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最終話 冷凍未完幻想曲 END OF ALICE

ナノ・テクノロジーなの~

 全てを流し浄化する聖なる水が、恋文町に流れ込んでいった。これもまた、キラエル天使団がもたらしたものだ。キラキラした黄色い半透明の洪水は、もの凄い水量なのにおだやかで、温かかった。ダークネス・ウィンドウズ天のアップロードが無事成功したお陰で、水の性質が変化し、町が壊滅することはなかった。建物も街路樹も車も人も、ほとんどが流されることはなく、ただお菓子化を氷結した雪だけが、見る見るうちに洗い流されてゆく。
「凄っい臭いね。……これ、カルキ臭だ」
 鼻の効く古城ありすでなくても、カルキ臭ははっきりと分かる。「世界お菓子化」という魔学の毒を除去するのに、水の成分の中にカルキ科術が入っているのだと、達夫店長は言う。
「千葉の水道水でも、ここまで臭くないんだけど」
「殺菌能力のある水道水と同じで、毒を以って毒を制すためだ。だが魔学のお菓子化の瘴気を洪水が押し流すだけだと、水道水の菌類をカルキが殺菌しているのと同じで、それはそれで毒気がありすぎる。ゆえに、カルキ除去のシャワーヘッドみたいに、これからカルキを除去せねばならん」
 町が壊滅しなくても、カルキ科術の洪水で、恋文町の住人が害してしまうらしい。ややこしい。
「どうするんです?」
 綺羅宮神太郎とレートたち天使軍団は、幻想寺に戻り、アップロード後のシステムの整備に入っている。佐藤マズルもうるかも同行した。そんな中、達夫店長だけはまだ空に残っていた。
「カルキを飛ばすには沸かせばいい訳だが、そんな事したら住人が沸騰してしまう。が、科術の光弾ならカルキだけをぶっ飛ばせる。これもまた、闇を光に転化できる、お前の半蝶半蛾の科術だけが解決可能だ。半蝶半蛾の力を、無限たこ焼きに込めて町中の洪水に散布すればよい」
「つまり、カルキ飛ばしの科術か!」
 ありすは二刀流フライ返しのポーズを取った。

 たこやきの中にたこやきが!
 そのたこやきの中にたこやきが!
 そのまたたこやきの中にたこやきが!

 たこやきの中にたこやきが!
 HEY!!
 たこやきの中にたこやきが!
 HEY!!
 たこやきの中にたこやきが!
 HEY!!

 ありすは空を飛びながら、覚醒した半蝶半蛾の力を、無限たこ焼きにまぶしていった。プログラムされ、ナノテク化した半蝶半蛾の力は、無限たこ焼きの光弾によって拡散し、洪水を蒸発させていく。
 ヒトモドキ達は次々と液状化して人体の形が崩れ、聖水と合流した。無限ラーメンの科術の、ウルトラマンの面を髣髴とさせる。達夫によると、聖水から再び、新しい肉体が再構成されるらしい。
「くっ水量半端ない、とても私だけの力じゃ……」
 ありすは何十回も、無限たこ焼きを撃ち放った。その都度、新しい聖水が続々と押し寄せてくる。
「古城あーりーすよっ、止めてはならん! 続けろ」
 マンホールの底から響いているような金属音の地声。送水公ヘッドの一人が地上から叫んでいた。町に無数に存在する送水公ヘッドは、地上で洪水の排水に一躍担っているようだ。
「コンバンハ、小林カツヲです」
 J隊の部隊が排水ポンプ車を連れて到着して、排水を開始した。
「何処行ってたんです?」
 事が終了してから援軍とは。ありすはムッとしている。
「北の除雪が一段落したので、勝浦~御宿辺りでサーフィンCBAをね。千葉の荒波は、上級サーファーの憧れですからね」
「知らないわよ」
「あのトラック……」
 時夫が、うるかと一緒に見た富士山型の土砂を積載していた軍仕様のトラック・オブ・ザ・イヤーが停まっていた。しかし、今度は土砂がない。
「恋文町を走ってた奴だ。やっぱりJ隊のトラックだったんじゃないか!」
 西に見えたプリンの富士の正体って、もしかしてJ隊が運んでいた富士山型の土砂と関係があるのでは……。そう考えると、降って沸いたようなJ隊自体、綺羅宮の一味だったのではないかという気がしてくる。
「ヤバイな。洪水はどんどん押し寄せてくる……。彼らの協力でも、追いつかないようだぜ!」
 時夫はいつの間にか、何の苦労もなく宙を飛んでいた。さしあたって、浮かんでいるだけで自分に出来ることはないのだが……。
「A子を連れてきたよ~。何の役に立つか分からないけど!」
 ウーは、自身が毛嫌いしてきたウンベルトA子と仲良く手を繋いで飛んでいた。ウーによると、A子はずっと図書館でホットドッグプレスのバックナンバーを読んでいたらしい。
「そーいう言い方はないんじゃないの?  セクシー・オブ・ザ・イヤー、薔薇の名前はウンベルトA子登場! DJ.キムリィ、さっさとシティ・ポップを奏でなさいよ!!」
 A子はウーにリクエストした。
「また八十年代かよ。今、それどころじゃなかろうに」
 時夫は呆れた。
「見損なわないでくれる? もう懐古趣味じゃない。八十年代の日本のシティ・ポップはロシアのラジオで紹介されて以来、海外に広まってんだよ。YouTubeを見てごらん。二十一世紀の今、全世界で絶賛流行中なんだから! 時代は完全に一巡したのよ!」
 レコードの時代が復活し、なんとSONYがレコードをおよそ三十年ぶりに再販したのだと、A子は言った。
 時夫はいつの間にか流行に乗り後れていたらしい。
「まじかよ。ぜんぜん知らなかった……」
 ウーことDJ.キムリィは、山下達郎、竹内まりあ、大貫妙子、杏里などのスタンダード・ナンバーをサンプリングしながら各自のスマホへ流した。両親世代の音楽は、時夫の耳に心地よく響いていく。なかなかやるぢゃないか、ウー。

「鈴木A人、ザ・ワールド!!」

 A子がパーにした右手を顔の前に、左手を下にして、見事なJOJO立ちをしながら叫ぶと、恋文町にウェストコーストの風が優しく吹き、町も空気もビビットカラーのカリフォルニアみたいにカラッカラになった。
「ま、わたせせいぞうでもいいんだけどさ」
 A子のシティポップの科術によって、洪水はおよそ一時間程度で済んだ。
 用事が住むと、A子は図書館の方角へ戻っていった。店長によると確か……ありすの半蝶半蛾の科術じゃないと解決できない問題だったような気が?
「男だけど聖子ちゃんカットにしてみたゼイ」
 時夫の髪が、ふんわりとしたセミ・ロングになって揺らいでいる。
「何言ってんだ? コイツ」
 ウーが呆れた視線を投げる。
「いや、だから、意味論的にさ、今回の不思議の国現象、八十年代が一連の事件のキーワードじゃないかナーと思って。今日から俺は! 聖子ちゃん!!」
 どっかの服飾店から流れて来たマネキンのかつらを、時夫は拾った。
「バカなの? バカだったの?!」
 ありすにも呆れられた。
「わぁ~~~時夫さん聖子ちゃんカットだぁ~~~~~(^_^)♪」
 雪絵……ありがとう。
 時夫は黙ってかつらを取った。っていうか、復活しろ! 聖子ちゃんカット!!
 西部に続き、A子に見せ場と手柄を奪われたありすは、やれやれという顔で、店長に向き直った。
「そういえばサリーの姿が見えないけど、あいつは何処へ?」
「真灯蛾サリーは、幻想寺の綺羅宮軍団が引き受けた。無事、元の姿に戻ってくれるといいのだがな……」
 店長は「元へ戻す」とは言ったものの、意味論が発動した結果、偽物といえども、それ自体がオリジナルな意味のある存在になるはずだ。サリーは、これからもサリーとして生きていくしかない。ならば、白井雪絵は……。
 暖かい風に乗って空を飛ぶ五人の目の前に、漢方薬局「半町半街」が見えてきた。

 帰ってきた……。

冷凍未完

 店に到着すると、羽が消えたありすは、玄関の引き戸を開けて店内を確認した。気がつくと一緒に飛んでいた達夫店長の姿が見えない。
「食材、何か残ってる?」
 ウーは台所をあさった。だが、冷蔵庫も空っぽだった。
「これだけか……」
 ウーはやむなく、恋文銀座で買った電球茄子を外すと、麻婆茄子を作った。まだ不思議成分が残っていたらしく、具が光っている。
「眩しい料理だなぁ」
「これで一富士、二鷹、三茄子と、縁起のいい初夢をコンプリートできたわね」
 ありすがきれいにまとめる。
「遅れたけど……新年明けましておめでとう!」
 魔学の影響が町から消え、カレンダーが正常化し、ようやく元旦を向え、それを皆で店内で享受している。
「爽やかだわぁ~。『アイネ・クライネ・ナハトムジーク♪』って感じがするわ」
 ウーが鼻歌を歌っている。
「お正月といえばおせちだけど、やむをえないね」
 この際文句は言えなかった。ウーの麻婆茄子はとても美味しい。ただ、量が少し足りない。
「おせちといえば、意味論の宝庫よね。黒豆は真っ黒になるまでまめに働くように、数の子は子宝、きんとんは黄金、そしてタコは多幸など……」
 そうして、一年を幸せに過ごせるようにと祈願するのだ。
「そうか……駄洒落みたいなもんだね」
 ウーは残り少ない茄子を口に運んだ。
「駄洒落にもずいぶん振り回されたぜ」
 この町では、うかつに冗談も言えない。
「日本語は、同音異義語がとても多い。そのために、駄洒落が多く作られ、日本語は意味論が生じる条件が整いやすくなっているともいえるわね」
「みんな、食事は足りてるかな?」
 達夫が部屋にひょっこり顔を出した。
「あ、店長。おかえりなさい!」
 ありすは微笑んだ。
「おせちとはいかんが、薬膳科術ラーメンを作ってやろう。食材は恋文ビルヂング2階のJ隊ベースより提供してもらった」
「……」
 店長はJ隊のところへ寄ったらしい。微妙~。
「わぁーい。やったあー!」
 ウーがはしゃいでいる。
 時夫は感慨深くスープを飲んだ。そうだ、祖父のラーメンは絶品だった。それをまた食べたいと思って、時夫はこの町を選んだのだ。
 達夫のラーメンは、薬膳の香りも少しするけど、主に煮干で出汁を取った魚介系ラーメンだった。特にアサリが抜群の味を出している。
「俺にもこのラーメンの匂いは、旨いって分かるぜ。ま、ありすほど鼻は効かないけどさ」
 時夫は笑った。
「匂いっていうけど、実は科術師としての、霊的なセンサーとでもいうべきなのよ。あなたも科術師として研ぎ澄まされれば、だんだん発揮してくるはず」
 ありすは台所へと消えた。
「……ん? この匂いは?」
「それにたこ焼きはどう?」
 手にたこ焼きを持っている。
「いただきます!」
 ありすは店長が調達した魚介を使って、ちゃんと具が入ったたこ焼きを振舞った。外はカリカリに焼かれ、中身はふわトロ。熱々だ。タコだけでなく、銚子で獲れた野趣溢れる海産物が大きめに入っている。考えてみればありすのたこ焼きを、時夫は初めて食べた気がする。
「で、結局どっちだったんだ? 真灯蛾サリーが本物のおばあさんだったのか?」
 時夫は祖父の顔をじっと見た。
「……どっちかはもう私にも分からない。あるいはサリーが言ったことは真実だったかもしれない。なぜなら私には覚えがないからだ」
「じゃあ、Gさんは嘘はついてないんだな」
「ついとらん。濡れ衣だ」
 けれど、サリーも嘘を言っているようには見えなかった。
「やれやれ、安心したよ。もしサリーの言う通りなら、俺たちはGさんとおばあさんの、壮大な夫婦喧嘩に巻き込まれていたってことになるからな。ははは!」
 巻き込まれていたのは時夫達だけではない。町全体である。
「何それ笑えない」
 ウーが皮肉っぽい顔をした。
「でも、それならあんたサリーの孫ってことになるよ」
 ありすは麺をすすった。
「……」
「ご愁傷様」
「ひとついえるのは、意味論の世界ではカーゴカルトやプラシーボ効果が、本物と同じ作用をするということだ。それは、当事者にとって本物と全く同じ役割を持つ。だからもはや、どっちがオリジナルかなんて、もうほとんど『意味』がなくなる。それがサリーの矜持だった訳だが。わしはそれについて、かなり悩んだ。科術師として、サリーの意味論を否定する事はできんからな」
 達夫は立ち上がり、和ダンスから古いカメラを取り出した。
「このニコンはわしの宝物だ。良いカメラだろう? ……ニコン社は、かつてドイツのツアイス・イコン社から、名称が似ているとして、クレームを受けたことがある。しかしニコンは、以前から自社製品のレンズを『ニッコール』と呼んでいたことを説明して、最終的に両者は和解に至った」
「えっ、ニコンってイコンの……パクリだったの?」
 ウーが虚を突かれた様な顔をしている。
「ま、今となっては、本当のところは分からない。一説には、禅宗の而今(にこん)から来ているともいわれている」
「ホントに?!」
 ウーは、前に冗談で言ったことが本当だったと知って驚いていた。
「綺羅宮神太郎が何かというと『而今(にこん)』と叫んでいたのは、意味論だったのか……?」
 時夫は意味論の世界の深さを、綺羅宮の言葉に知る思いだった。
「しかし現在のニコンが立派なカメラ製造会社であることは、世界中の誰もが知っている事だろう。何がオリジナルかコピーかなんて、誰も気にしてない。そもそも世界中のカメラ会社は、かつてドイツのライカのコピーを作っていたんだ。ニコンも同様にな。それを研鑽して、ニコンは最高のオリジナル製品を製造するようになった。だから、世界最高峰を真似するのは、必要なプロセスだといえるだろう。これが、守・破・離の一例だ」
 <今となっては本当のところは分からない>、か……。真灯蛾サリーの存在と全く同じじゃないか。
 そうすると、時夫にとっての問題は白井雪絵だ。彼女はみさえの分身だった。当初こそは。だが時夫にとって今や、雪絵はみさえの代わりなどではない、唯一の存在といえるのだ。
「サリーは、俺達を魔獣に釘付けにする一方で、せっせと天空魔法陣を書き換えていた。最期のドサクサで、ありすや綺羅宮たちがそれを正常に戻せたか心配だったんだけど、アップロードは成功だったんだよな?」
 時夫の問いに、部屋は一瞬シンとなる。
「我々が本物だと思い込んだ結果、アップロードの認証のシステムは無事『正常』に作動した。成功だよ」
 祖父がニヤリとした。それが意味論の原理なのだ。
「町の様子は、何も変わってない気がするけど……」
「すべての人質・電柱・ショゴロースでヒトモドキになった人々が元に戻り、これからウィンドウズ天の世界へと昇っていく組と、貨物線に乗って現世に戻っていく組とに別れる。現世へ戻る人々は、行方不明者と、地震で意識不明の状態になっている人々だ」
「……みんな、この町での出来事は覚えてるのか?」
「恋文町で起こった『不思議の国のアリス』現象の記憶はなくなるだろう」
 幻想寺の綺羅宮軍団は、恋文町の人々を元居た世界へと戻す作業を行っているらしい。
「お前もこれで無事、元の生活に戻れるだろう。よかったな」
「いや、恋文ビルヂングには……もう」
「不思議現象のブラックホールになってるとか? そんなバカな、ワハハハ……」
 そのトーリ!
「いや……俺はもうあのアパートの部屋には戻りたくないです。Gさんには悪いけど、俺は東京に帰る。もうこの町には戻らない」
 達夫は、食材を恋文ビルヂングに取りに行った時、この町でますますJ隊の拠点と化しているアパートを見て、何とも思わなかったのだろうか。元から、あそこはJ隊の寮だった。いいや、「J隊」化する前だから、自衛隊のか。
「分かったよ時夫。それなら荷物を整理して実家へ送ってやる。これから東京の高校への編入手続きをこっちでするから、東京で暮らしなさい」
「ありがとう。最後にせっかくだから、もう一つ聞きたいことがある。この店、『半蝶半蛾』の当て字に『半町半街』を使ったのって、何か意味あるの?」
「ないんじゃない? 金時君」
 ありすは興味なさげにお茶を飲んだ。
「……ま、厳密にいうとないとも言えんかな。『町』と『街』の違い、それは規模だ。英語で言うとタウンとストリートの違いだ。『街』の方が規模が小さい。この店の場合、メインストリートである恋文銀座から離れている。けど、遠すぎもしない。そんな絶妙な店の距離感をうたっているという訳さ」
「あったのかよ!!」
 一番驚いているのは古城ありすだった。
 そのお陰で、恋文銀座の菓匠白彩本陣より一定の距離を保ちながら、その監視もできた訳である。それ以上の意味論は、どうやらなさそうだが。
 ありすは少し間を置いてから言った。
「ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの『新宿バックストリート♪』ってか?」
「君たちゃナウいねェ」
 どこが? そして、「ナウい」? そして、君たち?
「……」
 ありすも店長も、どっちもどっちだ。「君たち」でまとめられたくない。
 達夫は、町の新年のあいさつ回りをするとかで出て行った。
「あれ? 雪絵さんの肌色が」
 浅黒くなっている事に、ウーが気づいた。
「ボン・ジョヴィの『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』のアルバム・カバーのお姉さんくらい焼けてんじゃん!」
 ウーもベストヒットUSO以来、なかなかに小林店長の八十年代カラーに染まっているようだな。
「本当に、みさえがここに居るみたいだ……」
 時夫は呟いた。白井雪絵と伊都川みさえの決定的な違いは肌の色だったが、その違いがなくなっていた。
「みさえさんって、確かスポーツ少女だったんでしょ?」
 ありすが訊いた。
「うん……テニス部の部長だった」
「そういえば西の禁断地帯でさ、キラーミンをやっつけた時、雪絵さんテニス・ラケットを持ってなかった?」
 ウーがたこ焼きを口に放り込みながら言った。
「……はい」
「あれは確か、スカッシュのラケットだったよね」
「ラケットもマシンガンもあずきセイバーみたいに、『種』が何か一つあれば、それを氷で成長させて作ることが出来たんです。ラケットは、落ちていた木の枝みたいので作りました」
「じゃあ成分は氷だったのか。マシンガンも?」
 そして冷気で形状を維持できた。
「えぇ、そうです。でももう、たぶん出来ません。私、雪の女王の力が、感じ取れないんです」
 そう言って、雪絵は沈黙した。
「あそうだ! さっきたこ焼き器の熱が下がっちゃってさ。ウー、見てくれる?」
「今?」
「いいから来て!」
 そういって、ありすはウーを台所に連れ出した。
(ここに居たらお邪魔虫になっちゃう。後は若いモンに任せて)
(ありすちゃんも若いじゃん)
(外見だけよ)
 確かに、『新宿バックストリート♪』は七十年代の曲である。
 ありす達は台所片付けをしながら、のれんの影から居間の二人を覗いた。時夫と雪絵は黙って座っていた。
(ん。も~だめだぞ? 時夫)
 ウーは小声でつぶやいた。
(しっかり言ってあげて)
 ……ありすも小声で。
「なぁ雪絵。俺と一緒に東京へ行ってくれないか」
 時夫は意を決したように言った。
「えっ、でも……」
 東京には伊都川みさえがいる。雪絵は、時夫はみさえに会いに帰るのだと思っているに違いない。
「俺が好きなのは、みさえじゃない。君なんだよ。白井雪絵」
「……」
 雪絵は微笑んで、こっくりうなずいた。
「また、雪絵さんの肌の色が……」
 ウーが気づいた。雪絵さんというよりもう小麦さんだ。
「いいえ、あの人はみさえさんよ」
「え? 嘘」
「本体とドッペルゲンガーの意味論が入れ替わったんだ……いや、そうじゃないな。元から、本体のみさえさんだった事になっている。雪絵さんの情熱が、そういう風に世界を書き換えたんだ」
 雪絵は今、完全に小麦色の肌に戻って、雪の女王としての性質は消えてしまったのだった。時夫の前に座っているのは、もはや最強の科術師でも何でもない、一人の少女だった。
 ありすは玄関に出て、町を見回している。
「ロマンがないなぁ」
 ありすはつぶやいた。
「マロンならあるよ」
 ウーが玄関から栗を持って、にっこりとした顔を出した。
「……ありがと」
 ありすは振り返って、ふと、玄関に飾っている黒法師を見た。黒法師は、冬に生長する多肉植物だ。黒紫色の艶のあるこの植物が、ありすは好きだった。「女子高生」としては結構シブいけど、黒水晶をパワーストーンにするありすにとっては、唯一無二の親友みたいな存在だった。まだ、花が咲いたところを見たことはない。ありすは微笑んだ。開花を気長に待たないといけない植物なのだ。それなので、花言葉も待つことにちなんだ言葉である。それは……
『いい予感』。

 日が暮れた頃、古城ありすの運転で、時夫達は貨物線の駅まで来た。石川ウーは、薔薇喫茶の開店準備に追われて来なかった。そこは前に時夫が迷い込んだ路線だった。しっかりと駅まで存在している。いや、前からあったのだろうけれど。
 その線路は中空界と化した恋文町と、現世を繋いでいた。みさえの石から誕生した雪絵は、東京から恋文町へこの電車でやってきた。けれど出て行く事ができずに、恋文町に閉じ込められた。一方で道路は東西南北、時空が塞いでいるし、恋文駅からもスト中のため乗れない。ありすによると、唯一の恋文町から外へ出られる路線だという。
 ありすによると、すでに第一便は出た後だという。
「今日は次の便でラストよ。その次の予定は決まってない」
「ありがとう、ありす」
「もう……会えないかも。東京へ戻ったら、ここでの記憶は忘れてしまう。それでもいい?」
 ありすは怪訝そうに訊いた。東京に帰れば、時夫はありすたちやこの町で起こったことを忘却してしまう。達夫、今後きっと時夫に言わないだろうという。
「それでもいい」
「……」
「二度と会えないよ」
「うん」
 時夫は迷いを吹っ切るように答えた。東京へ帰らない訳にはいかない。もともとお互いに、別の世界の住人だったんだ。ありすは蝶となり、サリーも人間になり、時夫と雪絵は、貨物線で町を出る。それでいいのだ。何もかもきれいに収まる。
「分かった」
 ありすの方が、なんとなく未練があるらしかった。
「俺……君に何度助けられたか分からないよ。本当に……もう……。ずっと感謝してる」
「何、今更」
「それなのに、何も恩を返せないうちに忘れてしまうなんてな」
「この冷凍みかんでひょっとしたら……」
 幻想寺で凍ったままのみかんを、ありすはもぎ取って保管していたらしい。一つだけ残っていた雪絵の雪の女王としての力の結晶だった。
「これ、『未完』という科術の果実の意味論を凍らせている。その意味論で、ひょっとしたら思い出すかも。車中で冷たい内に食べてね」
 THE昭和の給食の定番メニューの一つだ。
「みかん、未完か。終わらないという意味か?」
「恋文町の歴史書がみんな、途中で終わっているのと同じよ」
「さすがありすらしいな。ありがと」
 貨物列車が到着した。人が乗れる車両を一つだけ連結していた。二人が乗り込んむと、ホームの発射のベルが鳴った。
「……ちゃんと思い出せるかな?」
「しょうがないな。ならこれも持ってって」
 ありすは、セピア色に焼けた自分の古い写真を渡した。終戦直後のものらしい。今と全く同じ姿の古城ありすがそこに写っている。きっと、達夫のニコンで映した写真だろう。
「バイバイ、金時君!」
 ありすの満面の笑顔がそこにあった。
 時にうっとうしかったこのあだ名を聞くのも、これで最後だという予感があった。

 闇に包まれて行く町を車窓から眺めながら、時夫は二人きりの車内で雪絵に言った。
「この町で、ずっと不安だったろ。雪絵。自分が人間か砂糖なのか、何も分からないで」
「ううん……? 時夫さんは、ずっと私のポラリスだったもの」
「人間になって、安心した?」
「たとえスイーツドールでも、時夫さんの恋人役になれたから悪くなかったって思ってる」
 雪絵は時夫をじっと見た。
「進路、決めました」
「え?」
「東京で学生に戻ります」
 雪絵は元気つらつだった。こんな子だったろうか?
「あぁ……テニス部がんばれよ」
「……はい!」
 雪絵は、最初から本体のみさえその人だった。それが、恋文町に雪絵の姿を取って現れていただけなのだ。……というのが、色々と逡巡した古城ありすの結論らしい。時夫はやっぱりそうではなく、最初は分身でしかなかった雪絵が次第に意味を獲得した結果、本体と入れ替わったと考えている。けど、どっちでもいいか……。
 二人は冷凍みかんを二つに分けて食べながら、黙って外を眺めていた。
 車窓から星空が見える。しかし、地上の町が見えない。ありすによると、外の世界へ戻るとき、一旦宇宙空間を通るらしい。まるで、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の世界の中に入っていくみたいだった。
 時夫の、近所を舞台とした冒険が終わろうとしていた。前に夢想したように、世界中を巡ったわけではない。けれど、「冒険したい」、でも金も時間もゆとりもないと思っているのなら、たとえ近所でも眼光紙背に徹すれば冒険はできる。ただし、何が起こっても保障は出来ないが。
 列車の中に、蝶が迷い込んでいるのに気づいた。
「これ……ありすかな」
「そうかもしれませんね」
 セピア色の写真をひっくり返すと、ありすの字で「美味しいたこ焼きの作り方」と手書きされている。

 1・たこ焼き器を加熱する。凹みに油を塗る。

 2・だし汁で溶いた小麦粉に薬味を加えた生地を流し込み、具のタコを入れる。

 3・下部がカリッと焼けたら、先の尖った錐を凹みに差し込んで、たこ焼きをクルクルと回転させて球状にする。

 4・焼き上がったら容器に移し、ソースやたれを塗る。マヨネーズ、青海苔、削り節などを振りかければ、完成!

 時夫はふっと笑った。
「それくらい俺でも知ってるよ」
 時夫と雪絵はもう一度笑った。

                                      冷凍未完

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