの日、唯一生きた犯人を必ず吐かせると言ったが、動機は1週間後に明らかになった。
 そして、その間にもう1人の犯人が逮捕された。直接現場にはいなかったが、第4の実行犯としてその近くにいた。
ニュースを見る限り、動機は左傾化する日本への警鐘と云うものだった。そして、あの慰霊碑と云うトーキョーアタックの象徴の破壊は、当初から狙ったものだった。この破壊によって、あの惨劇を蒸し返させ、そもそもの治安悪化を招いた難民と外国人の排斥の機運を高めようと画策した。
 そのための、廃車予定のドライバンを使った自動車爆弾は、流雫が読んだ通りだった。ドアの開閉に連動するルームランプの配線を使い、起爆装置に通電させ、ドアが開けられると荷室のプラスチック爆薬が炸裂する仕組みになっていた。
 そして車自体は、第4の実行犯による遠隔操作が可能なように改造された。そして、家電量販店の玩具コーナーで購入したラジコンの送信機を使って、安いアクションカメラからスマートフォンに飛ばした映像を頼りに走らせた。ほぼぶっつけ本番で扱いには難儀したが、粗方狙い通りだったと満足げだったらしい。
 ……流雫が最も気になっていた、全ての引き金となった1人の射殺は、作戦開始の合図でしかなく完全に誰でもよかったらしい。ただ、あの犠牲者は、すぐ近くの百貨店に出勤するために、ただあの場所を歩いていただけだった。
 名古屋から就職のために上京し、東京で迎えた初めての冬に、こう云うまさかの形で命を落とすことになるとは、恐らく彼女自身も微塵も思っていなかっただろう。その妹らしい、ダークブラウンのショートヘアの少女が受けていた短いインタビューは、聞くに堪えなかった。
 一連のニュースを見た流雫は、無意識に澪にメッセージを送っていた。泣かなかったが、自分の目の前で命を落とした、見知らぬ人への悲痛な思いを抱えていた。
 澪は黙って、連投されるメッセージを見ていた。そして
「それでもルナは助けようとした、それだけであたしの誇りだよ」
とだけ返した。
 ……どうやっても助からなかったが、助けられなかったことに苛まれるのが流雫の悪いクセだった。助けようとしたこと自体を褒めたところで、慰めにならない。
 ただ、そうしようとした流雫は自分の誇りだと言えば、彼はそれ以上沈むことは無い。そこで否定しても、澪が悲しむだけだと判っていることを、或る意味悪用した形だったが、彼が無用に沈むのを形振り構わず避けたかった。
 ……もし、その澪がいなければ、流雫が東京に行く理由は無く、東京で遭遇したテロは空港での1周年の追悼式典だけだっただろう。ただ、河月で遭遇したことは変わらなかった。そして、やはり1人きりで生き延びただろう。
 しかし、銃を撃ったことには恐らく、いや間違い無く押し潰されていた。そう思えば、澪がいることがどれだけ心強いのか、流雫は改めて思い知らされる。
 少し冷めた、苦めにしたコーヒーの紙コップを手にすると、流雫は強引に喉に流す。カッコつけたいワケではないが、強めの苦味で少しでも今の悶々とした気分を紛らわせられるのなら、と思っていた。

 終礼が終わると、澪は2人の同級生と駅前のドーナッツ屋に入った。ホットのラテとオールドファッション2つを乗せたトレーをテーブルに置くと、3人でプチ忘年会を始める。
「今年も終わったわね」
と彩花が切り出す。
 今から2週間の冬休み、早い人は既に1年後の大学受験に向けて準備を始めている。早速予備校に行き、朝から夜まで机に向かう人もいる。彩花自身、その1人に見えるのだが、寧ろ思いっきり遊ぼうと企んでいる。
「色々有ったね。……いや、有り過ぎた……」
結奈はそれに答える。
 黒部彩花。黒いロングヘアを大きな2本の三つ編みにし、オーバルの眼鏡を掛けている。見た目は才女そのもの。運動は多少苦手だが成績は常に学年トップクラス。余談だが、その最大のライバルが澪だ。
 それとはやや対照的なのが、立山結奈。ライトブラウンのセミロングヘアで、一人称はボクのボーイッシュな少女。運動神経は抜群だが、成績も悪くない。
 そして、この2人は同性カップル。高校入学当初からそう云う雰囲気が有り、結ばれるのは澪が流雫と顔を合わせるより早かった。澪は自然に2人を祝ったが、その時もこのドーナッツ屋に入った。
 「でも、色々有ったけど最後はこうして笑えるんだから、トータルでは悪くなかったかな」
と彩花は言う。
 去年も、同じことを言っていた気がする。ただ今年、2024年はその何倍も色々起きた。口にするのも憚られるほどに。だからこそ、そう言えることが何よりの喜びだった。
 そして、同級生が1人、流雫の地元河月で……彼の目の前で殺されたと云う暗い出来事を澪は思いだした。元々3人は彼とは仲がよくなく、それどころか生理的に受け付けないような感じだったが、それでもその死は居たたまれなかった。
 しかし同時に、
「何時までも悲しんでるワケにはいかない」
と結奈が言った通りだった。
 ……その同級生を間接的ながら殺した政治家は、既にかつての部下に殺され、それが首謀者として関与していたトーキョーゲートは少しずつ解明されている。遅かれ早かれ、全ての真実は明らかになる。
 その時、彼……大町誠児は本当の意味で浮かばれるだろう。いや、絶対に浮かばれてほしい。
 「……でも、何より驚いたのは澪だよ」
と、暗い話題を変えたのは結奈だった。突然の一言に、
「あたし!?」
と上げた澪の声は裏返っていた。まさか、話題の生け贄にされるとは思っていなかった。
 「だって、あれほど男に興味無さそうだったのに、2年生になった途端に恋人ができるなんてね」
と、彩花は言った。

 今年に入るまで、澪はその気配も無ければ、気になる人がいると云う話も聞いたことが無かった。恋愛に疎い、と云うより無関心だと思った。それだけに、流雫と云う恋人の存在は、結奈と彩花にとっては或る意味特大スキャンダルだった。
 ……渋谷の屋外展望台で流雫と結ばれたのは、新学期を迎える直前の話だった。元々、3月に2人きりで台場のアフロディーテキャッスルで会うことは、2人に話していた。しかし、その2週間後に一線を越えるとは誰も思っていなかった。
 ……結奈と彩花も、2度だけ流雫に会ったことが有る。最初はジャンボメッセのゲームフェスでWデート、そして秋葉原のハロウィンイベントで偶然に。どっちも澪と一緒だったが、その度に事件に遭遇した。そして、特に後者では2人で犯人と戦うのを目の当たりにし、澪には流雫しかいないと信じて疑わなかった。
 確かに澪は美少女だし、流雫は中性的な顔立ちで可愛いとカッコいいのハイブリッドだ。しかし、それは二の次でしかない。優しいことや頼もしいこと、それも二の次だった。
 互いが苦しい時や悲しい時に、黙って抱いて慰めてやれる。アドバイスのような余計な言葉も無く、ただ気が済むまで、泣き止むまで甘えていられる。……複雑な事情の上に成り立つ2人だからこそ、自然に為せること。だから結奈と彩花は、澪には敵わなかった。
 同時に澪も、結奈と彩花には頭が上がらなかった。2人は、澪といる時に限ってテロや通り魔に遭遇する。それ故、危険だからと見捨てられても不思議ではないのに、彼女たちは決して澪を見捨てない。
 修学旅行先の福岡で、自爆テロや暴動に遭遇した。その夜、自分といたから2人がとばっちりを受け、だから2人も他の同級生たちからも煙たがられていると、澪はスマートフォン越しに流雫に向かって泣き叫んでいた。
 隣の部屋で彼女の声に聞き耳を立てていた2人は、次の日も表情も態度も何一つ変わらず接してきた。それは、彼女の取り乱しように、銃を握り引き金を引くことがどれだけ辛く、大変なことなのか思い知らされた、2人のせめてものリスペクトでもあった。
福岡から戻ってきた日、東京中央国際空港の展望デッキに寄り道した澪は、そこで2人と仲よくいられることに、少しだけ泣いた。バレていないと思いたかったが、多分バレていた。
 そして、2人の存在が自分にとっての誇りだと思っていた。

 ドーナッツ屋に2時間いた3人は、話の最後に元日に初詣に行こうと決めた。結奈は、どうせだからと流雫も誘おうと言ったが、澪は一応言ってみるとだけ答えた。流雫は澪が誘えば、どうにかして東京に出てくるだろう。
 2人と別れた澪は、一度家に帰ると遅めのランチを軽く済ませる。その後はすぐにセーラー服から何時もの私服に着替え、最後にブレスレットで手首を飾った。
 流雫が何時もの合流場所、新宿駅に着くのは15時半過ぎ。ドーナッツ屋に長居し過ぎたために、家でゆっくりする時間は無かった。澪は、着替え終わるとすぐに家を出た。
 天気は相変わらず曇りで、今日も軽く雪が降る予報だった。幻想的なホワイトクリスマスを期待するのは、最早人の本能なのか。
 列車が新宿に着く。時間は、特急到着の5分前。流雫曰く、今回は最後尾に乗っているらしい。澪はそのドア位置の表示まで向かうことにした。
 今日明日ぐらいは、油断はできないがテロだの何だのは忘れて愉しみたい。そう思っていると、列車の接近チャイムが鳴った。

 新宿に着くと、殆どの乗客が降りる。流雫がその最後に降りると、澪は何時ものように微笑みながら
「流雫!」
と名前を呼ぶ。彼が微笑を返しながら
「澪!」
と呼び、駆け寄ると、澪はその体を抱き寄せた。
 3週間ぶりだったが、あの時は土曜日は過去に遭遇した事件のことで取調を受けていた。日曜日は日曜日で渋谷であの惨劇に遭い、最後まで後味の悪さを引き摺ったままで、微笑むことなどできなかった。それだけに、こうして笑えることが久々のように思えた。
 ただ、昨夜流雫が澪に行きたい……正しくは寄り道したい…………と言っていた場所は、今の彼にはハードルとしては高いと思った。話を彼自身から切り出された瞬間、澪は思わず不安な表情を浮かべた。
 しかし、それでも行きたいと言った。澪は反対せず、ついていくことにした。……もしダメでも、その時のためにあたしがついてるんだから。澪はそう思っていた。
 渋谷駅前は、平日だが相変わらず混んでいた。広場の端では、慰霊碑の周囲にシートが張られ、その修復作業が進められている。
 流雫は何かに取り憑かれたかのように、広場の真ん中寄りの一点に立つと、俯いて目線をタイルに落とす。
 ……この場で心肺停止と告げられた、動かなくなった身体に落ちる粉雪は、弔いの花片代わり……なんかになってほしくなかった。
「……流雫」
澪がその名を呼び、隣に立つ。
「……」
流雫は唇を噛んだまま、何も言わなかった。何か言えば、口を開けば、泣き出しそうになる。

 ……河月のショッピングモールでも、大町が流雫の目の前で死んだ場所にだけは、未だ近寄れない。ただ、何時までもそれではいけない……流雫はそう思っていた。この渋谷もそうだ。
 だからこそ、美桜が死んだ場所でもあるが、見知らぬ人が目の前で命を落とした場所でもある、この場所に行ってみたかった。しかし……。
 「流雫……」
澪はもう一度、その名を呼ぶ。流雫は彼女に振り向くが、その悲しみに満ちた目を澪は見ていられなかった。
「やっぱ、ダメだった……」
流雫は呟くような小声で言う。
 ……折角のデートの日に、何をしているのか。そう思った流雫に澪は
「仕方ないよ」
と言った。
 そう、仕方ないこと。……と云って済ませるのは不本意だったが、強制終了させるにはそれしかないことを澪は判っていた。
 ……流雫は弱くない。ただ、あまりにも多くのことを抱え過ぎて、押し潰されそうになりながら、無理しているだけだった。澪は、自分が彼の代わりに苦しみを背負ってやれないことが、もどかしく感じる。尤も、それができるとしても彼なら拒否を続けるだろうが。
 「……行く?」
澪は問う。流雫は頷いた。
 本当に行きたかったのは、この場所じゃない。駅舎の反対側。……自分を試そうと、立ち寄ったのは間違いだった……と流雫は思った。

 本来の目的地は、シブヤソラ。渋谷駅の隣に聳える超高層ビルの屋上、屋外展望台の高さは地上230メートル。この展望台は流雫にとって、東京で最も好きな場所だ。
 転落防止のために、大きなガラスが張られてはいるものの、風に飛ばされ落下する危険が有ると云う理由で、スマートフォン以外は全て、財布さえも専用のコインロッカーに預けることになっている。
 流雫のパーカーはジッパーを上げていれば問題無いが、そもそも少し風が強いことで肌寒さが増し、少しでも下げると云う選択肢は無い。
 2人は、エレベーターを降りた先のコインロッカーでバッグを預けると外に出る。それだけでも眺めは凄いが、それから更に60段ほどの階段で屋上に上がる。中心は緊急用のヘリパッドを兼ねるからか、周囲より少しだけ高くなっていたが、1箇所だけ僅かながらそれより更に高い場所が有る。
 正距方位図法で描かれた、東京を中心とする地図がフロアに埋められていた。その外枠には、世界各地の主要都市までの距離が刻まれている。そして其処からは、何にも遮られない世界が眼前に広がる。
 流雫は、日没前の展望台は初めてだった。下界は、所々緑は有るもののコンクリートのグレーが強く、曇り空がその印象を一層引き立てる。トゥール・モンパルナスから眺めたパリの街並みも、色合いだけで言えば似たようなものだ。
 「やっぱり……この景色がいいな……」
流雫は呟く。澪がそれに被せる。
「流雫、此処からの眺め、大好きだよね」
「何か、この景色を忘れられなくて」
と流雫は言った。

 流雫がこのシブヤソラに上がったのは2回、そのどれもが澪と一緒だった。
 最初は、流雫がフランスから帰ってきた4月のこと。2人が顔を合わせるのは2回目だった。そもそもシブヤソラに行ったのは、流雫がトゥール・モンパルナスと同じような展望台に行きたかった、と云う理由からだった。
 そして夜景に見蕩れながらも、切なげな表情で夜空に伸ばした流雫の手に触れた澪の
「あたしは、流雫といっしょだよ」
の一言を引き金に、互いに言えなかった言葉を囁いた。
 ……初対面の台場の夜、恋心を抱きながらも、美桜の死が2人を引き寄せた現実に戸惑い、言えなかった……その一欠片のリグレットを抱えた澪。
 そしてその存在に、何度も救われてきて、だから正気を失うことなく生きてきて、だから自分が死ぬことより、澪を失うことが怖かった流雫。
 その2人が、戸惑いと躊躇いを捨てた。互いが言いたかった言葉
「大好き」
が、2人の存在を特別なものにした。
 そして2度目は9月。2人が学校を休んだのは、8月の空港での一件の捜査協力が理由だった。ただ、流雫はそれが無くても間違い無く修学旅行を休んで、澪を放課後に呼び出してこの展望台に行っていただろう。……この日が、澪……ミオが流雫……ルナに初めてメッセージを送って、1年の節目だったから。
 美桜の死を抱え、絶望の底に沈んでいた流雫に、救いの手を差し伸べた澪。しかし彼女も、銃と云うものに刑事の娘として、どう向き合えばよいのか悩んでいた。
 そして、SNSで見掛けたルナの投稿に、彼と話せれば自分なりの答えが見つけ出せると期待した。自分の手を掴む救いの手を、彼女も求めていた。
 互いにその手を掴んだからこそ、紆余曲折の末に2人は今、こうして背中合わせで生きていられる。その全てが始まって1年と云う節目を、2人が一線を越えた場所で迎えたかった。
 「あたしも、大好きだけどね。この景色……」
と澪は言った。

 東京は、此処から見える華やかさの影に色々な問題を抱えている。街が大き過ぎる、人が多過ぎるが故のことだ。しかし、その人間臭さ、泥臭さにフタをするかのように、誰もそのダークサイドに目を向けない。それでも、家族がいて、結奈や彩花がいて、何より自分が生きているこの大都会が澪は大好きだった。
 そして今、その街を流雫と見下ろしている。それも、木の床を数段上がった緊急用のヘリパッドよりも更に少しだけ高い、つまり、この展望台で最も高い場所……ジオコンパスの上で。
 その上に立つ流雫の手に触れた、あの瞬間を2人は今でも、すぐに思い出せる。
 あの時、流雫がパリの方向に目を向け、夜空に伸ばした手で掴もうとしたのは何だったのか、今も判らない。もう二度と銃を握らなくて、人を撃たなくて済む日々の……、泣かなくて済む日々の再来か。
 それは今年は叶わなかったが、来年こそ叶うと思いたい。その時も、澪は流雫の隣にいて、彼が今まで抱えてきた苦しみや悲しみ、痛みすら抱きしめてあげたかった。最愛の少年が、二度と泣かなくて済むのなら。
 このディストピアのような世界で掴んだ、一片のロマンス。高校生ながら、懸命に背伸びしたような……でも年頃らしさも残る2人にとって、何も怖いものは無いとすら思えた。

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