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 そんなに広くない二間いっぱいに出汁とお醤油の匂いが満ちていて、私は鼻をすんすん鳴らす。これじゃあ、私が犬みたいだ。

「良い匂い」
「今夜は肉じゃが作ったよー。あとね、作り置きのほうれん草のおひたしと、なめこのお味噌汁」
「美味しそう。あ、でももう遅いから今日はおかずだけでいいや」

 町田くんは上機嫌で「はーい」と間延びした返事をして黄色のエプロンをつけると、いそいそとキッチンで鍋を温め始めた。
 彼が手際よく食事の準備をする間、洗面所で手を洗って、背中まで垂らしていたロングヘアをヘアクリップでまとめる。
 脱いだストッキングをまるめて洗濯籠に放り込んだ。二人で暮らし始めた当初は恥ずかしくて意地でも自分でやっていたストッキングや下着の洗濯も、いつの間にか町田くんに洗われることにすっかり慣れてしまっていた。
 素足にスリッパをつっかけてスーツのジャケットを脱ぐと、ちょっとだけ肩が軽くなった気がする。
 ダイニングチェアに腰を下ろした瞬間、どっと疲れがきて深い深いため息が唇から零れ落ちた。

「あ、幸せが逃げるよ~」
「こんなので逃げだす幸せなんて、勝手に逃げちゃえばいいよ」
「またそんなこと言って。春子さんって本当に自分に興味ないよね」

 町田くんが何の気なしに発したその言葉に、チクリと胸の奥の方が痛んだ。
 呆れたように苦笑して、町田くんも向かいの席に座る。
 二人で手を合わせて彼の作った夕飯をつついた。
 甘めにしっかり味の入っているじゃがいもがほくほくで美味しい。

「ねね、どう?どう?」
「美味しい。町田くんって片付けは、からきしだけど料理は本当に上手だよね。営業職より調理関係の仕事の方が向いてたりして」
「……嬉しいけど、複雑。同じ営業の先輩にそういう言い方されると傷つくって」

 彼は笑顔を崩さないけれど、ちょっと唇を突き出して見せた。
 ――しまった。
 私は昔からそうだ。
 つい、こうやって不用意に人を傷つけることを言ってしまう。
 気を許した相手には、特に。
数年前に付き合っていた男には「結局、春子は自分にも他人にも興味がないんだろ」と積もり積もった我慢を吐き出されて振られた。
 でも彼の言うことはもっともで、私はきっと自分のことも他人のこともまともに考えられてはいないのだ。
 だからどうやって生きたらいいのかも分からないし、ここ数年、恋愛する機会もわざと遠ざけてきた。
 きっとそれは町田くんにも見抜かれている。
 味噌汁をすすっていた彼が、少し頬を膨らませた。

「でもさ、俺がこの会社に入らなかったら春子さんとだって出会えなかったんだからねー?」

 拗ねた調子でそんなことを言うから、つい母性本能をくすぐられた。
 子供は欲しいとも思ったこともないし、今まで付き合ってきた相手が年上ばかりだったからか、母性本能というものを明確に意識したことなんてなかったのに。
 町田くんが私の部屋に居つくようになってからは、こんな風に彼の柔らかそうな髪を撫でたくなるような、どうしようもなく可愛がりたい衝動に駆られる。
 私が「ごめんね」と素直に謝ると、彼は「俺は春子さんと出会えて良かったと思ってるんだけどなぁ」とまた可愛いことを言って、私の心をきゅんとさせた。

 そもそも、どうして町田くんと私が一緒に暮らしているかというと。
 彼は入社したての頃から、何故か私にちょっかいをかけてくることが多かった。
デスクが近いせいなのか、この年齢の女性が珍しいのか。それとも若い子からすると若い女性よりもおばさんの方が気軽に話しかけられるのか。
 お盆休みも差し迫った八月頃になると、向かいの席にいるくせに、急に社内メールの私のアドレス宛に「今夜、ふたりで飲みに行きましょうよ」なんてメールをしてくるようになった。
 私の様子をうかがってパソコンのモニター越しに視線をよこしてくる町田くんを一睨みして返信する。

「行きません。なんで二人?町田くんって絶対、私のこと舐めてるよね?」

 メールを確認した彼は落胆の色を隠しもせずに「高坂さんと一緒に過ごしたいなって思っただけなのに」と返信してくる。
 今度はメールを無視して、私は席をたった。
 給湯室でコーヒーを入れていると「やっぱりダメですか?」と扉から町田くんが顔をのぞかせた。

「おばさんをからかって楽しい?」

 私が呆れ顔で彼の脇をすり抜けて席に戻ると、肩を落としてとぼとぼついてくる。
 こんなことは日常茶飯事で。
 手作りしたお弁当の中からひょいっと玉子焼きをつまみ食いして、唖然としている私に「うまい!今度、俺にも作ってきてくださいよ」と気安いかんじで言うこともあったし、みんなの前で平然と「今度、高坂さんのおうちに遊びに行ってみたいなぁ」なんて言うから、他の社員にまで「ちょっと高坂さん、若い子に手を出しちゃダメだって」などと、それはそれはからかわれた。

「ねぇ、こういうの、やめてくれないかな?」

 耐えかねて、偶然に二人きりになったエレベーターで詰め寄ると「何がですか?」ときょとんとする。
 頭痛がしてきて、はぁぁぁと深いため息を漏らすと「あ、幸せが逃げますよ」と、そういえばあの時も言われたんだったっけ。
でも不思議なことに、口で言うほど嫌じゃなかった。
 そんなことが続いて一年が過ぎた。

 今年の春、大手企業の接待を任された私は、後輩の男性社員と部長の下田さんの三人で待ち合わせ場所の料亭に向かった。
 相手はこれが成功すれば大口の顧客になるだろう、大手の食品メーカー。
 最初にアポが取れてから、これまでできる限り心を配ってきた。
 プレゼンの手応えも良く、相手が食事をしたいと言うので料亭の手配、手土産など、諸々の手配は私が担当し、ぬかりはなかった。
 けれど相手方にとって問題だったのは、私の年齢だった。四十代後半くらいの狸の信楽焼みたいな風貌の部長職の男は、まず私を頭のてっぺんから足のつま先までじっくり視線を走らせて、眉根を寄せた。
 無遠慮な視線に居心地が悪い。
 男は咳払いして、下田さんを呼びつけると何事か耳打ちした。
 下田さんは大袈裟に笑いながら頭を下げ、「いやぁ、そうですよね。失礼しました。高坂さん、ちょっと」と私を料亭の門の外に連れ出した。

「悪いんだけど、今日は帰ってもらえる?」
「え? どうしてですか? プレゼンの話だってありますよね?」

 数ヶ月かけて練り上げてプレゼンで紹介した提案資料だって、ちゃんと持ってきている。
 急にそんなことを言われても、意味が分からなかった。

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