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後編

 何だか、すべてがシラけてしまった。
 あの熱い抱擁は何だったのだろう。あのキスは一体何だったのだろう。どう考えても、「その場の勢い」で片付けられるほど陳腐なものでしかなかった。
 日曜日の朝には、昨日、亡くなっていたはずの智広がでかい態度を取って食卓につき、パンを頬張っていた。いつもの智広の憎まれ口をぼんやりと聞き流し、理奈もパンを齧る。いつも通りの日常。壊れていくのかもしれなかった日常。理奈の頭の中で、なぜ智広を殺せなかったのだろうという考えが、いまだに巡っていた。
 日曜日は嘘みたいに平穏に過ぎていき、月曜日となった。
 理奈は日常の中にいることにまだ戸惑いを隠せなかった。非日常となり得るかもしれなかった綾瀬家では、今日も佐藤がやんわりと新聞を読んでいて、智広はだらしのない格好でトーストを齧り、理奈の皿の上にはクリームパンが乗っていた。理奈は二人の顔色を窺うようにおそるおそる朝の挨拶をし、パンを口に入れた。カスタードクリームが口の中にへばりついて、一瞬吐き気を覚えた。それでも何とかしてパンを全部たいらげ、皿をシンクに持っていく。水を出し、皿を洗う。いつもやっていることが、何だかとても新鮮なものに思えた。
 私は、雅弘は、あの日、犯罪者になるところだったのだ。
 そう考えると、ぶるっと身が震えた。後ろから「どうしたの、理奈ちゃん?」と佐藤に声をかけられ、「何でもない」と返す。
 歯磨きをして、自室に入り、パジャマから制服に着替える。その間にも聞こえる自分の中の声。「お前は、犯罪者だ!」
 理奈は首を横に振って耐える。実際、事件は起こらなかった。未遂で終わった。それでいいじゃないか。
 学生鞄を肩に下げ、玄関に立つと、いつものように佐藤が笑って出迎えていた。
「行ってらっしゃい、理奈ちゃん」
「……行ってきます」
 理奈はローファーを履き、玄関のドアを開けようとする。その時に、ふと佐藤に問いかけたくなった。
「ねえ、佐藤さん」
「なぁに?」
「私がもし、人を殺した犯罪者になったら、どうする?」
 佐藤は少し意表を突かれたような表情になり、泣き笑いのような顔になった。
「そんなことになったら、泣いちゃうわ」
「……ありがとう、佐藤さん」
 理奈は礼が言いたくなった。大丈夫。自分はまだ大丈夫だ。まだ佐藤がいてくれる。
「……行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
 少しの間をおいて出発の挨拶をすると、佐藤も少しの間黙って、そして見送った。
 いつもなら理奈が家を出たちょうどに雅弘も家から出るのだが、今日の雅弘の家はしんとしていて、人の出る気配はなかった。理奈は彼の家を一瞥した後、木立駅に向かって早足で歩いていった。
 電車に乗り、木立駅に着き、ホームに降りて木立市立高校へと歩く。目の前の同じ学生服を着た人たちを次々と追い越し、まるで追い風に急きたてられるかのように足を速める。いつもなら五分以上かかる道のりが、今日は三分で着いた。
 教室にはすでに雅弘がいた。しかし彼は理奈と目を合わせることなく、柊と談笑していた。
 彼は、本当に柊を殺すつもりなのか。
 そもそも本当に柊に殺意を抱いているのか。
 理奈は雅弘に対して懐疑的になっていた。あの日以来、すっかり冷めてしまったこの気持ち。あれは単なる幻に過ぎなかったのだろうか。
 視線を感じた。
 また雲雀秋だ。燃えるような赤茶色の髪が、クラスでも一際目立っている。彼は理奈と雅弘を交互ににらむようにして見つめていた。
 そんなに警戒しなくても、私たちはもう何でもないわよ。
 理奈はいらいらして心の中で毒づく。
 と、教室の定位置の机から、いつもの二人組が、はじけるような笑顔で理奈に接近してきた。
「おはよう!理奈!」
「理奈ちゃん、おはよう」
 夏帆と華澄が来てくれた。理奈は何故だかほっとして、初めて二人に心を開いた。
「おはよう。二人とも」
 理奈は二人と一緒になって、ガールズトークに花を咲かせた。

 一時間目の授業はパソコン研修で、クラス全員はパソコン室に向かうため、三階に上った。
「早く、理奈! 置いてくよ~」
 夏帆が元気よく理奈に声をかけた。
「待ってぇ、二人とも」
 理奈はあくせくと支度をして、急いで二人のもとに向かった。
 と、周りを見ていなかったせいで誰かと肩がぶつかってしまった。理奈はあわてて「ごめんなさい!」と謝り、そのぶつかった相手にドキリとした。
 雅弘だった。
 しかし雅弘はあの時の穏やかな雅弘ではなく、柊の手下である冷酷な瞳をしていた。
「気をつけろよ」
 驚くほど低い声で、彼が言った。理奈は今度こそ動けなくなった。今のは本当に雅弘の放った言葉なのだろうか。
「おいおい、桜木、女子には優しくしなくちゃ、あとが怖いぞ~」
 横から柊が矮小な声でからかった。
「別に優しくする必要もないだろ」
 雅弘はまたもや奈落の底のような低い声で言った。
「今日は言うなあ、桜木!」
 柊は何がおかしいのかゲラゲラ笑って、雅弘の肩を抱きながら理奈の横を通り過ぎていった。柊たちの姿が完全に見えなくなった後、夏帆と華澄が急いで理奈のもとに集まった。
「理奈、大丈夫だった?」
 夏帆が心配そうに訊く。
 理奈は泣きそうになる自分を抑えて、何とか返事をした。
「うん。大丈夫だよ」
「まったく。何なのよあいつら。本当に頭にくるねえ!」
 夏帆は肩をいからして、ふんっと鼻を鳴らして言った。華澄も表情を険しくさせている。
「大丈夫だよ、二人とも。行こう?」
 理奈は二人を促して、パソコン室へと足を運んだ。
 パソコン室での授業は柊たちがうるさくて、なかなかスムーズに進まなかった。教師が何度も「そこ、静かにしなさい!」と注意したが、まったくもって効き目がなかった。理奈はもはやあきれかえって、柊たちの集団を見つめていた。そこにいる雅弘も。雅弘は相変わらず仲間たちに小突き回されながら、人形師の操る人形のごとく滑稽に笑ってみせた。
 やっと一時間目の授業が終わった。生徒たちは疲れ果てた顔でゆらゆらと席を立ち、一階へと戻っていった。理奈は今度は柊たちから遠く離れて、夏帆と華澄とともに階段を下りていった。何故だか心の底から悔しいという感情があふれ出てきて、理奈は再び目頭が熱くなった。
 後ろから雲雀秋が、そんな理奈をどこか虚空を見つめるようにして見ていた。

そうこうしているうちに午前の授業が終わり、昼休みが終わって、午後の授業も終了し、帰りのホームルームとなった。今日一日、理奈は雅弘に冷たい言葉を浴びせられたまま、それっきり目も合わなかった。理奈は知らず深いため息をつく。何だかすべてがあっけなく終わってしまったようだった。
 今日はもう、屋上に行くのもやめよう。
 理奈はそう思って、早めに帰る準備をした。
 すると自分の斜め後ろの席から肩を小突かれて、何かと思ったら夏帆がきらきらした瞳で問いかけてきた。
「ねえ、理奈、今度こそカラオケ行かない? ダメかなあ?」
 問いかけられた理奈はしばし考え、賛同することにした。
「うん、行こう」
 夏帆は途端にぱあっと光り輝くような笑顔になり、前の席の華澄を小突いてカラオケのことを話した。華澄も嬉しそうな表情になり、理奈に向かって小さく手を振った。
 ホームルームが終わると同時に、三人は急いで席を立って教室を飛び出した。
 結局、今日一日を通して、雅弘とまともな会話をすることはなかった。

 三人は木立駅のすぐ近くにある「カラオケ館」へと向かった。
「時間はどれくらいになさいますか?」
 仏頂面の店員の言葉に、三人はうーんと悩んだ末、決めた。
「二時間でお願いします」
 店員に時間の書かれた紙を挟んだボードを渡され、三〇四号室と書かれた部屋に向かう。中に入ると、冷房がこれでもかというほど効きすぎていて、三人で「さむーい!」と叫んだ。
「もう、何これ! 設定温度間違ってるっつの!」
 夏帆が怒りに震えながら、エアコンの温度を調節した。
 凍えるような冷たい風がおさまり、緩やかな空調が回り始めた。
 理奈、夏帆、華澄はやっとほっとして、マイクを取り、電子掲示板に歌をどんどん入れていった。
「理奈、一番最初でいいよ」
 夏帆がマイクを理奈に手渡して、笑顔で言った。理奈は悪いなと思いながらもマイクを受け取り、曲名を入れた。
 何かいい歌はないかと思い、ふと、オススメ歌、と電子掲示板に映っている歌を見つめる。
『鷹野宵 ミッシング』
 何だ、彼は歌も出していたのかと驚き、ふらっと気持ちが傾いて、理奈はこの曲を選択した。
 音楽が流れだす。
 女性的な涼やかで甘いメロディーが耳を覆い、室内は切ない空気感に満ちた。

 張り裂けそうな胸の奥で君の名を叫ぶ

 君はどこにいるの? 心が掴めないよ

 鏡を割って確かめてみても

 ただこの手が血にまみれるだけで

 何故だか涙が滲み出てきた。自分でもおかしいなと思っても身体が言うことを聞かない。涙腺が崩壊し、声が上ずってくる。夏帆と華澄が心配そうにこちらを見ている。

 君に逢いたい それすらも許されない

ただ呆然と空を見上げる

 お願い 君の瞳に僕を映させて

 嘘でもいいから言って

 もう一度「好きだよ」って……

 もう逢えないなんて嘘

 僕は君を追いかける

 たとえ何が犠牲になっても

 君が振り向いてくれなくても……

 涙腺はついに決壊し、滂沱の涙となって理奈の頬を流れ落ちた。
 雅弘が、遠い。
 あの日まであんなに好き合ったのに。「好きだよ」って言ってくれたのに。殺人に失敗してから、雅弘はこちらのほうを向いてくれなくなってしまった。
 どうして? 雅弘。
「大丈夫、理奈?」
 夏帆が雨に濡れた子犬を見つめるような目で理奈を気遣う。
「理奈ちゃん、涙が止まるまで、しばらく座ってていいよ」
 華澄は母のように、しゃくり上げている理奈の頭を撫で、座席に戻らせた。
「まあ、何がったか知らないけど、歌うに限るよ! 私が歌う様をよく見とけ! 理奈!」
 夏帆はそう言ってマイクを握り締め、夏に似合うようなポップ感のある軽快でリズミカルな歌を熱唱した。なるほど確かに、気分が明るくなれる曲だ。理奈は少し気持ちが落ち着いてきた。
 ふと、自分の気持ちを、二人に曝け出してみようかと思った。
 それはとても覚悟のいる行動だった。好きな人がいて、しかもその好きな人がいじめられっ子で、そしてふられている。二人はどんな顔をするだろうか。それでも理奈は言おうと決心した。
「あのね、二人とも」
「ん? どうした、理奈?」
「理奈ちゃん、もう落ち着いた?」
 夏帆が歌い終わったところを見て、理奈は切り出した。
「私、桜木雅弘君のことが、好きなの」
 二人はしばし思考が停止したように、文字通り固まった。
 と、夏帆が先に仰天したというような表情で叫んだ。
「えぇーっ!? あの桜木雅弘!?」
「うん、そう」
 理奈は少し恥ずかしくなって、顔をうつむけて言った。
「そうか、そうなのかあ……。あ、いや、でも、好きな人ができるのはいいことだもんね。がんばんなよ、理奈」
「それが、ふられたっぽいの……」
「えぇーっ!? こんなかわいい女の子を振る権利がどこにあるってんだ! まったく薄情なやつだな!」
 夏帆は怒り狂って、握っていたマイクをさらに強く握り締めた。ミシミシと音でも鳴るようだった。
「だいたいさ、っぽいって何? はっきりふられたわけじゃないの?」
 夏帆が再び訊いてくる。
「うん。完全にさよならって言われたわけじゃないの。でも教室にいても、目も合わせてくれないし、いつも放課後に屋上で会う約束をしてるんだけど、今日は怖くて行けなかった……」
「屋上?」
 二人はきょとんとして顔を見合わせ、夏帆が、ポンと手を叩いて言った。
「ああ! ずっと私たちと一緒に帰らなかったのは、そういうわけかあ! 桜木と愛の逢瀬をしてたってわけねん」
 理奈はカアっと耳まで赤くなり、さらにうつむいてぼそぼそとつぶやいた。
「ご、ごめんね……。内緒にするつもりはなかったんだけど、どうしても恥ずかしくて、言い出せなくて……」
「いいよ別に。そんな小さなこと気にしなくて。ねえ華澄?」
「うん、そうだよ理奈ちゃん。ほかにも悩み事があったら、いつでも相談してね」
 二人は人の好い笑顔を浮かべて、理奈の気持ちを和らげてくれた。張り詰めていた理奈の心は、だんだんと手で揉み解されるように、柔らかくなっていった。
「ありがとう、二人とも」
理奈は明るく答えた。二人もほっとしたように表情に笑みがこぼれた。
「理奈! こんな時こそ、歌おう! テンポよくて激しいヤツ」
「ええっ? 歌えるかな……」
「歌える、歌える!」
夏帆は再び理奈にマイクを渡し、ひとりでに曲を決めて流した。突き抜けるような高音のギターに、ドラムの音が激しく響いて、歌詞があっという間に表示された。理奈はそれを何とか歌い上げる。ようやく歌い終わった後、そばには笑い転げる夏帆がいた。
「もう、夏帆!」
怒られた夏帆はいたずらっ子のように舌を出した。
「あはは、悪い悪い。でもちょっとすっきりしたでしょ?」
「……うん、まあ……」
 言われて見れば、あのモヤモヤした、冷たい泉の凍りつくほどの水で浸されているような感覚はもうなかった。
「……すっきり、した、かも」
「でしょ?」
 夏帆は得意げににやりと笑った。
「よし! 次は華澄!」
「はーい」
 華澄はぽんっと投げ出されたマイクをキャッチして、彼女らしい女性的な優しいメロディーの歌を歌い上げた。
「どんどん回していくよー」
 夏帆は元気よく言い、理奈と華澄も笑い合って、デュエットを歌ったり、三人一緒に歌ったりし合った。
 二時間は隼のように一瞬にして過ぎていった。少なくとも理奈にはそう感じた。三人は名残惜しそうにカラオケボックスから出て、一階の受付に戻り、会計を済ませた。まず始めに夏帆が全金額を支払って、理奈と華澄がそれぞれ三等分した金額を夏帆に返した。帰りの木立駅に繋がる歩道を歩きながら、三人はいろんな話をした。夏帆は木立駅からバス通学なこと。華澄はそのまま徒歩で行ける距離に住んでいること。理奈も自分は電車で通っていることを告白した。こうして聞くと、自分は本当に二人のことをまだまだ知らないのだと気づかされた。
「まずはさぁ! 桜木をどうするかだよね!」
 夏帆が突如雅弘の話題を出したので、理奈の心臓はドキリと鳴った。
「ど、どうするって……?」
 理奈はおそるおそる訊いてみた。
「だからさ、理奈のことをどう思ってるのかはっきりしろってことだよ! 明日にでも桜木を呼び出してみる?」
「い、いいよ、そんなことしなくて!」
 理奈はあわてて断る。
「自分でちゃんと決着つけるよ!」
 言い切って、理奈ははっとした。そうだ。決着をつけなければいけない。自分は雅弘と、もう一度真剣に話し合わなければいけない。
「私たちがついていなくて大丈夫?」
 夏帆は姉のような目つきで心配そうに訊いた。華澄も夏帆と同じ表情をしている。
「大丈夫だよ。二人とも、今日はありがとう」
 理奈がお礼を言うと、夏帆は恰幅よく笑った。
「全然いいって! こんなの友達なら当然でしょー?」
「そうだよ、理奈ちゃん。またいつでも相談してね」
 三人は互いに微笑み合い、木立駅へと歩いていった。
 木立駅で夏帆、華澄と別れた。夏帆は駅にあるバスターミナルでバスを待ち、華澄は木立駅をそのまま通り過ぎて家路を歩く。帰りの電車が滑り込んできて、理奈は軽い足取りで電車内へと入った。適当な座席に座る。中は自分と同じ制服を着た生徒たちがまばらにいた。皆、それぞれ読書にふけったり、おしゃべりに興じたりしている。ほかには疲れた顔のサラリーマン、ケータイをいじっている学生。化粧をしているOLなどだった。全員自分の世界に浸っていて、理奈のことは眼中にもないようだった。その無関心さが心地よくて、理奈はついうとうととし始めた。たった一駅なのに危ないと思って、座席から立ってドア付近に身を委ねた。高速で流れ去っていく風景、世界。いつもここで、自分は世界の一部なのだと感じる。
 下車する駅に着いて、ホームに降り立った。人の流れに乗って、改札口を出、帰路を歩く。ほどなくして理奈の住むマンションが見えてきた。五階建ての、群青色をした、エレベーターのない小さなマンション。見かけによらず、中はわりと広い。この部屋に自分たちを葬った両親。理奈は親のことを思った。
 お母さんは、本当に私たちのことは、どうでもいいのだろうか?
 それもまたの機会に訊かなければいけない。やらなくちゃならないことはたくさんある。
 三階まで階段を上り、ドアノブに鍵を回し、開ける。マンションの音らしい重さのない音が響いて、理奈はドアを開けた。
 まず自室に向かい、学生鞄をどさっと放って、佐藤に挨拶をするためリビングルームに足を運ぶ。
「ただいま。遅くなってごめん。友達とカラオケしてた」
 簡潔に事を述べて顔を出すと、佐藤は何やらごそごそと妙な動きをしていた。棚から通帳と印鑑を取り出し、足元の大きなバッグに詰め込んでいた。
「……佐藤さん?」
 呼ばれた佐藤は、不自然なほど肩をビクリと動かして、あわてて理奈を見た。
「ああっ、理奈ちゃん!? お帰りなさい、遅かったわね。ご飯、もうできてるから」
「……何してたの?」
 不審に思い尋ねると、佐藤は明らかに動揺して目を左右に動かしたりした。
「ちょっとね、ここの家のお金まだ残ってるかしら、と思ってね」
「お金ならお母さんが有り余るほどくれるじゃん。大丈夫だよ」
「そう、そうよね、大丈夫よね」
 佐藤は挙動不審に髪を撫でつけ、理奈に何とか微笑んだ。
「……その荷物は何?」
 理奈は怪訝そうにやたらでかいバッグを見ると、佐藤は両手でバッグを後ろのほうに隠した。
「うーん、ちょっとね、理奈ちゃんと旅行にでも行こうかしら、なんて思っちゃったりしてね」
「本当!?」
 途端に理奈の顔は光り輝いた。喜ぶ彼女を前に佐藤はなぜだかほっとしたような表情になり、作り笑いをした。
「さあ、ご飯食べちゃいなさい。智広君はもう食べ終わってるから。あ、それともお風呂が先のほうがいいかしら?」
「うーん。お風呂入ってから食べるよ。ありがとう、佐藤さん。旅行、考えとくね」
「はいはい」
 理奈は軽やかな足取りで脱衣所に向かい、普段着を持ってきて制服を脱ぎ始めた。佐藤がそんなことを考えてくれていたとは。理奈は嬉しくてたまらなかった。
 シャワーを浴びて、湯船に浸かる。ほどよい熱さのお湯が気持ちよかった。
 夕ご飯を食べ終え、歯を磨き終わり、パジャマに着替えて布団に入る。そして今日の出来事を振り返ってみる。
 今日は、あの二人にずいぶんと救われたなあ。
 理奈は心から夏帆と華澄に感謝した。それと同時に、こちらを向いてくれなくなった雅弘に思いを馳せる。
 雅弘、どうしちゃったの? もう私は、特別な女の子じゃなくなってしまったの?
 問いかけに誰が応じるでもなく、理奈の胸の痛みは再び増して、夜の中、眠りの世界へ沈んでいった。

   ☆

 翌朝。
 理奈は起きてパジャマのままリビングルームへ行くと、すでに佐藤が朝ご飯を作ってくれていた。ご飯に味噌汁、目玉焼きにソーセージと一切れのピーマン。
「佐藤さん、今日はどうしたの? いつもはパンで済ますのに」
「何だかね、料理したくなってみちゃって」
 理奈が訊くと、佐藤は嬉しそうに破願した。
「ふぅん。変なの」
 智広はすでに朝食を食べ終えていて、とっくに家を出たみたいだった。そんなに自分と鉢合わせしたくないのか。理奈はかすかな寂寥感とともに不快感を募らせた。
 佐藤の作ってくれた、簡単だけど確かな料理は、朝から理奈を元気づけてくれた。
 目の前の食事をすべてたいらげ、皿をシンクに持っていって、水を出し流す。皿を水につけて、理奈は「ごちそうさま」と言った。佐藤はにこやかにうなずいた。
 自室に戻り、パジャマから制服に着替えて、重たい学生鞄をぶら下げ、玄関に出る。佐藤はすでに待っていてくれていた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 佐藤に見送られ、理奈は玄関のドアノブを回し、開けた。
 雨だった。あわてて玄関に戻り、傘を用意して再びドアを開ける。ザアザア降りの雨だった。
「すごい雨ねえ、大丈夫?」
 佐藤が気を使うように問いかけてきた。
「うん、大丈夫。もう一度、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 理奈は雨が激しい外の世界へと足を踏み出し、階段を下りて歩道に着いた。
 目の前の、大きくて立派な家を見つめる。
 雅弘は出てこない。
 まだ家の中だろうか。それとも、自分を置いて先に行ってしまったのだろうか。
 理奈は不安になる胸を押さえて、しばらくどしゃぶりの雨の中、立っていた。雅弘の家を見つめて。けれど十分以上経っても、雅弘は現れなかった。もう遅刻する時間帯になってしまい、理奈は仕方なく駅へと歩いていった。
 案の定、遅刻した。職員室の前にある、遅刻した理由を述べる紙をもらい、先生にハンコを押してもらって教室へと歩いた。授業中に入るのは気まずかったが、仕方がないと思い、一年一組へと向かう。
 ドアを開けると、皆、小テスト中だった。理奈は物音を立てないようにそろそろと教室に入り、そして、雅弘を見つけた。明るい茶髪と金色のピアス。彼の後ろ姿を見ただけで、ぎゅっと胸が締め付けられた。理奈はしのび足で教師のもとへ向かい、紙を見せると、テスト用紙を渡されて席に着いた。急いでペンケースからシャーペンを取り出し、問題を解いてゆく。
 ほどなくして「はい、止め!」と教師の声が響いた。皆はそれを聞くと同時に、まるで息止めタイムから解放されたかのように、瞬く間にしゃべり合った。「綾瀬はあと五分あるからな~」と教師の言葉が耳に届き、シャーペンを走らせる。五分経ったころ、「はい、綾瀬も終了!」と教師の声が響いてテストは無事に終わった。席の一番後ろの人が順々に前の席の人のプリントを集めている。斜め後ろから肩を小突かれ、何かと思うと夏帆だった。「おはよう、今日は寝坊?」朝から快活な声だった。
「うん、そんなところ」
「テスト、どうだった?」
「まあまあかな」
「いいなあ。私はもう追試決定―!」
 夏帆はぶーっと頬を膨らませた。その仕草がかわいくて、理奈は自然と笑みがこぼれた。華澄の姿も見つけて、お互いに「おはよう」と挨拶を交わした。
 視線は、無意識に雅弘のほうに移っていた。
 彼は柊に頭を小突かれて笑っていた。本心の笑いからじゃないような、何だか卑しい笑みのような気がして、理奈は胸がむかむかとしてきて顔をそむけた。
 ヘコヘコしている雅弘は、好きではなかった。

 時間は一刻、一刻、と時を刻みながら過ぎていき、昼休みの時間帯となった。
 皆、各々の定位置で昼食をとる。理奈も、もはや日常と化した三人で机をくっつけ合う動作も、何の違和感も沸かなかった。自分は本当に二人の間に入っていいのだと、心の底から断言できた。
「理奈のお弁当って、相変わらずオシャレだよね」
 横から夏帆が弁当の中身を覗き込んだ。
「そんなことないよ。夏帆だってオムライス入ってるじゃん」
「ああ、これ、冷凍食品」
「そうなんだ!」 
 理奈は思わずあははと笑ってしまい、夏帆に「こらっ!」と怒られた。華澄もそんな二人の様子に、クスクスと上品に笑う。
 夏帆に小突かれながら、理奈は教室の喧騒の中、確かに入ってくる声に気を取られた。
「桜木―、あそこのコンビニでさあ、デザート買ってきてくんねえ? 変なもの買ったら承知しねえぞ」
「えー、もう、しょうがないなあ」
 雅弘の声が理奈の耳に響いてくる。あそこのグループだけ、スポットライトが当たっているように、はっきりと会話が聞き取れてしまう。
 と、柊が雅弘の肩に腕を乗せたのが見えた。
「お前らなあ、桜木にばっか頼んなよ。コンビニくらい自分で行け」
 柊は雅弘の頭をよしよしと撫でながら、仲間の一人をねめつけた。
「……わかったよ。ちぇっ!」
 仲間は柊に逆らえないのか、しぶしぶと腰を上げて教室を出て行った。
 雅弘は柊に、まるで恋人のような甘い目線を送った。少なくとも理奈にはそう見えた。
 その一部始終を見ていた夏帆、華澄はハアと同時にため息をつく。
「理奈さあ、一体桜木のどこがいいの?」
 夏帆に問われた理奈は、逡巡したあと、情け無さそうに蚊の鳴くような声で言った。
「……優しい、ところ」
「……優しい、ところ、ねえ」
 夏帆はあきれかえったような表情をして、理奈のつぶやきを反芻した。
 理奈はうつむくしかなかった。
 あの日の、雅弘の決意は、何だったのだろう。
 本当に彼に、柊を殺す覚悟があるのだろうか。
 悩みは答えを見出せず、理奈の胸の中に沈殿していった。
 見る見るうちに落ち込んでしまった理奈をなぐさめようとした華澄の後ろで、教室のドアがガチャリと開いた。
 担任だった。
「おーい、今日の日直、ちょっと手伝ってくれ」
 教室内は一瞬、水を打ったような静けさになり、ついでポツポツとしゃべり声が聞こえ、またざわざわとし始めた。
「今日の日直って、誰だっけ?」
 夏帆が訊くと同時に、理奈は肩を落とした。
「私、じゃん!」
 仕方なく担任についていく。最悪なことにもう一人の日直は欠席だった。
 職員室に着くと、担任の席に案内され、そこには机の上に何十ものプリント用紙がうず高く積まれていた。
「これ、朝にやったテストの解答だから。皆に配っといて」
 担任はそう言うと、「がんばれ!」とわけのわからないエールをしてどこかへ去っていった。
 理奈は途方に暮れ、とりあえず持ってみようと厚さ何センチもあるプリントの束を抱え上げてみた。思ったほど重くはなかったが、軽くもなかった。プリントをばらまかないように慎重に持っていく。
 夏帆と華澄が理奈のもとへ駆けつけてきた。
「私たち、持つよ」
「あ、ありがとう」
 三人で平等にプリントを分け、運んでいく。
 そこにゆらっとある人物が現れた。三人はあっと驚く。
 柊雪斗、だった。
「三人とも、大丈夫? 重くない?」
 柊は心の底から労うような視線を三人に送った。三人は同時に首を振って「だ、大丈夫!」と言った。
「綾瀬さんの分だけでも持つよ」
「えっ、あ……」
 理奈が返答に困っている間に、柊はプリントの束を自らの手に移し変えていた。
「よかったら、そっちの二人の分も持とうか?」
「い、いえ、けっこうです」
 華澄がおどおどしながらも、はっきりと断った。
「私も、腕力あるから大丈夫」
 夏帆も毅然とした態度を見せた。
「あはは、頼もしいね」
 結局、理奈は柊にプリントを奪われたまま、手持ち無沙汰になってゆらゆらと廊下を歩いた。
 しばし、無言の沈黙が訪れた。
 その沈黙を破るかのごとく、夏帆が「あのっ!」と声を出した。理奈たちは夏帆の言葉に注目する。
「柊君に質問です! どうして、桜木君をいじめるんですか? 桜木君、かわいそうじゃないですか」
 単刀直入に夏帆が切り出したおかげで、理奈の心臓はひゃっと驚いたようにドキンと鳴った。今、この場でその話を聞くことになるとは。
 柊は途端にあわあわとした表情になった。
「そ、そんな! いじめてないよ! あいつ、かわいいからさ、みんな構ってやりたくなっちゃうんだよな。でもそれが時々エスカレートしちゃってさ、だからたまに俺が止めてる。俺がいないとダメなんだ、あいつは」
 柊の言葉を聞くにつれ、理奈はますます何かどす黒い不安のようなものが胸に溜まっていくのを感じた。でもそれがなぜ溜まっていくのか、どうしても、どうしてもわからなかった。
 柊君。雅弘は、あなたを殺そうとしているんだよ。
 柊君。あなたの仲間の何気ない一言一言が、雅弘を深く傷つけているんだよ。
 理奈はそう叫びたい衝動を我慢して、黙って廊下を歩いた。夏帆と華澄も無言で歩く。
「あ、そういえば、三人ともさ」
 柊が口を開いたと同時に、理奈、夏帆、華澄はまたしてもひゃっと驚いた。
「桜木のこと、何かわかんないかな? 何だかあいつ、最近塞ぎこむようになっちゃって、ある日突然、放課後は付き合い無くなっちゃったし。心配なんだけど、何も話してくれなくてさ。三人は何か心当たりない?」
 理奈、夏帆、華澄は互いに顔を見合わせた後、三人揃って「ないです」と口をそろえた。柊は「そっか、そうだよな。ごめんな、変なこと訊いちゃって」と軽快に笑い、また前に向き直って颯爽と歩いた。
 教室に着いた。理奈を除く柊たち三人はプリントの束を教壇の上に置いた。そして柊が「このプリントは、朝やった試験の解答でーす! 皆さん取りにきてくださーい!」と叫んだ。するとクラス全員が、まるで柊の手下のようにわらわらと教壇に集まり、自分の用紙を引っ張っていった。
 理奈たちは呆気にとられた。理奈の頭はさらに混乱していた。
 桜木雅弘。
柊雪斗。
真実を語っているのは、一体どちらなのだろう。
「何、あいつ。ふつーにいいヤツじゃん」
 夏帆が心底意外そうにぽろっとつぶやいた。

 帰りのホームルームの時間となった。
 今日も屋上に行くのはやめよう、と理奈は思った。今この状態で雅弘に会っても、彼の言うことを素直に受け止めきれない自分がいる。
 それはそうと、柊に、雅弘があなたのことを狙っていると告げたほうがいいのではないか。このままでは、雅弘はとんでもない過ちを犯しそうだ。まずは柊の仲間、雅弘、両者のすれ違いを何とかしなければならない。
理奈は勇気を出して、柊の軍団に近づいた。
「あ、あのぅ……」
 しかし誰一人として理奈の声が耳に届いた者はいなく、柊たちの集団は雅弘を囲ってけたたましく笑いながら去っていった。
 ぽつんと一人、理奈は残された。
……私ってば、やっぱり、弱虫だなあ。
 理奈は大きく落胆して、うつむき自分の上履きを見つめた。
「理奈、何やってんの? 帰るよ?」
 後ろから夏帆が不思議そうに顔を覗き込んだ。華澄もきょとんとして理奈のことを凝視している。
「……あ、うん」
 理奈は何とか返事をして夏帆と華澄と肩を並べた。
 視線を感じた。
 振り返ると、また雲雀秋が、こちらをにらむように見つめていた。彼は理奈と目が合うと、ばつが悪そうにふいっと反らし、今度は、柊たちの中にいる雅弘へと視線をやった。
 一体何だというのだろう。自分と雅弘との間にはもう何にもない。探りを入れたって今さら仕方がないのに。
 理奈は薄気味悪く感じて、雲雀秋からも視線を外した。学校を出て、木立駅に向かって、理奈は夏帆と華澄と一緒に笑い合いながら道を歩いた。
 木立駅に着き、夏帆と華澄と別れた。理奈はホームで電車を待ち、やがてやって来た電車に乗り、一駅分の時間を車窓の外の景色を眺めながら過ごした。下車する駅にたどり着いて、ホームに降り、人の流れに乗って改札口を通る。駅から五分程度歩いたところで、理奈の住む群青色のマンションが見えてきた。いつものように三階まで階段を上り、鍵を取り出して、ドアノブにいれ、回す。ガチャリと軽快だが重さのない音が響いた。
「ただいまー」
 玄関に出て、自室に来てから学生鞄をポイっと放り、佐藤に挨拶をするためリビングルームに足を運ぶ。
 佐藤は、慌しく右往左往しながら、とにかく手当たり次第の荷物をトランクと大きな旅行バッグに詰めていた。
 理奈は、その姿を見て、すべてを察した。
 嫌だ。当たってほしくない。
 けれど、きっとそうだ。
「佐藤さん」
 呼びかけられた佐藤はマンガみたいに肩を大きくビクリと唸らせて、おそるおそる理奈のほうを振り向いた。顔にはいつもの笑顔を貼り付けて。
「あら、理奈ちゃん、お帰り」
 佐藤は不自然なほど明るい声で言った。
 理奈は思わず叫んだ。
「佐藤さん! 出て行くの!?」
「…………」
佐藤は虫の居所が悪そうに顔をしかめ、理奈から視線を外した。
「どうしてよ! 一緒に旅行に行こうって言ったじゃん! あれも嘘だったの!? どうして、いなくなるなんて嫌だよ、佐籐さん!」
「……こうしてみると、私の荷物なんて、ほんの少ししかないのね」
 佐藤は自嘲するようにふっと笑ったかと思うと、今度は理奈に近づき、ガっと肩を掴んだ。
「理奈ちゃん、よく聞いて」
 あまりにも強い力だったので、理奈は痛さを覚えると同時に驚きもした。この細い腕にそれだけの力があったとは。
「私はもう、智広くんの暴力性に耐えられないの」
 佐藤は心の底から苦しそうに、理奈にすがった。理奈はショックで身動きが取れなかった。
「そんな。佐藤さん、智広とも上手くやってたじゃん……。少なくとも私なんかより全然」
「智広君は、もうこの家の誰も信用していないわ」
 佐藤は断言するように言い切った。
「理奈ちゃん、あなたも逃げなさい。このままでは、私たち、智広君の暴力に飲み込まれる。そしたらもう二度と出てこれない。そうなる前に、理奈ちゃん、あなたも逃げるのよ」
「逃げるって……」
 もし、この家に誰もいなくなったら智広はどうするのだろう。一人で生活していけるのだろうか。
 馬鹿な。中学三年生の男の子が、たったひとりで生きていけるわけがない。
「私は……逃げられない」
 佐藤は「理奈ちゃん」と言って、悲しそうに顔をゆがめた。
「ごめんね、佐藤さん。でも、私と智広は、姉弟なの。離れることなんかできない。私まで出て行ったら、智広は本当に一人ぼっちになっちゃう。それはできない」
 佐藤は理奈の一言一言を、一瞬でも聞き逃すまいというようにして、理奈の目を食い入るように見つめていた。やがて諦めたように理奈の肩から手を離し、旅行バッグとトランクを抱えて、玄関に出た。
「さよなら、理奈ちゃん。あなたの笑顔のおかげでここまでがんばってこれたの。それだけは忘れないで」
「佐藤さん……」
 佐藤は靴を履き、バッグを肩にぶら下げトランクを手に持ち、玄関のドアを開けた。
「さよなら、理奈ちゃん……」
 佐藤はドアが閉まる間際まで寂しそうに、哀れな子羊を見るような瞳で理奈を見つめていた。
「さよなら……」
 理奈も目に涙を溜めて、佐藤を見送った。
 ふいにすぐ横の部屋のドアが開いて、智広が現れた。理奈はあわてて顔を逸らし、涙をぐいっと拭いた。
「とうとう佐藤も、俺らを見限ったらしいな」
 智広は玄関を見つめて、はっと吐き捨てるような、そのくせどこか悲しそうな声で言った。
「……明日、お母さんに代わりのホームヘルパーを見つけてもらうわ」
 理奈は頭を抱えて、重たげに言った。智広はそんな理奈の様子を一瞥して、また吐き捨てるように言う。
「代わりのホームヘルパーが来たって、お前がいたって、どうせ俺は一人ぼっちなんだよ」
 理奈は顔を上げた。智広の本音を聞いた気がした。「智広」と理奈が呼んでも、すでに彼は自室に篭もってしまっていた。
 玄関には、ただ一人、理奈だけが残されていた。

 佐藤は夕ご飯だけは作っておいてくれたようだった。しかしこの先はどうしよう。何をしていけばよいのだろう。
 夕ご飯に智広は現れなかった。理奈は一人、テレビも点けずに黙々とご飯を噛み砕いていった。
 風呂を済ませ、歯磨きも終え、パジャマに着替えてベッドにもぐった途端、さまざまな感情があふれ出てきた。何も答えてくれない雅弘。出て行ってしまった佐藤。心を開いてくれない智広。理奈は声を張り上げて泣いた。まるで生まれたての赤ん坊のように、怒りと悲しみを夜に向かってぶつけた。

   ☆

 翌朝。
 土曜日だった。
 理奈は昨夜、ベッドの中で大泣きしたため、目が腫れていた。髪をろくに梳かさずに、パジャマ姿のままリビングルームに入る。
 もう佐藤はいないので、理奈は自分で冷蔵庫からパンを取り出し、皿に分けなければいけなかった。
 いつも食べ慣れているクリームパン。だが今日は喉を通らず、カスタードクリームの味がやけに気持ち悪く感じて、半分以上残してしまった。いつもならここで「理奈ちゃん、どうしたの?」と佐藤が尋ねてきてくれるところだった。けれどもうその声の主は、いない。
 半分以上残ったパンを生ゴミの袋に捨て、牛乳を無理やり飲み干し、朝食を終えた。
 家の中に智広の気配はなかった。どうやら朝から出かけているらしい。
 智広。あなたも、私ごと置いていってしまうのね。
 理奈は途方もない気持ちを抱えて、歯を磨くため洗面台へ向かった。
 歯を磨き終え、洋服に着替える。そしてベッドの上に足を組んで座る。
 何もない。ここには何一つない。
 理奈は何だかひどく寂しくなって、悲しさの塊が胸の中に広がり、バンっと弾けてしまった。
 理奈はベッドから飛び上がって、よそ行きの洋服に着替え、洗面台へと走っていって入念な化粧をした。化粧の確認をし、ポーチをカバンの中に入れ、玄関に向かって走った。パンプスを大急ぎで履き、ドアノブを勢いよく回した。ドアが開き、外の世界が見える。同時に雅弘の大きな家も。理奈は少し心が痛んだがそれを無視してドアを閉め、鍵をかけると同時に早足で階段を下りる。階下に着いて、雅弘の家を見ずに駅へ目指して力強く走った。
 走れ。走れ。
 何もかも取り払うように。
 何もかも弾き飛ばすように。
 走れ!
 理奈は息を切らして、雲の隙間から覗く太陽の光を浴びながら、とにかく走った。

 駅に着いて、電車に乗る。とりあえず馴染みのある木立駅へと向かう。木立駅にはたくさんのものがあるが、理奈は今まで足を運んだことがあまりなかった。特に興味というものをそそられなかったからだ。だが今は、とにかくこの鬱屈を晴らしてくれる何かを求めていた。
 木立駅に着き、人の流れに身を任せて改札口を通る。目の前に女の子の集団がいる。とりあえずついて行こうかと思い、理奈は集団より少し後ろの距離で歩き始める。
 女の子たちが向かったのはゲームセンターだった。入ると同時に、けたたましい効果音やら何かが耳を圧迫し、心臓が凝縮した。女の子たちはゲームは無視して、プリクラのコーナーに嬉々として入っていった。
 何だ。プリクラか。
 理奈は興味がそげてしまい、道を引き返した。まさか一人プリクラをやるわけでもあるまいし、そそくさとゲームセンターを後にした。
 しばらく街をぶらぶらとさまよう。大通りにはたくさんの人、車が往来し、慌しかった。ああ、東京だなあ、と変なことを思った。
 ふらふらと、わりと大きめなCDショップに入る。中には当たり前だがたくさんのCDが鎮座していて、ほら、俺を買えよ、私を買いなさいよ、と誘惑してくるようだった。
 ニューリリースのコーナーに足を踏み入れる。ふと、鷹野宵という文字に目が留まる。母が大ファンの、二十歳の男性芸能人だ。彼はもう新しいシングルを出していたのか。手にとって見てみる。『真夜中のTea Time』。ジャケットには彼がギターを携えて、少し俯きがちに歌を口ずさんでいる写真が使われていた。何となく好印象を持って、鷹野宵のシングルを買う。初回限定盤と通常盤があり、とりあえず通常盤を購入した。千円ジャスト。意外に安かった。
 CDショップを出て、またふらふらと街をさまよう。このままナンパでもされないだろうか。今の自分ならひょいっとついて行ってしまいそうだ。さきほどの女の子たちみたいに。
 何気なしに顔を上げると、「本」とでっかく看板がかかっていた。某大型書店のようだ。理奈はまた軽い気持ちでそこに入ってみることにした。
 中には膨大な本が、雑誌が、実用書が、どれもうず高く積まれていた。これは短時間で回りきるのは無理だな、と思いながら、新刊のコーナーに足を運ぶ。マンガの新刊には、まだ理奈の読みたいマンガがなかった。今度は小説の新刊のほうへ行く。小説の新刊は、どれもタイトルの文字がマンガよりも大仰に書かれていて、タイトルだけで小説の全貌を飲み込んでしまいそうだった。理奈は新刊を一回り見た後、奥のほうへと足を向ける。本がきれいに整列させられていて、指の入る隙間もなかった。理奈は奥へ、奥へ、とだんだん小説の森の中に迷い込んでいく。
 あるタイトルに目が行った。
そのタイトルは『魔の一族』と真っ赤な血のような赤い文字で書かれていて、バックは黒一色だった。帯には、『戦場ルポライターがこの目で見た、驚愕の事実!』とあった。どうやらノンフィクションらしい。理奈は試しにその本を手にとって、ぱらりとページをめくってみた。
『激しい戦禍を駆け巡る中、私は、「彼ら」に出会った。銃弾に射抜かれた者、蔓延する疫病で苦しむ者たちで、医療所はひしめき合っていた。 その地獄絵図のような医療所を取材しに来た私の目に「彼ら」は飛び込んできた。「彼ら」はその中で一際異彩を放ち、よく目立っていた』
 うんうん、おもしろそうな始まりだと思い、理奈は文字に目を走らせる。
『「彼ら」は、負傷した者たちの傷の部分に手をかざした。
 するとどうだろう。今にも死にそうであった人間たちは、見る見るうちに生命を吹き返したのだ』
 唐突に、身に覚えのある文章が目に飛び込んできた。
これは。
これは、雅弘の能力……。
『取材した仲間が蒼白した顔で言い放った。
 彼は、相手の首筋に手を当て、念力で骨を折ることができるのだという』
 これもだ。これも雅弘の能力だ。
 理奈は混乱した。
 何? この本は?
『これは、人の傷を癒す能力と同時に、人に傷を与える能力を持った、ある超能力者たちの物語である――――。
 彼らの能力の発祥は、戦国時代までさかのぼる――――』
 理奈は震える身体でページを読み込み、めくった。隣に立っているサラリーマンが、怪訝そうな目つきでこちらを見ている。
『……戦乱の最中、彼の勤めている医療所に、親友が転がり込んできた。親友の怪我はひどいもので、これ以上手の施しようがなかった。彼は親友の怪我の部分に手をかざしながら、祈った。お願いです、仏様、この人を助けてやってください。するとどうだろう。親友の怪我はもう跡形もなかった』
 理奈はどんどんページを流し読みしていく。
 ……同じだ。
『ある朝、彼の妻が庭で殺されていた。
腹を刀で斬られていて、美しい着物に無残にどす黒い血が固まっていた。彼と彼の子どもは泣き崩れた。
 そこに、大名がやって来た。そしてこう口走った。
「この度はたいへん不幸なことが起きた。しかし殺されたのがそなたたちではなくてよかった。ある意味、この女子(おなご)は使い物にならない、ただのでくの坊だ。そなたたちが無事でよかった」
 その言葉に、二人とも怒りに震えた。
 ふいに子どもが大名に寄ってきて、足の膝小僧に手をかざした。
 大名が不思議に思って見ていると、ボキン、と骨の折れる音がした。大名は悲鳴を上げて地面を転げ回った。御付の者たちがあわてふためいているのを尻目に、子どもは再び大名の首に手を当てた。ゴキ、と地獄のような音が鳴り、大名は息を引き取った。
 そう、これが傷を与える能力の発祥だったのである。傷を与える能力は彼の子どもから生まれた。
 彼は子どもを抱えて屋敷を飛び出し、逃げた。どこまでもどこまでも。追っ手が来ないところまで。
 ひとしきり逃げた後、持って逃げたわずかな金を使って、彼と子どもは再び医療所を設けた。
 その度に追っ手に捕まりそうになり、逃げ、医療所を設け、また逃げて、気がつけば子どもはもう成人した立派な男になり、彼は腰の曲がった翁になっていた』
 理奈は蒼白した顔で、本を抱いていた。
 これは、一体何?
 どうして、あの日雅弘が語ったことが、この本に書かれているの?
 理奈は次々とページをめくった。
『子孫の能力は政府に伝えられ、やがて第一次世界大戦が起きた。子孫は主に特殊部隊にいて、背後から敵の首を触り、折る。それだけのことだった。そして傷ついた仲間たちの傷も癒した。子孫は政府に重宝されて、第二次世界大戦の時も、同じように特殊部隊に派遣され、敵を殺していった。あの恐ろしい力で。仲間たちには傷を癒す天使のような能力も使った。
 子孫は戦争が終わった後も、数十年は故郷に帰されなかった。原爆で被害を受けた被爆者たちの治療に明け暮れていた。そうするうちに、子孫の妻と子はひもじい生活の中、死んでしまった。
 子孫はようやく故郷に帰された。その後のことは、資料が残っていないので知る由もない。
 しかしこれではっきりした。彼らは政府と繋がっている。いや、政府に守られているのだ』
 本の中の著者は雅弘の話を少し脚色して、大仰に語っていた。けれどほとんどのことが、あの日雅弘が話したことと同じで、理奈は戸惑った。
 最後のページには、こう書いてあった。
『一族の力は分散し、日本のあちこちに散らばり始めている。そう、今このときも。忘れてはいけない。彼らは傷を治す力と同時に、傷を与えることで人を殺すこともできる、「魔の一族」だということを……』
 雅弘。
 魔の一族。
 急に、身震いがした。
 そうだ、雅弘は人を殺すことができるのだ。やろうと思えばすぐに。今はまだへらへらと笑っている柊たちも、いずれは彼によって殺されるのだ。
 それにしても、どうして雅弘の語ったことと同じことが、この本に書かれているのだろう。
 いや。
 逆だ。
 雅弘が、この本から引用したのだ。都合のいい部分だけを。
 けれど、なぜ?
 推測できることは一つ。
 すべては、ただの芝居だったということ。
 雅弘は理奈の注意をこちらに向かせるため、わざといじめられている風にしてみせたりしていたということ。雅弘は本当は柊と仲がよくて、けれど何らかの目的で柊を殺害しようとしている。そして、それに理奈を巻き込もうとしている。
 しかし、何の理由で理奈を手中に収めようとしているのだろう。
『好きだよ、理奈』
 雅弘の声が耳によみがえる。それは嘘か、真実か。
 ねえ、雅弘、あなたは一体どういうつもりなの?
 理奈は声もなく肩を落とした。客たちは、そんな理奈の姿などまるで見えていないかのような無関心さで去っていくのだった。

 結局、『魔の一族』の本を買ってしまった。千五百円と高かったけれど、今はそんなことなど気にしている場合ではないと思った。
 道を歩きながら、一ページずつ、一字一句を逃さないように呼んだ。何度も人にぶつかりそうになりながらも、本の内容に没頭した。心は『魔の一族』に吸い寄せられていた。
 そして、気づいた。
 雅弘は、この本を利用している。
 まったく同じだ。あの日、観覧車で語ったことと。
 雅弘はこの本を使って、自分を信じ込ませ、そして柊を殺そうとしている。
 魔の一族。
 身体が震えて止まらなかった。
 雅弘が柊を殺害するとしたら、おそらく週明けの月曜日だろう。何の根拠もなかったが、何となくそんな気がした。
「ねえ」
 ふいに誰かに声をかけられた。
 振り返ってみると、痩身の黒髪の男性が、爽やかな笑顔でこちらに向かって歩いてきていた。
 見た目は悪くない。角度によっては、かなりの美青年だと思わせることもできるだろう。そんな男が、理奈に笑顔を振りまいていた。
「何ですか?」
 理奈は怪訝そうな顔になって訊いた。
「一人? お茶しない?」
 男性は誠実そうな外見とは反対の軽い調子の声で、理奈を誘った。理奈は自分がナンパされたということに驚き、次いで、少し考えた後、言った。
「……いいですよ」
 男は見る見るうちに破顔し、「じゃあ、あそこのカフェでも行こう!」と言って理奈の肩に手を這わした。理奈は不思議とそれが不快に思わなくて、感覚が麻痺しているせいもあってか、大人しく男に付き従った。

 男に誘われるがままカフェの扉をくぐった。中はシックな色合いの壁紙で統一されていて、間接照明が綺麗だった。
 男は紳士的に「好きなもの選んでいいよ」と言って、財布を取り出した。某有名ブランドの、いかにも高価なものだった。理奈はこの人はお金持ちなのかと驚いた。とりあえずアイスカフェオレを注文する。男は「それだけでいいの?」と問うたが、理奈は「いいんです」と断った。
 男は理奈と同じようにアイスカフェモカを注文した。お金はもちろん男が払ってくれた。二人分のトレーをもらい、上にアイスカフェオレ、アイスカフェモカが乗せられる。お気をつけください、と店員の労った声が耳に届く。理奈は軽く会釈して返事を返し、男のほうはさっさと持っていってテーブル席に座った。理奈もあわてて男の後を追う。
 二人がけのテーブル席にお互い向かい合って座ると、しばらく二人は黙って目の前の飲み物をすすった。ひとしきり飲み終わると、男のほうから問いかけてきた。
「今日は、一人で遊びに来たの?」
「ええ、そうです」
「寂しくない? 一人でなんて」
 男は同姓の友達にでも話しかけるような気軽さで言ってきた。不思議と馴れ馴れしさはあまり感じなかった。
「別に寂しくなんてないですよ」
 理奈がそっけなく返しても、男は別段気を悪くする風もなく質問をしてきた。
「一人で何してたの? 買い物?」
「まあ、そんなところです」
「何買ったの?」
「CDとか……」
「へえ。何のCD?」
「鷹野宵君のです」
「本当!?」
 急に男は目の色をパッと変えて理奈の顔を凝視した。理奈は何事かと思い、しどろもどろになる。
「な、何かおかしなこと言いました……?」
「実はさ、俺、鷹野宵君のマネージャーなんだ!」
「……はぁ?」
 理奈はあきれ果てて思わず口走ってしまった。
「マネージャーが、こんなにも忙しい鷹野宵君のそばを離れてて女ナンパしてもいいんですか?」
 すると男は弁明するように、いやいやと手を振って言い訳をした。
「いや、マネージャーというのは本当なんだよ。ただ彼はもう売れっ子でさ、何人ものマネージャーが付いてるんだ。俺はその下っ端。だからこうして休みももらえるわけ」
「……はぁ」
 男の言葉にはまだ信じがたいものがあったが、とりあえず理奈は納得することにした。母に鷹野宵君のマネージャーに会ったと言ったら、どんな顔をするだろう。
 理奈は訊いてみることにした。
「鷹野宵君は、今、流行ってますよね」
「うん。今のところはね」
「でも、人気はいずれなくなりますよ」
「ははは。シビアな子だなあ。今時の子は皆そうなのかな?」
「まあ、そうでしょうね。鷹野宵君の人気がなくなったらどうしますか? やっぱり芸能界だからバッサリと捨てるんですか?」
「そういう事務所がたくさんあるけど、俺たちのところは違う。ちゃんと最後まで面倒見るよ」
「最後って、いつのことですか?」
 理奈が尋ねると、男は一瞬物思いにふけるような表情になって、言った。
「その人が、自分はもうここまでだ、と思うところまで」
「……そうですか」
 理奈はストローに口をつけてアイスカフェオレをすすり、そしてぽつりとつぶやいた。
「芸能界って、自分との戦いなんですね」
 すると男はアハハと軽く笑った。
「芸能界は特にそうだけど、普通の会社でも、どこでもみんな自分との戦いだよ。君みたいな学生にはまだわからないと思うけどね」
「わかってますよ。充分すぎるくらい」
 理奈が吐き捨てるように言うと、男は意外そうに目をパチクリさせた。
「君も今、戦ってるの?」
「はい。戦ってます」
 男が問うと、理奈は即座に答えた。
「そうか。……訊いてもいいかい? 何と戦ってるの?」
「恋人に、裏切られたんです」
 そう言うと、男はかわいそうな子羊を見るような目つきで理奈を見つめた。
「……それは悲しいね」
「はい。とても悲しかったです」
 男はふいに、物憂げな表情になって、少し眉間に皺を寄せた後、しゃべりだした。
「一般人にこんなことしゃべったらいけないのかもしれないけど、鷹野宵君もね、今、戦ってるんだよ」
 理奈は「へえ」と興味なさげに返答をした。
「彼をバラエティー方面で売るか、それとも俳優業で攻めるか、事務所内のグループで意見が真っ二つに割れててね、宵君も今悩んでいるんだ。自分が今、進むべき道はどっちなんだろうって」
「……はあ」
「でもね、俺は思ってる。鷹野宵はきっと自分にとってプラスになる道を選んでくれるに違いないと。鷹野宵はいずれ、時が経ったら、大物になるだろうと。塵屑のように消えていくタレントなんかじゃない。鷹野宵はそんな器じゃない。もっとでっかい、大きな旗を背負ってるような、そんな青年なんだ」
 男は瞳を輝かせて鷹野宵のことを熱く語った。理奈は芸能界のことには興味がなかったが、鷹野宵については別だった。へえ、彼はそれほどの男なのかと、心なしか感嘆したようだった。
「君は? 恋人に裏切られたって言ったけど、どんな風に裏切られちゃったの? あ、ごめんね、立ち入ったこと訊いちゃって。嫌だったら言わなくていいから」
「嘘をつかれたんです」
 理奈は男の言葉を遮るように言った。男は目を丸くして大仰に驚いてみせた。
「それって、どんな嘘?」
「愛してるよって、嘘です」
 本当は愛してるだなんて雅弘から言われなかったのだが、もう嘘をつかれたと言ってもいいだろう。
「それは、ひどいね」
 男はまた哀れな子羊を見るかのような目つきで、理奈の顔を見つめた。
「ええ、ひどいです」
 理奈も自然と雅弘に対して怒りが沸いてきた。
 雅弘、どうしてこんな嘘をついたの?
「でも、くじけないで! その彼のことを見返すくらい君が幸せになってやったら、君の勝ちだよ!」
「いいえ、勝ち負けなんかじゃないんです」
 男の言葉に反論するかのように、理奈は強く言った。男は思わずひるむ。
「私は彼に対して腹を立ててますが、彼に不幸にはなってほしくないんです」
「……それは、まだ彼を、愛してるってことだね」
「……ええ、そうです」
「じゃあ、今はがんばって、今日という日を大切に過ごすしかないね」
 男はさも教師のような方便を言って理奈を励ました。励まされた理奈は何ら悪い気もしなくて、ただ苦笑いをした。そしてまだ残っているアイスココアの残りをストローで一気に吸い上げた。
「あの」
 遠慮がちに理奈は訊いてみた。
「ん? なんだい?」
 男は気軽に受け持った。
「あなたは、今何と戦っていますか?」
 問われた男は、う~んと腕組みをして考えた末、答えた。
「事務所の幹部どもと、あと退屈かな」
「幹部と、退屈……」
 相反するような答えが返ってきて、理奈は知らず男の言葉を反芻した。そしてふっと笑い、自分も言葉を返した。
「私も今、恋人の嘘と、戦っているんです」
「……そうか。頑張ってね」
 男は当たり障りのない励ましの言葉を言った後、残りのアイスカフェモカを先ほどの理奈と同じようにストローで一気に吸い上げ、飲み干した。
 ほどなくして、二人ともども席を立った。トレーを返却口に返して、店を出る。ありがとうございましたぁー、と若い店員の声が後からついてきた。
 別れ際、男は握手を求めたので、それに応じた。
「今日はありがとう。すごく楽しかったよ。また一緒にお茶しない? 連絡先訊いてもいいかな?」
「あ、すみません。それは遠慮しときます」
「そ、そっか……」
 男の誘いを理奈はピシャリと跳ね除けた。男はガックリと肩を落としたが、すぐにピンと立ち直って、
「でも、今日は本当に楽しかったよ。年くらい訊いてもいいよね?大学生?」
「いいえ、高校生です」
「え」
 男の口があんぐりと開いた。
「高校一年生。十六歳です」
「え、えぇっ?」
 驚いてあたふたとする男を尻目に、理奈はさっさと木立駅に向かって歩いていった。自分の家に帰るために。
 大体、あの男だって、本当に鷹野宵のマネージャーかどうか怪しいところだ。話は意外と楽しくできたが、男が楽しくしてくれたのだが、きっともう会うこともないだろう。
 理奈は、呆然と突っ立っている男を置いて、木立駅東口へのエスカレーターを上っていった。

 ホームに立ち、電車が来るのを待つ。それほどしないうちに電車がやって来て、それに乗り込む。車内の一番端の席に座る。向かい側には一組のカップルが、手を繋ぎあって寄り添いあうように座っている。自分も少し前まではこうすることができたのだと思うと、自然と涙腺がまた緩みだす。いけないと思い、理奈は固く目をつぶってこれからのことを考える。
 これから、どうしよう。
 まず、雅弘のことを止めなければいけない。
 彼の嘘に傷ついている場合ではないのだ。
 理奈は固い決心をして、再びパッと目を開けた。
 そこはもう自分の下車する駅だった。理奈はあわてて電車を飛び降り、ほっと一息つくと、あの男のことにちょっとだけ思いを馳せ、改札口を抜けた。
 帰路を歩き、群青色のマンションが見えてくる。同時に雅弘の大きな家も。理奈は雅弘の家を一瞥した後、すぐにマンションの階段を駆け上った。三階までたどり着き、家の鍵を取り出し、ドアノブに入れ、回す。いつも通りの音が鳴り響いたことに、理奈はどこか安堵した。
 ドアを開け、中に入る。玄関のすぐ横の智広の自室からは何も物音がしない。靴があるから家にはいるはずなのだが、寝ているのだろうか。それともインターネットに夢中になっているのか。
 どちらにせよ、今日の夕飯は自分が作らなくてはいけない。そして智広と二人で食事しなければいけない。そのことはあまりにも荷が重い作業だった。
 理奈は顔を洗ってメイクを落とし、よそ行きの洋服から普段着に着替えて、ファション誌でもパラッとめくってみた。自分ひとりの時間は、孤独だが涼やかなものがあった。しばらく味わっていなかった感覚だと思った。

 夕飯の時刻が近づいてきたので、理奈はダイニングキッチンに入って冷凍食品を鍋でゆで始める。二人分の夕食。もはやそのことに慣れてしまっていた。そういえばまだ母に連絡をしていない、
 受話器を取ろうとしたところで、智広がリビングルームに入ってきた。
「何してんだよ。夕食まだかよ」
「今作ってるから待ってて」
「どうせ冷凍食品だろ」
「仕方がないでしょ。佐藤さんがいなくなっちゃったんだから」
 自分で言ってて、佐藤、という名前が、どこか遠くで聞いた他人事のように感じる。彼女は今どこにいるのだろうか。
「あと何分でできる?」
 智広が訊いてきたので、理奈はカバーに書いてある目安の時間を見て、言った。
「あと……十五分」
「じゃあ、テレビでも見てるか」
 智広はどかっとソファーに腰掛け、リモコンを手にとってテレビを点けた。途端に賑やかな笑い声がしてきた。何かのクイズ形式のトーク番組で、お笑い芸人やらタレントやらが席に座って、クイズに答えていた。その中に鷹野宵の姿を見つける。あっ、いる! お母さんにメールしたほうがいいかな、と思ったが、どうせ母のことだろう、鷹野宵の出演しているテレビ番組はすべてチェックしていることと思う。
 ふと、昼に遭遇した男の話を思い出す。鷹野宵は今迷っていると、悩んでいると。しかしテレビの画面からは、微塵もそれを感じさせない弾けた笑顔の彼が映っていた。そこらへんはさすがプロだなと思った。
 理奈はおずおずと、智広の隣に身を預けた。彼は何も言わなかったので、若干ほっとした後、嬉しくなった。
 しばらく二人でトーク番組に見入った。お笑い芸人の一人が司会者に鋭い突っ込みをし、どっと場内が笑った。理奈と智広もつられて笑う。もうどれくらい、二人で笑う時がなかったのだろう。理奈は感慨にふけっていた。
 タイマーがなり、もう十五分経ったのかと少し驚き、鍋から冷凍食品の袋を取り出し、袋を開けて皿に盛り付ける。
「できたよー」
「おう」
 ドミグラスソースのハンバーグ、インスタントの味噌汁、理奈が四苦八苦して切ったトマトとキュウリ。これが本日のメニューだった。
 理奈と智広は互いに向かい合って席に座り、テレビを見ながら黙々と食べた。不思議なことに今日の沈黙は気まずくなかった。今日の智広の機嫌がいいからなのかもしれないが、とにかく理奈の心は穏やかだった。
 ひとしきり時間が経って、二人ともご飯を食べ終えた。二人で皿を洗って、食器洗い機にしまい、洗剤を入れてかける。この一連の動作も理奈と智広はスムーズにこなせた。
 智広、毎日こんなだったらいいのになあ。
 理奈は智広を見て少し苦笑した後、風呂に入りに洋服を取りに行った。
 風呂から出た後は、髪を乾かし、歯を磨き終え、パジャマに着替えて布団にもぐる。昨日感じたどうしようもない寂寞感は、今はもう治まっていた。
 理奈は『魔の一族』の本を学生鞄に入れていた。明後日、これを持って雅弘のもとへ行こう。そして真実を聞き出そう。柊を殺すつもりならば、何としてでも阻止しなければならない。
 理奈は暗闇の中で、二つの目を見開き、また静かに閉じた。

   ☆

 月曜日が来た。
空は曇天だった。雷が鳴りそうなどす黒い雲が太陽を覆い、下の家々に暗黒をもたらしていた。
 理奈は早朝に起き、洗顔をして、パンを食べ、歯磨きをし、パジャマから制服に着替えた。この一連の動作も、今日は何だか緊張した。理奈の心臓は今にも口から飛びだしそうだった。
 悲劇が、起きるかもしれない。
「魔の一族」が入った学生鞄を肩にぶら下げ、理奈は玄関を出る。
 外は陰鬱な天気だった。今にも雨が降り出しそうだ。
 理奈は一旦家に戻り、傘を持って、再び外に出た。
 雅弘の家の前で、立ち止まる。
 どうか、彼が来ますように。
 しかし彼の姿は一向に見える気配がなかった。もう出て行ってしまったのだろうか。こんな朝早くに? もしかして、もうすでに柊を殺しに行っているのか。
 理奈は恐怖で目の前が暗くなってしまう。いけないと思い、気丈に直立不動して雅弘の家の前に佇む。しかし彼は現れない。やがて智広が玄関のドアを開け、外に出てきた。理奈の姿を怪訝そうに眺め、「何やってんだ、お前?」と問いかける。
「別に。友達と待ち合わせしてるの」
「……ふぅん」
 智広はなおも不審者を見るような目つきでしばらく理奈を見た後、通学路を歩いていった。
 友達。自分で言ったその言葉に悲しくなる。『好きだよ、理奈』。あの雅弘は幻だったのか。
 とうとう遅刻ぎりぎりの時間帯になってしまった。理奈は諦めて、遅れないように駅に向かって走り出した。

 木立駅に着き、改札口を抜け、東口を出て急いで歩く。周りには同じように、急ぎ足で学校に向かう木立市立高校の制服を着た人たちが歩いている。理奈はその人たちをどんどん追い越し、向かい風を受けた。今日は風も強い。これから嵐になるかもしれない。
 ようやく学校に着いた。予鈴の鐘が鳴る。理奈は急いでローファーから上履きに履き替え、一年一組への教室へと向かって走った。
 教室には柊の集団がいつものように真ん中の机たちを陣取り、雅弘をネタにして遊んでいた。
 よかった。柊はまだ殺されていない。
 おそらく、放課後に実行するのだろう。
 理奈は注意深く雅弘の姿を見つめ、夏帆と華澄のもとへ行った。
「理奈―、遅いぞー」
 夏帆がからかうように、机に乗って足をぶらぶらさせながら言った。華澄も椅子に座って「おはよう、理奈ちゃん」と挨拶をした。
「おはよう。ごめん、寝坊しちゃって」
 理奈は朝の挨拶を交わした後、適当に取り繕って言った。
「そういや、理奈、最近学校来るの遅いよね」
「そ、そうかな?」
 夏帆が鋭い指摘をした。理奈はどぎまぎしながらも机に鞄を置いて答えた。
「もしかして、あいつ? また桜木絡み?」
 夏帆が柊の集団に指を差して言った。理奈は観念したように口を開く。
「……まあ、そんなところかな」
「夜、眠れないとか?」
「……うん」
「理奈、桜木のことはもう忘れな。あいつもあいつだよ。サイテーな男だったんだよ、きっと。だからあんな風にいじめられてるんだよ」
「…………」
 理奈は返事を返すことができなかった。もはや雅弘の何を信用すればいいのかわからない。けれど彼を最低な男などとは思いたくなかった。
「……そうだね」
 それでも一応曖昧な返答をして、理奈は自分の机に着いた。そしてずいぶん前のように、頬杖を着いて窓の外の景色をぼうっと見つめる。そして考えていた。
 今日一日、雅弘から少しも目を離さないようにしよう。
 そう決心すると、身体が炎に包まれたかのように熱くなり始めた。自分は使命感に燃えているのか。それとも……。
 理奈は考えるのが面倒くさくなって、また窓の外の景色に集中した。
 午前中の授業も、その間の十分休みも、雅弘は動く気配を見せない。理奈は監視するように雅弘をじっと見つめていた。
 何気なしに横を見てみると、またあの紅葉の色をした赤茶色の髪の、雲雀秋が見えた。彼も雅弘のことをにらみつけるようにして見ている。
 彼も、何かを察しているのだろうか。
 理奈には知る由もなかった。

 昼休みに入った。
 理奈はいつものように夏帆と華澄と机を並べて食事をし、雅弘もまたいつものように買出しに行かされていた。
「ねー、見てー。今日お母さんはりきっちゃって、こんなかわいいの作ってくれたんだー」
 夏帆はうきうきした弾んだ声で、弁当箱を二人に見せた。そこにはクマの形をしたおむすびが二つ、並んでいた。
「本当だ、かわいいね」
 理奈もちょっと感動して夏帆の弁当箱に見入った。華澄も「すごーい」と感嘆した声を上げた。当然のことながら理奈の弁当は作られていない。学校に行くまでのコンビニで買ったおにぎりとお茶である。
「理奈、そんなんで足りるの?」
 夏帆が心配そうに訊いてきた。
「うん。なんか今日は食欲がなくって」
「え、大丈夫?」
 夏帆はますます心配そうな表情になって理奈の顔を覗き込んだ。
「理奈ちゃん、私たちでよかったら、何でも相談に乗るよ?」
 華澄も穏やかな表情で、それでいて儚そうな雰囲気を纏いながら言った。
「大丈夫だよ、二人とも」
 理奈はなるべく元気に聞こえるように勢いよく答えた。二人はほっとしたように笑い、弁当を食べることにした。
 三人での昼食は、和やかで楽しいものだった。
 いつまでもこの瞬間が続いてほしいと、理奈は切に願った。
 できれば何も起こらないでほしいと。

 しかし、時は過ぎる。午後の授業が終わり、いよいよ帰りのホームルームが来た。
 教師の注意事項を聞き流していると、斜め後ろの席に座っている夏帆から遊びの誘いが来た。
「ねえ、今日はショップ巡りしない?」
「ごめんね。今日は用事があるの」
 理奈は申し訳無さそうに夏帆の誘いを断った。夏帆は「そうか……」と肩を落とした。華澄もしょんぼりとしている。
「じゃあ、気に入ったのがあったら私たち二人で理奈にプレゼントするよ!」
 夏帆が手をポンと叩いて、瞳をキラッと輝かせて言った。
「え、いいの? ありがとう!」
 理奈は素直に喜んだ。もうこの二人とは気の置けない仲だ。理奈は二人の気遣いが嬉しくなった。
 ホームルームが終わり、全員席を立つ。すかさず雅弘のほうに目をやる。彼は仲間の誘いを断って「ごめん。今日は用事があるんだ」と言っていた。屋上だ。屋上に柊を呼び出すんだ。理奈は直感でそう思った。
 教室のドアを開けて出て行った雅弘を追いかける。
「バイバーイ、理奈」
「またね、理奈ちゃん」
 去り際、二人から見送られた。理奈も「バイバイ! 二人とも!」と笑顔で手を振って別れの挨拶を交わした。
 雅弘の後を追う。彼は玄関のほうには向かわずに、階段を上っていった。
 やっぱりそうだ。屋上に行くんだ。
 理奈の心臓はバクバクと音を立て、冷や汗がひんやりとこめかみの辺りに流れた。
 最上階に着き、雅弘は屋上へと続く扉を開けた。そして理奈もそれに続く。
 屋上で、二人はしばらくぶりに出会った。
 雅弘はちょっと驚いた表情を見せた後、やんわりと笑って言った。
「理奈、久しぶりだね。朝はごめんね。ほかに用事ができちゃって、一緒に学校に行けなくなっちゃってさ。あの時もごめん。柊の前ではああするしかなかったんだ。でもよかった。またこうして会えて。何で屋上に来なくなっちゃったの? もう会えないかと思っ……」
 雅弘の饒舌な舌は、そこで途切れた。理奈が学生鞄から、あの『魔の一族』の本を取り出したからだった。雅弘の顔からサッと血の気が引いて、真っ青な表情になった。
「あなたは、一体誰なの!?」
 理奈はこれ以上ないくらいの大声で叫んだ。
 雅弘は蒼白な顔で固まっている。
「どうしてあの日、あなたの語ったことが、この本に書いてあるの? 本当は違うんでしょ? 本当は、あなたがこの本から自分の能力のことを都合がいいように改ざんしたんでしょ? あれは、何か、手品かなんかでしょ? あなたは本当はただの普通の男の子で、柊と仲がよくて、でも何らかの目的で柊を殺そうとしている! そしてそれに私を巻き込もうとしている! 何で? 何でそうする必要があるの?」
「違う!」
 雅弘は腹の底から、しぼりだすようにして叫んだ。
「それは、俺の一族のことを嗅ぎまわって、証拠も何もなしに面白半分に書きなぐっただけのただのゴシップ本だ! そんな本に惑わされないでくれ、理奈! 確かに俺は人を癒す能力、人に傷を与える能力、両方を持っていて、その本の中から引用した!」
「何で、そんなことしたの!?」
「理奈の気を、引きたかったんだ!」
 理奈の身体から、がっくりと力が抜けた。そんな理由で。
 雅弘は蒼い顔のまましゃべり続ける。
「だって、理奈は俺の特別な女の子だったから。入学式の時に一目ぼれして以来、何か話せないかなとずっと思ってたから。だから、あの日、廊下でぶつかった時もわざとじゃないよ? でも、君の弟の殺人に失敗してから、何だか俺も自分自身が怖くなっちゃって、理奈と目を合わせられなくなった。そうしているうちに君はどんどん松田と伊織と仲良くなっていくし、俺の忠告なんて聞いてくれてないんだって思って、悔しくて、屋上にも来てくれなくなって、どうしたらいいんだろうってわかなんなくなっちゃって……」
 雅弘の声はどんどん小さく、か細くなっていった。理奈はたまらず叫ぶ。
「でも、人を殺すことはしちゃダメだよ、雅弘! 今ならまだ間に合うから、柊君を殺さないで! 柊君、雅弘のこと心配してたよ? あいつはかわいいから皆に構われて、それが時々エスカレートしちゃうんだって。だから俺が止めてやらなきゃって。雅弘、柊君たちのこと誤解してるよ!」
 うつむきがちだった雅弘はぱっと顔を上げて、憤怒に満ちた表情で反論した。
「それは違う! あいつは俺のことを虫けらみたいに思っている。俺のことを都合のいいオモチャとしてしか見てないんだ! 理奈、真実を言ってるのは俺のほうだよ! 柊たちの言葉に惑わされないでくれ!」
「雅弘……」
「理奈! 俺を信じて!」
 雅弘は必死の形相で理奈に向かって叫び続けた。その悲痛な叫びは、今にも雷が鳴りそうなどす黒い雲の中に吸い取られていった。
「…………」
 理奈が返答に困り、黙りこくってしまった時だった。
「はぁーい、そこまでぇー」
 急に扉がバンッと開き、中からわらわらと大勢の人数が押しかけてきた。何事かと思い見ると、柊たちの集団だった。柊の手下たちは真っ先に雅弘に向かい、彼を羽交い絞めにした。
「雅弘!」
 理奈が叫ぶと同時に、こちらもガッと両腕を掴まれた。振り向くと、夏帆と華澄がそれぞれ理奈の腕を掴んでいた。
「夏帆!?」
 名前を呼んだ途端、バシッと頬を打たれた。ジィンと痛みが走り、今殴ったのは本当に夏帆だったのかと疑いたくなった。
「ちょっと、名前で呼ばないでくんない? 超気持ち悪いんだけど」
 奈落の底のような驚くほど低い声で、夏帆は言った。ああ、今のは本当に夏帆が殴ったのだと現実味が沸いてくる。
「華澄……」
 理奈は華澄のほうに目をやる。華澄はばつが悪そうに顔をゆがめ、ふいっと理奈から視線を外した。どうやら華澄は夏帆の金魚のフンらしい。
「はあ、まったく、ここしばらくあんたに四六時中付き合わなくちゃならなくて、めっちゃストレス溜まったっつーの。ねえ華澄?」
「う、うん……」
 華澄はまだ気まずそうに、理奈の目を見ないで言った。
「華澄! ちゃんと捕まえておくんだよ!」
「わ、わかってるよ……」
 華澄は罪悪感に満ちた声で、か細く言った。
「柊くぅーん! こっちは準備オーケーだよぉー」
 夏帆は黄色い声で柊にサインを送った。柊はキラッと音が鳴るような笑顔で、「ありがとう、松田、伊織」と言った。礼を言われると、夏帆と華澄の顔が赤くなった。
 どうして、この場所を知っているのか。屋上の鍵が外れているのを知っているのか。
 あ、馬鹿だ、私。
 理奈は心の底から死ぬほど後悔した。
 あの日、しゃべってしまったではないか。カラオケボックスで。雅弘と密会していることを。
 ごめんね、雅弘。あなたのほうを信じればよかった。私がしゃべってしまったの。私たちの秘密を。雅弘、ごめんね。
 理奈は声にならない懺悔の言葉を吐き続けたが、雅弘に聞こえるわけもなかった。
 柊の手下たちに身体を束縛された理奈と雅弘。その間を、王のごとく優雅な足取りで柊が闊歩する。
「桜木ぃ、最近付き合い悪いって思ってたら、何だ、放課後は綾瀬と会ってたのかぁ。いわゆる逢瀬ってヤツ? 熱いねぇ、お二人さん」
 柊は理奈の目の前で止まると、にっこりと微笑んで理奈の顔に手を這わした。
「こんなかわいい子と毎日会ってたなんてさあ、ちょっと身分がよすぎるんじゃないのか、桜木ぃ」
 柊はニコニコ笑いながら理奈の顔を撫で続ける。彼の美形だが卑しい顔が目の前にある。理奈はぞっとした。横から夏帆が嫉妬の目でにらんできているのが気配でわかった。
「柊! 理奈に手を出すな!」
 雅弘が渾身の力で叫んだ。途端、柊はプハツと笑って、理奈から離れ、雅弘のほうに近づく。
「理奈、だって! もう名前を呼べる仲になっちゃてるのかあ。そういや桜木、俺のことを殺すとか言ってたなあ。何? どうやって殺すわけ?」
 柊は雅弘の髪をギリリと握り締め、顔をこちらに向けさせる。
「あ? どうやるわけ? 言ってみろよ」
「……今にわかるさ」
「アッハハハ! 自信満々だなあ、オイ!」
 柊はまたくるりと踵を返し、理奈と雅弘との間に立った。
「なあ、なあ、お前らいつも屋上で会って何してるわけ?」
「何って、ナニじゃないのぉ~?」
 柊が声高々に言うと、すぐに夏帆が合いの手を入れた。こんな下品な夏帆は見たくない。けれど瞳は空虚を見つめて、思考は働かなかった。
「じゃあ、今ここで二人に実践してもらいま~す!」
 柊はショータイムが始まるかのように実に愉快な調子で叫んだ。
「何してんの? いつも何してんの?」
 柊の手下の男一人が雅弘を小突いて言う。雅弘はそっぽを向いたままで、彼の返事には答えない。
「キス? キスしてんの? なあ」
 それでも手下の一人は興奮冷めやらない様子で雅弘に問い詰めた。
「キスくらいしてるだろ。とっくに」
 もう一人の男がふんっと鼻を鳴らして言った。
「じゃあ、ここでキスやっちゃう~?」
 柊がぐるりと周囲を見つめて、晴れやかに言った。
「いいねえ、そうしよう!」
 夏帆が真っ先に柊に賛同した。
「いっそ、ここでセックスでもしちゃえよ」
 先ほどの男がまた鼻を鳴らした。
 柊はブハッと噴き出す。
「おいおい、そこまでやっちゃう? ……まあ、これくらい当然だよなあ。桜木ぃ、お前はいつの間にか、俺たちのことを出し抜いてたんだからなあ」
「セーックス! セーックス!」
 手下の一人が、この場をお祭り騒ぎにしようとばかりに、声を張り上げた。
「キース! キース!」
 夏帆もそれに便乗して、いやらしい卑小な叫びで手下の声に合わせる。
「じゃあ、キスから行きますか!」
 柊が仲間たちに合図をした。それと同時に、ずるずると身体が前に押し出されていく。雅弘に向かって。彼のほうも同様だった。
 怖い。
 これは、暴力だ。
 集団リンチだ。
 魔女の血祭りだ。
 理奈はどうしたらいいのかわからなくなって、目に涙が滲んできていた。
 怖い。
 集団の暴力は怖い。止めようがない。暴力には慣れているはずなのに、身体の底から震えが来ていて止まらなかった。
 雅弘との距離は、もはや数センチにまで達していた。
「キース! キース!」
「セーックス! セーックス!」
 理奈は悔しさのあまり目をつむり、そして開いて、雅弘の目を見た。
 そのあまりの目の冷たさに、理奈の心は凍りついた。
 雅弘の目は、完全に据わっていた。
 羽交い絞めにされている腕を何とか折り曲げて、相手の腕に触れると、ボキン、という嫌な音が響いた。
 皆が何の音かと思っていると、突然手下の一人が悲鳴を上げて雅弘から離れ、地面を転げ回った。何事かと思い柊が駆け寄ると、「お、おい、腕折れてるじゃねーか!」と震える声で言った。その場にいた者全員が、どうなってるのかと混乱した。
 その間にも雅弘は次々と柊の手下を砕いていった。まずは右腕を押さえていた者の足を、次に左腕を押さえていた者の胴を、最後に頭を掴んでいたものの手の甲を、ボキボキッと砕いた。
 全員、獣のような咆哮を上げて地面を転げ回った。柊は何が起こっているのかわからない様子で、唖然とした顔で仲間たちを見下ろしていた。
 雅弘が、柊に近づく。
 あ、いけない。
 理奈は止めようとしたが、なぜか声が出てこない。喉がヒュー、ヒュー、と鳴って舌がカラカラに渇いていた。
「な、何だよ」
 柊が怖気づくと同時に、雅弘は彼の腹、肋骨部分に手をかざした。バキバキッとこの世のものではないような音が鳴り響き、次いで柊の悲鳴が空に響き渡った。
 空にピカッと閃光が走り、ドドンと地響きのような音が轟いた。すぐ近くで雷が落ちたのだ。
 夏帆と華澄は、恐怖のあまり腰を抜かしていた。理奈の身体は自由になったが、動けないでいた。雅弘を止めなければいけない。このままじゃ、彼は本当に柊を殺してしまう。
 雅弘は、痛みでのた打ち回っている柊の首筋に手を当てた。
 ダメ。
 やめて、雅弘!
 声にならない声が、理奈の胸の内で響いた。
 その時だった。
「やめろ! 桜木雅弘!」
 低くて太い、男の叫び声がした。
 雅弘は一瞬動きを止め、理奈もまた声のしたほうへ振り向くと、何とあの雲雀秋が立っていった。
「……雲雀?」
 雅弘は殺人者の目をしたまま、柊から動かずに彼を見つめた。
「……雲雀君?」
 理奈はやっと身体が動いてきた。凍りついていた頭を何とか動かし、雅弘のほうへと歩く。
「雅弘、もうやめて。殺人者にならないで」
「…………」
 雅弘は答えない。
「こいつは、理奈を汚した。俺も汚した。いないほうがいい。だから殺すんだ」
「そんな、やめて、ねえ」
 理奈はふらふらと雅弘に近づく。邪魔をするな。彼の瞳がそう語っている。それでもいい。理奈は思う。
 彼に、殺されたっていい。
 理奈は雅弘の腕を掴んで、自分の首筋に当てた。雅弘はびっくりして、理奈の顔をまじまじと見つめた。
「この、馬鹿野郎!」
 すると遠くから雲雀秋が走ってきて、雅弘の顔を、力の限り殴り倒した。
 雅弘の身体は半回転して、そのまま勢いよく地面に転がった。
 理奈はポカンと雲雀秋を見つめていた。
 殴られた雅弘は、ゆっくりと身体を起こし、夢から覚めたような表情となって、理奈と同様ポカンと雲雀秋を見つめた。
「どうだ。目が覚めたか」
 雲雀秋はハアとため息を一つついて、手を腰に当てた。
 雅弘ははっとしたように息を止め、また吐いた。
「あ……俺……」
 雅弘は目の前の惨状を幼い子どものように見つめた。あちらこちらでくたばっている男たち。自分のすぐ横で苦しそうに呻いている柊。地面にへなへなと座り込んでいる夏帆と華澄。
「あ……俺……なんてこと……。こんなことして……固く禁じられていたのに……」
 しかし雅弘は、それでも柊に憎悪の瞳を向けた。
「でも……こいつだけは……柊雪斗だけは……絶対に許さない……! 一章消えることのない傷を負わせてやる……!」
「いい加減にしろ! 桜木雅弘!」
 そこで再び雲雀秋が怒鳴った。彼の怒号に驚いた理奈と雅弘は、同時に肩をすくめ、秋を見つめた。
「もう、充分だろ」
 雲雀秋はそう言って、雅弘の肩にポンと手を置いて、教えを説くように言った。
「さあ、皆をもとに戻すんだ。お前の能力で。お前には、人の傷を癒せる、立派なチカラがあるんだろ?」
 雲雀秋は優しい声色で言った。その声に雅弘は冷静さを取り戻し、しっかりとうなずいた。
 苦しそうにのた打ち回っている柊の手下たちを治していく。傷の部分に手をかざして、何代もの先祖がやったみたいに、ゆっくりと再生させていく。
 最後に柊の治療が終わった後、手下たちは雅弘の顔を見るなり、「ひ、ひぇ」とホームレスの鳴き声のような声を上げてあたふたと屋上を去っていった。
 柊もまた「覚えてろよ……桜木雅弘……!」と捨て台詞を残して、屋上の扉への階段を上り、姿を消した。
 いまだに座り込んでいる夏帆と華澄は、おろおろと互いに目を合わせた。
「女は殴りたくないから、さっさと消えろ」
 雲雀秋がそう言い捨てると、二人は我にかえって手を繋ぎながら一目散に屋上を後にした。ちょっと前まで、その繋いでいた手に、自分も入っていたのに。理奈は胸が苦しくなった。でも仕方がない。二人は柊の手下だったのだ。すべて雅弘の言ったとおりだった。
 しばらくの間、静寂が訪れた。
 三人だけになった屋上。空はいつの間にかどす黒い雲はなくなっていて、灰色の雲の間から太陽の光が差し込んでいた。
「……あの、雲雀君?」
 先に理奈が口を開いた。
「どうして、ここがわかったの? そして、雅弘の能力のことも知ってるの?」
 雅弘はそうそう! というように理奈の言葉に首を何度も縦に振った。
 雲雀秋は、自分の学生鞄から、本を取り出した。
 二人はあっ、と声にならない声を上げた。
『魔の一族』
 雲雀秋はその本を胸に抱えて、そして一言一言を噛み締めるようにして、これまでの経緯を語った。
「俺は、『魔の一族』の読者だったんだ。あの日、この本を手に取ってから、おもしろいやつがいるもんだな、と思った。最初はその程度だった。けれどある日、見たんだ。桜木、お前が、小さい子どもの擦り傷を治してやっているところを。魔の一族は本当にいたんだと思った。それから俺は、桜木を監視するようになった。いつかお前が柊の仲間に聞かれた「好きな女子を言え」って脅しにお前が「綾瀬理奈」と答えたのをきっかけに、綾瀬のことも注視するようにした。お前らはだんだん仲良くなっていった。お前らは隠していたつもりだったかもしれないが、こっちからは手に取るようにわかったよ」
 理奈と雅弘は羞恥心で顔が赤くなった。
「お前らの後をつけて、毎日屋上で会っていることも知ったよ。でも邪魔はしなかった。お前らにとっては、唯一の心休まる場所だったからな」
 雲雀秋は『魔の一族』と書かれた本をまじまじと見つめ、続けた。
「それにしても、何で俺も必死になってお前らを追ってたんだろうな。きっと俺もこの本に魅せられて、いや、この本の中の超能力者に魅せられて、ここまで来ちまったんだろうな」
 雲雀秋は感慨深げに本を撫でた。
 超能力。
 そうだ。雅弘の能力は、超能力だ。
 理奈は今さらながらにその言葉の意味を噛み締めた。
 何かに突出した能力を持つ者。
 雅弘の場合、それは『治癒力』と『殺傷力』だった。
「……でも、ありがとう。雲雀。お前がいなかったら、俺は今頃犯罪者になってたところだったよ」
 雅弘は雲雀秋に向かって頭を下げた。雲雀秋は「いいってば。気持ち悪い」と軽く受け流した。
「理奈も、ありがとう」
 雅弘に柔らかな笑顔を向けられて、理奈は初めて心の底から安堵した。よかった。いつもの雅弘だ。
「雅弘。あなたが道を踏み外さないでよかった」
 理奈は雅弘に抱きついた。顎の部分に雅弘の肩が当たって、彼の肩がビクリとなったのが感じられた。雅弘はおずおずと理奈の背中に手を伸ばし、ゆっくりと抱きしめた。
 屋上には、二人が抱き合う姿と、それを微笑ましく見守っている男子生徒の姿があった。

   ☆

 あれから、数週間が経った。
 季節は六月に入っていた。期末テストが近く、皆そろそろテストの準備に追われ始めていた。

 理奈は夏帆と華澄から離れ、雅弘は柊のグループから抜け、雲雀秋のところに集まっていった。
 二人が雲雀君、と言うと、雲雀秋は少し寂しそうに眉を寄らせた。
「お前ら、秋って呼べよ。お前らも名前で呼び合ってんだろ? 一人だけ名字だなんて寂しいじゃねえか」
 頬を膨らませてそう言われると、理奈と雅弘はおかしくなって、声を上げて笑った。それから「秋!」と大声で名前を呼んだ。
「べ、別にそんな勢いをつけて呼ばなくても……」
 秋は少々あきれた。
 彼は、シャイだが豪快でたくましい男の子だった。

『覚えてろよ……桜木……』
 あの日以来、柊たちは目の色を変えて雅弘をにらんでいたが、今のところ何か行動を起こす気配はなかった。
 ただ一つ、ある変化が起きた。
 理奈、雅弘、秋の周りにだけ、ぽっかりと空間が空いたように人がいなかった。
 クラスの人間に、三人は避けられ始めていた。きっと柊たちが何か噂を流したのだ。
 理奈は心配でたまらなかったが、雅弘と秋は「いいよ、ほっとけ」と言った。
「その時が来たらその時だよ。今は今日という日を目いっぱい楽しむのが先!」
 雅弘は屈託のない笑顔を見せた。秋も、雅弘の言うとおりだ、というように、うんうんとうなずいてみせた。理奈は少しほっとした。
「そうだよね。先のことは何か起きた時に考えればいいんだよね」
 理奈、雅弘、秋は、互いに強い絆を感じた。

 ある日、廊下で夏帆と華澄にばったりと遭遇した。
 理奈は「あ、」と思ったが、二人はいかにもばつが悪そうに顔をゆがめた。
 少しの沈黙が下りた。
 と、夏帆が息せき切って叫んだ。
「言っとくけど、謝らないからね! ウチら!」
 理奈は、何だそんなことかというように、無表情のままつぶやいた。
「いいよ、別に期待してないし」
「なっ……!」
 夏帆は怒りに震える声で、わなわなと理奈をにらんでいた。理奈はそっぽを向いて、スタスタと夏帆と華澄を通り過ぎていった。
 後ろから、夏帆の歯軋りが聞こえてきていた。理奈はそれが何だかおかしくて、一人ふふっと笑った。

 母に電話をした。
 佐藤のことを話すと、母は即座に「あら、それは大変ね。じゃあ次のヘルパーを探しておくから。三日後には着くわ」と言った。相変わらず母の敏捷さには頭が下がる思いだった。
 理奈は受話器を固く握り締め、ふぅっと一息大きな息を吐いて、言った。
「お母さん、私たちのこと、愛してる?」
 数秒の静寂の後、母は確かな声で言った。
「……当たり前じゃない」
 理奈は胸をなでおろすとともに、今まで言えなかったことを言った。
「お母さん、たまには、智広にも会ってやって」
 再びの静寂の後、母の声が受話器越しに小さく聞こえた。
「……わかったわ」
 理奈は心の底から嬉しかった。

 週末の日、理奈、雅弘、秋は中庭に寝転がって、これからのこと語った。
「なあ、お前らこれからどうするー?」
 秋の伸びやかな声が聞こえ、理奈はうーんと考えをめぐらせた。
 雅弘は即座に答えた。
「これは家族で決心していることなんだけど、『魔の一族』を書いた著者を、名誉毀損で訴える準備をしているんだ」
「マジ!?」
 秋が驚いて飛び起きた。理奈も「えぇっ?」と素っ頓狂な声を上げる。
「でも、まあ、そうかあ。あの本はお前の一族にしちゃやっかいなもの以外の何ものでもないもんなあ。そっかあ。訴えるのかあ。そっかあ……」
 秋は一人ぽつぽつとしゃべる。理奈は雅弘の瞳を見て、これは本気なんだと確信した。
「俺は、『魔の一族』の著者を、絶対に許さない」
 雅弘は決意を秘めた声で言った。
「私はね、少しでも雅弘と秋と一緒にいたいな」
 理奈はもう一度寝転がって、六月にしては珍しい爽やかに晴れた青空を見上げた。
「ありがとう、理奈」
 雅弘がお礼を言った。
「でもお前ら付き合ってるんだよなあ。俺だけ仲間はずれみたいで淋しい……」
 秋はまたいじいじと指を弄びながらしょげた。
「そんな、秋も一緒に決まってるじゃん!」
 理奈はあわてて弁解をした。
「俺も、秋と一緒がいいよ」
 雅弘も穏やかに笑って言った。
「そう? なんかわりぃーな」
 秋は笑顔になって、二人を見渡した。
「あ、一つ忘れてた」
 理奈は起き上がってポンと手を叩いた。
「智広との関係を、どうにかしなくちゃ」
 秋は、何じゃそりゃ、というような顔をし、雅弘は心配そうな表情に変わった。
「いいの? 理奈、無理しないでいいんだよ? つらかったらいつでも俺の家に来れば……」
「ううん、大丈夫。何かアレから、私、変な度胸がついちゃった。もう智広にビクビクしてる場合じゃない。あの子との関係を改善しなくちゃならないんだ」
「なあ、智広って、誰?」
 秋が上半身を少しだけ起こして二人に訊いた。
「理奈の弟だよ。理奈はその弟に、ずっと家庭内暴力を受けてるんだ」
 雅弘が理奈の代わりに答えた。
「えぇっ? ドメスティックバイオレンスじゃん! それ!」
 秋は完全に起き上がって叫んだ。理奈はあわてて否定する。
「そんなに重いものじゃないよ! ただ、今までは弟と上手くいってなかっただけ。これからがんばらなきゃ!」
「無理しないでいいからね、理奈」
 雅弘はもう一度念を押すように言った。
「くれぐれも無茶はすんなよ」
 秋も雅弘に続いて理奈を労う言葉をかけた。
「大丈夫だよ、二人とも。私はもう、大丈夫」
 理奈は二人の言葉を確かに受け取って、答えた。と、理奈は突如いいことを思いついて、二人に提案した。
「ねえ、こうやって三人が集まった記念にさあ、秋の家で焼肉食べに行かない!?」
「あ! いいなぁ、それ!」
 雅弘も瞳を輝かせて、手をポンと叩いて言った。秋は、やれやれ、というように首を振った。
「お前なあ……。まあ、しょうがねえか! 今日はたらふく食べさせてやる!」
「やったー!」
 理奈はバンザイをして喜んだ。雅弘もつられて笑顔になる。
「秋の家の焼肉って、どれくらい美味しい?」
 雅弘が訊くと、秋は胸を張って答えた。
「そんじょそこらの焼肉屋とは比べ物にならないほど、美味いぜ!」
「じゃあ、楽しみだな!」
 雅弘は嬉しそうな顔になって言った。
 中庭に、三人の笑い声が、いつまでもいつまでもこだまして返っていった。

 三人は笑い合いながら木立駅への道のりを歩いていった。秋は「じゃあ、七時に俺ん家な!」と言って、木立駅の中央口に向かって歩いていった。理奈と雅弘は久しぶりに一緒に電車に乗った。お互い、「何だか照れるね」と言って、互いの顔を真正面から見れなかった。
「秋の焼肉屋、楽しみだね。道順は覚えてるから私に任せて!」
「うん。頼りにしてるよ」
 理奈と雅弘はようやく相手がいることに慣れてきて、二人して顔を見合わせて笑った。
 駅に着いて、ホームに降り、改札口を抜ける間も二人は手を繋ぎあっていた。そのまま帰り道をゆっくりと歩く。まるで、今この時を永遠に忘れないとするかのように。
 家に着いた。雅弘は名残惜しそうに、理奈から手を離した。そして「大丈夫、理奈?」と声をかけた。
「大丈夫だよ、雅弘」
 理奈は笑顔で雅弘に手を振った。彼はしばらく理奈を見つめていたが、やがて安心したように笑い、踵を返して自分の家の門扉を開け、階段を上り、家の鍵を開けて扉を開いて閉めた。いつものように理奈は、雅弘の姿が完全に見えなくなるまで彼を見続けていた。

 柊たちは今のところ大人しくしている。

 夏帆たちも何もしてこない。

 秋という仲間が出来た。

雅弘が戻ってきてくれた。

だから。

だからもう、誰も、理奈に危害を加える人間はいない。
たった一人、理奈の弟を除いては。

私は、智広ともっと話をしなくてはいけない。
あの日、一瞬でも殺意を抱いてしまった自分。悔やんでも悔やみきれない。未遂に終わって、本当によかったと思う。
佐藤が逃げた時、初めて聞いた智広の心の声。
『代わりのヘルパーが来たって、お前がいたって、どうせ俺は一人ぼっちなんだよ』
 違う、智広。あなたは一人じゃない。私がいる。母がいる。母は確かに智広に会う約束をしてくれた。それをまず言わなくては。
 理奈は階段を一つ一つ踏みしめるようにして三階まで上った。群青の色をしたドアに向かい、鍵を取り出して、ドアノブにいれ、開ける。今日はやけに重々しい音が響いた。
 玄関のドアを開けて、中に入る。遠くのリビングルームから、何帰ってきてんだよ、と智広の低く掠れた怒声が耳に響いてきた。

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