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 ……カツン、カツン。

 つるりとした光を反射する、セラミック・タイルの床。足を運ぶ度、無機質な音がフロアに響く。

 わたしは高揚を抑えきれずに、だけどできる限り冷静を装い、そのドアの前に立った。

 ――虹彩認証、クリア。高等植物研究所・主任補佐・()(ろく)(あかね)

 ドアがスライドする。少し躊躇ののち、足を踏み入れた。
 ……その先は、もう。

 空気が違っていた。汚染物質なんて欠片も含まれない、清浄な香り。そして微かな――みどりの匂い。

 この空気を胸に吸い込むのでさえ、畏れ多いような感覚。わたしは浅く息を弾ませ、一歩ずつ進む。

 平原のように広漠な部屋の中央に、円筒型のカプセルがある。カプセルは半分開いていて、周囲に張り出した(へり)がめぐらされている。

 その(へり)に僅かに体重を載せ、佇むひとつの人影。

 人影へと目線を向けていても、わたしの目は焦点を結べなかった。

 そのひとを、見つめるのが怖い。わたしなんかの瞳に、そのひとを映してしまってよいのだろうか。

 わたしにとってそれほどに、その人影は崇高な存在なのだ。
 これまでの人生すべてを捧げてきた、神にもひとしい、尊いひと……。

 ――けれどその時、何がおこったのか。

 そのひとの微笑みが、わたしの瞳に像を結ばせたのか。
 そのひとの微かな吐息が、わたしの意識を搦め捕ってしまったのか。

 わたしはついに、人生を賭けてきたその存在を、目の当たりにする。

「……っ」

 薄く、息を吸った。呑み込むまでも吸い込めない。
 止まってしまう呼吸。縫い留められる視線。

 ……そのひとは、わたしの想像通りで、記憶通りで。
 けれど想像以上で、記憶以上で。

 薄緑の髪を揺らし、微笑んでいる。そのひとは……。

 ――『プランツ・ラダー』。すべての草木を統べる者。
 固体名を、『スバル』という――。

「おいで」
「……!」

 初めて聞く、そのひとの声。たましいの奥底まで染み込むような、美しく澄んだ声音に、わたしは操られる。

 ふらふらと歩み寄る足取りはふしぎに軽く、ほとんど足音をたてなかった。

「やっと、逢えたね」
「……あ……」

 そのひとが腕を拡げ、わたしの身体は吸い込まれるようにそこに収まった。
 みどりの匂いのする、そのひとの腕のなかに……。

「アカネ。ずっと待ち望んでいた。きみに逢うことを……きみを、抱きしめることを」
「……っ、スバル……」

 どうして。

 あなたはわたしを覚えているの? 幼い頃、大勢に囲まれ、運ばれてゆくあなたを目にしただけのわたしを。

 あなたはその時、確かに眠っていたのに……。

「覚えているし、ずっとアカネを見ていた」
「……え?」
「ぼくは『スバル』。すべての植物は、ぼくの端末。……きみの部屋のペペロミアだってそう。ぼくはずっと、きみを見ていた、見つめていたんだ……」
「……!」

 『プランツ・ラダー』が、全世界の植物とネットワークで繋がっていることは解っていた。まさに、わたしの書いた論文はそれが主題だ。
 この論文によってわたしは昇進し、スバルに逢う権利を得たのだから。

 でも、それほどまでに筒抜けだったとは……。
 わたしは頬を赤く染め、うつむいた。途端に、彼に抱きしめられていることが意識され、わたしは身じろぎをする。

「……逃がさないよ。ずっと待ってたんだ、焦がれていたんだ」
「スバル」
「ずっと……きみを愛したかった」
「……っ」

 そのひとの白い指先が、わたしの頬に触れる。赤い血の通わない、つめたい、植物の肌。

「ぼくたち植物が、『プランツ・サピエンス』としてヒト型をとるようになって、十年……。ぼくはずっと、ヒトよりもぼくたちを愛してくれる、そんな人間を求めていたんだよ」
「スバル、わたし……」

 ――わたしが幼い頃、ヒト型をとりはじめた植物(プランツ)たち。その指導者と見なされたスバルは、植物(プランツ)たちの叛逆を恐れる政府によって捕らえられた。

 それ以来、スバルは研究所の奥深く、禁域のようなこの部屋に閉じ籠められているのだ。

「スバル。スバルが逃げたいなら、わたしは……」

 わたしはついに、研究所の職員としてあってはならない台詞を口にした。
 けれどもスバルは。

 ……スバルは長い睫毛を伏せ、しずかに首を振る。
 そしてわたしに、『プランツ・サピエンス』の真実を語り始めた。

「この星の地上は汚染され、ヒトも、植物も生きてはゆけない。地下に潜ったヒトには、生きる術がある。けれどぼくたち植物は、もはやヒトの手を借りずに生きることは、不可能なんだ」
「……ええ」
「植物は、ぼくたちを生かして、そして食べてくれるヒトを……愛しているんだよ」
「……」
「だけどヒトは、ぼくたちがヒトを愛するほどには、植物を愛してはくれない。彼らにとってぼくらは食料であったり、鑑賞用であったりするけれど……、けして、伴侶として愛をそそぐ存在ではないんだよ」
「……っ、わたしは!」

 わたしは顔を上げ、彼の美しい瞳を見上げる。琥珀の光を宿す、ヒトならざるものの瞳を。

「わたしには、あなた以上に愛をそそぐ存在なんてない! あなたに逢いたくて、あなたの役に立ちたくて、この研究所に入ったのだから!」

 言い募るわたしを見つめる彼の瞳には、不思議な燦めきが瞬いている。
 貴石のような、けれど無機物ではありえない、やさしい光。

「ぼくも、アカネを愛している。ヒトのなかで唯ひとり……誰より深くぼくを愛してくれるきみを」

 頬におかれた指先が、くちびるをなぞる。彼のふしぎな瞳に吸い込まれて――吸い込まれて……いいえ、彼のくちびるが近づいてきて。
 ……そして。

「ん……」

 ひんやりとしたくちびるを、重ねられた。
 みどりが強く薫り、わたしの身体にめぐってゆく。まるでわたしも植物に――彼の端末のひとつになるみたいに、スバルの息吹が身体に満ちてゆく。

「こっちへ」

 くちづけを終えた彼に、カプセルへと導かれた。
 ここは、彼の寝床。清潔で寝心地のいい、無機質な植物(プランツ)のためのベッド。

「きみを、愛させて。きみのすべてを、ぼくのすべてにさせて……」

 わたしがこくりと頷くと、彼はわたしの衣服を脱がせ始めた。白く冷えたスバルの身体から蔦が伸びてきて、両の腕といっしょにわたしを抱きとめる。

「は……っ」

 蔦の先に生える繊毛で素肌を撫でられ、わたしは吐息を漏らした。

 身じろぎする度、声を漏らす度。
 ……体温が上がり、カプセル内に湿度が満ちてゆく……。


   …∽‥∽∽‥∽‥∽∽‥∽‥∽∽‥∽…


 ヒトに愛されるため、ヒト型をとった植物たち。意識を共有するかれらの本体が、『スバル』という個体だ。

 わたしは、スバルの身体で唯一植物らしくない箇所を、自らの身体に受け容れた。雄しべの変容であるそれは、ヒトであるわたしに合わせてなのか、血が通うごとく赤く、肉々しくケモノじみていた。

 わたしはスバルのすべてを受け容れ、また受け容れられた――……。


   …∽‥∽∽‥∽‥∽∽‥∽‥∽∽‥∽…


「主任。良かったんですか」
「何がだ」

 高等植物研究所のモニタールーム。壁面には、『スバル』の脳波――ヒトでいうなら、ならば――が映し出されている。
 『プランツ・ラダー』たるスバルの体内にはナノ・マシンが埋め込まれ、スバルの生命活動は常にモニターされているのだ。

 今、映し出されているその波形が、果たして『スバル』だけのものなのか、議論の余地があるが……。

「その……茜……、()(ろく)のことです」

 宇緑茜。高等植物研究所・主任補佐。
 植物を、『スバル』を誰よりも愛したその女は、この場にはいない。

「仕方ない。『奴』が……『スバル』が本気になれば、人類を滅ぼすことなど容易なのだから」
「……」

 宇緑茜には伏せられていたが、近年、汚染された地上に芽吹く植物が発見された。
 どんな有害物質や病原菌を有しているかわからないそれは、『スバル』の指示があれば一斉に地下へと侵入を開始するだろう。

 ――否、地上の植物もまた、『スバル』自身だ。意識を共有する植物たちは、どの個体もスバルの端末にすぎない。

「……でも」
「仕方ない」
「……」
「政府の決定でもある」
「……そう……、ですね」

 壁面モニターの波形が、昂ぶりはじめた。『スバル』と――『スバル』に取り込まれた宇緑茜の、愛の交歓だろうか。

「我々は、せめて……」

 波形が踊る。高らかに愛を謳い、しあわせだと哭いている。

「我々はせめて、彼女と『スバル』の愛を祝福しよう」

 ――彼女がすべてを引き換えに手に入れたその愛が、なにより至上のものでありますように。

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