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第6話 其れを目の当りにした際は是非「けゃー」と

 鯰(なまず)は、水の中に体を沈めた。丁度よい頃合に濁った水だ。鯰はこのくらいの濁り加減が好きだった。その水の濁り具合は、鯰の元いた場所を思い出させる。その場所を、何と呼べばよいのだろう。冥界? カオス? 天地開闢のはじまりの海?
「だいたいさ」ともかくも鯰は体をうねらせながら、また独り呟いた。「性格占いを血液型に固執するのとか、そうだよね。よりシンプルな形式に収束して、簡単に分かりやすい方に持っていこうとする。そーんな単純なもんじゃないのにさ」濁り水の中を悠々と、どこまでも泳ぎ進む。「そのくせ言葉遣いだけはやたら難しげにしたがる。『方向性が違う』とかって。方向『性』って? 方向が違うんじゃなくて?」
 水の中は、夜のようだった。鯰は夜が好きだ。とはいえ、昼というものを最後に見たのがいつだったのか。もう思い出すのも億劫なほど、それは遠い昔のこととなっていた。
「それに若い奴ってのは、種別は何であれ、間違う事を恐れない。次行こ次! ってなっちゃうのよね。散らかしっ放しで。後始末もしないでさ。けゃー恐ろしい」ひとしきりぶつくさ言い終えた後、鯰は黙って泳いだ。しばらく泳ぎ、それからもう一度「けゃー」と発音した。
 それは水中に棲む他の生物たちに対して、充分な威嚇、脅威となった。

     ◇◆◇

 研修は、昨日突如として途切れた箇所から再開せざるを得なかった。天津はふうぅ……と長い溜息をつき、心中を整えてから話を切り出した。
「ひとつ確実に言えるのは……人間という存在が、地球の生物エネルギーの自然なサイクルに、大きな変革をもたらした、という事ではあります」いつものぼそぼそした喋り方で、淡々と告げる。
「ほう」例によって唯一声高に反応したのは結城だった。「変革」
「はい」天津は頷いた。「いわゆる弱肉強食、食物連鎖、というサイクルを、人間の編成した新たなるシステム――農耕というものが――極端に言うと、かき乱したわけです」
「ほうほう」結城は腕組みしさらに頷いた。「我々は罪を犯してしまったのですね」
「――」天津は何もコメントしなかった。
 何しろまたゴツンと来られては困る。まだ今日の研修は始まったばかりだ。
「ならば我々は定住せず、ずっと狩猟採集生活を続けるべきだったのか」時中が眼鏡の奥の眼を細めて述べたが、その表情を見た瞬間その心中に「まさか。冗談じゃない」という続きがあることが解った。
「けれど、それもまた自然をかき乱す結果となるものだったのではないでしょうか」本原が疑問を口にする。
「え、どうして?」結城が眼を丸くして訊き返すのと同時に、天津もまた驚いたような眼で本原を見た。
「だって人間って、狩りをする対象の動物たちよりも小さかったり弱かったり遅かったりするじゃないですか」本原は答える。「本当なら、人間って猛獣の餌になる側の生き物なんじゃないでしょうか」
「それはそれ、叡智の結晶だよ」結城が得意げに指を立てる。「我々人間は、道具というものを発明したからね。飛び道具とか、罠をしかけるとか」
「だからです」本原は頷く。「農耕のシステムもですけど、狩猟採集だけで生きてきたとしても、人間は次々に新しい武器や罠を作り出して、自然のサイクルをかき乱したに違いないと思います」
「おお」結城と天津は揃って声を挙げた。「確かに」
 時中は無言で無表情だった。
「なんで人間だけが、こんなに脳みそ発達しちゃったんだろねえ」
 結城が暢気に発した言葉に、天津は大きく息を吸い込んだ。時中が眼鏡を光らせ、その研修担当の反応に視線を送る。
「あ、いや、まあそれは置いといて」天津は時中と眼を合わせず言葉を継いだ。「じゃあ岩石関連の地球の歴史の続き、やっていきます」

「お疲れ」
 木之花の労いの言葉に片手を挙げる所作のみで応え、天津はオフィスチェアにどっかりと深く腰を下ろした。
「予定通りに進んだ?」木之花が続けて訊く。
「んー……何とか、午後からは儀式の方に移れそう」天井に向けふうぅ……と息をつく。「疲れたあ」
「何がそんなにやりにくいの?」木之花は肩を竦める。
「いや……」天津は両手で顔を覆いしばらく置いた後、再び手を下ろして「今回の子たち……かなり、穿ってくるのよ」と答えた。
「穿ってくる……って、真実を追究してくるってこと?」
「うん」頭の後ろで腕を交差させ伸びをする。「どこまで知らせとくべきなのか……その返答次第でまたガツンやられやしないのかって、もう脳細胞パンク寸前くらい気ぃ使うのなんの」
「はは」木之花はしかめ面で笑う。「お疲れ」
「咲ちゃん」天津は頭の後ろで腕を組んだまま木之花を見た。「俺を、癒してくれよ」
「まだ日が高いわよ」木之花は窓の外に眼をやる。
「え」天津は腕を解き椅子の上で身を起こした。「それって、じゃあ夜になったらOKってこと?」
「鯰に頼めってこと」木之花は眼を細めて答える。
「――」天津はがくりと肩を落とした。「ですよね……」

     ◇◆◇

 岩は、静かにそこに存在していた。
 岩が何かを想っているとしても、誰もその内容を知ることはできないのだ。岩は、不動だ――少なくとも人間の眼からは不動であるように見えるのだろう。『無機物』と名付けられる所以だ。そう、岩からは、何も生産されることはない――人間たちは多分、そのように想っている。
 だがそれは違うのだ。岩は、少なくとも今に至る少し前――惑星レベルの時間概念から見れば――まで、次々に生み出していた。それが世界となり、最終的に人が生まれ出た。
 生まれ出た――だが岩は、そこで(比喩的に)首を傾げる。人間たちを生み出したのは、果たして自分なのか? と。もしそうだとしたら、なにゆえに? 一体何をさせる為に、自分はそれを――神に似た姿かたちで、生み出したのだろうか?
 神――
 岩は(比喩的に)溜息をつく。そうだ。人間を生み出したのは、自分ではない。神たちだ。そうだ彼奴らは――何を想ってか、人間が必要だと判じたのだ。そこが、わからないのだ。わからない、そのことに岩は、溜息をつかざるを得ないのだった。何故なら――
 太古、神を生み出したのは――神が生まれ出るのを許したのは、岩自身であったからだ。

     ◇◆◇

「もし珪藻岩の中で奇跡的に生きてるケイソウがいたら、びっくりするだろうなあ」結城は弁当を頬張る時も話を止めずにいた。「あれっ、俺どこにいるんだろ、ここは一体……って、うわっ周り全部死体じゃねえか! ってさ」
「死体というか、カラ、ですよね」本原がプラスチックのカップに入ったオレンジジュースをストローで吸い上げる口を止め言葉を挟んだ。「カラだけなら、そんなにびっくりしたりもしないんじゃないでしょうか」
「そうかなあ、でもあたり一面だぜ。いくら仲間のものとわかっていても、やっぱり不気味だろうよ」
「人間に例えるならば差し詰め、洋服があたり一面脱ぎ散らかされているところに突然存在することになるのだろうな」時中がいち早く完食したコンビニ弁当の殻をポリ袋に入れながらコメントした。
「それなら、まったく不気味ではないですね」本原がその光景を想像しているのか否か判じかねる程に目線を毛の一本分も動かすことなく応えた。
「えー、でもさ、じゃあそれが、普通の服じゃなくって、パンツとかだったら?」結城は若干むきになって言い募った。「はき古しの」
「いやだ、下品」本原がジュースを飲む口を止め、顔をしかめた。
「下劣だ」時中も小鼻に皺を寄せ吐き捨てるように言った。
「だってさ、結局そういう事じゃないのよ」結城は興奮した時の癖で声を裏返らせ女言葉になった。「カラっていったらパンツよ。普通」
 時中と本原は不快そうな表情のまま何も返答せずにいた。

「はい、では皆さん、ここからは、実際に皆さんに行っていただく“イベント”の手順というものについて、学んでいただきたいと思います」
 昼休憩明け、天津は三人の新入社員を見回しながら説明した。
「大雑把に言いますと、イベントの目的は、これから岩盤に手を入れ、開き、ある程度破壊を伴う工事を行いますという、事前報告というものになります」
「地球に対する報告ですか」時中が質問を入れる。
「――」天津は時中に視線を移し「そうです」と答え、頷く。
「単なる報告、ですか」時中はもう一度訊く。「それとも事前許可申請ですか――つまりそれに対する返答が、何らかの形で返ってくるのですか」
「――」天津は少しだけ微笑を浮かべ「はい」と頷く。「仰る通り、報告というよりも実際のところは許可申請ですね。返答は……ほぼその場で、返ってきます」
「ゴツン」時中が間髪を入れずに指摘する。「の、ような?」
「――」天津は微笑した顔を凍りつかせたまま「はい」と答えた。
「その結果が」時中は更に続ける。「労災保険や慰謝料になる、と」
「ああ」天津はそこで口に拳を当て咳払いした。「そういう事には、なりません――というか、させません」
「というと?」時中が問う。
「無論そういう時には我々が、全力でお守りしますので」もう一度、にこりと微笑む。「皆さんには怪我ひとつ、させませんよ」
「ありがとうございます」本原が両手を机の上に重ね、僅かに頭を下げる。
「まことに恐れ入ります。どうぞよしなに、よろしくお願い奉ります」結城は勢いよく深々と頭を下げ、こ、と僅かに机に額の触れる音が聞えた。
「本当に、ですか」時中は一人、疑いを払拭できずにいる様子だった。「間違いなく、我々の命の保証はしてもらえるんですか」
「はい」天津は眼を閉じ深く頷いた。「我々の生命に代えても」
「具体的に、どういった手段で?」
「まあ、いいじゃないか時中君、その時にならないとそれはわからないだろう」時中の執拗なまでの問いかけを、結城が諌める。
「そんな軽い気持ちで挑めるのか、君は」時中が、今度は結城を攻める。「命が懸かっているんだぞ。命だ」
「仕事というのは何の仕事であっても、命を懸けるものだろう。違うのか」結城は己の胸部を手で抑えつつ論じた。
「そういう一般的な精神論とはわけが違う、というか、今時どんな仕事であってもそんな精神論はないぞ。精神論なんて、ない」
「精神論自体はあると思います」本原が異を唱える。「ただ命を懸けることを会社から強制されるのは法的にあり得ないですよね」
「そういうことだ」時中が勝ち誇ったように結城を指差す。「法的にあり得ない」
「まあまあ」天津が空気を両手で抑える。「もちろん命を懸けることを会社が強制することはまったくありません。皆さんの命の保証は我々が」
 その直後、三人の新入社員の周囲にほの白い光がふわりと生まれ、心地よい暖かさと芳香が三人を包み込んだ。
「あれ」
「何」
「まあ」
 三人はそれぞれ虚を衝かれ驚きつつも、深い安堵の感覚に瞳を閉じ息を吐いた。
「神力にかけて、お守りします」柔らかく、天津の声が三人の耳に響いた。

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