バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

5 祈りの唄

不毛の大地に乾いた風のみ吹きわたり
大地神(エラーラ)と二人の 月娘(イーリス)
遠き 太陽神(ソーリス)を恋い慕い
涙も枯れ果て虚ろに日々を送りしなり

天上の楽園より下りし 民人(たみびと)
約束の地を恋い慕うも願い (はかな)
(すべ)(つい)えて望み虚しく
耐えがたき試練を耐えて倒れ伏す

通力を得し末の月娘その名はイーラファーン
遥かなる旅路より帰還せり
通力によりて更に十人の姉妹等呼び集め
いと高き祭壇より祈りの唄を捧げたり

大地を渡り空に響きし祈りの唄よ
やがて恵みの雨となり約束の虹は輝かん
されど祭壇にイーラファーンの姿無く
群れ咲く 悲願花(アルジーカ)ただ月下に揺れるのみ

大地神(エラーラ)の悲しみの涙はエルディナに満ち
十二の月娘等の慰めに漸く夜に涙を拭う
太陽神(ソーリス)は末の月娘の死を悼み
娘の眠るソルディナに、絶え無き光を降り注ぐ

             「エラーラ縁起異説」より


 気が付くと、タルギン・シゼルは毛布にくるまれ、明るい月光が射し込む岩屋の中で寝かされていた。岩屋の天井に天窓が開けられ、月光はそこから差し込んで来るのだった。
「気が付いたようだな。まだ起き上がらない方がいい」
 手仕事をしていた男が、身を起こそうとしたタルギンを制して言った。
天窓からの月光で顔は陰になっていたが、声は穏やかで優しい響きを持っていた。
「いや、大丈夫だ。あんたが助けてくれたのか。礼を言うよ」
 タルギン・シゼルは、ゆっくりと身を起こした。
「礼には及ばんよ。シゼル、わしを見忘れたか?」
 日焼けして皺の刻まれたその顔を、タルギン・シゼルが忘れるはずは無かった。
「パヴァ……パヴァ・ラスメルか?」
「シゼル、すっかり一人前になったな。わしが歳をとるはずだ」
 パヴァは、嬉しそうに目を細めた。
「いや、まだ一人前には程遠い。俺は、いつもあんたに助けられてばかりだ」
「気にするな。お前はわしの息子も同然。それに、助けたという程のことはしていない。たまたま近くに倒れていたお前を、この岩屋に運んで休ませただけのこと」
「近くに倒れていた?」
 タルギン・シゼルは不思議に思った。墜落した飛行船を見つけたのは、マラナス山脈とエルシス山脈の近く辺りだったはず。それでは自分は、ソラリア高原に近いパヴァの岩屋まで、自らの足で歩いたのだろうか。
「覚えていないのか?」
 パヴァに尋ねられ、タルギン・シゼルは首を傾げた。荒野を 彷徨(さまよ)う夢を見た気がしたが、あれは夢ではなかったのか。
「だが、どうしてまた、ソルディナに舞い戻ったのだ?」
「人を捜して……」
 言いかけて、タルギン・シゼルは言葉を呑んだ。別の人影が岩屋の入り口に現れたのだ。両手に白い花を抱えた色白の美少女。まさか、シェリンなのか?
「お帰り、イーラファーン。心配は要らない。彼は目を覚ました。元気だよ」
 パヴァの言葉に、少女は、幼い子供のような笑みを浮かべた。
「イーラファーン? パヴァ、あんたの孫娘か?」
「孫娘、そうだな。そんなところだ」
少女は、タルギン・シゼルに両手の白い花を差し出した。
「……俺に?」
「この子は、お前が目覚めないのではと、ずっと心配していた。それで、夜になると直ぐ、アルジーカの花を摘みに行ったのだよ」
「この花は険しい岩場にしか咲かない。まさか、そんな危険な場所に一人で行ったのか?」
 少女は答えるでなく、不思議そうに小首を傾げ、円らな黒い瞳をタルギン・シゼルに向けた。その様子は、尋常ではないように見えた。
「イーラファーン、さあ、 岩羊(クーヤ)の乳だ。これを飲んだら、外で岩羊の番をしておいで。 砂駝鳥(ソリカ)は放って置いていい。自分で帰ってくるからね」
 少女は頷いてパヴァから岩羊の乳を受け取り、こくこくと飲んで笑顔で器をパヴァに返すと、少し足を引きずりながらも、嬉しそうに岩羊の番に出ていった。
「足をどうかしたのか?」
「挫いてしまったのだよ。 砂駝鳥(ソリカ)が走ると一緒に走り出してしまってね。最近、なぜか砂駝鳥が不意に走り出す」
 パヴァは、タルギン・シゼルにも岩羊の乳を差し出しながら答えた。
「お前を見つける数日前のことだ。砂駝鳥があまりに騒ぐので行ってみると、月に照らされて何かが光っていた。不思議に思って近寄ってみると、アルジーカの花が銀の鈴を鳴らすように群れ咲いていて、その中に、あの少女が眠っていた。砂駝鳥はソルディナで生き延びるための神秘の力を持つと言うが、何かを感じ取って騒ぐのかもしれん」
「イーラファーンという名は、あの娘が自分で言ったのか?」
「名前はわしが付けた。あの子は何も言わない。記憶を無くしているのか、あるいは、遙かな夢の国に住んでいるのか。アリダと名付けようとも思ったのだがな」
「どうしてアリダと名付けようと?」
「彼女に似ているような気がしてね。だが、アリダはもういない。やはり、イーラファーンの方がいい。アルジーカの花の伝説に因んで」

 アルジーカの花の伝説は、建国神話である「エラーラ縁起」には無い。
 口伝である「エラーラ縁起異説」を正しく暗唱できる者は限られているが、その中のアルジーカの花の伝説くらいは、ソルディナの高地人なら多くの者が知っている。
 幼い頃にソルディナで暮らしたタルギン・シゼルもまた知っていた。月の十三姉妹の一人とも言われるイーラファーンが祭壇に祈りの唄を捧げ、そこに咲いた悲願花がアルジーカであると。

「あの子は、本当にイーラファーンなのかも知れない。あの子が月光の下で歌うと、後からその場所にアルジーカの花が咲くのだよ」
「何も喋らないのではなかったのか?」
「何も喋らない。声が出せないのかと思っていたが、時々小さな声で歌っている。本人にその意識は無いのかも知れないが。もしかしたら、伝説のイーラファーンの祈りの唄なのかもな」
 パヴァは、冗談混じりに笑った。
 タルギン・シゼルは、思わず立ち上がっていた。あの少女がシェリンなのかどうか、声を聞けば分かるのではないか。今、あの少女は、岩羊の番をしながら、月光の下で歌っているのではないか。そう思うと、じっとしていられなかった。
「シゼル? まだあまり動かない方がいいぞ」
「大丈夫。少し外の空気を吸うだけだ」
 タルギン・シゼルは、少しふらつく足で岩屋の外に出た。

 少女は、月光の下、砂駝鳥と岩羊の群からやや離れ、小首を傾げて、じっと砂丘の上に座っていた。目の焦点が合っていないようだった。やはり正気ではないのだ。唇が微かに動いていた。
 タルギン・シゼルは耳を澄ませる。はっきりとは聞き取れなかったが、やはり少女は歌っていた。
 その唄の言葉は分からない。しかし、聞き覚えはあった。タルギン・シゼルが幼い日、母が子守唄のように歌っていた唄。意味は分からないけれど、とても大事な唄なのだと言って。

「君はシェリンか……そして、きっと俺の妹に違いない」
 ソルディナから連れ去られ、ウルクストリアの 水原(カレル)に身を投げた母アリダが、どうした奇跡か、水原を流れ、息を吹き返し、アスタリアでシェリンを産んだのに違いない。記憶を失っていたというシェリンの母は、きっと無意識の中であの唄を歌っていたのだろう。自分も幼い日に聞いたあの唄を。
そうでなければ、目の前の少女が同じ歌を口ずさむはずがない。だとしたら、父親が違うとしても、シェリンはタルギン・シゼルのただ一人の妹なのだ。

 タルギン・シゼルの心は、歓びに震える一方で、更なる哀しみに泣いた。
 目の前の少女がシェリンであるなら、飛行船の墜落によって死んだと思っていた彼女が生きていたことは、タルギン・シゼルにとって喜びに違いない。シェリンにしては幼いように見えたが、夢見草から抽出された自白剤により正気を失ってしまったせいなのだろう。
 なぜ運命は、シェリンに辛い試練ばかりを与えるのか。情報屋でもあるタルギン・シゼルは、シェリンの辛い過去を幾らかは知っていた。おそらくは本当の自分を偽らなくては生きられなかったであろうことも。
 もしかしたら、今のままの方がシェリンは幸せなのではないか。タルギン・シゼルは、ふと、そう思った。
 イーラファーンと呼ばれている今は、過去の辛い思いに枕を濡らすこともないだろう。ストーレの雨音に心を寒くすることもないだろう。幸せな夢の中に居られるならば、自分がどこの誰かということなど、強いて思い出す必要はないのではないかと。

 ふと気付くと、少女の足下に一輪のアルジーカの花が咲いていた。ソルディナの夜霧に含まれる水分で育つと言われるアルジーカの花。本当に少女の歌声によって咲いたものなのか、それは分からない。
 少女は、何かに耳を澄ませている様子だった。
 少女の唇が動いた。
「呼んでいる……」
 一羽の砂駝鳥が走り始めたかと思うと、少女はその砂駝鳥の首にしがみついた。
「シェリン!」
 呼び声虚しく、砂駝鳥は少女と共に砂塵を上げて走り去る。
 タルギン・シゼルは、まだ完全ではない身体に力を奮い起こし、別の砂駝鳥に飛び乗った。何があっても妹を守ると。いや、妹でないとしても、タルギン・シゼルの決意は変わらない。シェリンを守る。
 しかし、タルギン・シゼルの体力は、まだ万全ではなかった。猛烈な勢いで走り出した砂駝鳥に、たちまち振り落とされる。砂塵の中を走り去る砂駝鳥を目で追うも、再び立ち上がることができなかった。
 薄れゆく意識の中で、タルギン・シゼルはシェリンの名を呼んだ。

しおり