バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

 美術室に入ると、そこには一人の女子高校生が座っていた。
 長い黒髪がよく似合う少し幼げな後輩である。名前は神奈月遙で、今年の四月から俺は彼女にお世話になっている。

 俺に気づくと神奈月遙は人懐っこい笑顔を浮かべた。
 茶色のブレザーと赤を基調としたチェック柄のスカートがよく似合っている。しかし随分とスカートの丈が短い。

「さあ見てください!」

 次の瞬間、神奈月遙はいきなり足をおっぴろげた。ほとんどの男が反射的に目を覆うだろう。無論俺もドアを閉めた。

「……あのー先輩、ちゃんと見てくれません?私がこういう事してるのは先輩のためなんですよ?」
「それはそうなんだが…」
「なんでやらないんですか?この前はやったじゃないですか!」
「いや心の準備が」
「ほうほう……つまり気分じゃないとか言うんですね、ヤル気がないって言いたいんですね!私あなたのファンだからこんなことしてるのに……都合のいい時だけヤるなんてサイテーですよ!!」
「おい言い方ァ!!!」

 勢いでドアを開けながら俺は敗北を確信した。
 俺と相対した神奈月遙は「しめた!」と言わんばかりに、満面の笑みを浮かべて一言。

「はい!パンチラしてませーんw」

 意図せず制服のスカートから伸びる白い脚に、視線が吸い寄せられる。
 ハリのある瑞々しいふくらはぎ。細くて柔らかそうな太もも。それらが白のニーハイソックス包まれている。実に健康的で、それでいて美しい絶対領域を創り出していた。しかしパンチラはしていない。角度的に無理だ。

「で、これを見てください!」

 ニタニタしながら神奈月遙が取り出したのは俺が描いた漫画である。漫画家を目指してる俺に神奈月遙は協力をしているのだ。
 ちなみにそのページではまったく同じ構図でパンチラをしている。

「この姿勢じゃパンチラ無理ですねー、ふっふっー、作画崩壊はっけーんw」
「う、うるさい。俺の漫画はするんだよ」
「おれの漫画はするんだよ、キリッ。…そーですかそーですか、じゃあ先輩のジャンルはラブコメ改めファンタジーにしたほうがいいんじゃないですかw」
「あーもー腹立つなぁ!もっと敬えよ!曲がりなりにも目上だぞ!!」
「はぁー、身体は大きいのに度量は小さいんですねぇ……それと」

 神奈月遙は今日一番の悪戯っぽい表情で言った。

「私は先輩を添削してあげてるんです。上下なんてありませんから!」

 ふふん、と均整のとれた胸を張る神奈月遙。
 たしかに彼女の言っていることは一理ある。よし俺は何も言わん。

「わっ」

 ……だが神は黙っていなかったようだ。

 一陣の風によって、今度こそ露わになる絶対領域のその先。どんどん顔が紅くなっていく神奈月遙。その姿を眺めながら俺は思い返す。

 どうしてこうなったのか。

 それを説明するには一週間ほど時間を遡る必要がある。

 四月一日
 浮き足立っている新大学生をかき分け俺はゼミ室へ急いでいた。
 ぶっちゃけ急ぐ必要はないのだが、急がなければ要らぬことを考えてしまいそうなので急いでいる。下手すれば六歳近く年の離れた異性と、しかも初対面なのにラブコメの相談をするというラブコメみたいなシチュエーションにいきなり放り出されたのだ。この状態に平静を保てるのはたぶんブッタかイエスだろう。

 だが投げ出すわけにもいかない。実際、今のラブコメでは連載に持っていけないのは理解した。このチャンスを無駄にはしたくないのだ。

 そうこうしているうちにサークルの部室こと美術室の前へきた。呼吸を整える。神奈月遙…一体何者なのか、教授の言ったことはどこまで本当なのか……。
 軽くノックをしたのちドアを開け中を確認する。

「いや良く考えればまだ昼飯も終わってないわ」

 現在午前十一時。高等部はがっつりホームルームの時間である。
 自覚以上に緊張していたようだ。

「まあいいか、神奈月遙が来るまで漫画を描くことにしよう」

 誰もいない部室に入るといつも座る席に座った。やはり定位置はいい、落ち着いて物事を進めることが出来る。久しぶりにいいネタが思いつきそうだ。

 しかしやっぱり落ち着きを取り戻せてはいなかったのだろう。俺は失念していた。
 こういう時、十中八九…俺は寝る。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 やべぇ寝てた…

 未だ浮いている意識を掻き集め、目を開く。描きかけのネームが無くなっていた。

「あの…芥川先輩……すか?」

 声のするほうへ身体を向けると一人の少女がいた。

(おっぱいは大きくないな)

 流麗な黒髪にガラス細工のようなくりくりの瞳。そして当たり前のように整った顔から零れる自然な微笑、それなのに子供のようなあどけなさも感じられる。
 外からの逆光と寝起きのぼやけた視界もあって一瞬天使と錯覚した。

「あぁ、そうだ」
「やっと……」
「?」
「あ、はじめまして私が神奈月遙です!すいません先輩が描いてた漫画読んじゃいました!なんというか下手くそですね!」

 前言撤回、こいつ悪魔だ!

「なんだよいきなり!」
「和田センセの言う通りめっちゃくちゃ童貞臭いです!」
「お前、俺のファンって聞いたんだけど!?」
「ファンですよー?ファンだから駄目だしするんですよー!愛のムチってやつです!」

 ぼやけた視界がだんだん回復してきたので改めて神奈月遙を見ると目が三日月だった、盛大にニタニタしてやがる!なにが愛のムチだ!
 俺が返答しあぐねていると神奈月遙は畳み掛ける。

「えー、おほん。私…留学することに決めたのーーー」

 妙に芝居がかって読み上げているのは俺が突っぱねられた新作の一部だ。

 ヒロインは重い病を患った妹がいる設定。
 主人公への恋心か海外留学かを悩み抜いた結果、留学先から提示された妹の医療費全額負担を選ぶ。
 そして空港でプレゼントのイヤリングを返して主人公に別れを告げるシーンだ。

「だから…これ返すね」

 神奈月遙は髪の毛を耳にかけると付けてたピアスを俺に渡して目配せした。俺に男役をやれということか?

(なるほどな、ここで神奈月遙をトキメかせることが出来ればいいってわけか)

「分かった……でもこれは持っていてくれ」

 俺は神奈月遙からピアスを受け取ると漫画の展開であるピアスを付け直す体勢を取った。
 髪の毛をかきかげるとふっくらした耳たぶが目に映った。

 さて、さんざん童貞童貞と言われていた俺だが実際のところは本当に童貞なのか疑問に感じている者もいるだろう。結論から言おう。
 俺は童貞だ。

「っ…!」

 無残にも俺の童貞バンドは神奈月遙の耳たぶに触れられず明後日の方向へ逃げてしまった。反動で身体まで後ずさる。

「………ふっ」

 神奈月遙はニタニタしながら近づいてきた。
 その反応を待ってましたとばかりに…。

「どーしたんですか先輩?まさか…ときめく以前にシチュ再現も出来なかった感じですかーw」
「む、虫が飛んでたんだよ」
「なるほどなるほど……じゃあ仕切り直しましょう、それっ!」

 神奈月遙は俺の手を引くと自分の耳たぶにまで持ってきた。
 冷たくて柔らかい感触が指に伝わる。

 あといい匂いもした。ねぇ俺たちって同じヒト科だよね?

「お、おい」
「あれもしかして先輩ピアス開けたことないんですか?見たところ穴空いてないですよね、じゃあなんであんなシーン描いたんですかw」

 好き勝手言いやがって!!

「まったく仕方がないですねぇ」

 ピアスをこうやって付けるんですよ。と手を重ねて指導しはじめた。なんとも言えない浮いたような時間が部屋を包みこむ。

「この構図…見覚えありませんか?」

 ふと神奈月遙の呟きによって気づいた。そして絶句した。

「分かりましたか?この構図だとブラはどうやっても見れないんです。だって女の子の制服は全部右前なんですからw」

 たしかに言われて気づいた。俺の漫画は右からイヤリングをつけている時に、読者サービスとしてヒロインの服の隙間から下着が見えるように描いていた。しかし神奈月遙の言う通り制服の造り関係で物理的にそれは不可能だ。逆にする必要がある。

 だがそこでは無い。俺はそっと目を逸らした。

「目を逸らさないで下さいよー、人と話す時はちゃんと人を見て話さないといけないって教わりませんでした?」
「あのな神奈月…」
「なんですかー先輩w」
「下着……見えてるぞ」
「へっ…?」

 おそらくさっき神奈月遙が俺を引き寄せた時だろう。ぶつかった拍子に神奈月遙の第二ボタンは見事に吹っ飛び、見えるはずのない下着が露わになったのだ。

 下を向いた神奈月遙はそのまま固まった。身長の関係で表情が見えない。
 仮にも初対面の年上をここまで弄ったのだ。同情するが天罰だろう。少しは反省して欲しい。

 しかし神奈月遙が発した言葉にはそんな要素など一欠片も無かった。

「ラッキースケベおめでとうございます先輩!!」

 ばっ、と顔を上げた神奈月遙はニタニタした表情を出しながら捲し立てる。
 だが先程のような怒りは湧いてこない。

「女の子のブラを見るなんて童貞の先輩には初めてなんじゃないんですかっ?」
「あのなぁ」

 なぜなら弄り倒そうとする言葉とは裏腹に神奈月遙の顔を真っ赤だったからだ。目も高速で泳いでいる。

「ねぇ!先輩ったら!!」
「無理すんなって!今日はもう帰れ!」

 だんだん居た堪れなくなってきた。しかしこのまま帰すとどうも具合が悪い。いや個人的にはとても趣きのある風貌なのでとても具合がよろし……って違う違う。

 うちの女子制服はブレザーとリボンだから隠して帰ることも難しいからだ。俺は着ているカーディガンを脱いだ。

「もうこれ着ろ!さっきのシチュと構図の修正がしたいから今日のところはひとまず帰ってくれ!」

 カーディガンを押し付けると、俺はネームと睨めっこを開始した。……なんかもっと言い方があったんじゃない?という指摘には肯定しかないが、情けないことに膝がガクガクだったんだ、許してほしい。

「………分かりました」

 神奈月遙はブレザーを脱ぐとカーディガンを着て一番上までボタンを止めた。
 それからドアを開けると

「カーディガンありがとうございます」

 小さくお辞儀をして去っていった。
 足音が聞こえなくなったのを確かめると俺は大きくため息をした。

「流石にこれはなぁ…」

 もう神奈月遙は来ないだろう。お互いにいきなり踏み込みすぎた。
 しかも事故とはいえ事が事だ。謝らなければ、でもどうすれば…。

「あぁ…くそっ、さっきの光景が頭から離れねぇ」

 やっぱり俺は童貞だ。
 理性で目を離しても、罪悪感があっても、本能が脳みそに焼き付けようとする。ドキドキと送られてくる血液を全部、そのために使おうとしているのが分かる。

 その時、ポケットにあるスマホが鳴った。LINEだ、新しい友達に【神奈月遙】と表示されていた。

『来週も来るんでバックれないくださいねーw』
「……あんのクソ編集ーーーーーーッ!!!!!」

 俺が和田教授に鬼LINEしたのは言うまでもない。
 ついでに罪悪感も無くなった。

 どうやらあのクソ編集は神奈月遙に俺が描いた今までの読み切りやネームを全部送ったらしい。いつかプライバシーの侵害で訴えてやる!

 で、なんでそんなことを考えてるかって?

「よし行くぞ」
「了解です…」

 そのせいで今とんでもない事になってるからだよ。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 三十分前、午後の五時半

 俺と神奈月遙はシチュ検証のために高等部の教室に来ていた。
 今回の検証内容は教壇でのキスだ。二人で教壇の中に入ってイチャイチャする場面である。これは某ロッカールームに閉じ込められた系から派生した俺独自のシチュだ。

「なんというか…ロッカールームネタのパクリですね!」
「………ふんっ」
「なんすか先ぱ…いふぁい!いふぁいです!くひぃとへひゃう!!(痛い!痛いです!口とれちゃう!!)」

 気づかないうちに神奈月遙の口を引っ張っていたらしい。すぐに手を離した。

「すまん、うっかり殺意が」
「手が滑った感覚!?そんな気軽に殺意出さないでくれません!?」

 我ながら遠慮が無くなったと思う。昔の自分と比べてなんとも言えない感慨に浸る俺を他所に、神奈月遙はつかつかと教室に入って教壇の中を確認する。

「えっと構図としてはこうですね」

 漫画と実物を交互に見ながら、丁寧に教壇の下に入っていく。こういうところを見ていると神奈月遙の根の真面目さに気づく。こちらも応えねばならない。
 しかし。

「痛てててて!無理だ!首ツる!」
「やっぱりだっ!ほんとは入る前から薄々気づいてたんですけど、こんなスペースに二人も入りませんよw」

 ちくしょう…こいつ初めから知ってて俺を嵌めやがったな!

 天板に頭をぶつけないように出て、俺はため息をついた。

「ちっ、独創的なシチュだと思ったんだがな…」
「独創的かどうかも怪しいですけど、そもそもリアリティに欠けすぎですねー……あっ」
「ぼさっとすんな、さっさと出ろよ」

 ドゴンッ!

 分厚い本でも落としたような音がした。振り返ってみると、手足ともにバンザイして出迎える神奈月遙がこっちを見ていた。

「……ました」
「は?」
「おしりが嵌って動けなくなりました〜」
「嘘だろお前!?」

 ジタバタする神奈月遙の状態を確認する。どうやら立ち上がろうとしたときに足を滑らせたらしい。見事に教壇の枠組みにおしりがホールインしている。

「と、とりあえずひっぱって貰えませんか?」
「お、おう」

 俺は神奈月遙の手首を握った。見た目よりもびっくりするくらい細かった。
 全力で引っ張ったら折れてしまいそうで、おっかなびっくりに力を加える。

「ちょ、ちょっとストップ!」
「な、なんだよ」
「やばいです!このひっぱり方だとスカートが脱げます!見えるっ!ケツが!!」
「女の子がケツなんて言うな!はしたない!!」

「おい、誰かいるのか?」

 ふにゅん。

 頬につきたてのお餅ような感覚が伝わる。
 これ如何に、と視線を向ける。

 気づくと俺は、さっき入れなかったはずの教壇に体をすっぽり収めていた。
 ついでに言うと、俺の顔が神奈月遙のおっぱいにすっぽり収まっていた。

「ぎゃああああ!!――むごごっ!?」
「(ちょっと静かにしてください)」

 ぎゅううう

 神奈月遙はさらに俺を胸に押し付けた。
 目の前でおっぱいの形が変わる!

「(お、おい神奈月!!)」
「(だから静かにしてくださいよ……あの生活指導の先生に見つかるとめっちゃめんどいんですから)」
「(分かったからちょっと離れろ!当たってる!いろいろ当たってる!)」
「(なにが……、……ッ!)」

 目と目が合う。
 ぱちぱち、と神奈月遙はまばたきをする。それからみるみるとまぶたを見開かせた。
 あ、やばいやつ…。

「…わああっ!!――んんっ!!」
「(お前が声出してどうすんだよ!)」
「(こ、これは、わざと当ててんだし!童貞の先輩にサービスしてるだけだし!)」
「(この期に及んでマウント取ってんじゃねえ!!)」

「ここか?下校時間はとっくに過ぎてんぞー」

 ガラッ

「(ぎゃーーー!!もう終わりだーーーッ!!)」
「(せ、先輩、手を離してください!名案があります!)」
「(マジだな?信じるからな!)」
「(任せてください!せーの、)」

 にゃーん♪

「(アホーーーッ!こんなんで乗り切れるわけないだろぉ!)」

「なんだ猫か」

 ガラガラ…ピシャン

「乗り切りましたね……」
「いやうん、お前すごいよ」
「ぱぷぱふと合わせて貸し二つですからね」
「なんでだよ」

 貸し二つ程度では足りないくらいの凄まじい体験が出来ました。ありがとうございます。

 心の中で合掌……ってそんなことしてる場合じゃない。
 まだ根本的な問題が解決してないのだ。

「…どうやって脱出しましょうか」

 より深く嵌ってしまった神奈月を見て俺は考える。そして思いついた。

「俺に案がある。まず俺が出る、多分出れる」

 宣言通り俺は脱出に成功した。合気道を習っていてよかったと思う。

「で、次はどうするんですか?」
「…こうする」
「えっ、ちょ何を……ぎゃああああ!!?」

 神奈月遙の悲鳴を他所に、俺は教壇を横に倒した。
 さっき生活指導の先生がドアを閉めたおかげで外からは見えていない。

「俺は木枠から天板に向かってお前を押す、お前もスカートが引っかからないように同じ方向へ抜け出そうとしてくれ」
「なるほど…、おっぱいの次は私のけつ…お尻を触ろうって魂胆ですね…変態!」
「ちげえよ!腰に手を回すわ!こっちの方が力入んだよ!」
「分かりました…まあお願いします」

 神奈月遙は、しぶしぶ了解した。
 怒ってるのか顔が真っ赤である。

「よし行くぞ」
「了解です…」

 しかし、俺は二つ失念していた。

 一つ目は…警戒すべきは生活指導の先生だけではないこと。
 二つ目は…そしてドアは視覚を遮断することが出来ても、音を遮断できる訳では無いということだ。

 もうお気づきだろう。
 ここからは、これを読んでる諸君にもわかりやすいように声だけで提供しよう。

「おい、変な力入れるなよ」
「痛いです!早く(枠から)抜いてください!」
「だから力入れるなって!(枠から)出せないだろ!」
「下手ですか!」
「仕方ないだろ、初めてなんだから…あ、いけそう」
「あ、私もいけそうです!」
「よし、力入れろよ同時に行くぞ」
「いつでもいいですよ……!」

 部活帰りの生徒が偶然聞いたらしい。
 翌日、高等部では不純異性交遊の張り紙が貼り出され、緊急朝礼が開かれた。

 神は乗り越えられない試練を与えることない。

 夜なべして作ったレポートを提出した俺は、その言葉をひしひしと噛み締めた。

「ういーす」
「あ、先輩やっほー」

 部室へ向かうと、神奈月遙がいた。
 なにやら分厚い本を読んでいる。やけに楽しそうだ。

「何してんだ?」
「明日の体育のテストなんですよ」

 神奈月遙が見せた表紙には大きく『週刊プロレス地獄変』のロゴ。おおよそ女子高校生が読むものでは無い。

「なんでプロレス?」
「テストでやる技が教科書だと分からなくて……、探してみたらこれが出てきたんです!」

 危機察知とでも言うのだろうか。
 俺はこのとき神奈月遙がスパッツを履いていることに気づいた。

「ちなみに技は?」
「肘十時固めです!」
「テストっていつだっけ?」
「明日ですよ!」
「……ふーん、じゃあ頑張って」

 俺は素早く部室を出ようとした。しかし回り込まれてしまった。
 神奈月遙は俺の右腕に手を回すと、舐めまわすように見ながら言った。

「先輩の腕って、折り紙みたいでス・テ・キ♡」
「折るな折るな!」
「もしくは筆♡」
「物騒なこと言うんじゃねぇ!」

 作家生命潰えるわ!

 全力で振りほどこうとするが、負けじと神奈月遙も身体を密着させてきた。
 やめろ!童貞には刺激が強すぎる!

 カーディガンを犠牲にようやく脱出した。

「うわっ、器用なことしますね」
「はぁはぁ…。これ俺がやる意味あるのか?別に友達とかいるだろ…」
「うーん、できれば先輩がいいんですよねー」

 神奈月遙はさも意味ありげに腕組みをした。形のいい胸が腕に乗り、より強調される。

「なんで」
「気分」
「帰れ!」
「待って待って、冗談ですよ!先輩、暴力系ヒロインを出した時に肘十時固めしてたじゃないですか!あの時主人公『やわらか!』『いい匂いがする!』ってモノローグがあったんですよ」
「それがどうした」
「おかしくないですか?絶対痛くてそんな余裕ないでしょ」

 確かにそうだ。
 合気道にしているから分かるが関節技は一度決まると想像を絶する痛みに襲われる。さらにタチが悪いことに自力で逃げられない。

 ここで再び危機察知。すかさず神奈月遙に視線を向ける。ああやっぱりだ、何かを企んでる意地の悪い顔をしている。

「……そうかもしれないな」
「ですよね!だからシチュ検証するべきだと思うんです!」

 俺は敢えてその企みに乗ることにした。

「じゃあ横になってください」
「おう」

 俺が床に寝転ぶと神奈月遙は左横にしゃがんだ。

 ククク…

 初心者の神奈月遙は失念している。
 関節技というのは経験者じゃないとそうそう上手くは決まらないのだ。

 上手くいかずにまごついている神奈月遙をどう煽ってやろうか。ことある事にクドクド弄り散らしやがって…、今回くらいは立場逆転と行かせてもらおうw

 神奈月遙は、俺の左腕を掴んだ。すぐさま両足で腕を極める体勢に入る。

 ぷにゅん

 神奈月遙が着ているのは柔道着ではなく、普通の制服。しかも技をかけるためにブレザーを脱いでいる。対する俺も半袖だ。
 太ももの柔らかさと体温がダイレクトで伝わってくる。
 つまりどうなるかと言うと。

 やわらか!?
 いい匂いがする!?

 理性では御せない暴走。
 必死に頭でコントロールしようとすればするほど俺の五感は今の感触を堪能しようと躍起になっていた。

 うおおお落ち着け!呑まれてはいかん!呑まれては……うわっ腕が言いようのない多幸感に呑まれて………違う!無だ!何も考えるな!何もない白い空間を……わぁ白いマシュマロのような感触が上腕全体に……ぬ゛ああああ!!!

 理性と感性が一進一退の攻防を続けるなか、その時はきた。

「じゃあ先輩行きますね!えいっ!!」

 ブツン…………ブチブチブチブチ!!!!!

 突如、関節が行き場のない痛みを訴える。骨が軋み、軟骨が削り落ちる音がした。

「ぎゃあああああああ!なんだこの痛み…初心者の出せる代物じゃねぇ!!」
「言ってませんでしたね…実は私、柔道をやってたことがありまして…」
「おおお、おいまさか…」

 神奈月遙はニッコリして言った。

「加減が分からないので、練習しておきたかったんです♪」
「そんなバーサーカーみたいな理由あってたまるか!」
「まだ余裕がありそうですね、それっw」
「ぐわぁあぁぁあああぁあぁぁあぁぁあぁあぁぁ!!!」

 神よ仏よ獣王よ!何故俺に試練を与えるのですか!俺が何をしたって言うんだ!

「やっぱりこのシチュ、痛い以外なにも思いつかないですよねー」

 そうだった!シチュ検証だった!
 神様すいません!俺が犯人でした!でもせめて慈悲をください!!

 しかし無情。腕の痛みは加速する。

 ミチミチミチッ…!

「あ゛っははははははははははははは!!」
「いきなり笑い始めてとうとう気でも狂いましたか?」

 ちげーよ!ホントにやばいとき人は笑うんだよ!!痛みの最終通告!!折れる一歩手前!!

「折れる!!折れちゃううう!!」
「どーしよっかなー」

 俺は力を振り絞って神奈月遙を見た。痛みさえなければ相当の絶景なんだろうが、今そんな場合じゃねぇ!

「マジでお願いしますっ!」
「うわ…無駄にいい顔……。はあ、抵抗もしないなんて女々しいですね」

 ――いいのか?

 瞬間、俺の中にいた獣の王が告げた。

 ……本当にこれでいいのか?
 我が身可愛さに、女々しいとまで言われ………
 男が、その誇りを失ってまで、許しを乞う必要があるのか?

「いいですよ解いてあげ――」
「…全力で来い」

 (ありがとう獣王、俺の心の迷いは晴れました!)

「はい?」
「全力(ギガブレイク)で来いって言っているんだ神奈月」

 俺は全筋力を左腕に集中、一気に解き放った。

「わわっ……や、やるじゃないですか!えっ、ちょ、あわわわわわわっ」

 神奈月遙も力を入れ始めたが、俺もそれ以上の力で対抗する。

 肘十時固めから抜け出す唯一の方法。強引に手繰り寄せる、それだけだ。

「ぬわああああああっ!!」

 今度は神奈月遙が必死の形相で叫び始めた。
 だがもう遅い。ここまで来ればもう俺の勝ち――

 むにゅう

 突然、素晴らしい感触が腕を包み込む。
 この感覚…知っている、太ももだ!神奈月遙が太ももにめっちゃ力を入れている!なにこの抱擁力!?

 結果、驚いた俺の手は仰け反ってしまった。


 もにゅん


 次は手のひらに柔らかい感触。手に馴染むちょうどいい大きさだ。弾力も素晴らしい、打てば響くというのだろうか、揉めば程よい反発が返ってきそうな……、おいこれ……これって!?

 恐る恐る視線を向けた。俺の左手は神奈月遙の胸に実る果実をガッツリ掴んでいた。

 おっぱいじゃねーか!!!!

「うわあああ!!!」
「ひゃあああああああああああああああああああ!!!!!」

 お互い高速で距離を取った。
 試合中のプロレスみたいだって?やかましいわ!

「ごめん!まじでごめん!!」

 俺は咄嗟に謝った。
 疲れと緊張で心臓がおかしなことになってる。息が上手くできない。

「い、いえ私もお粗末なものを…」

 弄ってこないってことはアイツも似た状況か。両手で胸を隠し、肩で息をしている。
 顔も首まで真っ赤で、表情も、怒ってるのか照れてるのか、ここからじゃよく分からない。

「に、にしても先輩……やれば出来るじゃないですか!なんですかあの技?」
「いやあれは使っていいモンじゃねえから、事故ると掛け手受け手どっちも危険だ…し……」

 手に蘇るあの感触。
 はい墓穴掘りました。

「………じゃあ知ってて使ったんですね?」
「えっ」
「ひょっとして、狙ってやりました?」

 ずんずんと神奈月遙は近づいてきた。顔が朱に染っていることを除けば、いつもの弄りモードだ。

「いや違っ」
「へーんたい!」

 どーん

 強く突き飛ばされた俺は無残に尻もちを着いた。起き上がるまもなく神奈月遙が馬乗りしてくる。

「おいまさか…!」
「今度はあんなことさせませんからね」

 神奈月遙は俺の右腕を持つとすぐさま両足で挟み込んだ。しかも腕が曲がらないように固定もしている。

「や、やめっ」
「お仕置きです💢」

 ぎゅうううう

「ぎゃあああああああああああああああああああ!!!!!」

 その日、美術室からは絶え間なく男の悲鳴がこだましていたという。

「……先輩、今年の五月がどんな月か知ってますか?」

 いつもの放課後、神奈月遙は大きな紙袋を持ってやってきたかと思ったら、いきなり聞いてきた。

「はあ?」
「『一日も祝日がない月』なんです。祝日とか記念日とかぜ〜んぶ土日とぶつかっちゃったんですよ……」
「そりゃご愁傷さま」
「はぁーあ、ボッチで童貞の先輩には縁遠い話でしたね」
「ひとついいか、なんでボッチ属性を付与した?」
「六月も祝日ないんですよ」
「それは災難だな、そして俺の質問に答えろ」
「だからゲームしませんか!家から持ってきたんですよ!」
「俺の話を聞けぇぇぇぇ!」

 ということで最近ブームになってる『フォールマンズ』をすることになった。

 このゲームはプレイヤーが「フォールマン(Fall man)」と呼ばれるキャラクターを操作し、ゴールを目指すというものだ。「レース」であれば規定順位以内にゴール、「サバイバル」であれば規定人数以内に条件をクリア。
 そして最後に「ファイナル」というステージで、一位となったプレイヤーが勝利するというものだ。

「あ、何も景品がないと面白くないので、こんなの用意しました!じゃっじゃーん!」

 神奈月遙が取り出したのは、【なんでも言うこと聞きます券】という手作り感満点のカードだった。そのくせ縁に柄を入れたりとやたら凝っている。

「肩たたき券かよ」
「ふっ、見た目に騙されるなんて、さすが童貞ですね。これは文字通り相手にどんな事でもさせられるんですよ?先輩が使えば私にあんな服やこんな服や……、ヌードモデルだって仕方ないけどやってあげますよ!」
「ならお前はどう使うんだ?」
「先輩を下僕にして、なんでも言う事聞かせますけど」
「帰る」
「じゃあ不戦勝ですね!下僕確て――」
「あーもー!やればいいんだろ!やれば!」

 神奈月遙は部室のテレビにゲーム機を接続して電源つけた。
 俺の横に座り、コントローラーを持つ。

 一瞬、懐かしい桃の香りがした。

「……?」
「どうしました先輩?あ、プレイヤーの名前勝手に決めちゃいました!」

【ハル】【ボッチ】

「おいぃぃぃい!」

 キャンセル連打虚しく、メニュー画面は切り替わり、アバターの選択画面になった。

「私これ結構強いんですよー、ハンデあげましょうか?」
「いや、これ俺ん家にもあるから別にいいよ」
「……あぁ、ボッチ故の寂しさを埋めるために…」
「お前それブーメランだからな?」
「私は妹とやってますぅー、ボッチじゃありませーん」

 神奈月遙はクマの着ぐるみを、俺は赤トンボの着ぐるみを選んだ。

【Are you ready?】

「長く生き残ったほうが勝ちでいいですね?」
「ああ、いいぞ」
「ふふん、吠え面かかせてやりますよ!」

【3】【2】【1】…【GO】

 勢いよく神奈月遙が先頭に出る。俺はあえて後ろに張り付いた。

「このまま勝ちはいただきですね!」

 そう言って神奈月遙は最初のカーブを曲がった。
 全身を傾けて。

 (それ初心者がやるやつ!!)

 まさかと思い、俺はおそるおそる…前へ出た。するとどうだろう?
 いとも簡単に追い抜かせた。

「んな!?」
「そんじゃお先にー」
「なんのこれしき……ぎゃああああ!」

 後方を確認すると、神奈月遙のアバターが他のプレイヤーに押し出されて落っこちていた。無事スタートラインに逆戻りである。

 その間に俺は楽々ゴール。

「あっ、ちょ………こ、これくらいちょうどいいハンデだし!」

 ゴールした後にハンデとはこれ如何に。

 急いで追いかける神奈月は、相変わらず右へ左へ身体を揺らしながら進んでいく。形相だけ見てるとさながらオリンピックの代表選手だ。どんだけ負けず嫌いなんだよ。

 このステージ、神奈月遙は規定人数ギリギリでゴールした。

「やりますね」
「お前が勝手に自滅しただけだけどな」
「むっ、そういうこと言いますか?じゃあ奥の手を出しますよ……」
「奥の手?」

 その言葉に気を取られていると、ゲーム開始直後に神奈月遙が俺のアバターを掴んだ。
 
「おいまさか…!」
「堕ちろアカトンボ!」

 神奈月遥はいきなり俺を蹴り落とした。このゲームには、妨害行為が認められており、神奈月遙はそれを行なったのだ。

「ちょ、お前!」
「勝てばよかろうなんですよ、勝てば!!」
「どこの悪役だよ!うわ、この」

 それだけにとどまらず、神奈月遙は周りのアバターも蹴り倒しながら俺の進路を塞いできた。

「へへーん、悔しかったから追いついてみろー!」

 神奈月遙は俺以外のプレイヤーも蹴落としながらずんずん進んでいく。
 結果、このステージは大混乱となった。

「悪運が強いですね」
「どこかのクマが途中でゴールしたおかげでな」
「ぐぬぬっ、こうなったら」

 三戦目、四戦目も神奈月遙は妨害戦法で俺との勝負を優位に展開し続けた。
 しかし俺もなんとか食い下がり、負けることはなかった。

「ぬぬぬ…地味に先輩強い」
「まあ結構オンライン対戦してるからな」
「あ、やっぱりボッチで練習してるんですかw」
「怒るよ?」

 五戦目は、バトルロイヤルの玉転しになった。生き残りが三つのチームに分かれて競うステージだ。

「俺は青か」
「私は赤チームですね、今度こそ先輩を負かしてやりますよ!」

 そんな死亡フラグみたいなこと言っちゃて…ホントになっても知らないからな?と、思った矢先。
 奇跡は起きた。

「なんで邪魔するの!?」

 一部のプレイヤーが、赤チームの大玉を止めに行ったのだ。
 予想外の妨害にパニックになる赤チーム。特に神奈月遙のフォールマンがタコ殴りされていた。

「やめてよ!どうしてこんなことするの!」

 神奈月遙は必死にコントローラーを操作する。しかし多勢に無勢、しまいにはリスポーン先にも待ち伏せされて[落下→リスポーン]の無限ループに陥っていた。

「ひっぐ…うぅうう……」

 そんなことが数分続き、とうとう神奈月遙は泣きだしてしまった。

 正直、朱が差した頬と涙をこらえる表情は、まるで恋愛映画のワンシーンみたいですごく画になっていた。悔しいが可愛いと思う。

 ……まあ、ゲームでボコボコにされたことを知らなければな。

 しかし冷静に見てみれば異様な光景だ。
 ボイスチャットもないこのゲームで、まるで意思疎通したかのように…どうして。

 戸惑っていると、言葉が聞こえてきた。

 ――このゲームが滅茶苦茶になるかどうか掛かってんだ!
 ――やってみる価値はありますぜ!

 瞬間、俺は理解した。

(これは、仲間の声…。そうか、そうだったのか!)

 そのままゲームは進んでいき、赤チームは一歩も動くことが出来ず敗北した。
 ゲームが終わったあと、ちらりと神奈月遙を見た。椅子からひっくり返っている彼女は、いまだに納得いかないのか鼻をひくひくさせて不貞腐れていた。

「ノーカン!あんな妨害ノーカンですよ!私は負けてない!」
「まだ分からないのか、神奈月。お前は俺に負けたんじゃない。俺たちに負けたんだ」

 俺は諭すように、言った。

「これが人の心の光だ」
「闇ですよ!?」

 その後、フォールマンズは「人の心の闇を体現したゲーム」として更なる人気を博したそうだ。

 ※ちなみに【なんでも言うこと聞きます券】俺のものになったが、使い道は保留になった。

碓氷:アクタ今日の昼一緒に食べない?
芥川:あー、そうだな
芥川:ん、待って
碓氷:どうしたの?
芥川:ごめん野暮用っぽいわ

 俺はLINEを閉じた。

「あっ、先輩、やっほー」

 昼休み、階段を降りてると神奈月遙にばったり会った。

「ここ大学棟だぞ?」
「クラスの、課題提出ですよ、学級委員、なんでっ」

 両手にはクラス分のノートが積まれ、かなりの量だ。今も腕をぷるぷるさせながら俺と話をしている。

「重そうだけど大丈夫か」
「これくらいどう、ってことっ…!」

 言ってるそばからノートがジェンガみたく右に左に揺れ始めた。

 さすがに見ていられないので、半分くらい貰い受ける。そもそも学級委員だからって、女の子にこういうことさせるなよ。

 きょとんとした神奈月遙は、手元にあるノートと俺の手にあるノートを交互に見たあと少し驚いた顔をした。

「ありがとうございます」
「おう」

 今気づいたが、神奈月遙はポニーテールだった。どうりで表情がよく見える。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 ノートを提出し、神奈月遙はいかにも「はあ疲れた」って顔で事務課から出てきた。
 そして俺を見つけると「ところで先輩」と一言。

「どうせ持つなら全部持ってくださいよーw」
「終わったあとに言うなや……!」

 こいつ、こういうところあるよなぁ…。

 これ以上言い返しても手酷いしっぺ返しが来そうなので諦めて階段を降りる。

「ちょっと先輩ー!そのくらいでしょげないでくださいよー!」
「しょげてない、俺、疲れてる」

 あと俺、学習してる。言い返しても無駄。

「へー、仕方ないですね。じゃあ癒してあげましょうか?」

 何言ってんの、と振り返る。
 ニタニタした神奈月遙が、足をピンと伸ばして階段を降りてきた。

「先輩、身長どのくらいですか?」
「175くらいだけど」
「私は160です。じゃあこの辺りかな」

 俺より三段上で立ち止まった神奈月遙は、バッと手を開いて言った。

「だいたい20cm、ハグに最適な身長差です!」
「…男女逆じゃね?」
「先輩疲れてるんですよね?だから私が癒してあげます!」
「届かねぇよ…」
「あー……」

 三段も離れれば横の距離もかなり遠くなる。既に俺たちは握手もできないくらい離れていた。

「でもハグの身長差か…」
「おやご興味がおありですかな?」

 ほんとはネットで調べても良かった。でも、ほんの少しだけ神奈月遙が残念そうな顔をしていた気がしたので、話を続けることにした。

「仕方ないですねー、先輩のお察しのとおりハグ以外にも色んな身長差があるんですよ!」

 例えば。
 神奈月遙は俺の横に来た。

「身長差15cm、これがなでなでの距離です。ちなみにキスの距離もこれだと言われてるんですけど…」

 神奈月遙は一段登って、背伸びした。

「私はこっちのほうが好みですね。だいたい5cm…、どうして逃げるんですか先輩?」
「いや別に…」

 どうしてこいつは急に距離縮めてくんの?

 そんな内心を察したのか、神奈月遙は恒例のニタニタした顔を作った。

 いやでもよく見ると"ニタニタ"より"によによ"か…?今日はポニーテールなこともあって本当に表情がよく見える。

「あれー?もしかしなくても照れましたねw」
「だったらなんだよ」
「離れてあげます!」

 今度は一気に階段を駆け上がる。踊り場までつくと神奈月遙は勢いよく振り返った。

「これに見覚えありません?」
「…!」

 すぐにピンと来た。主人公とヒロインの出会いの場所。踊り場から見下ろす形でヒロインが主人公に難癖をつけるシーンだ。

 この構図はどんなに描き直しても、ヒロインが浮いてしまうような感じになってしまい諦めて放置した。

「そうか、足の置き方か!」

 でも実際に見てわかった。つま先の位置がまるで違う。他にもくるぶしとか全体的な姿勢とか、描いてるだけじゃ気づけなかった粗がどんどん見えてくる。
 そして神奈月遙の下着も見えた。急いでそっぽを向く。ちなみに黒だった。

「うおっ」
「今頃気づいたんですかw」

 神奈月遙は今度こそニタニタしながら俺を見た。

「でもそんな童貞先輩に朗報です!これ水着なんですよ!」
「おおそうか安心安心……ってなるか!……おい待て捲るな捲るな!」
「えー、先輩の漫画だとスカートもっと短かったですよね?」

 ヤバい、完全に神奈月遙のペースに流されている。今までは外野からのトラブルがあったけど今日は期待できそうにもない。だってここ普段誰も来ない最上階付近だし。

(ならもうヤケだ!)

 俺は鞄からノートと鉛筆を取り出した。

「ちょ、何してんですか先輩!?」
「アテを取ってんだよ!水着なら別にいいんだろ!」
「しゃ、写真でいいじゃないですか!」
「スマホ持ってない!」
「嘘だッ!」

 はじめは色々文句を言った神奈月遙だったが、黙々と描いていると根負けして大人しくなった。

 その間も俺は筆を走らせる。身体の輪郭、影の入り方、服のシワ………。

 気づくとアテだけじゃ満足できなくなっていた。

 想像の中でも、人形でも、出すことのできない本当の質感。それを一欠片も逃さないようにデッサンする。ふと表情も描きたいな、と思い神奈月遙を見た。

 さっきまで夢中に動いていた手が止まる。

 ほどよく見開いた瞳。
 ぎゅっと噤まれた唇。
 顔は、朱が滲んだようにすこし紅みがかっている。

 彼女の顔には、はじめ発露させてた怒りなどは微塵もなく、むしろ緊張と困惑と……あとほんの少し嬉しそう(?)、不思議な表情だった。

 その時である。

 キーンコーンカーンコーン

「うわやべぇ!三限だ!」
「三限…?なっ、お昼休み終わってる!!先輩何してくれてるんですか!」
「うるせえ!元はと言えばお前がからかったからだろ!」
「絵のモデルをしてあげた人にいう言葉ですかそれ!?」

 急いで階段を降りる。
 悲しいかな、俺の方が先に息を切らした。一方、隣の神奈月遙はずいぶんと楽しそうだ。
 その日、俺は久しぶりに倒れ込むくらい走った。

 その後の放課後
 俺は昼に描いたスケッチの下書きをしていた。

 向かい側に座る神奈月遙は、印刷した俺の過去作を読んでいる。
 時折にやにやしているのは、弄るネタを見つけたからか、単純に面白かったからか。

「なあ…神奈月」
「なんですか先輩」
「なんでファンになったの?」

 前々から訊きたかった。普段は適当にからかわれてしまいそうで、なかなか訊けなかった。

 でも今日の神奈月遙はどことなく大人しめに思えたのでチャンスだと思った。
 しかし。

「うーん、色々ですねぇ」
「色々って…おい寝るな」

 ゴンッ

 素直に答えてくれることを期待していたが、神奈月遙は机におでこを貼り付けて、唸るように、言った。

「今日プールだったんですごく眠いんです」
「なら帰れよ」
「気分じゃないので嫌でーす」

 机に頬をぺっとりくっつけたまま、神奈月遙は死んだ魚のような目で俺を見る。

「それよりも先輩。私からも訊きたいことがあるんですけど、放課後どうやって帰ってます?」
「普通に一人で…」
「あぁ、やっぱり…」

 神奈月遙は心底残念そうな顔をした。

「お昼も一人で歩いてましたし、やっぱりボッチだったんですね…」
「いや一応、友達から飯の誘――」
「友達いたんですか!?」
「張り倒すぞ!」
「あ、ごめんなさい」

 ハッと口に当てながら謝罪された。

 こいつ、またからかって……無ぇな、………まじで驚いてる顔だこれ…。むしろ癪に障る。

「…まあ話戻しますけど、先輩の漫画読んでるとたまに物凄い描写が乏しいんですよね、たとえばこことか」

 渡されたページには、主人公たちが家へ行くシーンが描かれていた。

「なんか問題ある?」
「……これだから先輩はボッチなんですよ」

 やれやれ、神奈月遙は呆れ顔で言った。さっきから失礼極まりないなこいつ。ここがアメリカだったらぶっ放してるぞ?

「普通、友達と帰るときは雑談とか寄り道をします」
「それは知ってる」
「なんでそこ描かないんですか!読んでる漫画全部、冒頭が[学校→家]の直通なんて初めて見ましたよ!?」

 神奈月遙がドンドンドンと漫画を並べる。オーマイガー、全部同じ導入になってやがるぜHAHAHA。

 俺は天を仰いだ。

「……なんか遠い目してますけど」
「自分の愚かさに気づいてんだよほっといてくれ」

 まさか構図まで同じとはな…。
 呆れて声も出ない。

 神奈月遙も同じ心情らしい、何も言わなくなってしまった。

 しばらくの間、気まずい時間が漂う。

「…………」
「…………よし」

 沈黙を破ったのは神奈月遙だった。深く息を吐き、ググーっと伸びをして、俺を見た。

「………先輩、今から一緒に帰りましょう!」

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 歩くたびにメトロノームのように揺れるポニーテールを眺めながら俺は訊いた。

「で、どうやって帰るの?」
「普通ですよ、普通に話しながらファミレスに寄って駄弁ったり、お店とかで買い物したり」
「で、それを今日やると?」
「そうです」

 ポニーテールがぐるんと一周した。

「台風来てるのに?」


 びゅおおおおおお!


「………幸い雨は降ってません、ダッシュでファミレス行きましょう」

 しばらく走ったあと、繁華街にあるファミレスに入った。突如接近してきた台風のせいで店内はガラガラだ。

 とりあえずドリンクバーを頼んでそれぞれ食べたいものを注文した。
 ちょうどスイーツフェアだったので俺はいくつか甘いものを頼んだ。

(そういや普通は駄弁るんだよな、えーっと)

「今日はお日柄もよく」
「なんですか急に!?」
「神奈月さんのご家族はどんな方なんですか?」
「落ち着いてください!」

 一分後

「雑談のつもりだったんです…」
「お見合いかと思いましたよ…、もう少し普通の話題とか思いつかないんですか?」
「つかないですねぇ…」
「友達いるんですよね?その時はどんな話をしているんですか?」

 思いつくのは、その日の講義の内容とか、見たアニメの感想。そうか共通の話題か。

 しかしである。

 神奈月遙との共通の話題がほとんど思いつかない。漫画関連の話を抜いてしまうと、俺はこいつのことを何も知らなかった。

 しばらく黙っていると神奈月遙は諦めた。

「あーもういいです。ボッチで童貞でエクストリームコミュ障の先輩には難しかったですね」

 そう言って俺が頼んだショートケーキを半分持っていった。

「おい待て」
「シェアですよ、シェア。先輩も私の注文したやつ食べていいですから」

 その空っぽのドリアを?

「仕方ないので、放課後の話題を続けましょう。なんで私が先輩のファンなのかですよね」
「具体的にどういうところが好きなのかとか、そのあたりのことが知りたい」
「なかなか曖昧ですね…。うーんそうですね、先輩はたまにショートケーキみたいなんですよ」

 神奈月遙はパクパク食べながら続ける。

「そうそうこういうの!って思えるような王道をやってくれるのが好きです。他には……」

 今度はプリンパフェを器ごと持っていった。もちろん俺が頼んだやつだ。シェアすらせずそのまま食べ始める。

 俺はそっとソフトクリームをキープした。

「このパフェみたいに盛り付け上手です。たしかに無理な展開とか、冒頭の使い回しとかはありますけど、伏線とか上手く盛りこんでるのでラストの読後感がすごく爽快です。そう、このソフトクリームのように!」

 ばくんっ

 右腕が軽くなったような気がした。
 何事かと思い、確認する。

 ソフトクリームが、コーンだけになっていた。

「まあこんなところですね。ご褒美にそのホットケーキも食べていいですか?」
「お前どんだけ食うんだよ!」
「だって先輩が悪いんですよ、あのせいで私がお昼ご飯食べてないんですから〜」
「俺も食ってないわ…」
「それは自業自得では…。あ、どうせならこれも奢ってください!」
「シェアの概念はどこいった!?」

 結局のところ神奈月遙はホットケーキで我慢した。
 でもよく考えたらそれも俺が頼んだやつじゃん…。

 俺たちの帰り道はまだ続く。

『申し訳ありませんお客様、本日は台風のためもう閉めないといけないんです』

 現在、夕方六時過ぎ

「うぅ…お腹いっぱいです」
「あんだけ食べればな…」
「どこか休める場所…」
「まだ帰らないのかよ」

 ちらちらと街灯が点灯してるし、台風のせいで土砂降り。
 それでも神奈月遙はまだまだ寄り道をする気マンマンだ。折りたたみ傘で粘っている。

「門限とかないのか?」
「いいんですよ、ルールはたまに破るからいいんです」

 あるんかい。
 つかつかと歩くスピードを上げる神奈月遙。待て待て土砂降りなのにそんなに急いだら――

 ビュオー!

 そのとき今日一番の大風が吹いた。よろける神奈月遙の身体。俺は咄嗟に彼女を抱き寄せる。

「おい危な……」

 グシャ

 嫌な感触がした。おそるおそる確認すると相棒のビニール傘が天寿をまっとうしていた。
 同時に曇天も好敵手の死を嘆くように大粒の雨を零した。こちとら葬式中じゃ!静かにしてくれ!

 ほんの数秒で俺の服はびちょ濡れになった。

「先輩!」
「と、とりあえず傘に入れてくれ」
「あそこに雨宿りしましょう!」

 俺たちはかつてないほどのコンビネーションを見せて店の軒下に滑り込んだ。
 普段だったら、このあと相合傘したとかで一悶着しそうだったがそれどころでは無い。

「うわズボンまで貫通してる」
「大丈夫ですか?」

 俺が壁になったことで神奈月遙はあまり濡れてはいなかった。
 だが雨がおさまる気配はない。これ以上いれば神奈月遙もびちょ濡れになるだろう。

「気にすんな、元々これくらい濡れてた」
「……潮時ですね。解散しましょう」

 さっきまでの粘りはどこへやら、神奈月遙はあっさり帰宅を決定した。
 鞄に手を突っ込むと、もう一つ折りたたみ傘を取り出した。

「これ予備なんで使ってください」
「悪ぃな助かる……ん?」

 …なんで二つも折りたたみ傘持ってるんだ?
 僅かな違和感。だが今までの経験が気のせいじゃないと警告する。
 俺は急いで折りたたみ傘を開いた。

『ハートフルチャーミング♪フリキュア♪♪』

「お前なぁ!」
「ぷぷぷーっ、童貞の先輩には刺激が強すぎましたかw」
「取り替えろぉ!いや取り替えてくださいお願いします!!」

 必死の叫び虚しく、神奈月遙はもう地平線の彼方へダッシュを開始していた。

 しかしである。

 神奈月遙は水溜まりに足を取られた。美しい弧を描いてひっくり返る。
 間髪入れずに天然のシャワー。

 シャワァァァァ――――

 うわぁ……。こうはなりたくない。
 踵を返す。…俺はこのままクールに去るぜ☆

「……たすけて」
「……」
「……今の私、透けブラですよ?」
「なにを交渉材料にしてんの?」

 しまった振り向いてしまった。神奈月遙は満足気にニンマリとしている。

 はあーあ、どうせ童貞はこういうのに弱いですよ。

 フリキュアの傘を片手に神奈月遙の救助を開始する。うわほんとに透けてるよ……、色は緑か。

「えっちw」
「冗談言ってる暇あったらさっさと起きろ」
「ありがとうございます」
「おう」

 軒下に戻った俺たちは再び雨宿りを開始した。いまだに止む気配はない。目に見える店もすべてが休業している。

「………うぅ、しゃがんでもいいですか?」

 神奈月遙は小さくうずくまると、自分の吐息に手を当てて暖を取り始めた。

 不味いな…。

 状況をまとめよう。
 幸いブレザーのおかげで背中はあまり濡れていない。でもそれ以外のところは絞れるほどに濡れていた。
 これ以上、俺には雨に濡れた女の子を放置するという選択肢は浮かばなかった。

「神奈月、もう少しだけ歩けるか?」
「……どうしました?」
「少しアテがある」

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 繁華街を歩くこと五分。
 外れにある映画館が見えてきた。最近やった補修工事で小綺麗にはなっているが、回転扉とかレンガで出来た壁とか、端々から今もレトロな雰囲気が漂っている。

「ここ映画館…?ぃっくし!」
「ヒロさん居ますかー、傑人です。開けてください!」

 しばらくして回転扉が動き出した。神奈月遙に入るのを促して俺も続く。

 神奈月遙をロビーに待せて奥へ進むと、初老の男性が出迎えてくれた。

「おうタク坊どうした、びしょびしょじゃないか」
「お久しぶりです、ちょっと台風で」
「まあ話はあとだ。バイト服があるから着替えろ」
「実はもう一人いて…」
「イオリか?あいつに合うサイズはなぁ…」
「いえ違くて……後ろの」

 ひょこ。

「あの……お邪魔してます」

 神奈月遙を見たヒロさんは固まった。

「タク坊……高飛び先はどこがいい?」
「なんで!?」
「人を見続けて二十年、言わなくても分かる。さしずめ親元から逃げ出してきた娘さんと駆け落ちしたんじゃろ?」
「ぜっんぜんっ違いますね!まず着替えさせてください!」
「じゃが詳しく話を」
「話はあと!!」

 閑話休題

「ふむふむ、本当に台風に巻き込まれただけなんじゃな?」
「「そうです」」
「家出もしてない?」
「「はい」」
「……ファイナルアンサー?」
「「みのもんたか(ですか)!」」
「親御さんにテレフォンしていいか?」
「「くどいわ(です)!」」
「…まあいいじゃろ。雨が止むまでここに居るといい」

 着替えた後、俺たちは事情を説明した。ヒロさんは「タク坊が女を連れ込むとは…」「これが青春か…」などと誤解を孕んだままだったけど、もういいや説明めんどくさい。

 ヒロさんは温かいものを用意すると言って、席を外した。

「先輩、ヒロさんとどんな関係なんですか?」
「バイト先だよ、週末とか人が多いときに手伝ってんだ」
「おーい、暖かいもの持ってきたぞー」
「火鉢!?」
「贅沢言うなタク坊、儂の戦争頃はなぁ…」
「生まれてないだろ…」
「ふふっ……、二人とも仲がいいんですね」

 ふふっ……?

 俺は信じられないもの見るように横を向いた。整った顔にどこか見覚えのある自然な笑み……あ、分かった、これよそ行きの顔だな?

 初めて神奈月遙と出会った、天使のような微笑みだ。

「そうかのう…?」

 目線を戻すと、いるのはすっかり鼻の下を伸ばしたヒロさん。神奈月、お前は小悪魔かなにかか?

「……ちょっと飲み物買ってくるわ」

 俺は離席ついでに自動販売機へ向かった。

 歩きながら考える。

 そういや、神奈月遙はなんで今日帰りたがらなかったんだろう。
 フリキュアの下りをやるため?台風の日に?雨の日に俺のビニール傘を隠すなり、壊すなりすれば十分できる。

「それは流石にクレイジーすぎるか」

 それは置いといて、台風の日に家に帰らないのはおかしい。でも粘ってた割には最後あっさりと解散しようとしたし…。

「……解散」

 もしかしてまだ帰るつもりはなかった…?
 いやよく考えてみれば。

「あいつ、透けブラしたとき顔赤くなかったな」

 神奈月遙は自分の想定外のことが起きるとすぐに顔を赤くする。逆をいえば計画通りなうちは全然動揺もしない。

 あの時「えっちw」といった彼女は顔を赤くするどころか、笑っていた。こうなることが計画のうちだった…?

「意味がわからねぇ」

 深く考えるのは止めよ。
 神奈月遙が身体を冷やしてることは事実、なら温かいものを持っていこう。

『――――うわっ可愛い!』
『じゃろうじゃろう?』

 いつの間にか神奈月遙とヒロさんが楽しそうに会話をしていた。

 こいつ猫かぶるの上手すぎねぇか?
 仮にもナイスミドルのおっさんと女子高校生って話の話題が合わないだろ。一体何の話をしてるのやら。

「何してんの」
「思い出話じゃよ」

 そこには俺の幼少期の写真があった。

「ホントに何してんの!?」
「子供の頃の先輩を愛でてただけですよーw」
「ヒロさん!?」
「いやのう…どうしてもハルちゃんが見せてくれと聞かんから」
「ヒロおじさん大好き♪」
「デヘヘ、そんな事言われても何も出んぞ。ほれ幼稚園の写真」
「出てんじゃねーか!」

 すっかり買収されてやがる!
 神奈月、お前…小悪魔どころじゃねぇよ、サキュバスだろ!?

「ぶわはははは!砂場一人で遊んでる、めっちゃボッチw」
「おいこら返せッ!」

 格闘すること五分、ようやくヒロさんから全ての写真を回収した。「わしの写真なのに…」とかヒロさんはしくしくしてるけど自業自得だ。魅了が切れるまで没収しておく。

 …ったく、こんなもの万が一神奈月に持って帰られてみろ。一ヶ月はいじられ続ける。

 ふと外を見ると、いつの間にか雨は止んでいた。

「台風の目に入ったようじゃな、ほれ二人とも今のうちに帰れ」

 俺たちはヒロさんにお礼を言って映画館を出た。

「いやー面白い人でしたね」
「こっちは疲れたけどな…、でも本当に親へ連絡しなくていいのか?」
「スマホまだ乾いてませんし、普通に帰った方がはやいです…それとも先輩と放課後デートしたって報告した方がいいですか?」
「はぁ!?デートって」
「冗談ですよw…じゃあ私バス乗らないといけないので!」

 神奈月遙は俺の言葉を待たずに走り出してしまった。さっき盛大に転んだことをもう忘れたのか。
 執拗にこっちを見てるのは多分の俺の反応をみて楽しみたいからだろう。

 また転ばれても困るので俺は踵を返した。
 歩きながらさっきの言葉を復唱する。

「デート…?」

 思い出されるファミレスや映画館での出来事。飯を食われて、写真を見られ、最後もからかわれて……。

「いやこれデートじゃねえだろ」

 あと普通でもねぇ。ほんとに何だったんだ今日は。でもまあ。

「ラブコメの参考にはなりそうだな」

 俺は一人帰路へ着くのだった。

 内容の描き始め、描いてる途中、描き終わった後。
 漫画家はいつ表紙を描くのか疑問に思ったことはないだろうか?

 結論から言おう。描き終わった後だ。

 ということで、俺は次に送るために完成した読み切りと表紙の下書きを出した。今回はすこし構図の正確さにこだわっていきたいと思う。

「やっほー、先輩何してんですか?」
「和田編集に送る漫画の表紙描こうと思ってる」
「私モデルやりましょうか?」

 部室に入ってきた神奈月遙は近くにある椅子に座った。
 正直願ったり叶ったりな申し出だが、今回に限って俺は断る選択をした。

「……いや遠慮しとく」
「あれ?いつもはなんだかんだで付き合ってくれるのに珍しいですね」

 近づいてくる神奈月遙。
 俺は意図的に距離をとった。だがそれが悪かった。俺の意図を察した神奈月遙はニターっと笑みを浮かべて距離を詰めてくる。

「ちょっと見せてください!」
「ばっ、ちょっ!」
「………ぶははははは!!!なんですかこれw」

 ちょっとでも見れれば勝ちの神奈月遙と、少しでも見られれば負けの俺。隠せるはずもなかった。
 案の定、漫画を見た神奈月遙は大笑い。

 そりゃそうだ。俺だって馬鹿だと思う。

「ひぃーお腹痛い。『世にも奇乳な物語』ってそれでも限度ってものが、ひひっ、変な声でるw」
「そういう目的で描いてんだからいいんだよ…」
「続き読んでいいですか?」

 元々は「どこまでおっぱいを大きく描けるか」という疑問から描いたコレは落書きだけで終わる予定だった。
 しかし深夜のテンションというのは怖い。描いているうちにキャラの背景とかストーリーまで浮かんできて、最終的に読み切りのボリュームになってしまった。

 そのまま捨てるのも勿体ないから和田編集に送ってみると大爆笑。編集部に送ってみるからちゃんと描いてみろと言われて現在。

「んふっ…!だめ…我慢すると可笑しくなるw」

 …笑いの火力は充分なようだ。
 ちなみにどんな物語かというとあらすじはこうだ。
 貧乳に悩む女の子が悪魔との契約で「ありがとうと言われる度におっぱいが大きくなる」呪いをかけてもらった。はじめは上手くおっぱいを大きくしていったのだが、途中でつくった彼氏がとんでもないドM野郎でどんなことにも「ありがとうありがとう」と言うもんだから、あれよあれよとおっぱいがアメリカ大陸を覆ってしまった。
 周囲から非難とバッシングを受ける主人公だったが、ちょうど巨大隕石が急接近するという速報が入る。混乱する中で、主人公は世界中の人々と力を合わせて自分のおっぱいで巨大隕石を跳ね返すことを決意。
 そして地球サイズになったおっぱいで巨大隕石を逸らすことに成功、世界中が湧く中、みんなはうっかり言ってしまった「ありがとう」と。

「はぁー、ひどい漫画ですねこれ。本当に読み切りに出すんですか?」

 そう言ってる割には、ずいぶんと嬉しそうな顔をしている。………なんで嬉しそうなんだ?

「別に連載とか考えてねえよ。編集部に俺の顔を覚えてもらうのが目的」
「でも出すんですね?」
「…出すけど?」

 急に神奈月遙の顔が曇った。随分コロコロと表情が変化するなぁ…、怪人二十面相か?

「……ねぇ先輩」

 一枚一枚捲りながら神奈月遙はさらに神妙そうに語りかける。

「いいんですか?成功しても…」
「しても…?」

 その顔がやけに深刻そうだからつられて俺も神妙な気持ちになる。

「……おっぱい作家として名が轟きますよ?」
「………」
「お〜〜っぱ〜い〜さぁっかとして〜!!!!」
「聞こえてるわ!!!」
「てへ!」

 てっきり聞こえてないと思って!と、神奈月遙は悪戯っぽく舌を出した。俺が閻魔なら迷わず引き抜いてる。

 なんだよ…ヤバいことでもあったと思って心配したのに。

「でもこの表紙はダメだと思いますよ?」
「なんでだ?」

 机に放置していた表紙をつまみながら神奈月遙は続ける。

「なにを描いてるかよく分かりません。私が笑ったのって読み切りの最初のページですし」
「…詳しく頼む」
「うわいきなり食いついた、なんで」
「……別にいいだろ」

 実を言うと二人で過ごした時間は案外ためになっている。
 神奈月遙に指摘されたり、実際に検証した部分のクオリティは確実に上がっている。
 添削だらけの修正版でも、神奈月遙との経験を参考にした部分だけは、よく褒められていた。

 そんなことを本人に言えばからかわれるので言わないけど。

「まあいいです、よく見てください。地球の隣に大きなおっぱい。ネタバレですし、初めて見る人には意味が分かりません。これって読み始めと読み終わりのインパクト両方が欠けるってことになりませんか?」

 言われてみるとそうだな…目先のインパクトに囚われすぎたか。

「……なら描くべきはもっと王道の…ヒロインの立ち絵だな」
「そうそう!だから私がモデルになってあげましょう!」
「いや…それは難しいんじゃねえかな」
「は?」
「だって胸のサイズがちょっと…」

 この時俺が想定していたのは中盤くらいのやや大きめな胸だった。
 それと比べると神奈月遙の胸は…なんというか少々控えめと言わざる得ない。服のシワとか影の関係で今回に限っては神奈月遙にモデルを頼むのはあまり得策とは言えなかったのだ。

「ええ〜〜!!」

 珍しく神奈月遙は地団駄を踏んだ。

「じゃあなんで巨乳にしちゃうんですか!」
「これ奇乳の漫画だぞ!?」

 いきなり言われたもんだから、俺は反射的に否定した。

「だからって最初からネタバレする必要はないですよ!」

 待て待て論点がおかしくなってる。

「いやこれくらいはネタバレにならねえよ、そもそも変に胸を控えめにしたら変なミスリードにならないか?」
「そ、それは…、違う、そうじゃなくて…、ぅぅぅぅううううっ!!」

 自分の論が強引すぎるのに気づいたのか、神奈月遙は押し黙った。でも気に入らないことがあるのだろう、何としても否定したいという感情が見え隠れしていた。

 とりあえず神奈月遙を宥めなければ。

「まあ落ち着け神奈月、仮にこの読み切りダメでもまた次があるじゃないか」
「…………次?」

 言ってから自分でも納得する。ふむ別にこの読み切りがコケたところで大きな問題は無い。
 修正点を解決して、また新しく描けばいいだけだ。

「だからそんなに気にすんなよ」
「……………………………………」
「神奈月……さん?」

 ん、返答が来ないぞ?
 なんか俯いてぷるぷる震えてるし……ん、もしかして………。

(これ…怒ってない…?)

 瞬間、神奈月遙は顔を振り上げた。
 潤んだ黒灼の瞳をこれでもかってくらい吊り上げ、まるで猛獣のように唸る神奈月遙。

 その姿、獅子の如し。

「…………もういいです!先輩なんて巨乳に押し潰されちゃえ!」
「おい待て――」
「ばーかばーか!童貞!童貞!」
「だから話を――」
「童貞おっぱい作家~~!」
「変な属性付けんじゃねぇ!」

 この日、俺と神奈月遙は初めて喧嘩したまま別れた。

 仮の改稿版を今日中に提出する必要があった俺は、表紙は一旦保留して修正を開始しようとした。

「…ん、これ改稿版じゃなくて添削版か」

 鞄から添削版を出そうとしたら改稿版が出てきた。机に放置していたほうが赤マルがついている添削版だ。

 ああ、だからあいつ嬉しそうだったのか。

 電話が鳴る。神奈月…じゃない、和田編集だ。

「はい芥川です」
「今日はサービスして添削山盛りだぞ」
「その表現でなんとも言えない気持ちになったの初めてですよ」

 和田編集は「なんだ元気ねーな」と添えてから「そういや」と続けた。

「読み切り後について訊きたいことがあったんだが今いいか?」
「なんすか?」
「神奈月遙との協力はまだ続けるか?一応、読み切りまでの話だった訳だが…【ガンッ!】…おいなんだ今の音?大丈夫か、聞いてるか!?」
「……大丈夫です、あとまだ神奈月の協力が欲しいんですけどいいですかね」
「そりゃ問題ないが、本人にも聞かねぇと…」
「分かりました、俺から訊きます。一度電話切りますね」

 電話を切った俺はもう一度机に頭を打ち付けた。

 ガンッ!

「アホか俺は…」

 完全に忘れてた。点と点が繋がる。
 神奈月のLINEに電話を入れる。すぐには出ない。

「あいつにとってこの読み切りが最初で最後だった。なのに、何が『次がある』だよ」

 不在着信。
 もう一度かける。五コール目で繋がる。

「はいどちら様ですかぁ?」

 神奈月遙の声じゃない。

「あっ俺、芥川傑人っていいます。神奈月とは…」

 俺にとって神奈月遙ってなんだ?

「……ん〜もしかして先輩さんですか?」
「えっ…まあはい多分」
「やっぱりそうでしたかぁ。申し遅れました、ハルちゃんの保護者です。あれですよねぇ、先輩さんは凄い漫画家さんで、ハルちゃんとは新作を作るために協力してもらってるんですよね」
「そうです、それで――」
「それで!今進展はどうなんですかぁ?聞いたところだと…ハルちゃん、絵のモデルとかシチュ…?…漫画の場面のアドバイスとかしてるみたいですけど、あの子そんなに経験豊富じゃないし、まあスタイルはいいですけど、ちゃんと先輩さんのお役に立ってるのか、保護者としてとても不安で…」

 な、長ぇ……。

「え、えっと…」
「あら長話しちゃってごめんなさいねぇ、なにかハルちゃんに用事?」
「あの、今神奈月さんっていらっしゃいますか?」
「あっ、もしかしてハルちゃんの心配をしてくれたんですかぁ?ありがとうございます、実はハルちゃん今日ご機嫌ななめみたいなんですよ。最近は先輩さんのおかげで凄く明るくなったのに、今日は昔みたいにまた――『おかーさん!誰から―!?』…あぁ、先輩さんからよー!」

 遠くから神奈月遙の声が届いた。
 今は手が離せないのか?

「ごめんなさい、一回離れますね」

 神奈月の母親がスマホを置いたのか、そこからの声は途切れ途切れにしか聞こえなくなってしまった。
 一分後。

「じゃあ今からハルちゃんに変わりますね」
「ありがとうございます」

 ガチャ

「あぁ先輩ですか?いま手が離せないんで、手短にお願いします」

 声以外に水が流れる音とスポンジを擦る音がした。皿洗いか…?

「さっきは済まなかった」
「……何が?ですか」

 電話からでもムスッとしているのがよく分かる。しかも「何が?」と強調してるのが怖い。
 まあ元凶は俺なのだから仕方な――

「切りますよ?」

 俺は慌てて言葉を続けた。

「お前が協力してくれる期間を忘れてたんだ。だからさっき、その事を知らないまま『次がある』とか言っちまったんだ。お前にとっては最初で最後になるかもしれないのに、何言ってるんだろうな…本当に申し訳ない。えっと、それでだな……和田編集にも確認をとって――」

 あの、と神奈月が遮る。

「な・が・いです。嫌がらせですか?」
「いやそういう訳じゃ」

 勢いで電話かけたから何も考えてないんだよ。なんて言ったらまじで切られそうなので黙っておいた。

「男ならハッキリ簡潔に言ってください!」
「わ、わかった。えーっと」
「あーもー!十秒以内!二十文字以内っ!はいどうぞ!いーち、にーい、さー…」

 おいおいおい!!
 理不尽な状況の中、不平など言う間もなく俺の脳は高速で言葉をまとめ始めた。なんだよやれば出来るじゃ――『ななー』ぎゃあああ!!もう時間がねぇ!!
 早く完成させろこのポンコツ脳みそ!!

「きゅーう、じゅ――」
「こ、これからも俺の漫画を添削してくれ!」

(二十文字以内だよな…?いやそもそも……)

 悲しいくらいに、ありきたりすぎる。伝えたいことはもっとあるだろうに…。

(漫画家志望の言葉か?…これが。)

 しばしの沈黙。
 神奈月遙は言った。

「つまり…?」
「今後も部室に来て、シチュ検証とか漫画の問題点を指摘してください…」

 自分の残念さと申し訳なさで、俺は消え入るように言った。もうやだ、来世はカタツムリになりたい…。

 ……………………………。

 ん、反応がないな。

「……神奈…月?」

 えっこれ通話切れてない?嘘だろ!?
 急いで暗転している画面をタップしたとき。

「ぷっ、あははははははははははははは!」

 神奈月遙の甲高い笑い声が部室に響き渡った。くそっ、安心して涙が出てきそうだ。

「どうせそんな事だろうと思いましたよ、先輩すっごく鈍いしw」
「す、済まない」
「いやいや全然気にしてないんで…あれ?もしかして先輩、自責の念とかで泣いてます?」
「そんなことねぇよ!」
「ま、それは置いときます」

 神奈月遙は続ける。

「いいですか先輩、私はこんなところで添削係を辞めるつもりはありません」
「おう」
「先輩がデビューするまで添削(なお)させてもらいますからね!」
「ああ、望むところだ!」
「じゃあ指切りしましょ!指を出してください!」

 俺は誰もいない部室で小指を立てた。

「立てましたか?それじゃあ行きますよ」

「「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーます」」

 誰もいないはずの部室で、満面の笑みの神奈月遙が見えた気がした。

「「指切った!」」

 ポチッ

 ん、なんだ今の音。何気なくスマホを見る。

「…え」

 俺は絶句した。

 画面には神奈月遙がいた。髪は濡れており、周囲は湯気で白くくもっている。すこし目が赤いかもしれない。

 でもそこは問題じゃない。
 俺が絶句した理由は、神奈月遙が裸で湯船に浸かっているというシチュエーションだ。

 その無防備な胸を視線が吸い寄せ――あ、神奈月遙も気づいた。

「へっ……あっ、きゃぁぁぁああああああああああああああああああああああああああ!!」
「………う、うわあああああああああああああああ!!!」

 我に返った俺は、咄嗟にスマホから離れる。

(水が流れる音とスポンジを擦る音……。完全に風呂場の音じゃねーか!!)

「は、早く閉じてくださいよ!」
「何言ってんだ!寄ったら、もういっかい画面見ちゃうでしょーが!」
「私だって身体隠すので手一杯ですよ!先輩が動いてくださいよ!こ、このヘタレ!変た……あ゛っ」

 ぽちゃん………と言う音がした後、神奈月遙からの通話は無事終わった。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 翌週

 俺はいつもより早く部室へ来ていた。準備に時間が必要だからだ。

 鞄からちょっとした単行本くらいの厚みになったプロット書を取り出す。
 長机に一冊ずつ並べていく。

「まあこんなもんか」

 あの日から、ほぼ徹夜で書き上げた七つのプロット。この中の一つで次の読み切りは勝負したい。

「先輩やっほー…ってなんですかコレ」
「いま頭にあるプロットを全部書き起こしてみた。神奈月、なんかいいと思ったものを選んでくれ」
「そうですね……」

 神奈月遙は一つひとつ確認した。
 それから気になるものをいくつか手に取ると、ソファに座って読み始めた。

 しばらくして。

「先輩、これがいいです」

 神奈月遙が選んだのは、本当に徹夜のダメージが最高潮だった三日目ごろに書いたものだった。

「よし、じゃあこのシナリオで描いてくるわ」
「あ、でも待ってくださいよ。このプロットのここの部分ちょっと強引すぎません?他にもこことか…そことか…改めて読んでみるとめっちゃ童貞臭いですねw」
「これお前が選んだんだよな?」

 その後も神奈月遙は、自分で選んだくせにガンガンとプロットの童貞臭い点について揚げ足を取るかのごとく指摘し続けた。

 ムカつくが全部メモを取った。

 およそ十分

「…よし、こんな感じですかね」

 神奈月遙は「はぁーいい仕事した」とでもいいたげに額を拭った。そして。

「これからも頑張っていきましょう!」

 手を差し出された。
 俺も手を出し……「M」の軌道で避けた。

「なっ…!」
「ばーか、まだ試用期間じゃボケぇ!」
「ちょ、今のは針千本案件ですよ!!!」

 桜が芽吹く頃に始まり、散る頃に変わったこの関係はもう少し続きそうだ。

しおり