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島原でも屈指の置屋、輪違屋――。
 抱える芸妓は百を超えるが、中でも太夫の看板を張る君菊は人気である。
女将(おかぁ)はん、今夜は寒うおすなぁ。このぶんでは、雪になるやろ」
 君菊に、この日の座敷の予定はなかった。
 輪違屋の外で空を見ていたという彼女は、上がり框に腰を下ろした。
「そうやなぁ。さすがに客足も伸びんわ。佐吉、今宵のお座敷はいくつや?」
 輪違屋女将・竜乃は火箸で長火鉢の灰を弄りつつ、小者の佐吉に訪ねる。
「五つでおます」
「五つでも結構な数やないの。女将(おかぁ)はん」
 そんな時、揚屋・角屋で客といるはずの芸妓・梅乃が輪違屋に駆け戻ってきた。
女将(おかぁ)はん……っ!」
「梅乃ちゃん、どないしたん!? あんた、今宵は伊庭はんのお座敷に行ったんたやないの?」
君菊姐(きみぎくねぇ)はん、旦さんが……、伊庭はんが危のうおす! 助けておくれやす。うちのせいや。うちが旦さんを好きになったさかい、あげな事になったんや。君菊姐はん、どないしよ。どないしたらええ? 伊庭はんに何かあったら、うち生きられへん」
 梅乃はとても興奮していて、美しく結った島田が乱れているにも関わらず泣き叫んだ。
 聞けば客の伊庭といると、数人の男たちがいきなり障子を開けたという。
 梅乃は自分は大丈夫だから逃げろと、伊庭に言われたという。梅乃は、伊庭が殺されてしまうと泣く。
 男たちは自分たちが先に、梅乃の馴染み客になったと言ったそうだ。
「梅乃ちゃん……」
「とんだ言いがかりや。うちはあげなお客はいっぺんも会うてへん。伊庭はん、言うてはった。これは俺の所為やて。俺が幕府に近い人間やと知って来たんやて。それが何が悪いん? 幕府の人間は島原では遊んではあかんの? 恋はしてはあかんの?」
 胸の中で泣く梅乃の島田を、君菊はそっと撫でた。
 ――ばかな()……、叶わぬ恋をすれば傷つくだけやのに。
 この先も、彼女はもっと辛い想いをする。
 君菊には、そう思えた。
 島原の女が侍に恋をして、実ったという話は聞かない。ここでは男と女が恋の駆け引きをし、一夜を過ごす所。特に廓の中となれば女は年季が明けるか、身請けされなければ外には出られない。
 しかも愛しいと思う相手には、他に女がいるかも知れない。
 男の身分が高ければ高いほど、女の恋は儚く散る。
 そうした女たちを、君菊は何人も見て来た。
 君菊も、昔は梅乃のように恋をした。相手は侍で、妻にしてくれるとまで言った相手。
 当時は梅乃のように若く、男の申し出に心がときめいた。しかし男は二度と、君菊の前に現れる事はなかった。
君菊が男と再会したのは、奉行所の中である。その男は天誅騒ぎに巻き込まれ斬られ、冷たくなっていた。
 その日以来、君菊は二度と本気の恋はしないと誓ったのである。
 ――男はんは、嘘つきやさかい。
 唄に三味線、舞い、君菊は芸を磨き太夫に昇り詰めた
 ――人の事、言えへんなぁ。
 二度と本気の恋はしない――、そう誓った筈なのに君菊は出逢ってしまった。
 せっせと通って来てくれる事はなく、来たと思えば顰めっ面で盃を傾けているような男。君菊が恋に燃えた昔の男とは全く真逆な関東の侍。
 共に暮らしたい夢は、男の語る《夢》を聞いて諦めた。それでいいと思っている。  
「梅乃ちゃん、しっかりしよし! あんたそれでもこの島原の妓やの?」
「君菊姐はん……」
「以前うちに言うたな? 伊庭はんは頼もしゅうて強い男はんやて。あんたを無事にここまで逃がしてくれはった人や。そう簡単にやられへんとうちは思うえ? うちはあんたが羨まし。好きな人に好きといえるんやからな。大丈夫や。この京にはな、伊庭はんのような頼りになるお侍はんがぎょうさんいてるさかい」
 君菊の脳裏には、数度しかやってこない薄情な男の後ろ姿が浮かんでいた。
 ――今頃、大きなくしゃみをしているのとちゃうやろか?
 君菊は想像して、可笑しくなった。
「ほんま……?」
「ほんまや。うちがあんたに、嘘言うた事あるか? 確かにこの京には困ったお侍はんもいてるけど、うちが知っているその人はなぁ、無闇に刀は抜いたりせぇへん。その人が言うにはな、武士が刀を抜く時は大切なものを守る為やそうや。決して己の欲を満たすためには刀は抜かへんそうや」
 君菊はそう言うと、輪違屋小者・佐吉を呼んだ。
「なんでしゃっろ?」
「新選組の屯所まで、頼まれてくれへん?」
「奉行所ではなく……、新選組でっか?」
 ちょっと意地悪したろ――、君菊は不思議そうな顔の佐吉の前で微笑んだ。

                      ***
  
 朝――、屯所の前は雪景色となった。
「寒……」
 鉄之助にとっては、京で迎える最初の冬である。
 朝は土方よりも早く起きて、火箸に墨を入れて火をおこし、部屋を暖めておかねばならない。それから湯を沸かして茶を煎れて、廊下の拭き掃除と小姓の仕事か? と疑いたくなるほどの忙しさだ。
 しかも、朝から土方を訪ねて客が来た。起きて早々の来客は、まず歓迎されない。 
 辰の刻、そろそろ巡察の刻限である。今日の午は十番隊が巡察当番であった。
「頭痛ぇ……」
「おはようございます! 原田さん」
 こめかみを押さえながらやって来る十番隊組長・原田左之助に鉄之助が挨拶をすれば、顔を顰められた。。
「でけぇ声出すんじゃねぇ。こっちは二日酔いなんだよ……!」
「かなり呑まれていたようですからね。三人とも」

 昨夜――、島原で騒動が起きたと報せを受けた新選組では、永倉新八、原田左之助、藤堂平助ら精鋭が召集された。
三人を前に、土方が言う。
「伊庭の腕なら馬鹿どもの腕の一本や二本折るなど造作はねぇだろうが、場所が場所だ。大勢で乗り込む訳にはいかねぇ」
土方の言葉に、張り切っていたのが原田である。
「任せておけって、土方さん。種田流の槍を奴らにお見舞いさせてやらぁ」
「左之、張り切りすぎてまた腹に穴を空けるなよ?」
 何でも原田左之助は、以前に切腹をした事があるという。永倉が冷やかせば、藤堂がそれに続いた。
「うんうん、左之助さんならやりかねないぜ? 新八っつぁん」 
「いいか、俺たちの任務はあくまでも奴らの捕縛だ。やるなら大門の外だ」
 ところが、戻って来た三人はかなり酔っていた。三人が駆けつけた時には事は終わっていたらしく、久しぶりの再会とあって宴席となったらしい。
「土方さんは?」
「お客さんのお相手をしています」
「こんな朝早く?」
土方を訪ねて来たのは、騒動の当事者・伊庭八郎である。
「いやぁあ、悪い悪い」
「うちの人間まで使い物にならなくする気か、お前は」
「相変わらず、怒りっぽいな。俺としては一人で片付ける気だったんぜ? 現に片付けたし」
 年は沖田ぐらいだろうか。口調もどことなく、沖田に似ていた。
(副長って、こういう性格の人に好かれるんだな……)
 またも思っている事が顔に出たか、土方の鋭い視線と絡み合った。
「――ところで、なんでお前かこの今日にいる。直参になったんじゃねぇのか?」
「土方さん、今の幕府はかなり追い詰められている」
 伊庭の言葉に、口許に茶器を運ぶ土方の手がピタッと止まった。
 伊庭八郎は文久三年の年に幕府の講武所剣術方に登用され、翌年に徳川家茂警護の一行に加わりこの京に来たという。まもなく奥詰隊(※将軍警護を預かる親衛隊)に抜擢されたらしい。
「ところがだ。問題は長州征伐だ」
 そういう伊庭の顔から、笑みが消えた。
 慶応元年に第二次長州征討のため上洛する将軍・徳川家茂の警護に伴うが、翌年に家茂が大坂城で亡くなってしまったという。しかも朝敵となって武器が買えない筈の長州に敗北してしまったらしい。
「長州は海の上でもしぶとかったか……」
「そのようだね。形勢逆転というやつだ。再び、俺たちにお呼びがかかった。新たな隊《遊撃隊》の一員として」
鉄之助には、難しい事はわからない。
 現在この国で何が起き、そして何処へ向かおうとしているのか。
 廊下に出れば、松の枝に降り積もった雪が落下した。
「君たちとは、何処かで逢いそうな気がする」
 土方の部屋を辞した伊庭が、鉄之助にそんな事をいう。
「そうですか……?」
「なんとなくだけどね。この雪を見ていたら、そんな予感がするのさ」
 伊庭は「じゃあね」と云って新選組屯所から去って行く。
「――相変わらず、ふざけた野郎だぜ」
 横に立った土方は、険しい顔をしていた。
「面白い方でしたね。副長」
「鉄之助」
「え……」
「一度しか言わねぇ。もし新選組を出たいのなら今だ。これから先は辛い現実を見なきゃならん。やりたい事があるのなら、俺はそれを止めるつもりはねぇよ。悔いだけは、絶対残すな」
「副長……」
 人には夫々の道があり、考えがある。正しい道は一つは限らないという土方に、鉄之助はまだどうしていいか理解らなかった。
 ――俺の生きる道。
 その答えを鉄之助が見つけるのは、まだ時間が必要であった。

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