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コロナウイルスというものが、憎い。オンライン授業を始め、対面授業を取りやめた僕の大学を許さない。感染の拡大を止められなかった世の中を恨む。もっとも、怒りの矛先をそれらに向けるというのは、なんだか違う気がした。


この春、大学に合格した。都内屈指の厳しい進学校の中で長い冬を戦い抜き、ようやく迎えることの出来た春。に、なるはずだった。
しかしそんな僕を待っていた現実は、そう明るいものではなかった。



目が覚める。時計の針は12時をまわっていた。四月に入ってからというもの、深夜に眠りにつき、昼過ぎに起きるという、壊れた睡眠サイクルを回すことが僕にとっての日課になりつつある。
少し前、つまり高校生だった頃の規則正しい生活習慣を考えると、とても罪悪感をもたずにはいられなかったが、それでも朝早く起き、満員電車に揺られながら苦労して学校に通うことを思うと、今の方がマシだと自分に言い聞かせるしかない。少しは楽な気分になれる。
そうでも思わないと気がおかしくなりそうだ。



朝食のトーストをくわえながらパソコンを開き、昨日の課題として出されたレポートを確認する。大学からのメールもチェックすると、今朝新たに3件の課題が追加されていて、思わず開いたばかりのパソコンを閉じる。
僕はここで、はーっと、息をついた。
これ、大学生って言ってみて良いのかな……。



片手が寂しくなり、スマホを手に取る。大学に受かってから意気揚々と始めたインスタグラムを開くと、意外にも高校時代の友達はみんな、楽しそうに過ごしていることが分かった。

地元の友達と遊んだり。

彼女と遊んだり。


なんだか、いてもたってもいられない気分になった。





「バイトだよバイト。悠太、お前まだしたことないんだっけ?色んな出会いがあって良いもんだよ。金も稼げるしさ」





バイトかぁ、と相槌をうってはみたものの、今まで勉強一筋だった僕には出来ないだろうと勝手に決めつけ、心の中で却下した。


「おい悠太、今内心でさ、ねえわって思っただろ」

鋭い指摘に思わずドキッとする。それを見た親友の勇人はあのな、と続け、息を吐き出すように僕をたしなめた。
言葉に少し力を入れ過ぎたせいか、隣のテーブル席に座っているカップルのうちの女の方が、ちらっと一瞬、こちらの方を見た。
それに対して勇人は全く気に留めることなく、僕へのちょっとした説教を始める。


「コロナコロナっていうけどさ。もう4月だぜ?そりゃあ大学はオンラインだけどさ、バイトくらい、大学生になったらみんなやるもんなんだよ。現に、高校ン時のやつらもみんな、ぼちぼち始めてるぜ?バイト」

「なるほどねえ。それで、インスタの彼女とはバイト先で知り合ったってわけか」

そゆこと、勇人はこれまた力強く、満足そうに頷いた。すると、今度はカップルのうち両方ともがこちらの方を見て、クスリと笑った。これには流石に勇人も気づいたようで、ほんのちょっぴり恥ずかしそうだった。

それにしても、僕が1番聞きたかったことの本質は、全部勇人との会話に詰まっているような気がする。勇人にしろ僕にしろ、勉強のそれ自体が好きだなんてことは決してない。バイトをしたり、出会いを探したり、友達と遊んだり、なんていう大学生気分を存分に味わいたかっただけなのである。卒業以来久しぶりに勇人を食事に誘って、思いがけない自分自身の深層心理を理解できたような気がした。

家に帰ると、なんだか胸がむかむかと痛むような感じがした。さっき、ファミレスで勇人と一緒に食べていた夕食のハンバーグステーキのせいだけでは、どうやらないみたいだ。
心が痛みを感じている。すぐに分かった。最近、コロナ禍におけるストレスのせいで、こういうことが増えてきているような気がする。が、時計の針が既に11時をまわっていることを知ると、やっぱりこの痛みは油物のせいであると、考えを改めた。
勇人とつい話しすぎたみたいだ。


ベッドに横になって、考えた。これまでのこと、今、そしてこれから。考えれば考えるほど、不安は募っていくばかりだった。
自分は今まで、来る日も来る日も勉強に打ち込み、青春を投げ打って、頑張ってきた。部活にも入らず、夏休みにもどこへも出掛けず、ただひたすらに、がむしゃらに、勉強に全てを捧げてきた。
そんな努力の甲斐あって、見事第1志望の大学に合格することができた。さあ、これからバラ色の大学生活が待っている!

そんな喜びと希望は、とっくのとうにどこか遠くへ消えてしまった。

自粛生活。それは僕にとって、鬼の仕打ち以外の何でもなかった。大学に行って友達と一緒に勉強するどころか、家から出ることすら少なくなっているというのが悲しい現実。
このような地獄が、これからずっと続くのだろうか。
頭の中で、不安と絶望が永遠にループし続ける。

翌朝、早速スマホアプリの求人でバイト探しを始めた。
勇人によると、スーパーの品出しがおすすめらしい。とりあえずキーワード検索でスーパーのバイトをひたすら探すことにした。勇人は時給についてもあれこれ言及していたけれど、僕にとってはどうだって良い。金を使うアテが無いからだ。バイトをする目的はあくまでま出会いのため。邪道かもしれないが、今の僕にとって切実なことだった。


結局、近所のスーパーに面接を申し込んだ。申し込んでから面接までの間、色々な感情が僕を包み込む。これから何か今の悲惨な現状に変化が起こるかもしれないと期待に胸を膨らますと同時に、今まで経験したことのない新しい世界に飛び込む不安も、少なからず心の中に介在しているようだ。
いずれにせよ、そわそわして仕方がなかった。


迎えた面接は、あっという間のものだった。思っていたようなかしこまったものではなく、淡々と話が進んで行く。シフトやら何やらあまりにとんとん拍子であらゆることが決まっていくということに少なからず不安な気持ちを覚えたが、現状を打破するためだと、気合いを入れた。

そして迎えたアルバイト初日。僕は夕方の5時から出勤することになっていた。1時間前に軽めの食事を済ませ、4時30分に家を出た。自宅から出勤先までせいぜい歩いて10分くらいしかかからないのだけれど、やはり何事においても最初が肝心。絶対に遅刻しないように、僕はバイト先まで早歩きで向かった。
結局、スーパーには5分たらずでついてしまった。早く来すぎたと少し後悔しながらロッカールームで時間を持て余していると、時折色んな年代の先輩たちが忙しそうに部屋を出入りする。いずれも部屋に入ってくるなりまず僕の存在に気付き、物珍しそうな様子で僕を見る。それでも忙しい時間帯のせいか、ほとんどの人は僕に声をかけないし、かけたとしても、おつかれ、といったような程度だった。
僕の素性を知ろうとぐいぐい話しかけてきてくれる人は、残念ながらいなかった。

ただし、1人を除いては。

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