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親方の日記より

「フィゼの月の4日。あいつはいつにもなくフラフラになりながら帰ってきた。
俺がどうしたのか尋ねると、『鼻を斬られちまった』と弱々しい声で一言。
見てみると、やつの鼻面の上には十字の傷がついていた。
おれが名誉の傷だなと笑って答えてると、こんな傷つけられて最悪だ。と、そのままふて寝してしまった。
結局のところ、誰にこんなご丁寧な十字傷をつけられたのかは、全く記憶に残っていないとか言いやがる。確かにそうかも知れないな。戦っているときにそこまで気を回せられるもんじゃない。俺だって昔はそうだった。家に帰ってようやく背中にナイフが刺さってることに気付いたことだってあったし。戦場で張り詰めた気持ちが、記憶も痛みも全て忘れさせてしまうんだ。
まあいい、明日にでも傷を癒しに温泉にでも連れて行ってやるか。確か近くの火山の……」

「と……こういうことだ。お前はあの時つけられた傷を全く思い出せずに記憶の奥底へ閉じ込めていたんだ」静まり返った書斎で、ラザトが一冊の日記を手にぽつりとつぶやいた。

「その前日。フィゼの月の3日……その時にリオネングの騎士団を含む多くの残存兵が、白く光る服に身を包んだ女性を見たと当時の書物には残っているのですが、これも陽の光の作り出した目の錯覚って当時は片づけられてましたしね」書斎の奥でエッザールがそう付け加えた。
………………
教会での長い夢から覚めた俺は、とりあえず家へと帰っていた。
結局マティエに関する記憶は得られなかったが、それ以上に収穫があったからだ。
もう一度例の秘蹟を試してみたかったのだが、彼女……ロレンタが言うにはかなりの気力と体力を使うとのことだ。また日を置いてチャレンジしなくてはな。
………………

「それが、狼聖母ディナレの降臨……だったんだね。まさかラッシュがディナレ様の子だったなんて」傍らでトガリが驚きの顔で俺を見つめていた。
「ああ、そしてその翌日にお前はここに帰ってきて、兄ィにそれを報告したんだ。けどディナレのことなんてもはや思い出せずに、誰かに鼻を斬られたってことでな。運よく兄ィがその日のことを記していた。これですべて納得がいく。つまり……」

 ラザトは俺の鼻面の傷跡に手を置き、こう言った。
「おめえのそれは刀傷とかじゃねえ、いわゆる『聖痕』ってやつだ」
 聖痕……初めて聞く名前だった。

「お前は狼聖母ディナレの加護を受けたんだ」

 いつものことだが、カゴって何なんだかさっぱりだった。
「ンなことも知らねえのかバカ犬。つまり、えっと、神様の……」ほら見ろ、ラザトも答えに困ってる。
「えっと、とにかく護られてるってことだよ。いつでもディナレ様が側にいて、災い事から守ってくれるんだ」
 トガリの野郎がそう言ってくれたのはいいが、あいにくと俺はこういう生き方してたから、身体だけは頑丈だし、ケガというケガなんて全くしたことなかった。矢が刺さってもメシをたくさん食って寝てれば半日で治っちまうし。
……でも、もしかしてそれこそがディナレの加護そのものだったりしたら?
そう思うと全て合点がいく。

「まあ、とにかくその夢見からして、おめえがディナレ様に選ばれたってことだけは確実ってことか。しかし……」
そう言うと、ラザトは天井をじっと見つめ、何か考えながらいつもの酒をグイっとあおった。
「ディナレがお前に言ってた、私の子っていうのは一体何なんだか……な」
「ええ、普通に考えてみてもディナレ様が聖女として没したのは百年以上前のことですし。それを差し引いてもラッシュさんがあの方の子と言うのはあまりにも矛盾がありすぎます」
そうだな、そこら辺もいつか調べてみたい気もある。
本当に俺の母親だったのだか……そして
「俺のご先祖様か……いつか落ち着いたら調べてみたいもんだな」
「その時は私もご一緒させてもらえますか。旅陣として」
ああ、エッザールみたいに頼りになる仲間も増えてくれたことだしな。

「ところで……」
おっと、そうだ、ちょっと気になってたことがあったんだ。

「俺がこの鼻に傷をつけられてからってものの、イマイチ嗅覚……っていうのかな、鼻の感覚が悪くなってきたんだが、それにも意味ってあるのか?」

「おめえが風呂嫌いで臭えからじゃねえのか? 元が臭けりゃ鼻だって参っちまうわ」

ラザトは吐き捨てるようにそう言った。
マジか……原因は俺そのものだったのか。

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