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 はぁー、生き返る。
 二月になってネイルの流行やショーウィンドウの中身は随分と春めいてきたけれど、まだまだ外回りするには寒く、特に朝夕は凍えそうになる。
 冷えで縮こまった身体を会社帰りに立ち寄るスパの大きな湯舟につかり、温かい岩盤に寝転びながらゆっくりと暖め、アロママッサージでむくんだ足を揉みほぐしてもらう。
 まさにこの世の天国。
 スパといえば洒落て聞こえるけれど、いわゆる銭湯の進化版、スーパー銭湯は最近の私の最大の癒しだ。
 広いお風呂に入れるのって、なんて素晴らしいことなんだろう。
 ちょっと前まではこういうのもオバサンがするものだと思っていたはずなのに、すっかり虜になってしまっている。

「沢井ちゃん、最近頑張ってるじゃん」
「ね、酒井さんもそう思います? 見違えましたよね。もうすっかり営業二課のエースってかんじで」
「そうねぇ、K原さんのおかげなのかしら」
「ちょっと、酒井さん、それは」
「春ちゃんだってそう思ってるくせに。そうだ、おばちゃんがご褒美あげよう。これで自分を労ってきなさい」

 うちの部署の三大お局の二人、酒井さんと高坂さんにそんな風にやいのやいの言われながら居酒屋で押し付けられたスパの入場料無料サービス券。
 色々と不本意ではあったのだけれど、貧乏育ち故のもったいない精神が発動してしまい、無駄にするのも気が引けて先月初めて足を踏み入れた。それが私とこのスパの運命の出会い。
 大都会、新宿にもこんなオアシスがあったなんて。
 一瞬でハマってしまった私は、会社から近いこともあって月に何度か仕事帰りに立ち寄るようになった。

 今日も定時で退勤して、マッサージから始まる癒しのフルコースをゆったりと味わっていた。
 一時間の岩盤浴が終わって館内にあるレストランに移動する。
 手首につけたロッカーの鍵のタグでお会計は全部帰りに済ませることができるので、手ぶらでマッサージや食事をすることができるのもスーパー銭湯の良さの一つだ。
 平日といえども、私のように会社帰りに利用する客が多いのか、レストランは七割ほど席が埋まっている。
 若い女の子たちや、サラリーマン風の男性グループの他、ちらほらと一人客の姿も見え、おひとりさまであるのが自分だけでないことにちょっと安堵した。
 すっかり慣れてしまったとはいえ、まだ世間から一人で寂しく食事する女性だと思われるのは抵抗がある。別にみんな一々そんなことを考えるわけではないと分かってはいるのに。
 カウンターでビールのジョッキと枝豆を受け取って、レストランスペース奥の木製のアジアンな衝立で仕切られたテーブル席に腰を下ろす。
 座ってしまえば隣の客の顔は見えない。プライバシーが守られていて、すっぴんだろうがぼさぼさ髪だろうが気兼ねなくゆっくりできる。

「ぷはぁぁぁぁ」

 ジョッキに口をつけビールを飲むと、温まった身体にすぅっと冷たい苦みが染みていく。
 ごくごくとしばらく飲み続け、ジョッキを唇から離した瞬間、勝手に、それはもうごく自然に、大きな声が溢れ出た。
 木原さんに「スピカのように清廉に輝け」なんて訳の分からない彼なりの励ましを受け、しばらく恋愛や結婚はお預けして仕事を頑張ってみようと決めてからも美容には気を使っていたのに、我ながらオバサンすら通り越してオジサンのような声だ。

「うちの部署、いつから男性社員が増えたんだ」

 ――え、この声って……!
 ふいに左の衝立の向こうから聞き慣れた声がして、ぎょっとする。
 思わず勢いよく立ち上がって覗き込むと、無表情で一人、ジョッキをあおる木原さんがそこにいた。
 頬が急激に紅潮したのが自分でも分かるほど顔が熱い。

「なっ、なんなんですか、いきなり!」
「……大きな声を出すな」

 木原さんの眉間が呆れたように皺を刻む。
 彼の朴訥とした雰囲気のせいか、こげ茶の甚平のような館内着がやけに似合っている。いつものワックスで整えた髪とは違い、洗いざらしの黒髪がふわっと額にかかって、そんな見たことのない木原さんの姿に鼓動が跳ねた。
 それと同時に今、自分がすっぴんなことに思い至る。
 知り合いに見られないと思えば、すっぴんにマスクで帰りの電車に乗ることも構わないけれど、さすがに知り合いには見られたくない。
 ……特に、木原さんには。
 慌てて隠れるように腰を下ろすと、がたがたと椅子の足が騒々しく音をたてた。
 あぁ、もう。
 衝立の向こうから呆れたようなため息が聞こえる。

「何をしてるんだ、沢井は」
「そ、そっちこそ、何してるんですか」
「メシ。でかい風呂に入ってビール飲みながら美味いものを食べるって、案外良いもんだな」

 私の動揺などつゆ知らず、木原さんは淡々と話している。
 食事を再開したようで、カチャカチャと食器と箸の触れ合う音がした。
 私ばかりこんな風に焦ってドギマギして、馬鹿らしい。
 木原さんは風呂上りの姿だろうが、私のすっぴんを見ようがきっと何とも思っていなくて平常運転だ。
 衝立の向こうに木原さんの感情の読めないポーカーフェイスを思い浮かべて、私はため息をつくと勢いよくビールを流し込んだ。

「そう、ですね。木原さんはこういうところ、よく来るんですか?」
「いや。酒井さんから無料券をもらったんだ。興味もなかったから断ったんだが、何故か今夜必ず行くようにと無理やり押し付けられた」

 木原さんの平坦なバリトンが衝立越しに聞こえる。
 その言葉ですべてが理解できてしまい、どっと身体から力が抜けた。
 今日、外回りのあと報告書提出のために退勤前に会社に立ち寄った私に、酒井さんが「今日はスパ行く? 行きなよ、お疲れじゃん。なんなら、ほら、マッサージ十分延長無料券あげるから。行っておいで」と鬱陶しいくらい優しく、マッサージのサービス券を手に握らせてきた。
 思えば彼女の勢いに圧倒された私に、酒井さんはやけに楽しそうに笑っていなかったか。
 あれは、こうしてここで木原さんと私を遭遇させるための作戦、もとい、罠だったのだろう。
 
 酒井さんは昨年の秋ごろ、突然、付き合って間もない恋人と婚約した。
 なれそめを聞こうもんなら「運命って、あると思う?」というお決まりの言葉から、延々と十年も時を遡る運命的な恋の話を聞かされる。
 アラフォーで、しかも生粋のアイドルオタク同士の結婚に運命もくそもないだろう、なんて思ってしまうのだけれど、さすがにそれは言わずに胸に仕舞っておく。

 とにかく、それから酒井さんは急に自分の幸せをおすそ分けしたいと言わんばかりに、私と木原さんだけでなく、会社のちょっと怪しい仲の男女をはやし立ててはくっつけようとするという、質の悪いお局さんに進化した。
 ……高坂さん同様、何かと気のつく仕事のできる人だとは思うし、悪い人では決してないのだけれど、ちょっと、いや、ものすごく面倒くさい。

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