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遺言…… ④


****

 ――二人を見送った後、わたしは父が休んでいる両親の寝室へ足を運んだ。

「パパ、具合はどう?」

「絢乃か。里歩ちゃんと桐島くんは?」

「さっき帰ったわ。ちゃんとお見送りしてきたから」

「そうか」と言って、父はゆっくり体を起こした。わたしは室内のソファーからクッションを持ってきて、父の腰にあてがった。

「ありがとう」

「ううん。――ゴメンね、パパ。せっかくのクリスマスなのに、こんな時だから何もプレゼント用意してなくて……。どこか痛いところがあったら、さすってあげようか?」

 わたしにできる親孝行なんて、こんなことしかないけれど……。そう思うと何だか切なかった。

「ああ、いいのかい? じゃあ……、背中を頼む」

「分かった」

 わたしはゆっくりと、父の背中をさすってあげた。父はゲッソリ痩せてしまっていて、背骨のゴツゴツした感触がわたしの(てのひら)にダイレクトに伝わってきた。
 これが死期の迫った人の背中なのかと思うと、わたしの胸がギュッと締め付けられた。

「パパ、痩せたね……。ゴメンね、わたしが代わってあげられなくて……」

 泣きそうな声でわたしがそう呟いたのが、父にも聞こえていたらしい。

「絢乃、泣かないでくれ。お父さんは、お前のその気持ちだけで十分嬉しいよ。プレゼントなんかなくたって、お前がそうしてお父さんのことを思いやってくれてるだけで幸せだ」

「……うん」

 わたしは鼻をすすりながら頷いた。

「そうだ。お父さんから絢乃に、とっておきのプレゼントがあるんだ」

「うん? なぁに? プレゼントって」

「……お前の手に、グループの経営に関する全ての権限を(ゆだ)ねる」

「え……? それって」

「つまり、だな。――お前に、お父さんの跡を継いで、〈篠沢グループ〉の会長になってもらいたい。お父さんに残された時間はあとわずかだ。絢乃、後のことはお前に任せた」

「…………えっ!?」

 あまりのことに、わたしは言葉を失った。こんなの、あまりにも早すぎる。そう思った。

「これは、お父さんの遺言だと思って聞いてほしい。お母さんも承知してくれてるから、お前は何の心配もしなくていい」

「ママも……承知してるの? ……えっ? でも他の親戚の人たちは……」

 母方の親戚――つまり篠沢家の一族の中には、グループ企業の役員を務めている人たちも少なからずいる。
 彼らは祖父が引退した時に母ではなく、父が会長に就任したことを快く思ってはいなかったらしい。とすれば、彼らの(ほこ)先がわたしに向けられるだろうことも、父には予想できたはずだった。

「それも心配ない。お母さんはこの一族の当主だ。お前が言えないことも、お母さんならガツンと言ってくれる。お母さんが守ってくれるから、安心していい」

「うん……」

 母は経営者でこそないものの、この篠沢家本家の当主である。その権力は絶大だし、他の親族をも黙らせられるだけの発言権と決定権を持っているのが強みだ。

「絢乃、サイドテーブルの抽斗(ひきだし)を開けてごらん」

「はい。――これって……」

 わたしは抽斗から取り出した封筒を凝視(ぎょうし)した。父が書いたと思われる、遺言状だった。

「それは、弁護士立ち合いのもとで作成した公正証書遺言だ。もちろん、法的に有効なもので、お父さんと弁護士の先生とで同じものを一通ずつ持ってる。それを見せれば、反対勢力も何も言えんさ」

「パパ……」

 彼らだって、いくらわたしの会長就任に反対でも法律まで敵に回したりしないだろう。そう父は言って笑った。

「そこに書いてある内容は、さっきお前に話したこととほぼ同じだ。グループの経営に関することは、一切(いっさい)を絢乃に一任する。グループ企業の土地や建物、株式はすべてお前に譲渡する。あと、お父さん個人の貯金などの財産は、お母さんと半分ずつ相続させる……とかな」

「ママは……、経営には関わらないってこと? お金だけ相続して?」

「お母さんは、それでいいって言ってるよ。この家や土地は元々お母さんの持ちものだし、お母さんがお前のお祖父(じい)さんから相続した財産もあるから、って。お父さんの財産だって、半分だけでも何億もあるからな」

「そう……」

 父の遺言は、わたしの想像を遥かに超える内容だった。そして、〝財閥会長の後継者〟というわたしの立場を改めて強調する内容でもあった。十代の女の子が託されるには重すぎる重責を、わたしは託されたのだ。

「お前には責任が重すぎるかもしれないが、お前はひとりじゃない。ちゃんと助けてくれる人がいる。……どうだ? できそうか?」

 父はわたしの目をまっすぐ見つめて問いかけた。
 本当は自信なんてなかったし、わたしには荷が重すぎると思った。けれど、父の跡を継げるのはわたししかいないということも、また事実だった。

「……うん、自信はないけど。わたし、精一杯やってみる」

「そうか! よかった。それを聞けて、お父さんは安心したよ。これで心置きなく旅立てる」

「…………」

 わたしの返事を聞いて、満足そうに顔を綻ばせた父。それまでこらえていた涙が、わたしの両目からポロッと(こぼ)れ落ちた。

「絢乃。……お父さん、ちょっと疲れたな。もう寝るよ。おやすみ」 

「……うん。パパ、おやすみ……」

 泣きじゃくりながら挨拶を返し、わたしは両親の寝室を出た。もしかしたら、父はこのまま目覚めないのではないかと、本気で覚悟した。

 母と史子さんにも「おやすみ」を言うため、わたしは慌てて涙を拭い、階下に下りた。
 それでも、涙は次から次と頬を伝い落ちた。リビングに着いた頃には、もう二人に「おやすみ」すら言えないくらい泣いていた。

「――絢乃!? どうしたの一体! そんなに泣いて……」

 わたしの泣き顔を目の当たりにした母は、血相を変えてリビングの入り口にいたわたしのところへ飛んできた。
 史子さんも何が起きているのか理解できずにオロオロしていた。

「お……っ、お嬢さま!? どうなさったんです!?」

「ぱ……パパが……、ゆいご……遺言じょ……っ! わた、わたしに遺言状書いたって……っ! わたしに……、後のことは任せたって……」

 わたしはしゃくりあげながら、父との間に起こったことを一生懸命母に伝えた。

「パパ、もう寝るって言ってたけど……。もう二度と目覚めないかも……。もうダメなのかも……。だから、わたしにあんなこと……!」

 そのままわたしは母の胸に飛び込み、(せき)を切ったようにわぁっと泣き出してしまった。

「ちょっと落ち着いて、絢乃! パパは大丈夫! 大丈夫だから……」

 母はそんなわたしの背中をあやすようにさすりながら、「大丈夫、大丈夫」と何度もわたしに言い聞かせてくれた。

「絢乃……、今日までよくガマンしたわね、偉い偉い! つらかったわね。もうガマンしなくていいから、思いっきり泣きなさい」

 母は分かってくれていたのだ。わたしがそれまでずっと泣くのをガマンして、努めて明るく振舞っていたことを。その裏に、抱えきれないくらいの悲しみが潜んでいたことも。

「――もう、落ち着いた?」

 数分後、目を真っ赤に泣き腫らしたわたしに、母が訊いた。

「うん……。ゴメンねママ、もう覚悟はできてたはずなのに。いざ現実を突きつけられたらもう、緊張の糸がプツンと切れちゃって……」

「ええ、分かるわ。ショックよね。『遺言状』なんてリアルな話を聞かされたら」

「ママもホントに知ってるの? 遺言状の内容」

「もちろん知ってるわよ。私とも相談したうえで、あの遺言状は作成されたんだもの」

 父の言っていたことは本当だった。母もあの内容に納得していたのだ。

「だから大丈夫よ、絢乃。ママはあなたの味方だから。里歩ちゃんも、桐島くんもね」

「桐島さんも?」

 なぜそこで彼の名前が出てくるのか、わたしは首を捻るばかりだった。
 けれど、わたしには心強い味方が三人もついているのだと思うと、何だか気が楽になった。
 だからこそその時、本気で覚悟を決めようと思えたのかもしれない。

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