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僕がやるべきこと ①

 ――アパートへ帰り着いたのは、夜の九時半ごろだった。
 篠沢家の大豪邸とは月とすっぽんの、六畳しかない広さのこのワンルームが、僕が社会人になってからの住まいだった。絢乃さんと婚約し、同居するようになるまでは。

「――う~~~~ん、どうすっかな……」

 スーツから部屋着のスウェットの上下に着替え、座卓の前に座り込み、僕はスマホを手に悶々としていた。
 
「せっかく連絡先交換させてもらったし、こっちから連絡した方がいいのかな……。電話……じゃビックリされるだろうから、メッセージ? でも、何て送ればいいんだ?」

 彼女からの連絡を待つという選択肢もあったにはあったが、多分彼女が男と連絡先を交換したのは初めてのことだったのだろうから、自分から僕に連絡するのには相当な勇気が必要だったろう。

 そもそも、彼女がどうして僕と接点を持ち続けようとしたのか、その理由が当時の僕には想像もつかなかった。僕がお父さまに受診を勧めたから……というのが彼女の建前だったことだけは分かっていたが、本当の理由が実は僕への好意だったと知るのは、その数ヶ月も先のことだった。

「……なんか腹減ってきたなぁ。パーティーの料理、食った気しなかったもんな……」

 とりあえずキッチンでお湯を沸かし、夜食にストックしてあったカップラーメンを作ってすすっていた。(わび)しいひとり暮らしの男の食生活なんてこんなものだ。兄みたく料理が上手ければまた違うかもしれないが、僕は料理が苦手である。

 ――その時だった。座卓の上に放置してあったスマホが鳴り出したのは。

「……ん、電話? わわわっ、絢乃さんから!?」

 まさか彼女の方から電話を下さるとは思っていなかった僕は、慌てふためき、飲んでいたカップ麺のスープが喉のヘンなところに入ってむせてしまった。
 水を飲んでどうにか落ち着いた僕は、早くなる鼓動(こどう)と闘いながら通話ボタンを押した。

「――はい、桐島です」

『あ……、絢乃です。さっきはありがとう。――あの、今、大丈夫かしら?』

 彼女の声は少し震えていた。きっと僕と同じように緊張していたのだろう。

「今自宅にいるので大丈夫です」と答えると、絢乃さんはどこかホッとしたように「……そう」と言った。

 彼女は帰宅されてすぐに、僕からの助言をご両親に伝えたそうだ。ただし、僕の名前は伏せたうえで。
 僕は名前を出してもらってもよかったのだが……。源一会長は社内の全社員・役員の顔と名前を記憶していらっしゃったのだ。当然、この日のパーティー会場にいた唯一の平社員である僕のことも覚えていて下さったはずである。

 僕がそのことをさりげなく伝えると、彼女は「知らなかった」と驚いていた。

「実はそうらしいんです。絢乃さんはご存じなかったんですね」

『ええ……』

 後から知った事実だが、源一会長はお家では仕事についての話をほとんどされていなかったそうだ。特に、社員や役員の個人情報は加奈子さんにも絢乃さんにも絶対にお話しされなかったのだという。彼女がご存じなかったのも無理はない。
 経営者――それも大企業のトップともあろう人が、社員の個人情報をペラペラと漏らしまくるほど口が軽いのもどうかと思うのだが……。その点では、口の堅い源一会長は優秀な経営者だったといえる。

 ――話が脱線し始めたので、僕は本題に戻した。

「――で、どうでした?」

 絢乃さんがお話しされた後、会長がどういう反応をされたのか。その後どうすることにしたのか。僕はそれを彼女に訊ねた。

『あ、うん。早速明日、大学病院でお友達の内科部長さんに診てもらうことになったって。わたしも付き添って行きたかったんだけど、「学校があるでしょ」ってママに止められちゃった』

 彼女からの答えに、僕は胸を打たれた。

 自分のたった一人の父親が重病かもしれないと分かったら、学校へ行くどころではない、父親の側についていたいと思うのは娘として当然のことだったろう。彼女は心優しい人だから、なおのことお父さまが心配で仕方なかったと思う。
 けれど、彼女はまだ高校生だった。果たして、父親の病名や余命を告知された時、正常な精神状態が保てるのだろうか? ……僕にはそのことが心配だった。加奈子さんにつらく当たるかもしれないという懸念(けねん)もあった。
 それに、義務教育ではないにしても、学生の本分は学業である。きっと学校にはお友達も大勢いただろうし、普段どおりに学校でお友達と過ごされた方がきっと彼女のためにもいいだろう。加奈子さんもそう考えたのだと僕は思った。

 なので、僕もあえて一人の大人として彼女を諭すことにした。

「そうなんですか……。絢乃さんもお父さまのことご心配でしょうけど、お母さまはあえて心を鬼にして、そうおっしゃったんだと思います。ですから、お母さまのことを恨まないで差し上げて下さいね」

『それは……、わたしだって分かってるけど……』

 彼女はちょっと不満そうにそう言った。どうやらお母さまを恨むつもりはなかったようだが、僕がご自分の味方についてくれるだろうとは思っていたようだった。
 僕だって、感情に流されていたら彼女に同調していたかもしれない。けれど、ここは心を鬼にして、彼女には現実を見つめてほしいと思ったのだ。

「ご一緒に病院へ行かれたところで、絢乃さんがお父さまのご病気を代わって差し上げられるわけじゃないでしょう? あなたが普段通りに過ごされる方が、お父さまも安心されるんじゃないですか?」

 僕は彼女の兄になったつもりで、彼女を諭した。が、途中から何だか自分でも説教臭いことを言っているなと思ったので、とっさに「……と、僕は思うんです」と取ってつけたように付け足して言った。
 ちなみに蛇足だが、僕は二人兄弟の二番目で、弟や妹はいない。

 彼女からの返事はなかったので、フォローの意味も込めて、次にはこう言った。

「もちろん、これはあくまでも僕個人の考えで、お父さまが本当にお考えかどうかは分かりませんけど。僕があなたの父親だったら、多分そうだと思います」

 僕はまだ親という立場になったことはない。が、もし将来僕自身が親になり、自分が当時の彼女くらいの子供を残して死んでしまうかもしれないとなったら、きっと源一会長と同じようなことを望むだろう。
 自分の命が尽きた後も、我が子には幸せな人生を歩んでほしい。そのためにも、自分の病のことで思い詰めないでほしい、学生時代の友人たちと有意義な時間を過ごしてほしい、と。

『うん……、そうね。そうかもしれないわ』

 彼女はやっと、僕の意見に納得してくれたようだった。翌日検査が終わったら、加奈子さんが連絡してくれる。だからちゃんと学校へ行って、おとなしく連絡を待つことにする。――彼女は腹を括ったようにそう言った。

「そうですね。その方がいいです。まあ、絢乃さんも落ち着かないでしょうけど、まずはご病気で苦しんでらしゃるお父さまを安心させて差し上げて下さい」

 落ち着かないのは仕方がないことだったろう。親が重病かもしれないのに、平然としていられるほど彼女は冷たい人間ではないはずだ。父親との関係が(かんば)しくないということもなかった。

『うん、そうするわ。桐島さん、ありがとう』

 ちょっと言い方が冷酷すぎたかな……と、僕は少し後悔していたのだが。彼女にお礼を言われたことで、救われた気がした。彼女は僕の意見を、キチンと前向きに助言として受け取ってくれたようだったから。

『――じゃあ、そろそろ切るわね。お風呂にお湯を張ってるところだったから。桐島さん、おやすみなさい』

 唐突に、彼女は少し焦り始めた。どうやら入浴前に電話を下さったらしく、バスタブのお湯がいっぱいになりかけていたようだ。
 僕も一応、オトコである。それまでの二十ウン年の間に、まぁそれなりに恋愛もしてきていたので、十代の女の子の入浴シーンを想像して興奮してしまうほど女性に()えていたわけではない。

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