バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

「横山さんはいつもお店をリサーチしてるんですか?」

「うん。仕事に関係あることなら休みでも出かけて、こうやってスパイみたいなことするんだ」

さすが営業推進部のエース。いつも爽やかに笑うけれど、その裏で横山さんは仕事に対してどんな時も手を抜かない人なんだ。

「前は一人じゃなかったから、女の子向けのお店にも行けたんだけどね」

「あ……」

彼女さんと別れちゃったから……。
今日の私はおまけで、彼女さんの代わりなんだ。横山さんとしては今日は仕事の一貫なんだよね。一人で浮かれて、私ってほんとにおめでたいな。

食後のコーヒーを飲んでカフェを出た。

「ごちそうさまでした。とっても美味しかったです」

「北川さんが本当に美味しそうに食べるから、こっちも来た甲斐があったよ」

「好きなんです。甘いものが……」

「ならよかった」

本当は緊張してあまり喉を通らなかった。キレイに食べよう、笑顔を作ろうと必死だった。

「少し時間あるね。どうしようか?」

横山さんは腕時計を見た。

「せっかくだから、このままどっか行こうか」

「え?」

「なんか予定あった?」

「あ、いえ、大丈夫です!」

嬉しい! これではまるで本当のデートのようだ。

「どこ行きたい? 買い物とかする?」

「そうですね……」

七原駅の周辺を見回す。商業ビルがあって、少し歩けば公園があって、すぐ横のビルには映画館も。
そういえば気になる映画があったんだ。
ビルの壁に貼られた巨大ポスターを見上げた。劇場に観に行こうか迷っていたホラー映画のポスターだ。好きな海外ドラマに出演している俳優の主演作だった。

「映画観る?」

「いえ……」

気になってはいるけどホラーは一人では観に行けなかった。ブルーレイがレンタルされたら借りて家族で観ようと思っていた。

「いいよ。この映画にする?」

私の視線を追って横山さんもポスターを見上げた。

「でもホラーですし……」

せっかく横山さんといるのにホラー映画ってどうなんだろう……。恋愛ものとか、せめてミステリーの方がいいよね。

「僕ホラー好きだよ。北川さんホラー苦手?」

「一人じゃ観れないです。でもこの映画は気になってる俳優が主演なんです」

「じゃあこれにしよう。一人じゃないから怖くないよ」

横山さんは私の顔を見て言った。

「それに、もし怖かったら手を繋いであげようか?」

「そ、そんな、大丈夫ですよ!」

笑顔で言う横山さんに焦ってしまう。そんな冗談は余裕のない私には笑えない。

「じゃあ行こうか」

横山さんについて窓口でチケットを買った。

映画が始まって一時間ほどたっただろうか。
元々一人では観れないくらいにはホラーは苦手だ。主演が興味のない俳優ならこの映画は観なかったかもしれない。
怖い何かがもうすぐ出てくると分かってはいても、びくびく怯えて両手を握りしめていた。

「大丈夫?」

右隣に座る横山さんが小声で私の様子を気にかけてくれる。

「はい……怖いですけど大丈夫です……」

「僕横にいるから。力抜いて」

「はい……」

私は膝の上に置いていた両手を肘掛けに置いた。
ただのホラー映画で怖がって恥ずかしいな……やっぱりレンタルにすればよかったかな……。
ああ来る!!
主人公が暗闇の中で僅かな光を頼りに振り向いた瞬間私は肘掛けをぎゅっと握りしめた。同時に右手が温かいもので包まれた。
え?
怖い場面で自分の手に起こった異変に二重に驚いた。薄暗い館内で自分の右手を見た。私の手の上に横山さんの手が置かれていた。驚いて横山さんを見ると、表情を変えずにスクリーンを真っ直ぐ見ていた。
横山さんも手を置きたかったのかな?
私は遠慮して手をどけようと動かすと、逃がさないように指を絡ませてきた。手だけじゃなく体全体が動かなくなってしまった。
これは横山さんと手を繋いでるんだよね?
横山さんの手と私の手はしっかりと絡まって引っ込められそうにない。

『もし怖かったら手を繋いであげようか?』

そう言った言葉が思い出される。

私を安心させるために手を繋いでくれたのかな?
恐怖とは別にドキドキと心臓が激しく鼓動する。映画の内容はもう頭に入ってこなかった。



「北川さん?」

横山さんに呼ばれてはっと我に返るとエンドロールも終わり館内が明るくなっていた。

「あ……」

「出ようか」

横山さんと手を繋いだまま立ち上がって出口まで歩いた。

「意外なラストだったね」

「あ……はい……」

ラストなんて見れていない。ストーリーなんて覚えていない。今の私にはこの手の感触しかない。

「この後どうする? さすがに北川さんの休日を独占するのは申し訳ないから、今日はもう帰ろうか」

「はい……」

「送ってくよ」

「あの、でも……」

「いいから」

駅の改札を通る時には手を離した。私がカバンの中にパスケースをしまったのを確認すると、横山さんはまた私の手を取った。ずっと前から手を繋いで歩くのが当たり前だったような、そう思わせる自然な動きだった。

電車の中ではお互い一言も話さなかった。窓から見える夕日に照らされた家やビルを眺めながら、私は隣に立つ横山さんのことを考えていた。
この手はどういう意味ですか?
そう聞いたらなんて答えるだろう。

「横山さん、次の駅で降ります……」

「分かった」

短い会話しか続けられない。今日は二人でどんな会話をしてたっけ?

電車を降りて横山さんは私の少し前を歩く。まるでリードされているようだ。そのまま改札まで抜けようとする横山さんを止めた。

「待ってください」

私の声に足を止めて振り返った。横山さんの手を引いて改札から離れ、エレベーターの陰まで来た。

「あの、横山さんこれって……」

「僕、明日はずっと社内にいるんだけど」

横山さんは私の言葉を遮って唐突に言い始めた。

「また北川さんの煮物が食べたい」

「え?」

真っ直ぐに私を見つめている。私も彼から視線を逸らすことができない。

「じゃあ明日作ってきます……」

「あの味に惚れたんだよね」

「ありがとうございます……」

「北川さん自身にも」

横山さんはいつもの笑顔ではない。見たことのない真剣な顔をしていた。

「北川さんが好きになったんだ」

繋いだ手の力が少しだけ強くなる。
今のは聞き間違いじゃないよね?

「横山さん?」

「しばらく彼女はいらないって思ってたんだけど、北川さんを知るほど想いが強くなって」

これが夢じゃないのなら、もう前の自分じゃないって思っていいよね?

「僕と付き合ってください」

「私も好きです……横山さんのことが」

今私の顔は恥ずかしいくらい真っ赤なはず。

「横山さんと付き合いたいです……」

「本当に?」

「はい……」

「そっか」

どうしよう。隠れてしまいたいくらい照れる。

「あのさ」

「はい」

「キスしていい?」

「……はい」

片手は繋いだまま、横山さんの反対の手が私の肩に置かれ、顔がゆっくり近づいた。目を閉じると唇に柔らかいものが触れた。
今にも心臓が破裂しそうだ。
唇は数秒で離れると、私は口を手で覆い顔を下に向けた。
初めて男の人とキスをした。一瞬のことでも物凄く恥ずかしい。そして幸せな気持ちになった。

「北川さん、もう一回言って」

「あの……好き……です」

「うん。僕も」

気づいたら横山さんの腕の中にいた。迷ってから私も横山さんの腰に手を回した。
そのまましばらく抱き合っていた。その時間は数分にも数十分にも感じられた。
こんな風に好きな人と触れ合うことを何度夢見ただろう。

ゆっくり横山さんの体が離れると「じゃあまた明日ね」と囁く。

「はい。また明日」

お互い同じタイミングで自然と手を離した。
横山さんが電車に乗るまで見送った。ドアが閉まって見えなくなるまで手を振った。私の右手には横山さんの手の感触がまだ残っている。

さて、今からスーパーに行こう。ジャガイモを買いに行かなくちゃ。




しおり