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四章の四 雲隠れする一華と追う文花。

 職場での仕事は、無難にこなしていた。ただ情熱を持って、という意味では、入社時と比べると維持できていない。

「来週のデザイン会議。楽しみにしているぞ」

 上司の阪口慶二が、独特のプレッシャーを懸けてくる。
 決まって、他に誰もいないところで、接してきた。今日は、昼休憩が始まって、他の同僚が食堂へ出払った隙を衝かれた。
 毎月、行われるデザイン会議に、ここずっと文花は参加してきた。他の同僚は、せいぜい二ヶ月に一度の参加で、できれば出たくない雰囲気を醸し出していた。
 早い話、阪口のデザインを越えなければ採用されないわけで、二十年近くの経験と実績を越えるには、まぐれなどのラッキー・パンチを期待するしかないほどだ。
 それでも文花は、デザイン会議の初参加以来、常に向こうに回してきた。ただ結果は、常に惨敗で、あれに似ているとか、これは陶磁器に向かないとか、何かしらの理由で弾かれた。
 一応、今月の分は用意していた。ただ、デザインのイマジネーションは、尽きかけている。なによりも、仕事やデザインに、百パーセント集中できなかった。
 今週に入ってから、会社の有線で『新生幻想即興曲F』が頻繁に流れていた。聞きたくなくても、聞く羽目になった。聞けば聞くほど、内容が文花を茶化していて、怒りと苛立ちと、殺意までもが、どうしようもなく増幅していった。
 一方で『新生幻想即興曲F』が流れ始めてから、一華が姿を消した。正確には、見つけられないように、小さくなっていた。明らかに一華は、文花を避けている。
 まず、出勤時間の四十分前にはやってきて、一日の準備を始めた一華が、時間ぎりぎりにタイムカードを押していた。
 また、朝のラジオ体操や朝礼でも、姿を見つけられなかった。仕事が立て込んで、朝礼不参加で追い込むときもあるが、別段、忙しい状況ではない。
 研修期間であれば、一華の製造部に足を運ぶ機会もあったが、今は所属する技能部転写デザイン課の雑用等を任され、本来の仕事に従事している。


 週末の金曜日になって、なんとしても今週中に、決着をつけたくなった。
 勤務中、一華に接触する最大のチャンスは、昼休憩以外にない。今日こそは、と意気込んで、食堂に向かう。
 いつもの一華の指定席には、西谷浩美が座り、その左側には、木内幸子が座っていた。

「一華ちゃんは、どうしているの?」

 幸子の左隣りに座った文花は、勢い込んで一華の居所を聞いた。

「それが、さっき急にね、一時間遅れの休憩にしだしてね。ほんと一華ちゃんは、仕事熱心だねえ」

 幸子が、的外れな意見をしたところで、食堂出入口のほうから気配がした。文花が振り返ったときには、すでに誰もいなかった。
 どうも、情報が洩れていた。考えても見れば、一華の舎弟、次朗も見当たらない。
 昼休みのチャンスを逃したら、後は帰りしかなかった。
 今日の文花は、十八時に上がった。一華のタイムカードは、まだ押されていない。
 更衣室の出入口近くにあるタイム・レコーダーの前で待ち伏せをした。一番手っ取り早いと考えたのだ。
 次々と、タイムカードを押していく社員を見送る。相変わらず、目を伏せる男どもが多い。
 中には「今度、(めし)でもどう?」と行く勇気もないくせに、冗談半分に話し掛けてくる奴もいた。OKを出して、たじろかせてやろうかとも考えた。

「あ、これは、お疲れ様です」

 やっと、次朗を見つけた。どうやったって、タイムカードを飛ばすわけにはいかず、仕方なく挨拶したように見受けられた。

「あの、その、さっき阪口課長が、探しておられましたよ」

 次朗は、ぎこちなかった。こいつも相変わらずの「緊張君」だと、文花は鼻で笑う。次朗に、一華の居所を聞こうとしたが、まず先に、阪口の要件を済ませようとした。
 ちょっと小走りになっていた。今の時間であれば、資料室にいるはずだ。
 資料室の手前まで来た辺りで、足が止まる。「なんか、おかしい?」と、すぐに、タイム・レコーダーの前に戻った。
 一華のタイムカードをさっと見ると、すでに押されている。「しまった」と、駆け足で外へ出て、工場正門まで、周りをキョロキョロと見回った。

「くそう」と、怒りを充満させ、再びタイム・レコーダーの前に戻る。
 やけくそになった。女の更衣室の(すだれ)を、がさっと押し退ける。
 一華が、いるわけがなかった。
 またやけくそになって、男の更衣室の簾も、がさっと押し退ける。
 作業着ズボンを脱いでいる男と、上半身裸の次朗を見つけた。
 次朗は瞬時に、両腕をバツの字にして、背中を向けた。なんだか「いやーん」と聞こえてきそうだった。文花は二度、顎を左に向けて、「いいから、すぐ出ろ」と指図した。


 前にも来たスターバックスで、文花は取り調べをした。向いに座る次朗は、腰掛椅子の上に正座しそうな勢いで、いかにも恐縮していた。

「本当に、ごめんなさい。自分は、姉ちゃんに言われたまま、実行したにすぎません」

 簡単にゲロした。あんまりにも簡単だから、それはそれで口の軽い奴だと、軽蔑すらした。

「今週に入ってから、あなたが、私の行動を見張って漏らしていたんでしょ?」

「はい、そのとおりです」

 次朗は、はきはきと答える。

「どうして、そんな馬鹿な行動をしたの?」

「それは、姉ちゃんに言われたからです」

 次朗は肩を強張らせて、目をおどおどさせていた。しかしながら、真相は聞けそうにない。「姉ちゃんに言われたから」の一点張りで、これ以上の情報は望めそうになかった。

「あなた、本当に許して欲しいと思っているの? これ、犯罪と一緒なのよ」

 この場で考えうる攻めを施した。次朗は大げさに「そ、そんなあー」と、初めて万引きで捕まった、中学生みたいな表情をする。

「許して欲しいんだったら、今度からは私の言うとおりにしなさい。いい、絶対よ」

「はい、分かりました。これからは、文花さんの言うとおりにします」

 文花は、なんだか気持ち悪くなった。攻め立てられて苦しいはずなのに、次朗は、どっかオルガズムを感じていた。一華が命名した「むっつりマゾ」の意味が、ここにきてようやく分かった。

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