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ねじれる運命の暗示

『…あなたが、365日私を思い出さなくても…366日目に、ほかの誰でもなく、私を必要としてくれるなら…』

 希由香(きゆか)はそっとペンを置いた。読み返した便箋(びんせん)を折る冷たい指先が、(かす)かに震える。最後の想いを封じたその手紙を胸に、希由香は部屋を見まわした。
 きちんと片付けられた薄暗い室内。閉じられたカーテンの上のわずかな隙間から、まだか弱い真冬の朝陽が、淡い斜めの直線を描いている。その無色の帯に一瞬奪われた視線を引き剥がし、希由香は部屋を出て行った。



 ドアの閉まる音が聞こえ、キノはハッと我に返った。額の奥で脈が速く打っている。

 あれ? 私…何か変。まぶたが、眉間(みけん)の奥が…熱い。泣きそう…でも、なんで? 悲しくもないしうれしくもないのに…あくびでもこらえてたかな。

 キノはティッシュを目頭に押しあてて水分を吸わせると、まばたきをしながら時計に目をやった。

 午後9時45分。 普段0時前に寝ることは滅多にないキノにとって、うとうとしてしまうほど遅い時間ではない。
 デパートでの仕事を終えて帰って来ると、風呂に入り適当な食事を取り、読書をしたり映画のビデオを見たりしてくつろぎ、午前1時頃眠りにつく。それがキノの日常で、今は手帳に簡単な日記をつけている途中だった。

 何かが閉まる音がしたけど、このアパートのドアはあんな音しないし…隣の部屋のタンスの扉とか? でも、すごく近くに聞こえた。まるで頭の中で閉まったみたいに…気のせい?

 一瞬飛んでいた意識を呼び戻せるかのようにこめかみの辺りを指で叩きながら、キノは改めて手帳に向き直す。その手を宙で止め眉を寄せた。

 これは…?

 1月13日を開いていたはずが、ずっと後ろのメモのページになっている。たった今そこに書かれたばかりと思われる鮮明なインクの文字達に、キノは目を走らせる。
 小さな紙片を埋める、書いた記憶のないメッセージ。けれども、明らかに自分のものだとわかる筆跡。そして、その内容も、頭ではなく心が知っているような気がする。あるいは自分の指先が、無意識に(つづ)ったものを憶えているのかもしれない。

 涙の理由は…これだったの?

 キノは固く目を閉じた。身に覚えのない悲しみが胸に押し寄せる。身を切るような切なさに、心が震える。
 なぜ自分がこれを書いたのか。
 自分のこの感情は何によるものなるのか。
 そして、これは誰へのメッセージなのか。
 その全てが、考える必要も理解する必要もないことだとキノにはわかっている。理屈ではなく直感でそう思った。

 少なくても、今はまだ…。

 キノの目が、再び手帳の文字を追う。

 これが誰の思いでも、誰への思いでも、なぜか今、ただ祈りたい…。

 この不思議な感覚が、キノの心に埋没していく。薄れ、忘れ行くような記憶の彼方(かなた)ではなく、やがて呼び()まされる時が来るまで眠る、心の奥底へと。

 キノはページを今日に戻すと、日記の最後につけ加えた。

『幸運が、いつもあなたのそばにありますように
 あなたを闇から救える人が、いつか必ず現れますように』



 翌日、キノは頭の芯が抜き取られるような感覚とともに一瞬視界を失い、職場の床に倒れた。
 興奮か感激か恐怖か、言いようのないその衝撃が過ぎるまで、(うずくま)ったまま動けずにいた。
 精神を一気に使い果たしたような疲労感と虚脱感。
 そして、底知れぬ喪失感。

 途切れそうな意識の中、キノは昨夜と同じことを祈った。それがなぜかを理解することもなく、ただ心のままに。



 2年と8か月程経った後に、キノはこのことの意味を知る。
 
 ねじれる運命と夢の狭間(はざま)で。

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