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 ヒトエに着くと、入口に「本日休業」の札が出ていた。定休日はなく、たまに不定期で休む店ではあったが、氷彩が来るからと言って休みにすることもないだろう、と珠雨は若干の苛立ちを覚える。

「帰りました」

 どんな顔をして入ってゆけば良いのかわからず、微妙に固い表情になる。店内に入ると、電子タバコの匂いが漂っていた。禅一と氷彩が隣り合わせで腰掛け、何かを話している最中だったが、珠雨に気づいて会話が止まる。

「おかえりー! 珠雨、久し振り。元気そうじゃない」

 明るく大きな声を出している氷彩は、若くして珠雨を産んだのでまだ37歳だ。保険の外交員をしている。
 ちょいちょいと手招きをされ、近づいていったら、力強くハグされた。雨で服が湿っているのにやめて欲しい。肌にまとわりついて気持ち悪いが、氷彩は気にならないようだ。

「んー、大きくなったねえ!」
「三ヶ月やそこらで、大きくならないし。てか、成長止まったし」
「そっかなー。ねえ浅見、珠雨大きくなったと思わない?」

 ハグしたまま禅一に顔だけ振り向いて、同意を求めている。

「え、どうでしょう」
「あーもう、あたしの可愛い珠雨が、浅見と住んでるなんて。ずるいずるい! 浅見、珠雨に変なことしてなぁい?」
「何もしませんて。僕を何だと思ってるんですか」

 氷彩のテンションについてゆけず、珠雨はその腕を引き剥がして逃れる。そもそも段取りを付けたのは氷彩自身なのに、今更何を言っているのだろうか。
 しかし、先程から浅見浅見と連呼されて、唐突に珠雨の古い記憶が掘り起こされた。

「――んっ!?」

 のんびり座ってコーヒーを飲んでいる禅一を凝視する。

「どうしたの珠雨」
「……思い出した気が。禅一さん、もしかしてあざみちゃん? あの料理上手で可愛かった、あざみちゃんですか?」

 思い出したらしい珠雨に、禅一は一瞬気まずそうな顔をしたが、すぐに肯定する。

「うん。最初から僕は浅見ですって言ってるじゃない」
「いや、あざみちゃんて、普通に下の名前だと思ってたから……女の人なのかと」

 確かに、昔一緒に暮らしていたことがある人物の中に、「あざみ」はいた。けれど、その人と現在の禅一を同一視出来ない。

 あの時珠雨は確か小学校の低学年ぐらいだったが、母の友人がシェアハウスのような感じで住んでいると思い込んでいた。髪が長くて目が印象的な、可愛い人だった。眼鏡も掛けていなかったし、だいぶ印象が異なる。印象というより、性別を誤認していた。

 禅一は確か今31と言っていた。はっきりとした時期を思い出せないのでなんとも言えないが、実際に暮らしていた時、彼はハタチそこそこだったのではないだろうか。どれだけ若い男を誑かしているのだろう。いや、当時は氷彩も20代だから、いいのか……頭がぐるぐるする。

「何それウケる。珠雨、浅見のこと女の子だと思ってたんだ」
「え、僕は別にそういう意識は……諸事情により髪が長かっただけだし」
「いやーでも確かに、ちっちゃい子にしたら勘違い要素あるよね。全体的に、雰囲気がね。何この華奢な体。ほっそいなー。そのくせ背丈はそれなりにあるという。少女漫画か」
「氷彩さん何言ってるんですか」

 面白そうに再び禅一の隣に腰を下ろすと、掛けている眼鏡を取り上げる。

「睫毛とか長いしさぁ。男性ホルモン少ないからかな、肌も綺麗だしね。昔は髪染めたり、カラコンとか普通にしてたのに、そういうのやめちゃったの? 随分普通っぽくなったよね」
「芸能人でもない三十路の男がカラコンはイタいでしょう。見えないから眼鏡返してください。あと余計なこと言わない」

 嫌そうに眼鏡を奪い返し、すぐに掛け直す。禅一は立ち上がって話題から遠ざかり、意味もなく業務用の冷蔵庫を開けている。
 珠雨は軽いショックからなんとか復帰して、手に下げていた袋の存在を思い出した。

「――あっ、デパ地下のお惣菜買ってきたんだ。禅一さんこれ、冷蔵庫開けたついでに仕舞っておいてください。……お母さん、今日は何時頃帰る? 夕飯は食ってくの?」

 帰り際言われて購入した物を袋から出しながら、氷彩の顔を伺う。珠雨の様子は見れたのだから、もう帰って欲しかった。母のことは嫌いではないが、たまに鬱陶しく感じる。久々に会った母に対して冷たいとは思う。だが、溺愛し過ぎて過干渉な時があるのだ。

「泊まるに決まってるでしょ。ママ今日と明日はお休み取ったんだもんね。遠路はるばるやってきた親に対して、その態度はどうかと思うわ。……ね、浅見。泊めてくれるでしょ」

 にこっと笑った氷彩に、禅一は少し困ったように曖昧な返事をする。

「まあ……いいっちゃいいですけど」

 なんだか氷彩と禅一の力関係が見えるような気がした。珠雨には敬語は止めて欲しいと言ったくせに、自分は氷彩に対して敬語だ。仮にも元妻に対して敬語なのだ。

「大丈夫。浅見の部屋に泊まるなんて言わないから。ソファでもいいし、珠雨の隣でもいいし」

 この年になって母と布団を並べて寝るなんてことはなかった。氷彩のきらきらしたネイルの指が、思わず寄ってしまった珠雨の眉間のしわをぐっと伸ばした。

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