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映画女優

するりとした身のこなしで、彼女は動いていた。彼女の名前は萩原ひとみ、年齢は二十二歳、職業は映画女優。緩慢なく動作が続き、ときには激しく、ときには哀しい表情を浮かべている。僕はいつもシアタースクリーンでひとみを眺めていた。彼女が出演している映画はすべて観ているし、役作りに対する細かな視点も分かっている。ひとみは幼い頃から女優を目指していた、まるで最初からそのことが決定づけられていたかのように。信念とはまた違った何かを心に宿していた。僕はひとみのことを愛していた、真剣に。
 真剣に愛していると言っても、映画女優に会うことはなかなか叶わない夢だ。舞台挨拶を観たことはあった。等身大の彼女は美しかった。間近にいると仮定すると、言葉を交わすことは難しいだろうな、と僕は思った。緊張で心臓は痛むし、喉はからからに渇く。からだだってぎこちなくなってしまうに違いない。
 映画女優を真剣に愛するということは、非常に息苦しく、辛いことだった。決して当選しない宝くじを延々と買い続けるみたいなものだ。何しろ、彼女は映画女優なのだから。僕は三十歳の平凡なサラリーマンに過ぎない。
 僕は生まれてから、一度も女性と付き合ったことはなかった。デートなら何度か行ったこともあったが、良縁はなかった。最後には、いつも決まって破綻した。向こうから切り出すこともあれば、僕のほうから打ち明けることだってあった。男の友達は数人いるが、冷たいものだった。たまに、儀礼的に酒を飲みに行くだけに過ぎない。僕には話せる友人がいなかったし、打ち解ける異性もいなかった。つまらない人生を送っているとときどき思う。
 二年前に、荻原ひとみのことを知った。売り出し中の女優で、溌剌としていた。美しい笑顔と白い歯が印象的だった。ひとみの表情は、天真爛漫という言葉に満ちあふれ、素敵だった。僕はすぐに、彼女のことを好きになった。愛情は大きくなっていき、自分では抱えきれないくらいだった。僕は気持ちを持て余すようになった。彼女にファンレターを何度も送った。無論、返事はなかった。
 週末は彼女の映画を朝から眺めている。トーストとコーヒーで朝食を取りながら。その朝は、何もかもが違った。十月の、鈍いひかりがあった朝だった。いつものように、DVDデッキに、彼女が出演している「モノローグ」という映画をセットし、再生ボタンを押した。奇妙なラップ音が弾けるように、響き渡った。脳にこびりつくような、複雑な音だった。視界が次第に閉ざされていく、暗がりが広がっていく、途方もない黒い闇だ。僕は思わず目をつむった。何か、悪いことが身の回りに起こっているのだ、と思った。
 気がつくと、僕の隣には荻原ひとみが座っていた。僕は仰向けに寝ている状態だった。わけが分からなかった。僕は首を振った。
「おはよう、ようやく起きたわね・・・・・・」と彼女は笑った。美しい表情を浮かべて。口もとには、微笑があった。
「ここは?」
「あなたは、何も気にする必要はないのよ、ただ、従っていれば良いだけ」
 ひとみとの共同生活の始まりだった。

 どうやら、ここは映画の内側の世界らしい、と感じ取ることに時間は掛からなかった。何かのきっかけで、僕は映画のなかに吸い込まれ、含まれてしまったのだ。信じられないことだが、そう仮定する以外すべはなかった。ただし、登場人物は僕と荻原ひとみだけで、ほかの人々、つまり役者は出てこない。この世界では、どこまで行っても、僕とひとみだけで成立している世界なのだ。
 その世界のなかでは、彼女はこの上なく優しく微笑み、素敵だった。控え目な表情を浮かべるときもあれば、温かい言葉を投げかけ、僕に寄り添っていることもあった。まるで、夢のようだった。常日頃から、憧れていたひとみが、こうして僕の隣にいるということを、最初はなかなか信じることができなかった。現実じゃないと何度も思った。たぶん、リアリスティックじゃない。だが、仮想世界でもなかった。ひとみの肌に触れば、その温かい体温を感じることができた。彼女と唇を合わせれば、美しい光景が目の前に広がった。原因は理解できない、ただ、これは現実のひとつなのだ。それだけははっきりと言える。

 朝、起きると必ず、コーヒーの香ばしい香りがあった。部屋のなかに漂っているその香りは、とても新鮮な気持ちにさせた。まるで、毎日が新しい人生のスタート地点に立っているかのようだった。
「おはよう」と彼女は笑う、僕はおはようと返事をし、テーブルにつく。テーブルの上には赤い花が活けてあった。隠微な匂いが少しだけあり、部屋のアクセントになっている。スクランブルエッグと、ライ麦のトーストとフレッシュバターで朝食を取り、ゆっくりすると、部屋を出て散歩に行くのが日課だった。
 家は森に囲まれており、森はどこまでも深かった。まるで、水深が分からない海みたいに。散歩のコースは決まっていて、全部で一時間くらいのものだった。ハイキングコースと言っても、過言ではない。僕らは手をつなぎ、歩きながらぽつりぽつりと話した。
「この世界は、完全無欠なの、欠けたものが何ひとつないのよ」
 彼女は木製のベンチに腰掛け、僕の手を握った。僕の心臓の鼓動は強まる。
「それが、君のこの世界に対する考え方なの?」
「そう、完全な世界」
「ずいぶん、怖い世界のように思うね・・・・・・」
 僕はため息をついた。彼女は人なつっこく、笑った。
「ここでは、何も想像しないことが大事なの、受け止めるだけ。考えてはいけない」
「オートメーションのロボットじゃないよ」
「あなたは何も分かっていないのよ」
「ここはいったいなんだい? 君は本当に萩原ひとみなの?」
 彼女はまったく表情を変えなかった。そして、僕の質問には返事をしなかった。

 憧れのひとみが傍にいる。僕がいつも夢見て、願っていた世界。この世界は、僕の切なる願いで成立しているかもしれない、と僕はふと思った。彼女は昼食を作り終えると、いつも決まって三時間くらい留守にする。どこへ行っているのか、分からない。そのあいだ、僕は一人だった。部屋にはテレビがなく、ステレオとCDがあった。僕は黙って、音楽を聴いた。時間は思うように、進んではいかない。
 僕はこの世界の正体を知りたかった。本当のところは、いったい何なのだろうか、と。内側のひとみは優しく素敵だったが、僕は元の世界に戻りたかった。この世界は、何もかもが不自然なのだ。
 僕は彼女がいない空白の三時間を使って、森の南を歩いたり、北へ行ったりした。南には果樹園があり、果実の匂いがした。赤い実がなっていた。齧ってみると、甘かった。北には川があった。川の流れ着く先は海なのだろうか、と僕は考えた。しかし、歩く気にはなれなかった。透明な水がゆったりと流れていく。
 手がかりはなかった。皆無だった。僕はそのことで、いくぶん落胆していた。ため息をついた。いったい、何なのだ、ここは?

 荻原ひとみはバスルームに入っていた。バスルームには二人で入ることもあれば、彼女が一人で入ることもあった。どの世界にも、必ず鍵があるはずだと僕は思った。どこにいったいその鍵があるのだろうか・・・・・・。
 風呂からあがって、ドライヤーで髪を乾かしていると、「あなたは、本当に分かっていないのよ」
「何が?」
「この世界が微塵もなく、美しいということに」
「帰りたいんだ・・・・・・」
「私を失っても?」
「君は僕の愛している荻原ひとみじゃない」
「どうして分かるの?」
「分かるさ、それくらいは」
 彼女はため息をついた。苦虫をかみつぶしたように、少しだけ笑った。
「確かに、鍵はこの世界のどこかにあるわ、あなたの想像力の外側かもしれないけどね」
「僕は探すよ、諦めたくはないんだ」
「ねえ、向こうの世界だって、ずいぶんと酷いものよ。悪意と失意が渦巻いている、気分を変えて、ここで暮らしていかない? 私は、確かに荻原ひとみじゃないかもしれないけど、そんなの大きな問題じゃないわ」
「向こうの世界の方がマシだよ、ここはまるで地獄だ・・・・・・」
「あら、酷い言いようね」彼女はくすくす笑った。
「何が、ここに僕を導いたのだろうか」
「さあね」
 彼女は僕の手を取った、とても弱々しく。僕はため息をついた。愛を失っていく日々だった。どうして、このような日々があるのだろうか、と僕は思った。
「さようなら」
「え?」
 彼女は左手の指でぱちりと鳴らした。世界が変転し、僕は意識を失った。夢から覚めるみたいに、目をゆっくりと開ける。元の世界があった。僕は安堵した。テレビには、銀色の砂嵐が流れていた。
 何もかもを失ってしまうところだった、と僕は独り言を言った。荻原ひとみという映画女優を何故かより好きになっていた。好きになったが、今までの感情とは違った暗い水のようなものがそこにあった。それが、自然なことのように思った。

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