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ジールの場合 前編

夜明け前から降り続いていた雨は、結局その日の終わりも止むことがなかった。
真っ暗な空を見上げながら、雨はあんまり好きじゃない。と一人愚痴る。
自慢の嗅覚は鈍るし、お気に入りのこの髪も、湿って重くなってしまうし。それに何より嫌なのがぴちゃぴちゃ跳ねる足音だ。と彼女はいつも思っていた。
少なくとも、仕事の時だけはね…と付け加えながら。
「はあ」と、冷たい風の吹き抜ける中、酒混じりの息を吐く。ふわりと白い霧が宙に浮かび、それは瞬く間に降りしきる雨のひと粒へと変わってゆく。
顔にかかった濡れた前髪を細く長い指で掻き上げても、視界の先には何も見当たらず、またため息が一つ、雨に消えた。
いつもなら飲み友達や、仕事をさぼって遊びに繰り出してきた衛兵がちらほら見受けられたりするのだが、この長い雨で今夜は早々に家路へとついてしまったようだ。
後ろを振り返ってみても行きつけの店の木戸は閉まったまま。仕方なく、ぬかるんだ道を小走りで駆け抜ける。もう少し長居できそうな店を探しに。
その後ろには、"音無し"特有の小さな足跡が点々と続いていた。
だんだんとその足は早さを増していく。水面の上を小石が跳ねていくように。
やっぱり雨は嫌いだ、それ以上にぬかるんだこの地面が大嫌いだ、と舌打ちしながら。
一歩一歩足を踏みしめるたびにまとわりつく、この独特の感触。爪先が沈むごとに重く、しつこくー。
鉄のブーツや革靴を履いている人間たちならば、こんなのはそれほど難く感じないだろう。重くなったら、洗うなり履き替えれば済むことなんだから。でも自分らは違う。靴なんて履くことがないから。
それだけに、よけい気分が悪い。
積み重なった屍の上を、流れ出た血だまりの上を歩いているような感じがして。
酔っているから、必要以上に"それ"をより一層思い出してしまうのかもしれない。でも、
「とっとと止んでくれないかな…」
って、独り言が漏れでてしまうくらい、今の彼女は、この雨そのものに嫌気が差していた。

暗い街をしばらく走り続ける中、ようやく雨宿りできそうな軒先が視界に入ってきた。彼女はさらに足を早め、唯一の濡れない場所へと、その身体を素早く潜り込ませた。
いつしか雨脚は強まり、遠くからは季節外れの雷の音が聞こえ始めてきた。
水を含んで重くなった愛用の革ジャケットを脱ぎ、軽く絞る。
少しでも身体を乾かしたい、髪も、服も。
頭を勢い良くぶるぶるっと振ると、ようやく自慢のカールがかった髪が元通りになってきた。
「飲みなおせるトコなさそうだな…」三度目のため息のあと、ジャケットの胸ポケットから残った小銭をかき出す。
だけど手のひらの上には、古びた小銭が三枚だけ。
「ありゃ、あたしそんなに飲んだっけ?」良いで曖昧になった記憶を手繰り寄せてみる…が、一向に思い出せない。それほどまでにたくさん飲んだということか。
ふと、思い出すのはかつての飲み友達。
遠くの国に行くと聞いて、一日中ずっと飲み明かしたっけな。
黒い地の毛とあいまった純白の髪の毛。もう一人の友達とはまるで正反対の毛並みを持っていた彼女。
自分と同じくまるで底なしの酒飲みだった。世界中どこを探したってあれほど一緒に飲んで語れる存在はいなかったかもしれない。
「マティエ、今どうしてるかな」
なんて白い息とともに、酔い覚めの言葉が闇へ浮かんで、そして雨粒とともに消えていった。

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