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空気には微かな匂いがついていた

雪印パーラーを出て、大通り公園まで歩くとベンチに座って一息ついた。空は青くて広く、札幌テレビ塔の時刻は午後3時15分と掲示していた。私たちが座っている隣のベンチには若い恋人が手を繋いで話し合っていた。鳩が三匹餌欲しさに近づいてきた。潤子は鞄からデジカメを取り出すと、鳩に向けてシャッターを押した。
「潤子、そんなに鳩が珍しいの?」
「うん、こんなに近くまで鳩を見たのって初めて。とてもキラキラして美しいわね」潤子は真剣な表情でカメラの角度を変えて撮影している。
「小樽に行った時に、水族館にも足を伸ばそうか。潤子、動物大好きだったんだね」
「うん、でもやっぱり一番関心があるのは人間かな。とくに赤ちゃんは何時間見ても飽きないものがある。ずっと触っていたいなあって思う」潤子はカメラを私に向けて、シャッターボタンを押した。
「それから、みつきもね。あなた、とっても魅力的よ。なんか親近感を抱いちゃう。私のお姉さんっていうか、それかどこか遠くの惑星から来た未確認生物みたいな感じ」
「なんか、わたし、お化けみたいに思っている?」
「ふふふ、ちょっと言い過ぎたかな。でも本来人間って、お互いに違うところばっかしだし、こうして知り合えることって、ほんと奇跡なんだって感じるの。こうして当たり前のように、生きているけど、それも素敵なことだよね。だって、今こうしている間にも、肉体的に、精神的に苦しんでいる人がいて、病気を抱えて、死の恐怖に怯えている人だっているんだから。そのことを考えると、私たちって、とても幸福で、この時間を大切にしなければいけないんだってそう思うの。それに、人類が進化して、宇宙の小惑星にロケットを送り込めるほどの科学技術があるのに、たった一人の人を幸せにすることができないなんて、いったいどんな進展なんだろうって。つくづくこの人類って不思議な存在だよね。巨万の富を有している人がいる一方、貧しくて高架下のベニヤ板でできた家に住んでいる人がいる。でも、考えてみると、生きていることに変わりはないんだよね。たくさんのお金を持っていても、たいして私たちと同じような生活を送っているに過ぎないってことがわかる。同じ1日があって、同じ一生がある。私思うんだけど、例えば残りの人生が今日で終わるとして、あと1日生きることができるんだけど、その代価が一兆円だとする。きっと、それだけのお金があったら、支払うんじゃないかな。それと一兆円貰える代わりに視力を失うことになる。それでもそのお金の代価に視力を失うことを喜ぶだろうか?きっとそんなことはないよね。ということはその視力は一兆円以上の価値があるということだよね。私たちは、お金には代えられないとても素晴らしいものを持っている。それなのに多くの人たちは、その事に気づいていない。自分自身という肉体よりも低能で陳腐なものをかき集めている。私、思うんだけど、小説って、物語って、そんななかにあって、唯一どんなものより貴重なものなんじゃないかと感じるの。古本屋で小説が一冊百円で売っているけど、正直、百円のカップラーメンと同じ値段なんて、どうかしているんじゃないかと思う。その小説には人生を変えてしまうほどの素晴らしい体験をすることができる。映画館で上映される映画が大人1900円だけど、小説ってそれ以上の価値があるんじゃないかな。そして本当に凄い小説は、自分の心に響いて生き方を新たに方向づけさせてしまうほどの威力がある。世の中ってほんと不思議。この世界には面白いことで溢れてる。それなのに自分の命を絶つ人がいるって悲しいことだよね」潤子は鳩の様子を見つめながらカメラのシャッターを押した。
「そうだ、これから絵を見に行くんだよね。いろんな作家さんの絵を見られるなんて凄い楽しみ。まだ経験は浅くても、自分の全てを出しきってキャンバスに描くなんてほんと素晴らしいことだと思うわ」
「そうなの。私のアパートにも五作品壁に貼ってあるんだけど、なんか悩みとかあるときに、その絵画を見ると答えが現れてくることがあるんだ。現実の風景以上にリアルって言うのかな、そこからなにか創造を越えたものがインスピレーションとして訴えかけてくるの。まるでひとつの実体をもった生命体って感じかな。じっと何十分も見つめていると、その風景が動き出したり、気づいていなかった部分に焦点が向かったりして、絵から離れた後も頭のなかでその情景が残っているの。それだけじゃないの。眠っている時に、その絵の風景の中に入り込んで、体全体でその絵画に包み込まれているような錯覚になって、なんとも言えない穏やかな気持ちになるの。それってとても清々しくて、森のなかに入って、精一杯空気を吸い込んだような、とても気持ちの良い気分になるの。きっと、画廊に行ったらその気持ち分かると思うわ。楽しみにしていてね」
私たちはススキノに向かった。画廊は中島公園の隣にある。レンガの赤茶けた外観の立派な建物だった。その画廊の姿を見るだけで心が躍ってくる。様々な人たちが描いた、新鮮な作品を見て、そこから新たな気持ちとか感動とかを得ることができるのだ。
画廊の入り口には大学生らしき人々が楽しそうにおしゃべりしていた。私たちはその間を抜けて、画廊に入った。最初に目に入ったのは、満天の星空を描いた大作だった。私たちはその絵に吸い込まれそうになった。なんて美しいんだろう。まるで、実際の星空以上に心に訴えかけるようなものだった。漆黒のなかに浮かぶ沢山の星。その一つ一つを描くとき、きっと作家は思いを込めて描いたにちがいない。
「みつき、凄いね。この作品を描いた作家さんってどんな人なんだろう?とても心が広くておおらかな人なんだろうね。こんな雄大な世界を実際に形作るなんて、根気もいるだろうにね。なんか描いている情景が思い浮かぶな」潤子はその星空を描いた絵画に近づい手を伸ばした。まるで星を掴むかのように。そして右腕の拳を握りしめて胸に当てた。そして、フーッっと息を吐いて満足そうに微笑んだ。
「絵って凄い。ここまで私の心を虜にすることができるなんて、今まで感じたことがなかった。みつき、ありがとう。とっても感謝するわ。小説ばかり読んでいたけど、それと同じくらい引き込まれた。絵の力って凄いね。ここまで私の心に影響するなんて思ってもみなかった」
私たちは名残惜しそうに、絵画を見てまわった。ひとつひとつの作品には心を動かさせる何かがあった。この画廊の支配人が厳選したものなのだろう。値段も五万円前後から十五万円ほどと一般の人にでも手がとどくものだ。そして一番奥に飾っている絵に向かった。私と潤子はその絵を遠くから見ていたのだけど、その絵画がなにかを訴えかけているような、まるでテレパシーを送られているみたいに、視線がその絵画に引き寄せられていくことがわかった。私と潤子は無言でその絵画に近づいていった。一瞬、空気が真空のような状態になって、全ての音が無くなったような錯覚になった。まるでその絵画が全ての音を吸収したような感じを覚えた。その絵は私たちに語りかけているようだった。少年と少女が手を繋いでいる。その背後には沢山の大人の人たちが忙しそうに歩いている。誰もその手を繋いだ少年少女に気づいている人はいない。みんな自分の考えで精一杯だからだ。そして大人の後ろには高層ビルが建ち並んでいる。潤子はその絵画のすぐ側まで歩いて行って、その絵画を間近で見つめている。その少年と少女の姿を真っ正面から見据える。とても心に響いたような様子だ。一言も発しないで、驚いたというか、唖然としたといったらよいのだろうか、真剣な眼差しで見つめている。周りの空気は依然として真空状態で、何の音もしない。私もその絵画に近づいてじっくりと見つめる。圧倒的な存在感といったらよいのだろうか、その少年と少女は私たちに訴えかけている。僕たちはこの大人が支配する、大人が決めた社会で生きていかなければならない。僕たちには、僕たちが作る社会が、この大人たちには受け入れられないことがわかっている。でも僕たちは戦っていかなければいけない。たとえ負けるとわかっていたとしても。その少年と少女の眼差しは、そう語っていた。潤子の目にもそう写っていたのだろう。潤子の瞳にもその少年少女と同じ思いが照らし出されていた。
「この絵、私買うことに決めたわ」潤子はまだ、この少年少女から目を離さずに言った。値段の表示を見ると、五万六千円と書いてあった。
「潤子、財布は大丈夫?」私はそのことが気になった。
「うん。今まで貯めてきたお金があるから。それよりもこの絵、本当に私の心を動かさずにはいられない。こんな衝撃を受けたのは初めて。どんな人と出会ってもこれほどのインパクトは受けなかったわ」潤子は考え深そうに息を吐いた。私もこの絵がとてつもない人の心を動かすほどの強さをもっていることに感動を通り越した、それでいて潤子がこの絵を買えることに喜びを感じていた。
「お店の人に伝えよう。潤子、いいわね」
「この絵が私の部屋に飾られるなんて、想像しただけで震えそう。モナリザなんかよりこの絵の方が私にはとても価値のあるものだと思う。私にとって、お金では換算できないほどのものがあるわ」私はこの絵の横のプレートに作家の名前が書かれていることに今気づいた。サクラ、とカタカナで名前がふっていた。
「サクラさんか。この人の他の作品も見てみたいな。どんな人なんだろう。きっとこの絵からして、社会に対して不満があることは間違いないわね。子供の心をもった、純粋さを大人になった今でも忘れない人なんだろうね。できれば会って話してみたいな。みつき、そう思わない?」
「そうだね。私もこの絵気に入った。きっと潤子の部屋の壁にかけられた、この絵を見るためだけに訪れるようになるのかもしれない。ほんとどんな人が描いたんだろう。気になるわね」
「ここの画廊の担当者に聞いてみよう。きっと詳しいことを知っていると思うわ。他の作品も気になる」潤子は遠くに立っている画廊の担当者とおぼしき人を見つけて歩いていく。私も潤子の後を追いかける。
「どうもこんにちは。画廊の人ですか?」潤子は言った。
「はい。そうです」すらりとした、三十才くらいの素敵な笑顔を浮かべた女性だ。潤子のような小学生に対しても、深い敬意を忘れない、りっぱな人だ。
「あのう、聞きたいことがあるんですけど。あそこの飾っている絵についてなんですけど、とても気に入って、買いたいんですけど」
「かしこまりました。手続きをいたしましょう。芹沢と言います。どうぞこちらに」そう言って、私たちをロビーの隣にある応接室に導いた。そして私たちをソファーに座らせてから、にっこりと笑顔を見せた。
「少年と少女、と言う絵ですね。サクラさんが描いた、とても素晴らしい絵画です。実は今日初めて画廊に展示したものなんです」
「そうなんですか。とても気に入りました。とても美しくて、魅力的な絵ですね」私は言った。
「お嬢様、お名前はなんておっしゃるんですか?」芹沢さんは言った。
「うるこです。潤うに子供の子です。十二才です」
「珍しい名前ですね。でも、とても素敵。親の愛情が込もってますね」
「あの絵、心を動かされました。サクラさんは北海道在住ですか?」
「はい、札幌に住んでいます。二十二才の大学を卒業したばかりです。とても感性が鋭い人ですよ」
「お会いすることはできないでしょうか?私はみつきと申します。東京で出版社の編集者をしています」
「そうですか。私から会えるかどうか、連絡をとってみます。北海道には旅行で?」
「ええ、実は私札幌出身で。休暇が取れたので、潤子を連れて。ここの画廊は初めてじゃないんです。それにネットでこの画廊のサイトで絵も買ったことがありまして。とても素敵なところだなって興味があるんです」私はここに来れてほんとに幸せだった。
「そうですか。北海道には才能溢れる画家が沢山いるんです。まだ、新人が多いんですけど、そのなかでもサクラさんは将来日本を代表する画家になれるだろうと見込んでいるんです」
「少年と少女。とても気に入りました。五万六千円で買えるなんてとても破格ですね」潤子は言った。
「はい。彼女が描く絵は、どれも訴えかけるものがあります。きっと他の作品も気に入るでしょう」
「会えるのが楽しみです」潤子は両手を握りしめて、晴れやかな、恋する人に対するような笑みで言った。
「では、早速、購入の手続きにしましょう。お支払は現金で?」
「ええ、今払います」潤子が丁寧語で話す様子には可笑しさがあったけど、ちゃんと人に対して、わきまえているんだなあと、ちょっと尊敬というか、彼女のことを誇らしく思った。それから潤子は住んでいる横須賀の住所と携帯番号を伝えて、財布から、きっかり五万六千円を揃えて、芹沢さんに渡した。
「確かにお預かりいたしました。サクラさんにも携帯の番号をお伝えしてもよろしいですか?」
「ええ、お願いします。連絡がくるのを待っています」
私たちは芹沢さんと雑談を交わした後、画廊を出て、狸小路商店街を歩いた。左右には様々なお店が並んでいる。美味しそうな味噌ラーメンの香りが漂っていたので、その店に入ることにする。
「なんか懐かしいな。潤子、味噌ラーメン食べたことある?」
「ううん、無いな。ラーメンってあまり、お店で食べたりしない。私、餃子が大好きで、いつもお母さんに作ってもらうの。それにお父さんの豚汁、これが凄く美味しいの。きっと毎日でも飽きないと思う。これはみつきにも食べさせたい」
「へえー、楽しみ。ところでサクラさんの絵、どこに飾るの?お店に?それとも潤子の部屋に?」
「それが今悩んでいるところ。どっちにしようかなって考えている。私だけが独占するような絵画ではないってことはわかっている。いつも側にいたいってことは思うんだよね。でも人にも感動して欲しいっていう気持ちもある。悩むなあー」潤子はカウンターの席で、出された水を一口飲んでから、眼鏡を外した。
「私は海老味噌ラーメンにする。潤子は何にする?」
「私も同じのする。海老味噌なんて初めてだわ」
店内は中国語を話す家族連れや、英語を話す人たち、楽しそうに観光を楽しんでいる人たちで溢れ返っていた。空気には、ラーメンの匂いだけでなく、その人たちの母国の揺るぎない、祖国の香りがまとわりついているように感じた。潤子には、横須賀の、微かではあるけど、アップルパイの甘酸っぱい、懐かしい匂いが時空を越えて漂っているような感じがした。私にはどんな匂いが付いているのだろう。東京の匂いだろうか。わかることは無臭ではないということ。でも自分では感じることができないのではないか、他人から言われて初めて気づくのではないか、そんな気がした。


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