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俺たちゃ、結局何なんだ

「乙津会長」
「何かね、愛敬副会長」

 夕焼けに染まる空を見ていた俺は、呼ばれて振り向いた。そこにはもちろん見慣れた副会長の姿があったわけだが、彼女が俺のことをこう呼んでくる時は、大抵がろくでもない話の始まりだった。
 要するに、あまり気の進まない現状であることはおわかりいただけると思う。

「ずっと思っていたことがある。どうして貴方の名前はそんなに短いのか」
「知らん。俺の親に聞いてくれ」

 そう答えるしかないだろう。
 だが、副会長殿は実に強情だった。

「いや、違う。私の知る限り、貴方の名前は乙津亜空間物質転送装置太郎だった」
「そんな奇天烈な名前のやつがいるか」
「いたんだよ。キラキラネームの親玉みたいな名前が、間違いなく会長だったんだ」
「おかしなことを言うな。僕は生まれた時から、乙津亜だ。変な名前だってのは自分でもわかってる。しかし、この名前で今まで生きてきた。小学校も中学校も、この蘭道高校でもそうだ」

 この高校が元はといえば蘭学を教える塾を前身に持っている通り、俺の名前にもちゃんとした言われはあるんだ。どんな時でも必ず一番手に、目立つ場所にいますように。だから、五十音順で最初に来る名前にした。それがただ一文字の「亜」という名前の真相だ。
 俺の反駁に対して、愛敬は静かに首を振った。

「会長は思春期症候群なるものを知っているか」
「何だそりゃ」
「思春期の少年少女に起こる、不思議な現象だ」
「アホらしい。どこぞの医者が金儲けをするために作ったまがい物に決まっている。全くもって非科学的な区分だ」

 近頃はなんでも症候群とか依存症とかにしてしまう。良くない傾向だと思っていた。もちろん医学的、かつ精神学的に見て分類すべきものがあることは事実だが、同時に名前をつけることで「出現してしまう病」があることにも注目すべきだと考えていた。
 思春期症候群なるものも、その一つだと思ったわけだ。

「観測もしていないものを非科学的と断ずることこそ、科学的思考を欠いていると思わないか」

 ただ、この一言には参った。そんな気がしてきたからだ。

「ふーん……それは一理あるな。だが、その症候群がどうしたって言うんだ。俺は今のところ健康体だ。父親は中性脂肪で、母親は高脂血症、ばあちゃんは高血圧だが、一応はみんなピンピンしてる」
「非科学的な列挙をしたな」
「俺はみんなのいいところを寄せ集めた。おかげで健康体で二重丸。今すぐにでも校庭を犬よりも元気に駆け回れるぞ。暑いからしないけど」

 初夏の運動場を、特に理由もなく駆け回る生徒会長。これは新聞部のいい特ダネになってしまうだろう。

「いいか、会長。私の見立てによると、貴方はその思春期症候群に掛かっている。まるで健康な男子が朝勃ちするように、すっかり青春の勃起を果たしている」
「その例えはどうかと思うがね。まあ、お前のことだ。どうせ言ったって聞かないだろうし、興奮することなんて一ミリもないが」
「そう、貴方の症例は『名前を失っていく』というものだ。元はといえば、乙津亜空間物質転送装置太郎だったのに」

 本当に膝から崩れ落ちたくなる名前だ。断固拒否するに決まっている。

「正直に言わせてもらうなら、もし思春期症候群なるものがあったとして、僕は全面的に感謝を表明したいね。そんな名前は嫌すぎる。役所はなんだってそんな名前を許可したんだ」
「知らない。それこそ親御さんに聞いていただきたい。いったいどういうネーミングセンスなんだ」
「俺が聞きたいんだって」
「だが、私は知っている。貴方とは小学校からの仲だ。あのくだらない授業参観の時、命名の理由を発表していたじゃないか。両親のSF好きが高じて、この名前になったのだと」
「SF好きならもっといい名前があったと思うんだ。乙津アイザックとか乙津新一とか」
「アシモフを星新一より先に持ってくるセンス。やはり貴方はあの二人の息子」

 じゃあ、何か。乙津スタニスワフとかだったらもっと良かったのか。

「褒められている気がしない」
「そうだろう。貶しているからね。冗談はさておき、貴方がテスト用紙に収まりきれない名前を持っていて、『せめて乙津亜太郎だったらな』と語っていたことを、私は知っている。そもそも、貴方が私に直接語ったんだ」
「亜太郎って間抜けじゃないか。それなら亜が一文字だけの方がインパクトがある」
「それでいいのか。失われた名前を取り戻したくはないのか。立ち上がれ、乙津亜空間物質転送装置太郎。真の名前を取り戻す時は今」
「で、思春期症候群の治し方ってあるのか」

 とっとっと、と沈黙が点を打つ。たっぷり四秒ほどの休戦期間。

「知らん」
「知っとけ」
「思春期が終わるような行動をすればいいのでは」
「例えば」

 そうだね、と副会長は自分に呼びかけるように言った。

「セックスでもするか」
「誰と」
「私と」
「絶対に嫌だ。お前と寝るくらいなら男友達とベッドインすることを選ぶ」
「私だって女だぞ」
「俺だって男だ。だが、お前はもはや女である以上に俺と十年以上を過ごしてきた戦友であり、親より顔を見た人間であり、平たく言えば寝室には絶対いてほしくない存在ランキング第1位確定だ」

 考えてもみればいい。本当に親よりも一緒にいたんだ。高校生になった今だって、24時間のうちの12時間は一緒に過ごしている計算だ。生徒会長としてこれほど頼りになる副会長もいないが、かといって、そんな相手と寝室まで一緒にしたいかと言われると全くの逆。ましてや18禁な展開なんて絶対に突入してほしくない。まさしくマザファッカになる気分だろう。

「じゃあ、ここで始めようか」
「熱中症なら保健室へ行け」

 俺はいつも以上に奇天烈なことを言う幼馴染に警告を発したが、彼女はなかなか引き下がらなかった。

「さすがに野外はちょっと」
「そういう問題じゃないだろう」
「わかった。じゃあ、キスだけにしておこう」
「どういうアプローチの仕方だ。バンカーでドライバーを振り回すような無茶をしやがって」
「そういえば、昔、貴方の家でみんゴルやった時、ドライバーだけでグリーンに乗せようとしていた気がする」

 そういやあ、そんなこともあったっけ。
 思わず考えてしまって、少し毒気を抜かれてしまった。

「また懐かしいのを思い出したな」
「私だって恥ずかしいのを我慢してアプローチしているんだぞ」
「それを延々と聞かされる俺の方が恥ずかしいわ。原稿を練り直してこい」
「月が綺麗ですね」
「古典風に言い直せと言ったわけじゃないぞ。そもそもまだ月は出ていない」
「私としたことが、この愛敬由、不覚に次ぐ不覚」

 おや、変だ。違和感どころじゃない。

「愛敬由だって。そいつはおかしいぞ。お前の名前は愛敬由利佐織だったはずだ」
「会長、冗談も程々にしてくれ。そんな茶屋四郎次郎みたいな名前なわけがないだろう。私は生まれた時から愛敬由だ」
「いいや、愛敬由利佐織だったんだ。間違いない。お前も思春期症候群だ。俺は見抜いたぞ。なんてこった。お前まで名前を奪われているなんて。こいつは本当に俺も違う名前だったのかもしれない」
「だから……」

 俺は頭を抱えたが、すぐに解決策を練り上げた。もうこれしかないだろうという確信があった。そうか。そうだったのか。今ならば愛敬の奇行も理解ができる気がした。

「わかった、副会長。いいや、愛敬。キスしよう」
「えっ、いや、それは」

 そうだ。キスだ。熱いヴェーゼによって、思春期は昇華する。マウストゥマウスの強烈な一撃によって、青春に拭い難い楔を入れる。
 さっきまではただただ嫌だった。しかし、不思議なことに、生まれてから得た最大の親友を救うためと考えると、俄然やる気が勝るようになってきた。考えてもみろ。親以上に大切な存在だぞ。俺が守らなくて、誰が守るっていうんだ。

「さっきまで求めていたのはそっちだぞ」
「攻めるのは好きだけど守るには苦手っていうか」
「するぞ」
「待って」

 待たなかった。
 力に勝る俺は愛敬の手を捕まえ、ぐいっと腰を引き寄せ、唇を重ねた。
 恐ろしい時間だった。でも、甘美な一時だった。そこにどんな味があるかなんてのはわからなかったし、どれだけの秒数が経ったのかも不明だった。そんなのを数える余裕なんてまるでなかった。爆弾が降り注ぐ中で、その数を確認しているやつなんていないだろう。そういうことだ。俺にとって、これはまさしく戦争だった。キスは戦争だ。世の中の恋愛小説家は、この事実について、もっと筆を走らせた方がいいように思う。

 とんでもねぇな、キス。

 俺がようやく唇を離した時には、愛敬の顔は真っ赤になっていた。自分の頬も熱い気がしたから、たぶん同じような感じになっていただろう。

「その、なんていうか……」
「うん……」

 見つめ合う。
 いやあ、やっちまったなぁ。本当にやっちまったんだなぁ。後悔ってわけじゃないが、何やらすごいことをしてしまったことだけはわかる。いつもなら踏み越えているはずのない一線を、ついに越えたんだ。気軽に下ネタだって言い合える仲だったのに、こんな関係になってしまうなんて。
 手を離す。
 しかし、心は離れない。
 そんな気がする。

「とりあえず、生徒会の仕事をしようか、愛敬副会長」
「そうしよう、乙津会長」

 いつも通りだ。きっと、いつも通りになる。本当に、いつも通りになるか。
 よくわからないし、わかろうとも思わない。名前がどうかなんて、もう忘れちまった。もしもこの恥ずかしさが、胸の奥に響く高鳴りが、すべて思春期症候群の仕業だっていうなら、大した悪党だと思うね。
 ああ、まったく、俺らって結局何なんだろうな。
 変な気持ちばかりが募るが、やがて日が山に沈んでいく。電気をつけなきゃ何も見えなくなるな。そう思って顔を上げた時、そこにいたのは愛敬由利佐織だったか、それとも愛敬由だったか。はたまた名前をつけることをためらうような存在だったか。
 少なくとも、俺はとんでもない黄昏時の魔物に出くわしちまったのかもしれない。あんなに色っぽく見えるなんてなぁ。恥ずかしいったらありゃしない。
 忘れよう、忘れよう。

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