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ヤマと撫子

 秋が深まってきた森の中を、急ぎ足で歩く者あり。その大きな体が一歩一歩進むたびに、踏んだ落葉がかさりかさりと音を立てる。方向音痴の半人半妖、辻ヶ先遊行(つじがさきゆぎょう)は、今しがた旅から帰ってきた。冬はもう近づいている。今年最後の参内となるだろう。風が一陣吹くだけで、身震いするほど寒くなった。遊行は道中合羽を着こむ。そして、竜宮へと入っていった。
 遊行がいつも通り、九角竜天子の謁見を側近たちに申し出ようとしたら、八角玄竜(はっかくげんりゅう)にお会いした。八角玄竜とは、九角竜天子(くかくりゅうてんし)七角驪竜(しちかくりりょう)と共に三君と呼ばれていて、九角竜天子の名代(みょうだい)を務めるお方だ。長命な竜の中でもかなりお年を召しており、その禿げ頭に生える八つの角は、幽玄さを感じさせる。
「天子なら留守じゃよ。今、出雲の方へ行っておる」
玄竜はそうおっしゃった。神無月になると、神々は出雲へ挨拶に向かうしきたりがある。天子はそちらへ向かわれた。
「いつもの報告じゃな。わしが承ろう」
そう玄竜がおっしゃるので、遊行は旅先の報告をする。
「ご苦労じゃった……。ところで蚕月はまだ起きとるよ」
これから蚕月童子(さんげつどうじ)のことを訊こうと思ってた矢先に、玄竜に答えられてしまった。これには遊行も拍子抜けしてしまう。
 竜は秋になると天から降りて冬を越し、英気を養う。これは竜宮の者たちも例外ではない。特に子供の竜は大人よりも寒さに弱いので、冬眠期間は長くなる。もう神無月の始めであるから、既に童子も冬眠しているのかもしれないと遊行は思ったのだが、まだ起きているらしい。
「何故分かったんですか?俺が訊こうとしてたこと」
「蚕月がお主に会いたくて、中々冬眠してくれないという報せがあってな……」
この玄竜の言葉には遊行は目を丸くする。
「ではこれで失礼します」
遊行は足早に奥座敷へ向かう。

 遊行が奥座敷へ辿り着くと、なにやら騒がしい。
「童子、早くお休みになりましょう」
「いや!もうちょっと起きてる(おきてゆ)!」
奥座敷を覗き込んでみると、女官と童子が布団を囲んで言いあっている。その言い合いを遊行が眺めていると、童子が遊行に気が付いた。
「あっ、遊行」
その言葉に遊行の存在に気が付いた女官は、今にも舌打ちしそうな苦々しい顔をした。
遊行とすれ違った瞬間、女官は彼を睨みつけた。遊行はため息をついて、奥座敷へ入る。
「まだ起きてたんだ」
「うん。寝る(ねゆ)前に遊行のお話(おはなち)聞きたかったんだ。(はゆ)までなんて待てないよ」
そう言った童子の頭を遊行が撫でる。童子はうっとりしている。頭を撫でられるのが本当に好きなのだ。
「童子は撫でられるのが本当に好きだな」
「うん、大好き(だいしゅき)天子様(てんちしゃま)玄爺様(げんじいしゃま)驪竜様(いようしゃま)もなでなでしてくれるんだ(ちてくえゆんだ)
竜宮の三君が童子を可愛がっていることがよくわかる。あの八角玄竜が童子の前では「玄爺様」なのだから、遊行は微笑ましく思ってしまう。
「だーだもよくなでなでしてくれたんだ(ちてくえたんだ)
「だーだ?」
「だーだはねえ、僕がお外に出たいって言った時、ここに入れたんだ(いえたんだ)。今はお空(おしょや)に行っちゃったみたい。その後天子様(てんちしゃま)が来たの」
童子が言う「だーだ」とは先代の天子のことだと遊行は理解した。そして童子は幼いが故に、その先代の天子が亡くなったことを、いまいち理解していないのだ。
天子様(てんちしゃま)が来た後、あのお花くれたんだ(くえたんだ)それから(しょえかや)この時期になると(なゆと)あのお花くれるの(くえゆの)
童子が見上げた先には、竹の花活けになでしこの花が咲いていた。なでしこは“撫でし子”に通じる花だ。いかに天子が童子を大切に思っているのかの表れだ。
「じゃあ、今日は童子の夢見がよくなるように、あの花にちなんだ話をしよう」
そう遊行が告げると、童子は布団の上に行儀よく座った。今日も遊行の語りだす。


 これは前に旅をしていた時のことだ。その日は宿場で昼飯を摂っていた。青い空にからりとした風が吹いていた。雨の心配は無さそうだと思い、次の宿場まで行こうと歩き出した。
 一里を歩いた辺りで雲行きが怪しくなった。空気が重い。湿り気の独特な臭い。燕が低く飛び始めた。もう雨が近い。駆け足に近い速足で旅路を急いだ。しかし、無情にも雨が降り始めた。ぽつりぽつりと降り始めた雨は、段々と雨脚を速めた。
 雨で視界が悪くなり始めた時、運よく鳥居が見えたので、駆け込んだ。その神社には先客がいた。大きな木箱を脇に置いたその姿。薬売りである。薬売りは薬を売るために方々歩いていて色々なことを知っている。また商売人であるから口も達者だ。暇つぶしに何か面白い話が聞ければと思い、声を掛けようとしたら、先手を取られた。
「おお、旦那。長身痩躯に村雨の水も滴るいい男。化けて出てきた狐も嫁入り。こんな美丈夫と一緒に雨宿りだなんて、おいらがどんな生娘だろうと、古より語られるような恋に落ちるんだろうが、生憎おいらは薬売り。どうだい旅のお供に薬を御一つ……」
その流暢な口車と、雨宿りの手慰みに薬を売るという、凄まじい商魂にはまったく恐れ入る。特に俺は口下手だから、羨ましいものだ。
「いや、体の丈夫さは人一倍だから結構だ。手持ちも心許ない。それよりもこれも何かの縁。口八丁なあんたなら、一つ面白い話はないかい?」
俺の手持ちが少ないことを知った薬売りは、売るのを諦めてため息をついた。そして、刹那の思案の後、手を叩いて話し始めた。
「いよっし!じゃあ旦那には神社の楠にちなんで、『大和の撫子観音(やまとのなでしこかんのん)』の謂れでも語るとしよう」
「撫子観音?」
「そうさ。おいらは大和国(やまとのくに)の薬売りなんだが、国元に伝わる観音様だ」
「ほう」

昔、大和国にお(くす)という娘がいた。貧しい家に生まれたが、両親は一人娘のお楠を、大層可愛がってよく撫でた。お楠が寒いと言えば、両親はお楠が温まるまで撫でてやり、痛がれば痛いところを治まるまで撫でた。こうして両親に愛されて育ったお楠は、人一倍優しい娘になった。
 お楠が年頃の娘になると、両親が流行り病に倒れた。病に苦しむ両親が、安らかになるまで彼女は撫でた。そして安心して両親が眠ると、彼女はお百度参りをした。本当に寝る間も惜しんで両親の看病をした。医者に診せた時は、どの薬草を与えればよいのかとか、何をすればよいのかを熱心に尋ねた。同じ年頃の娘は、皆縁談のために身なりを整えていた。ところが、お楠は髪を整えるのも手足のあかぎれも気にせず、両親のために尽くした。しかし、彼女の看病の甲斐なく、両親は亡くなった。その両親の死に顔は、病に苦しんだとは思えないほど安らかであった。
 ひとり身になったお楠は、町医者の葦出孝仁(あしでこうじん)に懇願して、彼の付き人として医学を身に着けようとした。孝仁は最初困惑したが、彼女の優しい人柄と身の上を考え、承諾した。こうして彼女は孝仁の手伝いを始めた。
 付き人となったお楠は、それはそれは働いた。孝仁の元で、まず文字の読み書きを教わった。そして医学を学び、薬草の知識を習得した。山へ入って薬草を摘むのも躊躇わなかった。その細い腕でもって薬研で薬を刻んだ。診察に患者の元へ行けば、孝仁が診察している間、苦しむ患者を只管撫でた。病がうつるのをためらわずに撫でる彼女を、観音様の化身だと人々は彼女を慕った。
 お楠の評判を聞きつけた薬問屋の主人は、お楠を息子の嫁にしたいと考えた。店主は孝仁が薬を買いに来た時に、孝仁にその話をした。お楠ももちろん同行していた。孝仁はよい縁談だと思った。心優しいお楠には幸せになってほしいと思ったからだ。ところが、当のお楠は断った。
「もったいなきお話ではございますが、私は卑しい身の上でございます。しかも年頃にろくに髪も整えず、手も荒れ放題でございます。薹の立った自分では、大店の若旦那の嫁は務まりませぬ」
大店の主人は、お楠の言葉を聞いてますます気に入った。
「いやいやお楠さん。倅は甚六でございます。倅には貴女のような年上の賢女を、妻にした方がよいでしょう。貴女が卑しいとおっしゃる身の上も、苦労を知り、人情に厚いお方こそ、薬屋の嫁に相応しいのです。どうか、この縁談をお受けください」
主人の必死の説得に、とうとうお楠も根負けした。こうして、お楠は玉の輿に乗ったのだ。
 若旦那はお楠の、貞淑でも芯があり、心優しい性格に惹かれていった。二人には二男一女の子宝にも恵まれた。結婚後もお楠は医学を学んだ。医学書を読み、研鑽を重ねた。こうしたお楠の医学の知識が、薬を売るのにも役立った。夫婦円満で商売繁盛、お楠は幸せに暮らしていた。
 そんな中、お楠の長男は病弱で、流行り病にかかった。お楠は離れでもって、息子の看病に明け暮れた。店の者はお楠にもうつってしまうからと止めようとしたが、頑として聞かなかった。自身の医学の知識を活用し、高価な医学書を求めては読んだ。高名な医者に診せた。しかし、流行り病に対する治療法は無かった。流行り病に効くと聞けば、嘘か誠かも分からずともその薬を与えた。神仏に願うために、病にいい神社に詣でた。息子の容体はよくならなかった。高熱に魘されれば、冷えた手拭いを額に乗せた。かいた汗を自ら拭ってやった。薬膳粥を作っては食べさせた。彼女は手を尽くしたが、息子は弱っていった。苦しむ息子が少しでも苦しまなくなるように、彼女は撫でた。撫でることで、息子の苦しみが和らぐことを願って。撫でた手を通して、息子の身代わりができればと願って。
「ヤマ様。どうか息子の病を治してくだされ。その代わり私が病で死ぬことは厭いませぬ。お願いします。お願いします」
 昼夜を問わず、必死に撫でたお楠は、居眠りをした。そんな時に夢を見た。
 
 お楠は今までに見たことのない大広間に居た。闇に包まれた大広間は不気味に感じた。その大広間の柱と柱の間に、神様がいた。その神様は青い肌をし、六本の腕をしている。また、見上げるほどの大きな体をしていた。その大きさは、お楠が神様の手よりも小さい程だ。その脇には骸骨と、これまた大きな犬が従っていた。神様はお楠に話しかけた。
「我が名はヤマ。お楠よ。人はいずれ死ぬ。これは世の理だ。お前の息子が病で死ぬのも、遅いか早いかだけのことだ。多くの母親が、子に先立たれる悲しみを味わっている。医者であり、薬問屋でもあるお前なら散々見たであろう。にも関わらずお前は息子に死なせたくないと願うのか。諦めよ」
ヤマ様は、お楠に諭す。
「仰せの通りでございます、ヤマ様。人が死ぬのを、子に先立たれる親の不幸を、私はこの目で見てきました。されど、私は息子が苦しむのを見とうございませぬ。息子を病で失うのであれば、いっそのこと私めを先に冥府に導いて下され。お願いします、お願いします」
お楠は平身低頭してヤマ様に願い出る。その顔は涙を流していた。
「うつけものが!お前はもっと賢い女だと思っておったが、とんだ勘違いだったようだ。紅蓮の責め苦でも受けて、頭を冷やして参れ!」
ヤマ様は激怒し、顔も見たくないと言わんばかりに奥へと帰ろうとした。お楠は、そのヤマ様の踵にしがみ付いて懇願した。
「紅蓮の責め苦でもなんでもお受けします。お願いですから息子の命を御救いください」
「うぐぐ、畏れ多くもこのヤマにしがみ付くなど、無礼にも程がある。そこまで言うなら、我の言う試練を乗り越えてみせよ」
その発言にお楠は喜んだ。息子の命が助かるのであれば、どんな試練だって乗り越えられる自信が彼女にはあった。
「ありがとうございます、ありがとうございます。この楠、貴方様の仰せになる試練、どんなことでも成し遂げましょう」
「明日、目が覚めたなら早々に出立して山へ行け。そして山の頂上の近くに薄紅色の花が咲いている。それを摘んでまいれ。その花は日が高くなっては枯れてしまうぞ。一番鶏が鳴く前に摘むのだ。その花を摘んだら、今度はその花を三日三晩焚ける限りの強い火で煮出すのだ。その煎じた汁を息子に飲ませるといい。息子に薬を飲ませるまで、他言は無用。一人で行うのだぞ」
「わかりました。一番鶏が鳴く前に高嶺の薄紅色の花を摘んで、それを焚ける限りの強い火で三日三晩煮出すのですね。このヤマ様の楠への御慈悲の心、この上なく感謝いたします」
 
 お楠は目が覚めた。そして誰にも告げず、ただ出かけると書置きだけ残して家を出た。外はまだ冬の未明。提灯だけを携え、着の身着のまま出てきたお楠には寒かった。山には雪が溶けることなく凍っていた。風も強く、獣が唸るような音を立ててお楠を襲った。お楠の耳や指先、足先は冷たい風によって皮膚が裂け、血が滲み出た。それでもお楠は諦めずに、山を登り続けた。
 山頂に辿り着いたお楠は、薄紅色の花を探した。辺りを見渡しても、白や黄色、緋色に萱草色の花は見つけても、薄紅色の花は見つからなかった。山頂の近くが崖になっていることに気が付いたお楠は、一縷の望みをかけて、崖を覗き込んだ。すると、手が届くか届かないかの所に一輪の薄紅色の花が咲いていた。これだと思ったお楠は、崖に身を乗り出して花を摘もうとした。
 崖下からは、暗闇に潜む獣が、呻いて今にも襲わんとしているかのような、一際寒い風が吹き荒れた。風が花を揺らして上手く摘むことができない。強い風はお楠を谷底へ落とさんとしている。お楠は血が滲み、悴んで感覚の無い手を叱咤しながら、花に手を伸ばした。早く花を摘まないと、一番鶏が鳴く前に花を摘まないと。神様仏様、お願いしますと心中で祈った。祈りが通じたのか、漸くお楠は花を摘むことができた。ほっとしたのも束の間、一番鶏が鳴いた。
 花を大事に大事に抱えて、お楠は家路を急いだ。家に戻ったお楠は、家の薪を掻き集めて、離れの竈で火を焚いた。家にある最も大きな釜にたっぷりの井戸水を汲み、摘んできた花を入れて、火にかけた。焚ける限りの強い火を維持するために、お楠は三日三晩、火吹竹で火を吹き、竈に薪を入れた。時折、爆ぜた火の粉がお楠の肌を焼く。息子の病が治ることを祈りながら、煮だった釜の湯をかき混ぜた。四日目の朝、たっぷりと汲んだ釜の汁は黒く染まり、茶碗一杯にも満たなくなっていた。これをじっくりと冷まし、人肌にまでなったなら、お楠は水差しに移した。息子の容態は虫の息になっていた。目を開けることも儘ならない息子は、母に差し出された水差しの薬を飲んだ。薬を飲み終えた息子を、眠るまでお楠は撫でた。安らかに眠る息子を見て、お楠も安堵した。
「ヤマ様、私は貴方様の言った通りの薬を作り、息子に飲ませました。どうか息子を御救い下さい……」
そう呟いて、息子を撫でながらお楠は目を閉じた。
 息子の病が治り、目が覚めた時、既に母は死に絶えていた。息子は己の病の平癒よりも、母の死を嘆いた。その嘆き声に気がついた家中の者が駆け付けた。若旦那も、他の二人の子供も、家中の者も、皆嘆き悲しんだ。
 死んだお楠の葬儀には多くの者が集まり、全員が涙した。お楠には立派な墓が建てられた。そのお楠の墓には季節知らずのなでしこの花が咲くようになった。茹だるような暑い夏でも、凍えるような冬の寒い日も、なでしこの薄紅色の花が咲いていた。
 お楠の長月の月命日の未明、長男は夢を見た。そこには、亡き母が枕元にいた。かつての優しい眼差しを息子に向けながら、話し始めた。
「今日、私の墓に行ったら、お前は僧侶に出会うであろう。その僧侶の言葉に従いなさい」
 夢から覚めた長男は、家族を連れて月命日の墓参りをした。すると夢のとおり、僧侶がお楠の墓を拝んでいた。墓参りに来た家族が僧侶に声を掛けた。僧侶はこんな話をした。
「ある日、夢枕に観音様が現れました。その観音様はなでしこの原におわし、私にこうおっしゃった。季節知らずのなでしこの花咲く墓が、大和国にある。その墓は、非常に慈悲深い者の墓だ。その者は息子の病の平癒のために、ヤマに逆らい恐ろしい責め苦にあっている。その者を救うため、その墓に寺を築き、私を彫り、祀りなさい。また、お前は墓で平癒した息子と出会うであろう。その息子に、寺の境内から湧き出る泉と瞿麦(くばく)(なでしこの開花期の全草)を用いた丸薬を作りなさいと伝えなさい」
 これを聞いた長男は、亡くなった母の話をした。そして今日その母が夢枕に立ったことも伝えた。これに僧侶は、寺を建立すべき場所がここであると確信した。長男は、僧侶に多額の寄進をし、立派な寺を築いた。ちょうどお楠の墓の下から、棺ほどの大きさの岩が出てきた。その岩を動かすと、岩が割れて泉が湧きだした。その寺には観音様が安置され、今でも季節知らずのなでしこが咲く。
 その寺は家内安全に夫婦円満、商売繁盛に千客万来、病気平癒に大願成就、更に玉の輿や子供の健康などなど、色々なご利益がある。お楠に肖ろうと多くの者が、特に子供を持つ母親が参拝した。
 一方、息子の方は、僧侶の言ったとおり、寺の泉と瞿麦、他の生薬を用いた丸薬を作った。この丸薬は「撫子楠丹(ぶしなんたん)」として売り出した。この薬を一度飲めば、どんな病の苦しみにもたちまち癒され、疳の虫や咳、辛い痛みに効くと評判になり、薬問屋は益々繁盛し、子々孫々まで幸せに暮らしましたとさ。

「いい話だろ、旦那」
「そうだなあ。撫子観音、一度行ってみたくなった」
「ところで、旦那。話の締めに、『撫子楠丹』お一つどうだい?」
この薬売り、撫子楠丹の薬売りだったのか。これには空いた口が塞がらない。いい話の締めに薬を売ろうとする、逞しい商魂には天晴れだ。話の礼と、その商人ぶりに尊敬の意味も込めて、俺は撫子楠丹を一つ購入した。ただでさえ寂しい懐が、更に厳しいものとなった。撫子楠丹を購入し、銭を払ったところで、雨が嘘のように止んだ。
「旦那、毎度あり。道中気をつけるんだよ」
薬売りは、そう言って去っていった。風のような男だ。残された俺は、薬売りとは逆方向に歩き始めた。懐は寒くなったが、清々しい気持ちで歩き出せた。街道で雨に濡れたなでしこが、風に揺れて露を払った。


「どうだい、なでしこの話。親を思う子の思い、子を思う母の思いが伝わっただろう」
「ほゆー」
童子は呆然とした後、我に返って拍手を送る。
やっぱり(やっぱい)、遊行のお話(おはなち)、冬眠前に聞けてよかったよ」
童子は安心したように笑った後、大きなあくびを一つすると、眠い目を擦り始めた。遊行の話を聞きたいがために、冬眠を我慢していたようで、一気に眠くなったようだ。なんとも健気な様子に、遊行は童子の頭を撫でてやる。段々と童子の瞼が下がっていく。このまま眠ってしまえと思った。上の瞼と下の瞼がくっつくかと思ったその瞬間、ハッと思いついたように童子が見開いた。遊行は仰天した。
「そうだ。いつもなでなでしてくれる(ちてくえゆ)遊行の頭を、僕が撫でてあげる(あげゆ)
そう言って立ち上がった童子は、遊行の頭を撫で始めた。胡坐をかいた遊行と立った童子は同じくらいの高さになった。こんな小さな子供に頭を撫でられるなんて照れくさいと思った。だが、撫でられているうちに気持ちよくなって目を瞑る。思えば、遊行は生まれてこの方、頭を撫でられた記憶がない。撫でられるのがこんなに気持ちのいいものなのかと、初めて実感した。
 一頻り頭を撫でた童子は、心残りが無くなったようだ。座り直した途端、うとうとし始めた。寝言のような口振りで言った。
「じゃあ遊行、おやすみ。また春ににゃったやおはにゃにゃにゃ……」
最後のころは何を言ってるのか分からなかった。倒れこんだ童子を、遊行は抱きとめて、布団に入れてやった。手のかかる子供だ。
「おやすみ童子、よい夢を」
遊行は童子にそっと呟いて、奥座敷を後にした。
 遊行が竜宮の中を歩いて帰ろうとした途中、八角玄竜にお会いした。
「童子寝ちゃいましたよ」
「じゃろうな。女官たちが妬むくらいには、心待ちにしているようじゃったからのぉ」
女官たちが何故睨んだのかを、遊行は理解した。
「ところで、お主、冬はどうするんじゃ」
「俺も冬ごもりしますよ。冬の旅は辛いから」
「そうかそうか」
「では失礼します」
遊行は八角玄竜に頭を下げた後、竜宮を後にした。
 童子が眠る奥座敷では、花活けのなでしこの花がいつまでも見守っていた。

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