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4-17Like A Shining Star

 この足でも3時間有れば、離陸には辛うじて間に合うハズだった。そもそも、窓側の座席かも知らないし、そうだとしても流雫に気付くかも判らない。ただ、それでもよかった。ただ母の離日を見送れるのなら。
 朝、少し長めに時間を取って母と別れ、学校に行った。……休んで一緒に空港に行って見送ればよかった、と思ったが、流石によい顔はしなかっただろうし、後の祭りだ。
 流雫は鞄を手にすると、そのまま教室を後にした。走れないことに苛立ちを感じる。
 正門を出ると、遠目に河月駅に行くバスが見えた。時刻表を見ていなかったが、ちょうどのタイミングだった。流雫は細やかな幸運を感じながら、河月駅へ向かった。
 その河月駅を5分前に出たばかりの特急は、次は1時間後にしか来ない。流雫は3分後に来る快速列車に乗ることにした。
 ロングシートの端に座り、乗る直前に自販機で手に入れたボトル缶のコーヒーを飲みながら、流雫はこの1週間のことを思い出していた。

 ……母は毎日バスでペンションと病院を往復して、見舞いに来ていた。木曜日には、父とビデオ通話を通じて3人で色々話したりもした。……冬休みは急過ぎるが、また春休みにでも帰ろうと思った。
 今度は、父にも甘えてみようと思った。そして偶には3人で、自分が生まれたパリにも行って……そう云う妄想が膨らむが、4ヶ月後現実になってほしいと願っていた。
 ……そう思っていると、列車は何時しか都区内に入っていた。そして、もう次の停車駅が新宿だった。
 新宿駅のプラットホームに、澪はいない。会う約束自体していないのだから、当然だ。しかし、頭では判っていても無意識に捜していた。
 何時ものように、空港へは少し遠回りだがモノレールを使った。それでも間に合うハズだからだ。
 左側の1人掛けの席に座る、シルバーヘアの少年。今まで車窓から何度も見てきた、大井埠頭の景色に目を向けている。
 空模様は、河月と同じ曇り。飛行機に乗る以外の目的で空港に行くのは、これで3回目。しかし、今まで晴れた例しがない。
 ……最初はダウンバーストに見舞われる中、目の前でビジネスジェットが着陸に失敗して炎上した。そして2回目は台風に見舞われる中、トーキョーアタックの追悼式典を狙った政治家と戦った。全てが暴風雨で、全てがトーキョーゲートの一部。その時のことは、思い出そうと思えば簡単に思い出せる。
 ……最早、雨が降っていないだけマシだと、流雫には思えた。
 やがて空港の敷地が目に入る。2ヶ月半ぶりの、東京中央国際空港だった。

 全ての授業が終わると、澪は鞄からスマートフォンを取り出した。先刻、バイブのモーター音が微かに聞こえていた。その正体はメッセンジャーアプリの通知だった。
 送り主は、先日連絡先を交換した笹平。ポップアップ通知をタップすると、チャット画面が開かれる。
「宇奈月くん、昼休みで早退しました。病院に行くって。未だ間に合うって呟いて」
楕円形の吹き出しマークに囲まれた字を、数秒見つめる澪。昼休みで早退して、未だ間に合う……?まさか……。
 「……バカ……」
と澪は無意識に呟く。それと同時に、結奈と彩花が
「澪、帰ろう」
と言って同級生の席に近寄ってくる。しかし彼女は立ち上がると
「あたし、空港に行ってくる。代わりに明日ジュース奢る!じゃね!」
とだけ言い残し、鞄を手に教室を飛び出した。2人は
「空港……?」
と首を傾げるが、詮索しないことにした。その代わり、明日は数十円高めのフルーツジュースを奢らせようと決め、2人で帰ることにした。

 黒いセーラー服をなびかせて歩道を走る澪は、自分の読みが間違っていない……そう思っていた。
 ……絶対そうだ。流雫は学校を飛び出して、空港に行ったんだ。病院と云う、今の彼には最も好都合なウソで隠して。
 未だ間に合うと呟いた……その裏返しは、今じゃなければ間に合わない。昼休みに早退しないと間に合わないのは、診察の受付時間ではなく、流雫の母アスタナが乗る飛行機の出発時間。確か、16時半と聞いた。
 ……この1週間を経た彼なら、やりかねない。早退してまで……褒められたことではないが、そうしたい彼の思いは、澪には痛いほど判る。
 首都圏の強みは、列車の本数が多いこと。乗り遅れても数分で次が来る。澪は2分後に来た列車に乗った。そして、少し遠回りしてでもモノレールに乗り換えようと思ったのは、流雫のクセが伝染したからか。
 京浜運河に架かった、コンクリートレールに跨がって疾走するモノレールのドア前に立った澪は、相変わらずの曇り空にうんざりしていた。
 澪が東京の空港にいる時に晴れていたのは、結局修学旅行最終日に福岡からの飛行機が着いた、10日前だけだった。ただ、雨さえ降らなければよかった。雨の東京中央国際空港には、惨劇の記憶しか無い。それは、流雫も同じだろう……と澪は思いながら、
「流雫……」
とだけ呟いた。
 やがて、モノレールが空港の敷地に入り、すぐ地下トンネルに潜る。もうすぐ、空港に着く。

 2ヶ月半ぶりの国際線ターミナルは、相変わらずの人混みだった。流雫は、壁に掛かる大きな出発案内のディスプレイを見上げた。最上段、パリ行きシエルフランス便のステータスが搭乗開始に変わったのを目にすると、展望デッキへ向かった。
 足さえよければ平気で階段を使うが、今はそう云うワケにもいかず、地階からエレベーターに乗る。それも出発フロアで乗り継ぎになるが、乗りそびれてエスカレーターを使った。
 エスカレーターの終点、エレベーターホールから真っ直ぐ進んだ突き当たりは貸ホール前。左右どっちに曲がっても展望デッキに着く。しかし、見晴らしが最もよいのは……。
 流雫は、一瞬浮かんだ躊躇いを溜め息に混ぜて吐き捨てると、右に曲がった。

 ……大雨に打たれながら、流雫と澪がトーキョーアタック、そしてトーキョーゲートの黒幕とされる政治家と戦ったのが、展望デッキの上階の端だった。
 流雫と澪に前後で挟まれた伊万里が撃った、日本人らしからぬ見た目の少年のすぐ隣を狙った威嚇射撃が全てだった。流雫は、後ろから伊万里の背中を銃身で殴り、転びながら澪の隣に寄ると引き金を引く。
 マイルールは下半身を狙うことだったのに、無意識に上半身を狙っていた。今思えば、美桜を渋谷で殺された恨みが、殺意を呼び起こしたのか。
 そして6発使い果たしたが、まさかの防弾ベストに受け止められ、銃口が2人に向いた。そして、無防備だった下半身を狙った澪が、初めて引き金を引いた。
 ……今でも、その光景は全て流雫の脳に焼き付いている。そして彼がその場所に立つのは、あの日以来初めてだった。
 展望デッキの端、屋根付きの金属製の階段を踏む流雫。足取りが重くなるのは、右足が疼くからではなかった。
 漸く着いた展望デッキの端。ふと腕時計に目をやると、針は16時20分を指していた。出発まであと10分。間に合った。
 その端から最も近い駐機場に、目的の飛行機が止まっていた。白い最新鋭の機体にネイビーでシエルフランスと英語表記のレタリングが施されている。
 最も高く見晴らしがよさげな場所を選んだだけだったが、偶然ながら当たっていた。
「間に合った……」
と呟いた流雫は、安堵の溜め息を深くついた。

 モノレールを降りて改札を出た澪が、出発案内表示の時計に目を向けると、16時20分を示していた。あと数分しか無い。
 澪は、鞄のハンドルを強く掴むと、混むエレベーターを避けて階段室に走る。エレベーターを待つより、エスカレーターで上がるより、その方が早い。同時に、流雫とこの階段を駆け上がった台風の日を思い出す。……ダメ、今は思い出している場合じゃない。
 蘇り始めた記憶を振り切るように、200段超の階段を一気に駆け上がった澪は、肩で息をしながら歩き、貸ホール前で右に曲がった。何処に流雫の母が乗る飛行機が止まっているか、出発案内で見ていなかった。しかし、あの2人にとって因縁の場所にいるハズ……だと思った。そう、見晴らしが最もよく、そして1週間前、結奈と彩花の前で少しだけ瞳を濡らしたあの場所。
 ゆっくり上がった金属製の階段に取り付けられた手摺り、その柵の隙間からブレザーを羽織ったシルバーヘアの少年が見えた。……いた!

 トリコロールカラーの尾翼が目立つ、パリ行きシエルフランス機の出発までは、あと2分。機体からボーディングブリッジが離れた。その瞬間、
「流雫!」
と、日本人らしからぬ名を呼ぶ声が聞こえた。
 流雫は振り向き、目を見開く。そこには、黒いセーラー服の少女が立っていた。微風に靡くセミロングヘアはダークブラウン……。
「澪……!?」
思わずその名を呼んだ流雫に、澪は
「……やっぱり……」
と息を切らしながら言って、ゆっくり流雫に近寄る。彼女には、今日のことは何も話していなかったが……。
「どうして……」
と流雫は問うた。
 「志織さんから、流雫が早退した……間に合うって呟いて……そう送られてきて。……病院じゃなくて、空港のことだと……思ったから……」
と答えた澪に、流雫は
「流石は澪……」
と言い、苦笑いを浮かべた。
 澪と笹平が連絡先を交換していたことは、澪から聞いていた。しかし、笹平からの密告が有ったのは予想外だった。……澪に隠し事の類いは絶対できないと、流雫は改めて思い知った。
 「……どの飛行機?」
と澪が問う。流雫が
「あのトリコロールの」
と言いながら指した、尾翼がトリコロールカラーで彩られた飛行機が、トーイングカーと呼ばれる作業車に押され、後ろ向きに駐機場から離れる。この時間が出発時刻と呼ばれ、今日のフライトは1分のズレも無かった。
 今頃、機内では客室乗務員のアナウンスに続いて、機内安全のビデオが流されている頃だろう。
 澪は指差す流雫の隣に立ち、鞄を置いて手摺りを掴む。そして、目線は飛行機に向けたまま、言った。
「……飛行機って、便利だよね。この前修学旅行で初めて乗ったけど、福岡まで2時間足らずで行けたし、流雫がフランスに行く時も12時間ぐらい……だっけ?世界の何処にでも、1日で行ける……」
 「だから、母さんもすぐに日本に駆け付けた。……凄く便利だよ」
と流雫は言う。彼は今、その空を飛ぶ乗り物の恩恵を誰よりも受けているのは、自分のような気がしていた。
 「でも、飛行機に乗らないと会えないのはやっぱり……」
と、澪から目を逸らしたまま続ける流雫は、そこで言葉を切る。
 ……列車でもバスでも、河月からなら2時間も乗っていれば東京に行ける。毎週末出掛けることなんて容易く、都合がつく限り毎週澪とデートすることさえ、難しいことではない。ただ、フランスはそう云うワケにはいかない。
 澪は隣の恋人に顔を向け、問う。
「……寂しい?」
「寂しい」
流雫は答える。即答だった。最早、隠す必要も無かった。ただ、澪からは目を逸らしていた。

 トーイングカーが離れた飛行機は、流雫と澪に左側面の胴体を見せつつ、ゆっくりと視界の左側へ走っていく。
 普段は、目の前の滑走路は着陸に使われ、離陸は最も沖合の滑走路を使うのが定番らしい。しかし、風向きが変わったからか、目の前の滑走路が離陸で使われるようになっていた。
 誘導路から右に曲がって滑走路に入った飛行機の2基のエンジンが、一気に猛獣の咆哮に似た音を上げ、少しずつスピードを上げていく。そして日没を迎えた空に機首を向けると、見えない力で空に引っ張られるように白い機体は浮かび、尾翼のトリコロールを東京の曇り空に溶かしていく。
 「……行っちゃった……か……」
そう呟いた流雫は、その機影が見えなくなっても、その方向をただ見つめていた。
「流雫……?」
澪は、隣で佇む少年の名を呼んだ。
 何故何時までも空を見つめ続け、自分と一瞬も目を合わせようとしないのか……。その理由は、澪には何となくだが判る。
 「……泣いてる?」
無意識に問うた澪に、流雫は
「……泣いてない」
と答える。ただ、その声は少しだけ震えていた。ブレザーだけで肌寒いから、なんて理由ではないことは、澪には判りきっていた。

 ……澪は流雫が、未だ彼女にとってルナでしかなく、メッセンジャーアプリの文字だけで遣り取りしていた頃を思い出した。
 初めて彼が引き金を引いた2月の夜、澪から切り出した
「……泣いてるの?」
の言葉に、流雫は
「……泣いてない」
と答えた。しかし、澪が
「あたしがついているんだから、泣いてもいいよ?」
と打ち返すと、彼からの返事は止まった。ルナが人知れず泣いている……と思ったが、それは当たっていた。
 ……それから9ヶ月近く。2人は今では恋人同士だ。それも、互いに自慢したいぐらいの。ただ、不意に襲われる感情をバレないように押し殺そうと藻掻く流雫のクセは、あの頃と変わらなかった。

 澪は、流雫の背中をそっと抱いた。
「流雫……泣いても、いいよ……」
「泣いて……ない……」
そう言い返した流雫の声は、今にも泣き崩れそうなほどに震えている。
 ……我慢しなくていい。我慢して、今この瞬間の本音を押し殺しても、流雫も澪も辛くなるだけだった。
 泣いてほしくない、笑っていてほしい。そう我が侭を願っても笑えない、泣きたい時だって有る。だから、流雫がもし泣きたいのなら、澪はせめていっしょにいたかった。澪は絶対、流雫を見捨てない。
 ……悲しい時や苦しい時、いっしょにいられること。離れていても、いっしょにいると感じられること。それが人を好きになること……ではなく愛すること、その本質と真の強さ……澪はそう思っていた。
 だから、流雫は弱くなんかない。ただ、自分自身に厳し過ぎるだけだった。
 「……泣い……て……なんか……」
と零れる流雫の言葉に、澪は
「……あたしが、ついてるから……」
と囁く。
「……、……っ……」
言葉を詰まらせた流雫の首から頬を覆った澪の手は、湿り気を感じていた。
「あたしが……、……ついてて……あげる……から……」
そう囁いた少女は、ブレザー越しに流雫の左肩に顔を埋めた。

 夜の帳が下りていく東京の片隅は、11月を未だ半月以上残すと云うのに、もう冬の気配を匂わせ始めている気がしていた。
 風は冷たく、肌寒い。ブレザーだけではもう限界だった。それなのに、背中と頬にほのかな熱を感じて、それが余計にオッドアイの瞳を、頬を濡らしていく。
 ……澪は我が侭だった。笑ってと言ったり、泣いていいと言ったり。
 ただ澪は、何時も流雫の力になりたいと言っていた。だから澪は、自分が力になっていることを感じるためにも、流雫には笑ってほしかったし、しかし自分の苦しみを抱えて爆発しないように、泣いてほしかった。
 ……そう思えば、流雫は澪の我が侭すら愛しく思えた。

 やがて空は漆黒に染まった。雲に覆われたままの星無き空は、流雫にはやはり滲んで見える。アンバーとライトブルー、流雫の象徴と云えるオッドアイの瞳が乾くのは、もう少し後のことだろう。
 濡れた澪の掌は、流雫の頬から胸板に滑り落ち、心臓の上で重なる。制服のシャツの上からでも、その鼓動は澪には確かに判る。その手の上に、流雫は掌を重ねた。
 「サンキュ……、……澪……」
震える声で囁く流雫の耳に、その肩に顔を埋める澪の吐息が聞こえる。
 流雫が生きていることに安心しているのか、流雫が泣いていることに泣いているのか。多分、両方だった。
 目を閉じると、不思議とけたたましい飛行機の音すら聞こえなくなった。2人の吐息だけが、耳に残る。その手のほのかな熱が、脳に焼き付く。
 そして、流雫は声に出さず願っていた。何度も立たされてきた生き死にの境界線で、必死に掴んだこの手が離れないように、と。それこそが、2人がこの瞬間まで生きてきた証だったし、これからの希望だったから。

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