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「――」私は首をかしげ、眉をひそめて手もとのキャビッチを見下ろした。

 リュックの上から中に放り込もうとして――もういちど、目の前にもってきた。

 あたりを見回す。

 横幅が一メートルぐらいありそうな、貫録のある木が目にとまった。

 私は手の中のキャビッチを一回ぽん、と軽く投げ上げて、手の平にもどってきたそのキャビッチに向けて、呪文を唱えはじめた。

「シルキワス」その最初のひとことで、たちまちキャビッチになにかが通いはじめる――熱をもって。「トールディク、ヒューラゥ、ヴェルモス」唱えるごとに、キャビッチがどんどんあたたかくなる。それを感じながら、ゆっくりと、肩をひらき肘をひく。「ヴィツ」肩に意識をあつめる。「クァンデロムス」空気を切るように、すばやく腕を前に投げ出す。

 キャビッチはすこし沈みながら、大木に向かってまっすぐ飛び、その二メートル手前で音もなく消えた。



 がつっ



 音がしたのは、その大木のうしろ側、私からは見えない位置でだった。

 走っていき、大木の向こうに回りこんでたしかめる。

 大木の、地面から一メートルぐらいのところに青緑色の丸いへこみができていた。それはすぐに元の幹の色にもどり、へこみもきれいに直った。

「ごめんね。ありがとう」私は大木の幹を手で撫でてお礼をいった。

 生きた木を練習に使わせてもらうときは、ダメージではなくキャビッチを養分として吸い込ませてあげるのがならわしだ。

 とはいえ、木にしたらやっぱり、痛い、のかも、知れないけど……



「なっるほどね」



 頭上から声がした。

 見上げるまでもなく、それはユエホワの声だとすぐわかった。

 ざっ、と木の葉が揺れ、ムートゥー類鬼魔は私の横にすとんと降りてきた。

「確かにシルキワスだ」腕組みをして偉そうに言う。「まあまあだな」

「いつからいたの?」私はコメントは無視してきいた。

「今」ユエホワは答えてふわーとあくびした。「本もってきてくれた?」

「――もってきたけど」私は背中からリュックをはずして言った。「もうちょっと待って」

「なんで」

「パパが来るから」

「――なにしに」

「ユエホワに会いに」

「なんで」

「何かききたいんでしょ」私は肩をすくめた。「鬼魔のこととか……ああ、鬼魔語がどうとか言ってた、きのう」

「鬼魔語?」ユエホワは眉をひそめた。「なんで」

「ムートゥー類は何語を話すのかなあ」私は声を低くして父のものまねをした。「とかって言ってたよ」

「ジルドラムグル語だけど」

「知らないわよ」私も眉をひそめた。「それより、あの声きいた?」

「あの声?」ユエホワはまた眉をひそめた。「いや……また出たのか」

「うん」私はうなずいた。「ユエホワは箒に乗るのか、ってきかれた」

「箒?」ユエホワは声を裏返した。「なんで」

「知らない」私は首を振った。「乗らない、って答えたら、よかった、って」

「なんで」

「箒で飛ばれると、近づけないからって」

「――誰に」

「さあ。ユエホワにじゃないの」私は緑髪鬼魔を指差した。

「なんで」

「さあ」私は首をかしげた。

「近づいてどうするんだ、俺に」

「だから知らないってば」私は少し怒った。「自分できけばいいじゃん」

「きかねえ。知りたくねえ。ふざけやがって」ユエホワは首を振って腹立たしげにいいつつ、私に手を差し出した。「本」

「だから、待っ」

「早く読みたいんだよ」ユエホワはわがまま坊主みたいに言った。「お前の親父につかまったら、また話長くなるだろ」

「でも人間の文字って読めるの? ユエホワ」私はまだ本を出さずにいた。

「お前、俺を誰だと思ってんだ」ユエホワは手を差し出したまま首を振った。

「ユ」

「ユエホワ!」私の声を乗り越えて、父がとおくから叫んだ。

「あー」ユエホワは喉の奥でうなった。「ほら見ろ早くよこさねえからつかまっちまった」

「やあ、やっぱりここでなら会えるんだね。ポピーの言った通りだ」父は陽気に笑いながら下草を踏みしめ近づいてきた。

「ども」ユエホワはにこりともせず、祖母のときよりさらに軽く頭を下げた。「本、借ります」

「ああ、どうぞどうぞ」父は私のリュックを見下ろした。「三冊じゃ足りなかったかな? よければまたいつでも借りにおいでよ」

「はは」緑髪鬼魔はいやそうに笑ったあと「あ、そうだ」とまじめな顔になって父をまっすぐ見た。「ひとつ、ききたいことがあるんだけど」

「ほう」父は、おもちゃを与えられた子どものように目を大きく見開いた――とてもうれしそうに。「何かな?」

「なんか最近、姿の見えないやつにつきまとわれてるんだけど」ユエホワが周囲に視線を送りながら、相談した。「何か、そいつの正体に心当たりある?」

「姿の見えないやつ?」父はたちまち難しい顔をして顎に手を当てた。「姿が見えないのに、つきまとわれてるのがわかるのはどうして?」

「気配だけ感じるの」私が答えた。

「えっ」父はびっくりして私を見た。「ポピーにも?」

「うん」私はうなずいた。

「それはいけない」父は首をふった。「いつからだい?」

「半月ぐらい前から」私は思い出しながら伝えた。

「半月……ぼくが帰って来たあたりから?」

「ああ、そういえば、うん」私はまたうなずいた。

「ああ」父は額に手を当ててつらそうな顔をした。「どうしてすぐに言ってくれなかったんだ。何かあってからでは取り返しがつかないのに」

「ごめんなさい」私は肩をすくめた。「声だけだったから、きこえなくなったらすぐ忘れちゃってて」

「声だけだとすごく小さい生き物のような感じだった」ユエホワが思い出しながら説明した。「攻撃してくるわけでもなかったから、あんまり危険な感じがしなかったんだよな……俺もいろいろバタバタして忘れがちだったし」

「優しいんだね、君」父はなぜか目を細めてユエホワに笑いかけた。「ポピーのことをかばってくれて」

「え」

「え」私とユエホワは同時に驚きの声をあげて、首を強く振った。「違う」

「うーん、でも何だろう……人間の言葉を喋っていたんだよね?」

「そう」ユエホワは考えながらうなずいた。「鬼魔だとしたら、モケ類とかキュオリイ類とかが……何かのきっかけで人間の言葉をおぼえたのかもしれないけど」

「うーん」父は腕組みして地面をじっと見た。「じつはぼくも、旅の途中でちょこちょこモケ類やキュオリイ類たちと遭遇はしていたんだよね……でもそんな、あたらしく人間の言葉を覚えた鬼魔のうわさなんて、これっぽっちも聞かなかったなあ」

「え、パパって鬼魔語がわかるの?」私は眉をおもいきりもちあげてたずねた。

「まあ、日常会話ぐらいならね」父は苦笑しながら答えた。

「すごーい!」私は父への尊敬を新たにし、

「てか大半の鬼魔は日常会話しかしねえけどな」ユエホワは父に合わせて苦笑しながらコメントした。「はらへった、とか、ねむい、とか」

「うーん」父はますます苦笑しながら考えをめぐらせた。「まあそれに、姿を消す能力のある鬼魔というのも、ぼくの知識のなかでは思いつけないんだよなあ」

「俺もだ」ユエホワはこくりとうなずいた。「じゃあ結論としては、鬼魔じゃないってことだな」

「鬼魔である可能性は、かなり低いね」父もおなじ意見だった。

「でも」私はうなずきあう二人の間で口をとがらせた。「じゃあ、あれはなに?」

 父もユエホワも、腕組みして眉をしかめて無言のまま、うつむいた。

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