鼓動
「ラッシュさん、ラッシュさん?」
俺の隣で、また聞き覚えのある声が聞こえてきた。
けど今度は親方じゃない、この声はルースだ。
「ラッシュさん、あの……なんで泣いているんですか?」
その声に俺はハッと気づいて、自分の頬を触ってみた。熱い水が流れている……ああそうだ、これって確か涙って言うんだっけ、親方が死んだときにも、俺の目からたくさん流れてたな。でもなんなんだよ一体、なんで俺、こんなとこで涙流してるんだよ!
しかも、全然止まらないじゃねえか。
俺はすぐさま食堂を飛び出した。胸の中に、恥ずかしいような、悔しいような、それでいて言葉に表せないようなものがたくさん詰まって、今にも叫びだしそうな気分に駆られて。
……俺の足は無意識に、離れにある大木の元へと向かっていた。
草ぼうぼうな広場の真ん中に、大きな木がドンと立っている。俺たちが日夜身体を鍛えている場所。いわゆる訓練場だった所だ。
もっとも今は言うまでもない。それに「俺たち」じゃなく「俺一人だけの」場所になってしまったし。
みんなの前で泣いていたってことがすごく恥ずかしかった。ルースやジールに、俺の涙なんて。それになぜチビの前で、親方のことなんか思い出しちまったんだろう……って。
あの時、確かに俺がいたんだ。今はもう散り散りばらばらになって、もしくは戦いの中、死んでしまった仲間が、周りでメシを楽しそうに食ってて、腹を空かせた小さな俺がいて、まだ年を取ってなかった親方がいて……
毎日ここで打ち込みをしていた。どんなに天気が荒れていても。おかげでこの幹には俺の拳の跡が今でもクッキリと残っている。
俺は無心で殴り続けた。この町じゃ一番の古木だ。俺が何発も叩こうがビクともしねえ。無論、今の俺の力でも。
生い茂っている葉っぱが、少しづつ散っていくだけ。
とにかく今は、頭の中から全部消し去りたかった。
殴り続けているうちに、自然と口からクソとか畜生とか、様々な言葉が漏れてきた。それがだんだんと叫びへ、声が枯れるまで、延々と。
どれくらい殴り続けたか分からない。だが急にヒザから力が抜けた。
ガクッと崩れ落ちて、ようやく今、自分がやっていることに気がついた。
息が切れて、両拳がズタボロになって血を流している、そんなバカをやっちまったことに。
その時、ふと俺の肩に暖かくて柔らかい何かが触れた。
「やっぱりここだったか」
ジールの声だ。背中越しにわかる。でもあいつの手ってこんな感触だったのか。
「驚いたよ、いきなり涙流しちゃうんだもん」その言葉に、俺は何も答えを返すことができなかった。というか、どう返していいか分からなかった。
「まだ泣いてんの?」そうだよジール、お前の言うとおりだ。こいつ、どうやって止めたらいいのか分からないんだ。
「しょうがないにゃ。ほら、これでどう?」
あいつの細い身体が、ぎゅっと俺の背中を抱きしめてきた。柔らかく暖かい……こんな不思議な感触、生まれて初めてだ。
「ジール、おい……」
「なにも言わないの。目は閉じてて」
耳元でささやくジールの声。
突然、俺の目の下にあいつの吐息が……いや、唇が触れてきた。
身体よりもっと柔らかい、だけどちょっぴりザラついた、舌の感覚と一緒に。
「!!!」 反射的に俺の身体があいつから逃げていた。いきなり舐めるだなんて⁉︎
俺の顔を、涙を⁉︎「ちょ⁉︎ おおおお前ななななんだよいいいいきなり!!!」
俺はその時、破裂しそうな胸の鼓動を押さえるのに必死でトガリのような口調になっていた。
しかしそんな俺の動揺にもかかわらず、ジールは俺に対して悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「ね、涙、止まったでしょ」
「え、あ……」
そう言われて、ようやく気付いたんだ、あれが止まっていたことに。
ずっと流れるままだった、涙が。
「お前……だだだからってななななめることねえじゃんか!こんなモンなめたってきき、汚ねえだけだぞ!」俺の口からはもう、すぐにでも心臓が飛び出てきそうだった。
あの時初めてチビを抱いた時のような、どっどっどっと高鳴る胸が、言葉と一緒に出そうなくらいに。
「汚くなんかないよ、ラッシュの涙は、あたしが知ってる人の中じゃ誰よりきれいだよ」
そう言ってくすくす笑うジールの口の端に、八重歯がチラッと輝いていたのが見えた。
あいつがこんな笑顔、俺は初めて見た気がする。
「誰だって、いい思い出も辛い思い出もたくさん胸にしまって生きてるの。その思い出で涙を流せるラッシュは、誰よりも心がきれいだよ。あたしは信じてる」
激しい鼓動はもう、不思議と元に戻っていた。
そして今度はジールの指が、俺の頬をギュッとつねって引っ張ってきやがった。
「痛てぇ!」一体何のお仕置きだって思いつつも、俺は叫んだ。
「ほら、笑いな。ラッシュ」
ニコニコしながら俺の頬をぎゅうっと引っ張ってくる、めちゃくちゃ痛い。でも俺、まともに人前で笑ってためしが無かったかもしれない。
……思い返してみると、戦いの場じゃ笑顔なんて必要ねえし。
しばらくして、頬を引っ張っていた手が離れた。
「ハァ……強情だねえ。女性が笑ってるときは、どんな時にでも合わせるのがマナーなんだよ」
ウソだ、そんなマナー聞いたことねえぞ……とは言うものの、親方くらいとしか話し相手いなかったけど。
「あたしの前では笑わなくてもいいけどさ、あの子の前では笑顔くらいはちゃんと見せるんだよ」
ジールは今度は真剣な顔で話しながら、俺に面と向かい合わせてきた。
あいつのピンク色の小さな鼻がくっつくくらいにまで。
なんなんだこいつ、笑ったり、マジな顔したり。
女っていうのはとっても不思議な生き物なのかもしれねえな。
血のにじんだ俺の拳に真っ白なハンカチを巻きながら、あいつはまたつぶやいた。
「あの子、寂しかったんだからね……ラッシュと同じくらい。ううん、それ以上にね。だからニッコリしてあげなくちゃ、お・父・ちゃ・ん?」
またその言葉か!
結局、ジールに引かれるままに俺はまた食堂へと戻っていった、だけどまだ正直気まずい。
「大丈夫だって。気にしない気にしない」
ジールはそう言うけれど。だけどいきなりトガリやルースに笑われたりしないだろうかと不安で胸の中はいっぱいだった。