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燻る紫煙

 夜も明けぬ薄暗い中を、如何にも疲れたように歩く者有り。方向音痴で半人半妖の辻ヶ先遊行(つじがさきゆぎょう)である。今宵は満月であり、月明りを頼りに進む。遠くで狼の遠吠えがした。この森近辺を縄張りとする、真神(まがみ)の彼だろう。森の中へ入っていくと、外の月明りが嘘のように暗くなった。木々の葉が、月光を遮るのだ。靄までかかり、視界は更に悪くなる。早く家へ帰ってひと眠りしたい気分なのに、中々進めない。とりわけ遊行は方向音痴だ。この視界の開けない状態で、森の中を歩くのは危険である。家の近くで遭難という事態になり兼ねない。どうにもうまくいかない歯がゆさに、遊行は舌打ちをする。
 遊行は、最近悩みがあった。それは、このところどうにも苛立たしいと思ってしまうことだ。心の内に靄がかかり、晴れないといった気分が続いていた。仕方なく、遊行は家に帰ることを諦め、靄が晴れるか、夜明けを待つことにした。大木に寄りかかり、目を瞑る。静かに呼吸を繰り返すと、旅で疲れた心身が休まる。
 遊行が目を開けると、暗かった森の中が、日の光で明るくなっていた。靄も晴れていた。遊行は同じ姿勢で凝り固まった体をほぐすために、伸びをして首を回す。泉の水で顔を洗えば、眠気が和らぐ。そして、荷物を持って竜宮へと向かった。

 竜宮へ辿り着くと、今は朝の謁見の真っ最中であった。流石に途中で謁見の間に入るわけにはいかず、待たせてもらう。
 謁見が終了し、続々と竜の官吏たちが出ていくのとは反対に、遊行は謁見の間へ入る。九角竜天子(くかくりゅうてんし)は、官吏たち全員が出ていくのを見届けた後、玉座から立ち上がろうとしたが、遊行の姿を捉えたため、そのまま座る。
「遊行。長旅お疲れさまでした。江戸や都の方はどうでしたか?」
天子はにっこりと微笑みながら、遊行を労う。
「江戸では大火(たいか)がありました。それで多くの者が亡くなりました」
遊行は、讀賣(よみうり)(瓦版の内容を読み上げながら売る人)から購入した瓦版(かわらばん)(新聞のようなもの)を、天子に差し出した。天子は瓦版に目を通す。
「大火ですか……恐ろしいですね」
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど、江戸は火事が多い。人口が多く、木造の建物が犇めいており、路地が狭い。また、冬は乾燥し、火を使う機会が多いので、少しでも火の不始末があれば、火事が起きる。更に風が吹くと延焼し、一気に燃え広がってしまう。大火が起きると、米や木材などの値が上がる。この値上りは江戸だけでなく、地方にまで及ぶのだから凄まじいものだ。
「貴方は大火に巻き込まれませんでしたか?」
遊行の身を案じて、天子が心配そうな顔で問いかける。
「ええまあ、無事戻ってくることができました。お気遣いありがとうございます」
遊行は天子に感謝の挨拶を述べてから、退出して奥座敷へ向かう。今までに聞いたことのないような、蚕月童子(さんげつどうじ)の明るい声が響く。誰か来ているのだろうか。そこにいたのは、大神太郎右衛門(おおがみたろうえもん)であった。
 大神太郎右衛門は、この森に棲む狼の神・真神である。彼は、この森の近辺を縄張りにし、見回りをしている。そして、その様子を彼の上司である七角驪竜(しちかくりりょう)に報告するのだ。また、人懐っこく面倒見のいい性格をしており、遊行がこの森に棲んでからも、なにかと世話になっている。
 太郎右衛門は童子を背中に乗せて、いわゆるお馬さんごっこをしている。一柱の神が子供を乗せるなんてことを、平気でやってのけるのが彼の優しさだ。童子は中々できない遊びにキャッキャとはしゃいでいる。
「童子、楽しいか?」
「うん、楽()い。タロ(たよ)ちゃん来てくれる(えゆ)と楽()いんだ」
童子は満面の笑みで言う。
「そうかそうか」
その様子を眺めていると、童子が自分といる時より楽しそうだと遊行は思った。童子のあの楽しそうな様子を見ていると、邪魔してはいけないと思い、今日は帰ろうと踵を返す。その瞬間であった。
「あっ!遊行だ」
童子に気づかれてしまった。その声に太郎右衛門も顔を上げる。
「おっ、遊行じゃん。お帰り。寄ってかないのか?」
二人に声を掛けられてしまったら、遊行は帰る訳にはいかなくなってしまった。振り返って、奥座敷に入る。
「童子と大神さん、こんにちは」
「遊行、こんにちは。わーい!今日はタロ(たよ)ちゃんだけじゃなく、遊行も来てく()た!」
「よかったなあ。童子」
太郎右衛門は、大きな手で童子を撫でる。仲のいい二人を見ていると、胸の内が燻るようだ。どうにも居た堪れない。今日は挨拶だけして、帰ってしまおうかとまで考えてしまう。太郎右衛門は、遊行を横目で見て息を漏らす。すると、すくっと立ち上がった。
「じゃあ童子、遊行も来たし、俺は野暮用があるから帰るな」
タロ(たよ)ちゃん帰っちゃうの?また(あしょ)びに来てくれる(えゆ)?」
「おお。次の報告の時にでも寄るさ。遊行も後で旅の話を聞かせろよ」
太郎右衛門は、格子戸を窮屈そうに潜り抜けて、出て行ってしまった。
「童子は大神さんと仲がいいの?」
「うん。遊行がここに来始めてか()タロ(たよ)ちゃんも遊びに来てくれる(えゆ)ようになったんだ」
「そうなんだ……」
どうにももやもやする。遊行が俯くと、童子は不思議そうに覗き込んでくる。
「どう()たの?遊行。どっか痛いの?」
童子が遊行の手を引っ張ると、遊行は払いのけてしまった。予想外の行動に、童子は目を見開いている。
「ゆ、遊行?」
「童子は俺の話聞くよりも、大神さんと遊んでた方が楽しいんじゃないの?」
遊行はどうにも苛立たしい気持ちを隠せず、いつもより冷たい声で言ってしまった。しかもそっぽを向いて。
「遊行のお(はなち)も、タロ(たよ)ちゃんと(あしょ)ぶのも楽()いよ。ねえ、なんで(しょ)んなこと言うの?」
童子が遊行に縋りつき、揺さぶりながら言う。遊行は揺さぶられながら、次第に苛立ちが怒りに変わっていくのを感じた。そして抑えられなくなる。
「五月蝿いな。童子は大神さんと遊んでればいいじゃん」
強い口調で言いながら、童子を払いのける。大きな遊行に払いのけられた童子は、尻もちをつく。遊行は目を見開いて、童子の方を見た。これは失態だ。そして、遊行は酷く己を恥じた。苛立ちを抑えきれず、童子に危害を加えてしまった。これは八つ当たりでしかないではないか。
「童子?」
遊行は、中々立ち上がらない童子に手を差し出したが、童子は俯いて震えている。そして、一滴の雫が童子から流れ落ちた。
「やーだー!遊行もタロ(たよ)ちゃんも(あしょ)んでく()ないとやーだー!」
童子はわんわん泣きながら訴えた。これには流石に遊行も狼狽える。童子の目線に合わせるようにしゃがみ、肩を優しく掴んで、どうにか泣き止んでもらおうと童子をあやす。
「ごめん。俺が悪かった」
遊行が謝っても、童子の目からは涙が止め処なく溢れ出る。泣きじゃくった童子は、零れる涙を手で拭う。
「遊行もタロ(たよ)ちゃんも毎日来てく()ないのに。一人でい()の淋()いのに。どっちかだけなんて嫌だよ……」
遊行は目を見開いた。遊行は此処へ度々訪れているが、太郎右衛門と遭うのは今日が初めてだ。彼だって毎日は此処へ来ていないのだ。そして自分自身も童子の元へ行くのは、旅の合間なので、一、二ヶ月に一度だけである。竜宮には他に子供がおらず、童子が対等に遊べる相手はあまりいないのだ。童子が奥座敷に一人でいる時間は、非常に長いのだと感じた。一人で過ごすことの淋しさは、遊行自身も知っている。苛立ちに任せて八つ当たりなど、非常に大人気ないことをしてしまったと、遊行は猛省する。ぐすぐすと泣いている童子に優しく抱きついた。
「ごめんね。童子と大神さんがあまりにも楽しそうだったから、つい腹立たしくなって。此処で一人でいる、童子の淋しさに気づいてあげられなくて、ごめん」
遊行の謝罪が通じたのか、少しすると童子は泣き止んだ。童子は目を擦るのを止めて、遊行を見上げる。目元が赤くなって腫れている。その痛々しさに、遊行の良心も痛む。遊行は手拭いを取り出して、水瓶の水を含ませてから、童子の顔を拭ってやった。拭われながら童子が何か言っている。よく分からないから拭き終えてから言ってほしいと、遊行は思った。
「こ()()タロ(たよ)ちゃんとも遊行とも(あしょ)んでいい?」
わざわざ確認をとるのがなんともいじらしい。遊行は優しく微笑んで、頭を撫でながら答える。
「いいよ。俺ももっと此処に来るようにするよ」
すると、童子の顔がぱあっと明るくなる。それを見て遊行は胸を撫でおろした。苛立たしかったのが嘘のように優しい気持ちになった。
「遊行がもっとここに来てく()()、僕嬉しい(うえちい)なあ」
にこにこと笑って童子は言う。
「とこ()で遊行、今度の旅は何かあったの?」
童子が首を傾げて聞いてくる。
「今回は偶々江戸に行ったんだ。そしたら大火があった」
「大火って?」
「火事のことだよ。お家が燃えちゃうんだ。それもたくさん」
「ほゆっ。それ(しょえ)は大変ね」
「そうだよ。それでたくさんの人が死んじゃうんだ。生き残っても家が無くなったり、家族が死んじゃうと路頭に迷うのが出てくる。悲惨だよ。今日はその話をしようか」
今日も遊行が語りだす。


 江戸という場所は、兎に角火事が多い。年に数回は火事が起きるんだ。火の不始末も多いが、余所の家に火をつけて、留守を狙った火事場泥棒なんかもあった。俺が江戸に着いたとき、とある長屋の前に煙々羅(えんえんら)が彷徨っていた。ちなみに煙々羅というのは煙の妖怪だ。俺は、怨めしそうに長屋の前をうろついている煙々羅に、興味が湧いた。向こうも俺に気がついたようだが、何故自分が見えているのか不思議に思ったみたいだった。近寄ってきた煙々羅に声を掛けられた。かすれた消え入りそうな声だったよ。
「あんた、あっしが見えてるのか」
「ああ、見えてるさ。只の人ではないんでな」
ちらりと、格子窓から中を覗いてみた。中の人間は布団を巻きつけて、震えながら何かぶつぶつと呟いていた。
「それよりも、場所を変えないか?ここは人目につく」
傍から見たら、俺は空と会話をする人だ。そんな風に見られてはたまったものではない。俺は煙々羅に移動を促した。
「そうだな。あんたは目立ちそうだもんな。どうやら旅人みてえだし。ちょっくらついてきな」
俺は黙って煙々羅に従った。どうやら旅籠のようで、今宵の宿が決まった。部屋に入ると、煙々羅が俺に話しかけた。
「で、あんたは何者なんだ。只の人じゃないって言ってたけど」
「俺は人と妖怪の子だ。だから妖怪とか幽霊とかそういうものが見える」
「人と妖怪の子ねえ。そんな御伽噺(おとぎばなし)みたいなことがあるんだな」
「あんただって、元々妖怪じゃないだろう。生まれながらの妖怪は、あんなに怨めしそうにしないもんだよ」
煙々羅は見透かされて面食らったようだ。煙々羅は、自分の身の上話を始めた。
「如何にも。あっしは元々人間だ。長屋に一人で暮らしてた大工さ。隣の長屋から火が出て御陀仏(おだぶつ)よ。気がついたらあっしは浮いてるんで、怨めしさから幽霊になったんだとばかり思ってたら、火や煙を扱える妖になっちまったんだ」
「なるほどね。あんたが眺めてた長屋は、その時の火元か」
「ああ。ぼんやりした野郎だと思ってたが、どうやら寝酒の煙草の不始末で火事が起きたんだ。火元のあいつは生き残って、あっしはおっ死んで。全く許せねえ」
煙々羅は憎々しげに話した。煙だけの存在なのに、怨みの炎を纏っているように感じた。
「あいつがのうのうと生きている限り、死んでも死にきれねえ。あっしの怨みが燻ってるからこの姿になったんだ。この力であいつを、地獄の業火に引きずり込んでやらあ」
俺は息を吐いた。こいつの怨めしい気持ちは分からんでもないが、完全に私怨に憑りつかれた修羅か羅刹の如く。正に「煙怨羅(えんえんら)」と呼ぶに相応しいだろう。
「怨むのはいいけど、止めた方がいいんじゃない?それに失火したなら、そいつだって押込(おしこめ)(刑罰の一つ。自宅に戸を建てて、一定期間の外出禁止)とかなんらかの報いは受けたでしょう。怨みごとの仕返しって、また怨みごとを生み出すだけだよ。それに火や煙を使って、その炎が火事になりでもしたら、あんたのような奴が増えるだけだよ」
煙々羅を見ると、ぎりぎりと歯ぎしりをし、怒りに震えていた。それを俺は冷静に見つめていた。そして、煙々羅は大声を出して訴える。
「あんたの言ってることは正しい。じゃあどうすればいいんだよ。俺の燻ったあいつへの怨みは。こんな異形になっちまって、怨みも晴らせず彷徨えばいいってのかよ」
俺は手を顎に添えて考えた。こいつが成仏するためにはどうすればよいのかを。一度死んでる身だから、人間に戻ることは出来ないだろう。しかし、こいつの怨みが晴れ、この世に未練がなくなれば、無事成仏することができる。だが、今のこいつは怨みに囚われている。ならば、この根強い怨みを晴らす何かが必要だろう。少し俺が思案していると、煙々羅は焦れてしまったようだ。
「もういい。あんたに俺の苦しみは理解できねえだろう。俺はあいつを呪ってやるんだ」
そういって、煙々羅は窓から外へふわりと飛んで行ってしまった。
「止めろ!早まるな!」
俺は窓から急いで首を出して叫んだが、煙々羅は振り返りもせずに行ってしまった。俺は急いで階段を駆け降りて後を追った。
 煙々羅の行先は、間違いなく先ほどの長屋の方だったに違いない。違いないのだが、俺は迷ってしまい、途方に暮れていた。何故か河原の方に来たのだ。煙々羅が早まったことをしでかす前に、説得しないといけない。俺は俺の生来の性質を恨んだ。誰かに聞こうとしても、俺は土地勘がないから、先ほどの長屋がどこの地名なのかが分からず、聞くに聞けない状態だった。俺は嘆息すると、河川敷の無宿者(住所不定の者)が二人、話をしていた。
「この間、おめさんに言われた通り、火付けして泥棒してきたんだ」
「おう、とうとうおめさんも火事場泥棒してきたのか」
何やら不穏な話をしている。俺は隠れられそうな所に隠れて、聞き耳を立てていた。どうやらこの二人は、火付けをし、火事の混乱に乗じて盗みを働いているらしい。
「間の抜けた長屋の野郎が、酒飲んで煙草を吹かしてたんだ。こいつはしめしめと思ったね。こいつの家を火元にすれば、寝煙草による失火だと思うんじゃねえかと。そしたら案の定、町奉行の連中が、そいつの失火ってことでお縄になったらしいぞ」
「ははは。そいつはとんだ間抜けだな」
「そんでよう。そいつの家とその隣に火が移って、そいつらのおいてったもん盗んできたんよ。こんなに上手くいくなら、もっと早く火付けすればよかったよ」
「言ったろう。案外ばれねえもんだよ」
その話を聞いて、俺は怒りに震えた。火付けをし、住人の避難による留守を狙った泥棒など、許されるべきじゃない。放火は市中引廻し(見せしめとして死刑囚を馬に乗せて、罪状と共に刑場へ連行すること)の上、火焙りになる大罪だ。しかも、それを他人になすりつけ、真犯人は盗んだ物でいい思いをし、次も放火を繰り返そうとしている。始末に負えない。俺はひょっこりと顔を出した。無宿者二人は魂消た顔をしている。
「すまない。偶々耳にしちまったんだけど、どのように火付けをしたんだい?ちょっと教えてくれないか?」
「あんた、まさか俺たちを番所へ突きだそうとしてないだろうな」
「いやいやとんでもない。そしたら俺も国で悪さして逃げてきた身だ。それこそお縄になっちまう」
俺は嘘をついて、奴らの警戒心を解いた。ひそひそと耳打ちをしてから、にやにやし始めた奴らは、俺を自分たちが犯した放火の場所まで案内した。
 無宿者二人は、俺を放火した場所まで案内した。そして、自分たちの手口を洗い浚い教えてくれた。そして、何を盗んだかまで教えてくれた。その場所を眺めている一瞬の隙をついて、無宿者二人が俺に襲い掛かってきた。俺は、懐剣・賽ノ牙(さいのが)で応戦した。貧相な無宿者二人が襲い掛かってきても、大した力ではなく、難なく捕らえ、それぞれの帯で縛り上げた。近くの住民に町奉行所の場所を訊こうとしたら、井戸端会議をしている女の町人がいた。町人は案内するのは自分だといがみ合っていたが、結局二人に案内してもらうことにした。ちなみに縄も拝借して、無宿者二人を身動きできないように縛り上げ、二人を担いで町奉行所へ向かった。町奉行所で、放火の真犯人と手口をこの二人から聞いたことを訴え、前の火事の犯人とされた者が冤罪であることを言った。そして、町奉行に犯人とされた者の場所へ案内してほしいと申し出た。町奉行は、手下の者に無宿者二人の取り調べと、俺の案内を命じた。俺はそれに従った。
 着いた先では、火事が起こっていた。間に合わなかった。煙々羅は怨みを晴らすために、自分の力で家に火を付けてしまったのだと思った。長屋から立ち上がる煙に紛れ、煙々羅が出てきた。どうやら様子がおかしかった。
「おのえええ!あいつめ、げっほ!へんらもろおあっしにたきつけおっれえええ!!あはははははははは」
怨みごとなのだろうが、呂律が回っておらず、酩酊しているというか、咳き込みながらへらへらと笑い、悶えているように暴れている。そして、その暴れるたびに煙々羅が火の粉を飛ばすものだから、あちこちに延焼してしまっている。すると、煙からどうにも甘い香りが漂ってきた。それを少しでも吸うと、酩酊したような気持ちになった。毒の一種かもしれないと思い、俺は懐の手拭いで鼻と口を覆った。案内してくれた奉行所の者も、袖で鼻と口を覆いながら言った。
「こいつは極楽香(ごくらくこう)だ。吸うんじゃねえ。しかも、火が激しいし、風もあるから大火になるぞ。火事を触れまわって避難しよう」
そして、俺と奉行所の者が触れまわり、火事を知らせた。火事を知らせる鐘の音も聞こえ始め、近隣の人間も逃げ始めた。とりあえず、俺は奉行所の連中を手伝った。火は夕方から夜になり、翌日の夜が明けても燃え続けた。火が消えた頃にはくたくただった。合羽も笠も火の粉で穴が開き、使い物にならなくなった。
 あの大火の後、公事宿(くじやど)(訴訟や裁判で地方から来た者を泊めるための宿)での待機を命じられた。無宿者の放火の証人としてだ。そして考えた。罪を擦りつけられた煙々羅の隣人は、本当に自分による失火なのかという疑問と、その失火の罪悪感、家も無くなれば、働き口も失ってしまうだろうから、現実から逃れたくて極楽香に手を染めた。偶々、その極楽香を吸っていた時に、煙々羅は来てしまったのだ。煙々羅は煙の妖怪だけに、煙があるとそれらを引き寄せてしまう。そして、極楽香をまともに吸い込んでしまった煙々羅は酩酊し、火と煙の力を暴発させてしまったのだ。もしも俺が方向音痴でなければ、長屋のある地名を覚えていれば、もしも早く辿り着いたならば、こんなことにはならず、煙々羅も苦しむことはなく、隣人も疑いが晴れたことだろう。
 俺は、ありとあらゆることを奉行所に伝えた。無宿者二人の会話と、どのように行ったかを。しかし、今回の大火の件については煙々羅の話はしなかった。また、奉行所の連中と大火の火元へ行ったが、そこには煙々羅はいなかった。そして、隣人だった男の家の址には、黒焦げの遺体が見つかった。
「もう少し、早く辿り着いていれば……」
俺はそう呟いた。奉行所の連中は、そんな俺を慰めた。
「いや、それは某にも言えることだ。しかも、罪なき者を裁き、禁断の極楽香に手を染めさせてしまった。それに引き換え、お主は罪なき者を救おうとした。それは誇っていいことだ」
何も知らない奉行所の連中は、俺を罰しようとはしなかった。しかし、今回の大火に関して言えば、俺は確実に渦中の人だった。そして、極楽香というものが気になったので訊いてみた。
「あの、極楽香ってなんなんですか?」
「極楽香とは、最近出始めた香だ。ある植物の葉や茎を乾燥させた香で、香炉か煙管で吸うんだ。甘い香りがして、嫌なことを忘れさせると、触れまわっているものだ。だが、これを吸っちまうと酔ったようになり、阿呆みたいにへらへらとし、狂ったように笑い出す。しかも、酒や煙草よりも吸いたくなる衝動が強い。そして苛立ちやすくなる。段々、ありもしない紫の煙に、常に見張られてているように見えてくるらしい。そして、最後は魂が抜けた屍のようにしちまう恐ろしい代物だ。裏では屍の煙や、紫の煙と書いて『しえん』と呼ばれている。そんなもんだから、市中に出回るのは御法度で、奉行所でも取り締まっているものだ。だから、失火の罪は拭えても、極楽香で捕まえることになっていただろうな。死んじまった今では、どうしようもないが……」
そんな恐ろしいものだったのか。ひょっとしたら隣人は、極楽香の影響で、煙々羅が紫の煙に見え、常に見張られていると思ったのかもしれない。
 結局、無宿者の二人は、火付けと火事場泥棒で市中引き廻しの上、火焙りの刑に処せられた。一人は生前の煙々羅が死んだ火事一件のみだったが、もう一人は他の火事を数回起こしているようで、それによって失火で罪に問われた者がいたことが発覚した。

 旅から帰る途中、柴を焼いているのが見えた。細くたなびく煙は、煙々羅を偲ばせる。彼は何処へ行ってしまったのだろう。「しえん」に狂って彷徨うことなく、あの煙のように、天へと真っすぐ伸びて、消えてしまうことを願い、俺は手を合わせた。


「どうだった?大火の話」
 遊行は、童子に感想を促した。
「ほゆー。大変だったね。でも、今日の遊行が怒()っぽいのが、よくわかった気がする(しゅゆ)
童子が言う。先ほどの冷たくあたってしまった態度のことだろう。しかし、そこに遊行は疑問を抱いた。
「えっなんで?」
「えっ。極楽香(ごくやくこう)所為(しぇい)じゃないの?(しゃ)っき言ってた」
遊行は、逡巡してからハッとした。先ほど、極楽香は苛立ちやすくなると話をした。火事の際に、少量吸い込んでしまった影響が出てきたということだろう。ただ、遊行の場合は煙草を止めてからの影響もあった。それにしても、童子が話の中の一部を事細かに覚えていることに、遊行は、童子が自分の話を一言一句漏らさず聞いていたことを実感した。遊行は童子の頭を撫でた。
「そうだね。ごめんね」
今日、遊行は何度口にしたのか分からない、謝罪の言葉を項垂れながら述べた。童子に対して、煙々羅に対して、あの隣人に対して、大火で死んだ多くの者に対して。すると、童子は立ち上がり、遊行の頬に両手を添え、心底安心したような笑顔で言う。
「謝()なくていいんだよ。僕は遊行が無事に来てく()て、遊行のお(はなち)が聞け()ばいいの」
遊行は己の頬に添えられた童子の右手に、己の左手を重ねる。小さくて、温かいその手は、遊行の心を浄化した。童子にそう言われると、全てに許された気がする。

 後日、遊行は太郎右衛門の所へ寄った。
「大神さん、この間はどうも」
「よう、遊行。にしても、お前さん大変だったみたいだな」
遊行は首を傾げる。太郎右衛門に心配されるような覚えが無いからだ。
「なんのことですか?」
遊行は問いかけた。すると太郎右衛門は、キョトンとした顔をしてから答えた。
「いやあ、童子が、お前さんが大火に巻き込まれて大変だったって、話してたからよ」
遊行は驚き、顔に血が上るのを感じた。大火の件に関しては、童子と天子にしか話していないのだ。しかも、天子にはいらぬ心配をかけさせないように、言葉を濁した。それ以外の者には話していないのに、何故、太郎右衛門が知っているんだろうか。
「えっ、なんで知ってるんですか?」
「え?童子が話してくれたんだよ」
やはりそうかと、遊行は落胆した。そして、次に会った時に、童子に言いふらさないように注意することを誓った。遊行の心の内を分かっているのか、それとも態度ににじみ出ていたのか、太郎右衛門は息を吐いて、遊行に言った。
「童子を責めるなよ。お前さんのことが心配だったんだよ。それに、お前さんの話をしている時が、童子は一番いきいきしてるんだから」
その言葉で、遊行は自分の知らない童子の一面を知る。
「どういうことですか?」
「いやあ、俺が遊びに行くとき、童子が遊行の話をするんだよ。俺も勝手に森でのおまえさんの話をしちまうんだけど、童子はそれを興味津々に聞いてるんだ。そんで、お前さんのこと案じるように、早く帰ってくるよう遠くを見て呟くんだ。童子がお前さんのことを慕ってるのがよくわかるよ」
遊行は気恥ずかしくなった。まさか、自分がいない間に童子がそんな風に過ごしているとは、夢にも思わなかったからだ。
「それにお前さん、煙草止めただろう。狼の俺の鼻でも匂いがしなくなった。俺が散々止めた方がいいって忠告しても聞かなかった癖に、あっさり止めたのも童子のお陰なんだろう?」
遊行は静かに頷いた。太郎右衛門は、自分よりも高い遊行の頭を撫でる。
「俺は嬉しいよ。お前さんも童子も、お互いのお陰で成長してる」
いい大人なんだから子供扱いしないでほしいと、遊行は思ったが、太郎右衛門にしたら自分はまだまだ若造なので、黙って撫でられるままに撫でられた。心の内に燻っていたものは浄められ、どこにも無くなっていた。

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