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ー 予感 ー

————血の匂いがする。突然、意識がそう訴えた。
…ここは、どこの戦場?
わからないわ。とにかく、起きなきゃ。
しかし、瞼は鉛のように重く、開けることができない。

空気が揺らめき、目の前に人の気配を感じる。
ギリ…と、剣の切っ先が石畳を鳴かせた。…この人は敵?

「…どうして…。キミはどうして…っ、俺を選んだんだ…!!」
誰だろう。目の前の人が泣いている。
誰のものかわからない慟哭に、なぜだか安堵を覚えた。

せめて、指は動くかしら。
————ボトッ
何かが落ちる嫌な音がする。あぁ、これはきっと私の腕。
そういえば、肩口から脇腹までが熱くて痛い。
…治癒が発動していないということは、致命傷なのね。
わからないことだらけの状況なのに、頭はひどく冷静だ。

「キミが、世界の犠牲になる必要なんて…」

がらん、と剣を投げ捨てる音がしたかと思うと、優しい腕に包まれた。
ふわふわとした柔らかい髪が頬を撫で、耳元で嗚咽が響く。
…温かい。この温もりを知っている気がする。
この悲しくて甘い声も、逞しくて優しい腕も。ふわふわの髪も。
血の匂いに混じる花の香りは、きっとまたどこかで昼寝でもしたときに付けてきたのだろう。

…なぜ、そんなことを知っているのかしら。
訳がわからなすぎる状況が急におかしくなって、ふと、口角が上がる。
温もりに絆されたのか、ふわふわがくすぐったかったのか、重い瞼がようやっと開いた。

「…ありが、とう…。私の、願い…叶え、くれて…」
知らずに、唇から言葉がこぼれる。
「!?」
がばっと勢いよく体が離れ、ボタボタと血と内臓が落ちる音がした。

瞼は開いたが、目が霞んでよく見えない。
…変ね。さっきまでの痛みも感じないわ。
残っている方の腕を何とか持ち上げ、その人の頬に触れる。
すかさず大きな手が重なり、とく…とく…と脈動が伝わってきた。
震える手がなんだか可哀そうに思えて、すり…と頬ずりをする。

ねえ、幸せってこういうものじゃないかしら。
温かくて、いい香りがして。安心できる場所があって。
私だって軍人だもの。
魔獣(フォボス)に食い殺されたり、人間族(ヒト)の戦争に介入したり。
いつだって死ぬ覚悟をもって、戦いに臨んでいるのよ。

もしかすると、ちょっとだけ早いのかもしれないけれど。
…そういえば、お母様に会えるのかしら。
お顔は知らないけれど、わかるかしら?
お父様が愛した人。私を産んでくれた人。
でも、お義母様の大親友っていうくらいなんだから、きっとわかるわ。

世界が暗くなっていく。
これは瞼を閉じているのか、眼が機能を失ったのか。
ぎゅ、と固く手を握られるが、もう握り返す力は出ない。

「う…」
「もう、喋らないでくれ…。もう、もう…いいんだよ」
いつも私を甘やかす、穏やかな声。
そう、この木漏れ日のような声が大好きだった。

でも、だめよ。
言葉にしなきゃ伝わらないって、お父様はいつも叱られているもの。
自由のきかない唇で、なんとか言葉を紡ぐ。

「う、れし…の。あ…なた、うで…、…かで…おわ、れ、る…」
「…っ」
「あり、が…、」
「やめてくれ!!…俺はっ、俺は…キミを…っ」
嗚咽が言葉を詰まらせる。
ああ、どうか泣かないで。これは、貴方のせいじゃない。

「…あ、い…し、……ッッ」
ゴボッと勢いよく血を吐いてしまった。

————もう、声も出せないみたい。

「…っ。ノルン、俺は…」
骨張った指に似つかわしくない繊細な仕草で、優しく口元の血を拭ってくれる。

「俺は、フリッグの女神に誓う。キミだけを…愛している」
ふわり、と柔らかいものが唇に触れた気がした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「これで、光属性(アイテール)のイルミンスールは回復するだろう」
厳めしい男の声が、ようやっとだなとでも言いたげに、安堵の吐息を含ませた。

「…なぜ、この子が犠牲にならなければいけなかった?」
感情を堪えて問う。怒り?悲しみ?喪失感?
違う。…この子の願いを叶えてしまった自責の念だ。

神々の娘(レギンレイヴ)でしかイルミンスールは…」
「そんなことはわかってる!!」
遮るように叫ぶ。ノルン、と呼んだ女の遺体を抱えて。

「…お前たちが、この世界の命を奪ってきたんじゃないか」
「……」
厳めしい男は答えない。

「これからも、奪い続けるのか…?」
「……」
やはり、答えはない。

抱えた女の体から、遊色に煌めく美しい鉱石が、ピシリピシリと音を立てながら生えてくる。それはあまりに美しく、あまりに幻想的で、あまりにおぞましい光景。

「…なあ、教えてくれ…っ」
「俺たちはっ、いつまで…」
「いつまで、人間族(ヒト)の犠牲になればいい!?」

抱えた女の体は美しい群晶に埋めつくされ、そして、砕け散った。

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