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人でなし

 木漏れ日が降り注ぐ森の中、その道中合羽や脚絆を草木の朝露に濡らしながら、急ぎ足で歩く者がいた。その者は、当初下総へ行こうとしていたが、越後で道を外したことに気づき、そのまま北陸の越前で引き返し、この森へ帰ってきたばかりである。
 この男、辻ヶ先遊行(つじがさきゆぎょう)は極度の方向音痴であり、本来の目的地とは違うところへ行ってしまうのだ。本来、生きとし生けるものが持っている、方向感覚というものがこの男には欠けている。何を隠そうこの男は、普通の人間ではない。半人半妖、つまり人と妖との間に生まれたのだ。とは言っても、遊行が人と違うのは、ただ体躯がやたらと大きい(その身の丈は、六尺五寸足らず―大体196センチメートル―ほど)位である。端整な顔立ちをしているが、それも人離れしたほどの美貌とまではいかず、あまり変わった点は見えなかった。
 遊行が向かうのは、森の中心にある湖の底、竜宮と呼ばれている場所である。この森は、人里離れたところにあり、近くには火山があって竜が好む朝霞がよく立った。真ん中の湖はこんこんと清らかな水が湧く。竜にとっていい棲み処なのだ。その森で竜たちは、湖の底の竜宮で、一柱の竜神九角竜天子(くかくりゅうてんし)を中心に暮らしていた。
 竜宮に辿り着いた遊行は、早速竜の王である九角竜天子の元へ向かった。遊行は、笠と合羽、荷物を外して、天子の側近に天子への謁見を求めた。側近は怪訝そうな顔をし、少々の間を置いた後、謁見には応じられた。朝の謁見には間に合わなかったが、それはそれで都合がいいと遊行は思った。側近二人が謁見の間の重厚な扉を開ける。
 謁見の間の奥、玉座にその方はいらっしゃった。優れた竜は、頭に生える角の数が多い。その方は今、この森で角の数が最も多く、九本の角が生えていた。初の女性である竜たちの王、九角竜天子である。遊行は、玉座の前に膝をつき、抱えていた笠と合羽を横に置いた。その様をご覧になった天子は、ゆっくりと遊行に話しかける。
「よく戻ってまいりましたね、遊行。おつかれさまです。今度の旅はいかがでしたか」
天子は、遊行に労いの言葉を優しくおかけになる。他の竜たちは、よそ者である遊行をよく思わない者が多いが、この九角竜天子は、遊行を認め、森での居住を許した。あまつさえ、遊行の当所もない旅を、近隣の状況を知らせることを条件に、金銭の援助をしてくださる。この方には一生頭が上がらなければ、足を向けて寝ることなどできやしないと遊行は思う。
 遊行がひと通りの旅の報告を終え、帰り際の挨拶をしようとした瞬間、天子が話しかけた。
「そういえば遊行、貴方に会わせたい者がいます。長旅でお疲れでしょうが、私に付いて来ていただけますか」
この後、別段用事のない遊行は、恩恵ある天子の誘いを断ることなど出来ず、わかりましたと答えた。
 途中女官が二人、天子が遊行を連れていることに怪訝な様子で、天子に声をかけた。
「天子様、その者を連れてどちらへ向かうのですか」
「奥の座敷ですよ」
「なりませぬ。その者を童子に会わせるべきではございませぬ」
「私が会わせたいと言うのです。口を慎みなさい」
天子は優しく微笑みながら言ったが、女官たちは驚いた顔をして、天子に何かを渡してそそくさと行ってしまった。
 すれ違う竜の官吏や女官たちは、皆遊行の陰口を言っている。半人半妖の、どこの馬の骨とも知れぬ者が、なぜここにいるのだだの、天子様はなぜあのようなものを受け入れているのだだの、言いたい放題である。
「遊行、すみませんね……。女官や官吏たちの他種族に対する無礼な振舞い、今後改めるようにしますね」
天子は困ったように笑いながら、遊行に竜たちの非礼を詫びた。
「天子が謝ることではありませんよ」
遊行はただ天子に告げた。竜は基本的に空でも水中でも思うがままに行動できるためか、自由闊達である。しかし、ここの竜たちは、高慢で世間知らずで、臆病故に陰湿だと遊行は思う。
 天子に付いていった先は、入口からはかなり離れた、竜宮の奥の奥であった。湖底にある竜宮は、地上の建物に比べて薄暗いのだが、その場所はさらに暗く感じた。座敷牢。その場所を見た瞬間、遊行はそう思った。八畳ほどはありそうな部屋だが、竹で出来た天井に、壁の一面には扉の付いた木製の格子が嵌められ、扉は外側から鍵がかけられている。
 その部屋の有り様に、遊行は顔を顰めた。諸国旅をしている遊行は、座敷牢のある場所へは行ったことがある。そして、それにまつわる話はいいものだった例がなかった。
「入りますよ」
天子は一声かけた後、先ほど女官たちから受け取った鍵を回す。大分錆びているのか、蝶番からぎぎぎという音を立てて、扉が開く。
 部屋の中には、小さな子供がいた。子供は天子の来訪にきっちり正座をし、手は膝の上に添えている。天子は、子供の右前に座り、子供の正面を遊行に座るように手を添えた。遊行は、子供の正面に座る。
蚕月(さんげつ)、貴方に会わせたい方を連れてきました。ご挨拶なさい」
蚕月と呼ばれた子供は、初めて見た顔に興味津々と言った様子で、その銀朱色のまあるい眼で遊行を見つめた。そして天子に言われた通り、両手を膝の前に出し、深々と頭を下げて挨拶をした。
はじめまして(はじめまちて)蚕月(しゃんげちゅ)申します(もうちましゅ)
随分と舌足らずな喋り方ながらも、きちんと挨拶をするものだと遊行は感心する。先ほど女官たちが、「童子」と呼んでいたのはこの子のことだろう。白緑色の髪はふわふわとしており、前髪を結い上げた子供らしい髪型(この髪型の名前は分からないが、前に「ちょんちょりんこ」と呼んでいたのを聞いたことがある)をしている。側頭部と耳の後ろ辺りから、左右に計四本の小さな角が生えていた。まあるい眼は鮮やかな銀朱色。頬はまだ赤みがある。童狩衣に帯が縫いつけられた単をまとっている。喋り方も相まってかなり幼いようだ。遊行も礼儀正しい子供に応じるため、深々と頭を下げながら挨拶をする。
「こちらこそ初めまして、蚕月童子。俺は、辻ヶ先遊行といいまして、この森に住んでますが、諸国を旅しています。どうぞよろしくお願いします」
 お互いの挨拶を見届けていた天子は、声をかける。
「遊行、この蚕月は森の外はおろか、この竜宮から出たことがありません。同じ年頃の遊び相手もおりません。貴方が旅先から戻ってきた折には、この蚕月の話相手になっていただきたいのです」
遊行と童子はお互いの顔を見合わせる。
「それでは、私はこれにて失礼いたしますね。蚕月、遊行のお話をじっくり聞くのですよ」
そう言って、天子は立ち上がって行ってしまわれた。
 天子が去った後、遊行は脚を崩して口火を切る。
「さあて、蚕月童子。俺の話は畏まって聞くような、大した話なんかじゃありません。気楽に座ってほしい。俺もそうさせていただきます。わからないことがあれば、話の腰を折ってでも尋ねていい。わからないことがあると、その後の話が頭に入りませんからね」
そうは言っても、童子はきちんと座っている。遊行は正座から脚を崩して胡坐をかいた。
 遊行は昔の旅先の話を語りだす。


 これは、俺がとある街道の宿場町であった話です。宿場町に着いたのは正午の頃。俺は立ち寄った蕎麦屋で女将さんに話しかけた。
「女将さん、あっちから来たんだけど、次の宿場町まではどれくらいかかります?」
「あら、随分と男前な旅人だねぇ。先に進みたいのは分かるけど、この先には峠があってねぇ、しかも日が暮れると化物が出るんだ。どっかにでも泊まって、明日にした方がいいよ」
「化物?」
「昔はいなかったんだけど、ここ最近棲み着いたらしくてねえ。その化物は毒の息を吐いて、人を呑みこむっていう恐ろしいやつなんだ。まあ、おかげでこの宿場町は栄えるようになったんだけどさ」
ちなみに旅籠っていうのは旅人が泊まる宿のことです。
 その蕎麦屋で俺は、とろろそばと団子を食べながら考えた。化物に興味はあったが、もう少し化物の話がほしい。今日は(かれいい)やら焼きみそ、蝋燭に薬を買って旅籠に泊まることにした。餉ってのは米を干したもので、旅には欠かせない食い物ですね。
 俺は買い物がてら化物の話を訊いていたもんだから、日が暮れちまった。泊まる旅籠を探したんだが、旅籠どころか、木賃宿(旅籠は食事付きの宿で木賃宿は素泊まり専門の宿)ですら、どこもいっぱいだった。女将さんが栄えていると言っていたが、化物の話にどいつもこいつも早めに宿に入ったらしい。俺が途方にくれながら、一本裏通りを歩いていると、一人の女子が後ろから話しかけてきた。
「旅の方、今宵の旅籠は決まってますか?」
「いいや、どこもいっぱいで困ってる」
「それは難儀ですね。なら家に泊まりませんか?今は旅籠ではありませんが、昔は旅籠をしておりました。殿方お一人泊まる部屋はありますよ」
なんとありがたい申し出だ。俺はその女子の言葉に甘えることにしました。
 女子は一人で暮らしていた。俺は言った。
「あんた、人の往来激しい町で、一人暮らしはなにかと不便じゃないかい。ましてや俺みたいな大男泊めるなんて、いささか不用心じゃないか」
女子はあっけらかんとしながら笑った。
「ふふふ。その様に心配していただく方ならこちらも安心ですよ。悪い人ならそんなこと言いませんわ」
この女、中々強かである。どうやらこの女子は昼の蕎麦屋で手伝いをしており、街道をうろうろしている俺を見かけた女将さんが、俺を泊めるように言ったらしい。
 女子の家は、元々旅籠というだけあって大きかった。夕飯を食い終わって、女子に感謝すると、女子はぽつぽつと、己の身の上話をした。
「両親は小さいころに病で亡くなりました。それから弟と私、本陣屋敷で奉公しながら暮らしていました。年頃になると、奉公先で弟が問題を起こして、二人とも辞めさせられました。どうやら屋敷の息子が私を手籠めにしようとしてたようで、弟が殴ったようです。あくまでこれは人伝に聞いたものでして、弟はなぜ手を出したのか頑として言いませんでした」
俺は眉を顰めた。
「それから本陣屋敷の息子を殴ったとして、中々働き口が見つかりませんでした。ひそひそと陰口を言われたり、向かいざまに石を投げつけられることもありました。私はお蕎麦屋さんで働いて、旦那さんや女将さんにはよくしてもらっています」
女子は苦笑いしながら話を続ける。俺は黙って聞いていた。
「しかし、弟は働き口が見つからず、内職をしていました。何をやってもうまくいかない弟は、外へ出るのを嫌がり、家に籠るようになりました。優しい子だったんですけどね、だんだん人を小馬鹿にし、悪口を言いました。近所の不幸に対して自業自得と言ったり、大名行列で本陣への下賜が少なかったと聞けば、腹を抱えて笑いました。私は度々窘めましたが、弟は一切、聞く耳を持とうとしませんでした。それでもたった一人の家族の弟と一緒にいられるだけで、私は何も望みませんでした。ところが半年ほど前に、弟が急に出て行ってしまったのです。
 あの日のことは今でも覚えています。弟の虫の居所が特段悪かったらしく、『今俺たちがこんな目にあっているのは、お父とお母が早くおっ()んだからだ。そうしたら昔みたいに旅籠で暮らしていけたんだ』と言いました。私は、自分が上手くいかないのを、亡き父と母の所為にする弟にひどく情けなくなりました。『父様と母様は亡くなるその日まで、私たちを案じてくださった。そして、本陣の方々も町の方々も私たちを心配して、優しくしてくださったというのに、お前の身勝手でそれを踏みにじった。そしてお前は己を顧みず、人の所為にばかりする。お前はなんて人でなしなんだ』私は涙を流しながら、弟の頬を平手で叩いてしまいました。弟は驚いた顔をして、家を飛び出しました。私は、少し泣きじゃくり、亡き父と母の仏壇に手を合わせ、弟が宣ったことを謝りました。そして涙をぬぐって弟を追いかけました。町内の方々にも行方を訊いたのですが、誰もわからず、弟はそれっきり帰ってきてません。このところ化物も出ていますので、弟にもしものことがあったらと不安に思います」
俺は、女子の弟とやらはとんでもない奴だが、姉にとっては大事な弟であり、その姉弟愛を羨ましく思った。女子は俯いて涙目になった。いきなり髪に挿していた簪を抜いた。女子の髪が解け、ぱらりぱらりと落ちていく。そして顔を上げて、俺に訴えてきた。
「遊行様、お願いします。旅先で弟に、乙越宿(おとごえじゅく)の弥兵衛に会いましたら、この簪を渡してください」
女子は抜いた簪を俺に渡してきて、両手で掴んだ。それは縋るような仕草であり、その手は震えていた。
「そして、姉は息災で、お前の帰りを待っているとお伝えください」
俺はいろいろな所へ行ってはいるが、たった一人の人間を見つけるのは、藁の中から針を探すように大変だ。しかし、初対面の俺に頼ってしまうほど、必死な女子の気持ちを慮ると無碍にもできず、了承した。簪は懐紙に包んで懐にしまった。
 翌日、女子は昼の握り飯まで俺に持たせ、宿場町の門まで俺を見送ってくれた。別れ際に女子は言った。
「それでは遊行様、峠には化物もおりますが、道中お気を付けてください。万が一、弟に会ったときはお願いしますね」
「乙越宿の弥兵衛だったな。わかった。もし会った時にはこの簪を渡そう」
俺はそう言って、女子に多めの宿賃を支払った後、宿場町から去った。
 前日に食糧やら買った俺は、野宿する準備が整っていたので、峠の化物に会いに行こうとした。万が一危険な目にあっても、俺には懐剣賽ノ牙(さいのが)がある。件の峠に差し掛かると、その近くを探った。夜に化物が出るとなれば、近くに潜むための洞穴とかがあるのかもしれないと睨んだからだ。半刻ほど探っていると、どうにも禍々しい気を漂わせた洞穴を見つけた。俺はその場を去るふりをして、近くで野宿の準備をしながら、日が暮れるのを待った。途中で女子の握り飯を頬張ったが、その味はほんのりしょっぱかった。
 逢魔が時に近づいたころ、洞穴から恐る恐るといった様子で化物が出てきた。その姿に俺は目を見張った。それは大きな蠅のような姿をしていた。身は四尺(大体120センチメートルほど)はある。しかし、口の部分が蠅とは異なり、大きな口から漏れ出る瘴気と、二枚の舌が異様だった。腹のあたりは腐り、蛆が湧いている。翅はボロボロで飛ぶことは出来ないようで、六本の脚で歩いている。俺はそのツンとした臭いのある瘴気から逃れるため、鼻と口を手拭いで覆いながら、化物の風上へと回った。そして峠で化物の前に対峙した。
「おい、峠に現れる化物というのはお前だろう」
俺は懐から懐剣賽ノ牙を取り出しては構えた。蠅の化物は、刃物に恐れをなしたのか、多少怯んでいるようだった。
「俺を殺すのか?」
化物は、耳障りな声で俺に問う。
「別に。俺も半人半妖。人の味方ではないから妖怪退治なんてことはしない。ただ、街道筋の峠に現れるなんて邪魔なことはするな。此処を諦めて人気のない所へ移れ」
俺はそう言って地面を強く蹴った。化物は俺に向かって、勢いよく舌を伸ばす。その舌を避けると、今度は瘴気を吐き出した。俺は間合いをとるために後へと跳ぶ。そしたらシャランと音がした。着地して顔を上げると、簪が俺と化物の間に落ちてしまっていた。どうにか簪をとることができないか思案した。すると、化物が簪に向けて舌を伸ばした。俺はそれが壊されてはたまったものではないと、駆け寄るが、先に化物の舌は簪を優しく絡めとった。俺はなぜそのような行動をするのか、訳がわからずにいると、化物が大事そうに前脚の二本で抱えては泣き出した。
「あ、あねうえぇぇぇ。あね、あねうぇぇぇ。」
大地を揺るがすような、けたたましい叫びが峠に響く。その目からは涙が溢れていた。確かに俺は、化物が「姉上」と叫んだのを聞いた。魂消た俺だったが、確信した。この化物が、乙越宿の弥兵衛であると。
 しばらく泣き叫ぶ弥兵衛を眺めながら、俺は一つの仮説を立てた。弥兵衛は人を見下して人の悪口を言う、いわゆる”人を食ったような””毒を吐く””人でなし”の性格をしていた。それが、唯一の肉親でもある姉に叱られたその後、あまりの落胆に人肉を喰らい、瘴気を吐く、人でない化物となってしまったのだ。そして化物になった弥兵衛は、町に戻って姉に謝ることもできず、かといって姉のことが心配で町から離れることもできず、この峠で彷徨っているのだ。俺は叫んだ。
「弥兵衛!化物になってしまった人間は、人間に戻ることはできない!」
弥兵衛は俺の叫びに驚き、泣き止んだ。
「俺は、お前の姉上からお前のことを探すように頼まれた。姉上はお前の身を誰よりも案じ、お前の幸せを願っている」
弥兵衛は黙って聞いている。
「選べ。お前は身勝手に化物のまま生き永らえるのか、それとも今までの己を悔い改め、これ以上の殺生を犯さないように、町の人が、お前の姉が化物に怯えず暮らせるように死ぬのかを……」
俺は弥兵衛がどちらを選ぶのかをじっくり待った。すると弥兵衛は、頭を垂らして俺に請う。その前脚は簪を握り、中の脚は許しを請うように擦り合わせていた。
「姉上のことを思う今のうちに、俺のことを殺してほしい。姉上には達者で暮らすことを願っていると伝えてくれ……」
その言葉を聞いて、俺はできるだけ苦しませないように、賽ノ牙で弥兵衛の首を素早く落とした。
 俺は宿場町を見渡せる、人気のない所に弥兵衛の墓を作った。いつまでも姉を思う弟に、姉の暮らす様を見てほしいと思ったからだ。
 俺は、その旅の帰りに乙越宿に寄って、弥兵衛の姉に伝えた。弥兵衛は死んだと。姉に叱られたあの日、弥兵衛は働き口を探して江戸を目指していたが、道中で病に罹り、地元の人に見舞われながら亡くなった。死ぬその瞬間まで、姉に許しを請い、姉が幸せに暮らすことを望んでいたそうな。遺体はその地の寺に葬られた。簪はその寺の住職に渡したと。俺はそう嘘を吐いた。誠は言えなかった。言えるはずがなかった。弥兵衛の姉は泣き崩れ、俺に感謝をした。弟殺しの俺に……。


 奥座敷には永い沈黙が続いた。遊行と蚕月童子は俯いた。遊行はあの日以来、本当にこれでよかったのかと自問自答する日々を過ごした。弥兵衛を人間に戻す術は本当になかったのか。誰にも言えず、己の中でもやもやと渦巻いていた。今日初めて誰かに打ち明けたのだ。何故、初めて会った蚕月童子に、こんなことを昔話のように語ったのかは、遊行にもわからなかった。蚕月童子は遊行のしたことの分別もつかないだろう。だから、責められることも慰められることもない。ただ、遊行がこの童子に話したことで長年の悩みが昔話になったのだ。遊行は、こんな小さな子供さえも利用した己に自嘲した。
「さて、蚕月童子。こんなつまらない話を長々と聞いていただきありがとうございました。これで俺はお暇させていただきます」
そう言って遊行は笠を被り、道中合羽を羽織って立ち上がろうとした。すると蚕月童子は、合羽の裾を、その小さな手で握った。そして、今にも泣きそうな瞳で遊行を見つめた。
すごく(しゅごく)おもしろかったの(おもちよかったの)。あの、またお(はなち)にきてくれる(くえゆ)?」
そう言った蚕月童子は、合羽を掴んだ手を更にぎゅっと握った。その仕草は、遊行に行かないで、一人にしないでと懇願している。遊行は目を見開いた。この子供は遊行の話を、存在を必要としているのだ。遊行はその半人半妖の身の上であるために、誰からも必要とされずに生きてきた。寧ろ疎まれることが多かった。だから、一所に留まることを嫌い、彷徨う旅をしていた。
 遊行は再度座って、合羽の裾を握る蚕月童子の手を両の手で握った。そして、蚕月童子に言った。
「俺の話、また聞いてくれますか?」
蚕月童子は、こくりと頷いた。その目からは涙が今にもこぼれんとしている。すると、遊行は柔らかく笑いながら、蚕月童子の頭を優しく撫でた。その髪はなんとも柔らかく梳かれた触り心地だ。
「この辻ヶ先遊行、必ずや竜宮に立ち寄った際には、ここへ立ち寄りましょう。その時は童子の話もいっぱい聞いて、俺の土産話も聞かせましょう」
「本当?」
「ええ。天地神妙に誓って」
 それを聞いた蚕月童子は、泣きそうだった顔を安心したように破顔した。
「そうだ、童子。こういう約束は外ではこうするんですよ」
そう言って遊行は、己の小指と童子の小指を絡ませて指切りげんまんをした。
 こうして小さな森の小さな部屋で繰り広げられる、愛されないが故に自由な男と、愛されているが故に自由ではない子供の不思議な関係が始まったのだ。

しおり