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霊感家族




 無垢と無邪気がかならずしも手をつなぐとはかぎらない。無邪気さで突き進んだいった先で、罪を被ってしまうことがある。
 思い出話になってしまい、もはや誰からも責められない罪を、俺はぼんやりと眺めてみる。無邪気に俺は学校生活を送り、気付いた時には無垢を汚してしまった。
 俺が中学生だった時、担任の田宮先生が首を吊った。それは俺達のせいだった。俺達が先生の話や授業など知らんぷりし、それぞれ好き勝手に立ち歩き、私語をし、その話ついでに先生をからかったりした。
 悪気は無かった。誰もそんなものは持っていなかった。むしろ気弱でさえない先生のキャラクターは皆好きだったのだ。でも友達との話に夢中で先生が見えていなかった。先生が日に日に痩せ干せっていき、声は小さくなり、夏休み前には授業前後の号令が無くなり、師走に入った頃に死んだ。
 全校集会では校長の口から「田宮先生は自ら命を絶った」と生徒には伝えられた。それを母さんに話すと、なぜわざわざ自殺だと言うのかしらと怒っていた。
「そう言ったら、一体どうやって死んだんだとかって子供達は騒ぐに決まってるじゃないのよね」
「まあな」
 集会で一分間の黙祷が終わった後、たしかに生徒は騒いでいた。
「クラスの皆に本当は首吊りなんて言っちゃだめよ。お葬式の日は風邪ひきなさい」
「風邪のひきかたなんて分からねえよ」
「そう言って休めってこと。馬鹿ねえ」
「だから風邪はひけない」
 結局俺は先生の葬式にいかなかった。
 この時にはまだ罪の意識というのはなかった。故人の知り合いの息子、故人の教え子という立場により、クラスでこっそり俺だけ参列しろと言われたが、俺はそれを拒んだ。実感はなかったし…………いや、そもそも面倒だったのかもしれない。
 高校生になってやっと自分が無垢ではないということに気付いた。ズルいことはしてきたけど、もっと重たい意味で、俺は無垢じゃない。先生を死に追いやった者の1人だ。その思いが大きなシコリとなって、俺の高校生活に影響している。
 朝の教室、俺は頬杖ついて自分の席に座っていた。廊下の往来からこぼれるようにして、クラスメイト達が教室に入ってくる。おっすーとか、おはようだとか、友達と挨拶しながらだ。俺は黙ってそれを見ている。騒がしい。
 やがてチャイムが鳴り、先生が入ってきた。先生は背中に痩せ細った少女を背負っていた。
「はいよー、席ついてー。授業やっちゃうよー。進めるよー、テキパキやっちゃうよもう」
 高一の後期中間テストが終わり、今週はまるまるテスト返却にあてられる。本当ならテスト返却と問題の解説など、まぁ寝てても大丈夫な内容だが、まれにすぐ次の授業内容に移る先生がいる。そういう時はクラスでブーイングが起こる。
「ちょっと先生ぇ、常識的に今日はテスト返して終わりって流れでしょうよ?」
「そうっすよ、なぜにいま次の単元いくんすか」
 先生はブーイングの中で大げさに胸を張った。少女がぎゅっと先生にしがみつく。
「それはね、テスト前の君達の授業のスピードが遅かったからだよ。んっ……んん! だから早く進めちゃおうと思うわけだよ諸君。……ごほっ! なんか喉がイガイガすんな……」
 ワイシャツ一枚の先生の首には、少女の黒ずんだ爪が食い込んでいた。先生はネクタイをゆるめた。
「ま! テストはちゃんと返すよ? 問題解説と含めても二十分で終わるでしょ。じゃあ名前順で呼ぶからサクサク来てね。はい有田ー、いい出来だね! はい飯塚ー、もうちょっとだなー。宇野、はまぁまぁだな。えー……江藤、江藤はえっとー、さすがの江藤だよ」
 先生が生徒の名前を呼んでいく。呼ばれた生徒は前の教卓まで行き、テストをもらっては思い思いのリアクションをしていた。少女は先生の肩から身を乗り出して、生徒達の顔をぐねりと伸ばした首で覗き込んでいた。
「次は佐伯ー、まぁまぁだな」
「うっそ? おれ科学68って自己最高っすよ」
「というか先生さぁ、そうやって、まぁまぁとかいいねとか言うのヤメてくんない?」
「そう言う杉谷は41っ点!」
「どっひゃー! ガチか! でも41点って『よい』って語呂になってるから縁起イイじゃーん! それにまぁまぁじゃない? ギャハハッ!」
 ギャハハと笑う杉谷さん。少女に口の中まで覗かれているのに、呑気なもんだ。
「何言ってんだよ……。まぁ先生は正直赤点かと思って杉谷の特別補習テキストを用意するつもりだったが良かったよ。はい次は立野ー、立野くーん」
「……はい」
 教室中央より後ろ寄りにある席から立ち上がり、俺は前に出た。
「立野も良いねえ。トップだ。トップップだよ」
「はぁ」
 先生からテスト用紙を受け取る。点数に目を落とす。確かに上はいない。満点だった。
「まぁまぁだな」
「そうですか」
 満点でまぁまぁ? もっと褒めてほしいとかそういうことじゃないが、その言葉には違和感があった。
「まぁまぁ、まぁまぁ、まぁまぁ」
 ちらりと先生を見た。
「さすが立野、秀才だ」
 ニッと笑う先生の横、少女は己の口に手を突っ込み、下顎をカタカタと動かしていた。先生の声がした。
「まぁマァ……まぁまぁ、マァまぁ……!」
 俺は自分の席に向かった。
「タチノ! タチノォォオッ!」
 失敗だ。質が悪過ぎる。
 ペタペタと床を何かが走る音がした。
「おーい! タッチー!」
 前の席の杉谷さんが恐らく女子トップであろう江藤さんとテスト用紙を見比べている。杉谷さんは俺に絡んできた。
「もしかして満点? ちょっとウチに見してよ満点回答!」
 もはや満点の回答などどうでもよかった。少女が俺の席に座っている。ちゃんとは見ていないが、恐らく俺を見ているはずだ。そいつと目を合わせぬよう、机の横に掛けた鞄を手にした。
「ん」
 杉谷さんに用紙を渡す。
「どっひゃー! ガチじゃん! スッゲー! エッちゃんほら、満点だよ!」
「わ、ほんとだ。初めて見た」
 ギャルと清楚系女子を残し、俺はテスト返却のどさくさに紛れて教室を出た。どの教室からも騒ぎ声がきこえる。その中に裸足の足音が混じっているのが分かる。
 ヒッタ、ヒッタ、ヒッタ、ヒッタ……。
 完全にばれたか。
 階段を下る。俺は歩みを止めず、鞄の中をまさぐった。そして小さな袋を取り出す。効果があるか分からない。使ってみるのは初めてだった。
 俺は袋の中身を頭越しに後ろへばらまいた。焦ったためか、ちょっと顔にかかってしまう。
「ぺっ、ぺっ。しょっぱ……」
 塩だから当たり前か。
 まいてすぐ、後ろで甲高い絶叫がきこえた。これには驚いて思わず振り返ってしまう。狭い階段を、少女が両の手足で壁やら天井やらを這るのが見えた。上の階に姿を消した。その様はさながら殺虫スプレーをくらった虫だった。
 想像以上の効果だった……。
 俺はほっとした。ほっとして、これからどうするかと考える。
 教室に戻るのはあまりに間抜けだ。まだ騒いでいるなら……、いや変か。秀才だがある意味問題児の立野がサボったと思ったら戻ってきた? うん、やっぱちょっと間抜けだ。前も似たようなことがあった時、教室を出たはいいが忘れ物をしてしまった。それを取りに戻った時のクラスメイト達の「ん?」という顔が忘れられない。秀才、クール、孤高、そんなイメージを崩せない。
 帰ろう。
 トボトボと俺は早過ぎる帰路についた。
 どこかで暇を潰そうにも制服を着ているし、午前中だし、あまりぶらぶらすると高校の評判を落としかねない。
『おたくの制服を着た目つきの悪い男子生徒が昼間から町をうろついていた』
 などと職員室にクレームが来るかも。それは俺の品格を下げるのでなく、学校の沽券にかかわる。制服では行動を慎まなければならない。
 学校から家までの徒歩三十分を黙っていく。自転車はまだ修理に出していない。出すつもりもない。こうして歩くことが儀式の一環になっていた。
 見晴らしの悪い国道、ガードレールが少し歪んだ場所。俺はそこでわずかに歩速をゆるめて、そして行った。
 家に帰ると母さんはやっぱりいた。
「あら、はやいのね」
 腕枕に横たわったまま母はテレビから振り向いた。刑事物の再放送だった。
「逃げてきた」
「ふーん」
 何からとはきかれなかった。ただ、
「増えたわねえ、最近」
 と言っただけだった。体操のつもりか、重たそうな脚をぱかぱかと開脚している。寝ながら片脚上げてワンツーワンツー……、あまりに不毛だった。
「どうにかならんのだろうか」
「多感だからねぇ」
「母さんは見えないからって……」
 霊が見えてしまうのは母さん譲りだ。もっとも母さんの方は、仕事も掃除も、炊事も洗濯もやってくれる運命のお相手と結婚した時からパッタリと見えなくなってしまったらしいが。
 俺は鞄をソファに放って、冷蔵庫を漁りにいった。台所から居間へ声をかける。
「そういえば、塩が効いた」
「へぇ。誰に?」
「女の子」
 冷蔵庫の中には父さんが作り置きしてくれた炒飯があった。弁当もいつも父さんが作ってくれる。母さんはもう食べたらしい。俺は自分の分の炒飯をレンジで温める。
「ね。なぜか効くのよ、霊に、塩が」
「なんで?」
「さっ……! あっ……!」
 母さんは気まぐれ脚上げストレッチでヒーヒー言っている。汗だくだ。
「多汗だね」
「多感なのよねえ、きっとその子も。はっ! はぁ……」
 チンッとレンジがベルを鳴らして、母さんのストレッチは終了した。俺は炒飯を食べ始めた。
「襲ってきたの?」
「まぁ。追ってきたんだよ。無視出来なかった」
 テレビドラマはもうクライマックスらしかった。刑事が犯人と思しき女を弾劾絶壁に追い詰める。
『逃げられないぞ!』
 刑事が言った。
「見られてるのがばれたのねえ。寂しがりが多いから」
「寂しがりが多いって本当なの?」
「もちろん霊にも色んなのがいるんでしょ? そうねぇ……お母さんが会ってきたのはそういう人たちばっかりだったわ。だけどあなたが見てしまうのは知らない。もしかしたら悪いやつらばかりかもしれない。前のは良かったけど、今度はそうじゃないかもしれない」
 どーんと波飛沫がテレビ画面ではじけた。
『もう終わりよッ……!』
 追い詰められた女が海へと身を投げた。
「油断しないでね。気を確かにもって」
 母さんは起き上がって俺を見た。顔色は良かった。体調が悪かったりすると、右目の上にある傷跡が青痣のように浮き上がる。
「………………」
「食いたいの?」
「食べたいけど食べない」
 母さんはさっきとは頭を反対にしてまた横になった。気まぐれ脚上げストレッチがまた始まった。



 翌日、冷え込んだ朝だった。まだ十月の末だが道にはマフラーをした人が目につく。寒さに強張ったような秋の道を、俺は一人コツコツと歩いていく。
 父さんが朝五時に起きて家事を始めるので、自然と俺の朝も早くなる。父さんにつくってもらった弁当と時間的ゆとりを持って家を出ている。大通りだが人はまだあまり多くない。
 手を突っ込んだポケットの中には飴玉が一つ入っている。国道沿いのちょっと歪んだガードレール、その支柱の上に、その飴玉を歩きながら置いた。いってきます。心で呟いた。
 学校に着く。席についた時刻は八時ちょうど。朝練の運動部以外に生徒は見当たらない。けどもうすぐ来る。下り線は八時に最寄り駅に着くらしい。それから続々と生徒達はやってくるのだ。俺はそれを静かに見守る。ほら、ぎゃあぎゃあと騒がしい声が聞こえてきた。
 無意識に俺は田宮先生を思い浮かべていた。私語の嵐の中、先生が教壇でロープを縛って、輪っかを首にかけ、椅子に上がり――――。
 ガチャンと音がした。数人のグループが転げるようにして教室に入ってきた。おふざけの勢い余って、誰かが机の脚を蹴ったのだ。俺は目を見張った。クラスメイトの中に俺がいた。その俺は笑って……いや、彼は俺の視線に気付いて一瞬黙った。それきりだった。
 生徒の笑顔が教室に増えていくにつれ、俺の心は知らないうちに暗くなっていった。
 クラスメイトは無邪気だ。その無邪気が正しい方向に進めばいい。滑り台のようなベクトルの行方が誰かを傷つける地でなければいい。だけどきっと無邪気さは浅慮を伴う。行先なんて考えられない。
 俺は、ただ俺をその無邪気に入れないでほしいだけなんだ。
 生徒は集まり、先生がやってくる。朝の授業が始まった。といっても、またテスト返却なのだが。
 いくらか時間が経ったところで、教室の扉が開いた。
「遅れました」
 江藤さんだった。と、昨日のあの少女。
「おー江藤か。めずらしいね、遅刻なんて。はい、これきみのテスト」
「はい……」
 先生からテストを受け取った江藤さんは浮かない顔だ。決して点数が悪かったわけではないはずだ。背中に背負っているあの子のせいなのは丸分かりだ。霊がどう人に作用するかは俺自身も詳しいことは分からない。ろくなことではないのはたしかだが。
 肩を落とした江藤さんは廊下側の席に座った。どすん……そんな感じがした。重たい、教室の空気がとても。
「タチノくん」
 江藤さんの声がした。彼女ではない。
 無視しろ。今までそうやってきただろ。放っておけばいいんだ。
 実際、クラスメイトが霊を連れてきたことは今まで何度か会った。話したことないが向こうの加嶋さんは人身事故でぐちゃぐちゃになって男につけられていたし、話したことないがあっちの川部君は忌引きで休んだ翌日におじいさんをおんぶしていた。霊に憑かれるなんて、めずらしいことじゃない。
 教室はまだテスト結果の自慢や自虐のやりとりで騒がしい。呆れ顔の先生は問題の解説をしているが、ほとんどの者は友達と喋っている。
 俺はちらりと江藤さんを見た。具合が悪いらしく、机に突っ伏してしまっている。普段はすっと背筋を伸ばして座る彼女があんなにだらしないのは初めてみた。
「エッちゃん。何点だったぁ?」
 杉谷さんが江藤さんのもとへ行き、彼女の肩をたたく。その後、少女の首をすり抜けた手を杉谷さんは揉んだ。違和感があるのだろう。
「おい杉谷、一応授業中なんだから立ち歩くなって」
「だってアタシの点数じゃ説明きいたってムダだもん」
 だからきくんだろ……先生は溜め息をついて諦めた。
「うおっ、エッちゃん苦手科目ないねェ!」
 席がいくらか離れているため、二人の会話はよくきこえない。
「ってかどうした? もしかしてインフル?」
「違うよ……。なんか気分が重いの」
「ウッソー? 帰ったら? 帰った方がいいよー。アタシなら帰るねえ」
「うん」
「タチノくん」
 江藤さんの声だ。気付くと少女が俺を見ていた。ニンマリと笑っている。俺は視線を前に戻した。無視すればいいんだ。
「保健室いきなよ」
「うん」
「顔色マジ悪いってー」
「うるさいな……!」
 思わず二人を見てしまった。他の何人かのクラスメイトもそうだった。あの穏やかでちょっと天然の江藤さんが、あんなふうに人にあたるなんて。
「な……なによっ」
 杉谷さんも圧倒されて、それきり自分の席へ戻っていった。少女はケタケタとアゴを震わせ、江藤さんは後悔混じりと溜め息をついた。
 明らかにあの子の仕業だった。どういうわけか、俺が塩で追っ払ってしまったせいで江藤さんに憑いてしまったのだ。
 俺のせいか? まさか、無視してればいい。どうせそのうちどっかいくさ。江藤さんだって、きっと今日は女の子の日とかそういう……、たまたま機嫌が悪いんだろ。
「…………」



「それは完全にその女の子のせいねぇ」
 ソファに座る母さんはバナナの皮を剥きながら言った。テレビは不倫物のドラマ……の、やっぱり再放送。
「やっぱり? そうだよなぁ」
 俺は食卓に頬杖ついた。
「あなたがどうにかしないとダメよ。あら、やだこれ傷んでるー」
 傷んでできた黒ずみに顔をしかめ、しかし母さんはぱくっとバナナをかぶっと。
「あなた、田宮の時だってさんざんうじうじしてたじゃないの」
「先生は……だって死んじまったから…………」
「そのエッちゃんだって思いつめたら何するか分からないわよ?」
「そんな……」
 俺は母さんを見た。母さんはソファからわざわざ振り向いて俺を見ていた。今日は少し、傷が目立つ。だから振り向いたのだろう。
「俺にどうしろってんだよ」
「あなたで考えなさい。ちょっと、ほら、ゲームで息抜きでもしてからでいいから」
 母さんがちらりとテレビ台の下にあるプレステツーに目を送る。
「いいかげん使い方覚えてくれ」
 やれやれと呟いて俺はゲームを用意する。キッチンファイター3だ。ゆるいキャラの格闘ゲーム。俺が中古でテキトーに買ってきたら母さんがハマった。
「後ろのスイッチ押して、この緑のとこ押したら出来るから」
「だってたまに違うの入ってるじゃないの。この間なんかビックリしたわよ」
「うっ……!」
 以前、俺はビックリするようなDVDを不覚にも一生もんのミステイクでそのままにしてしまった。母さんはそれをたまにからかう。父さんにまでバラされた。父さんは理解してくれたけど。
 母さんは大きなお尻を上げて、バナナの皮を台所にあるゴミ箱へ捨てにいく。その間にゲームを起動させた。
 戻ってきた母さんとソファで並んで対戦をする。前までは手加減していたけど、最近じゃあうっかりしてるとやられる。母さんのお気に入りキャラは、中華鍋の使い手ミスターチャーハン。俺は割烹女将ミソ・サバ子。
「あなたその人よく選ぶわね」
「母さんもチャーハンばっか」
「好きだもん。あなたはあれでしょ、胸の大きい人が好きなんでしょ。あっ、ハメ技やめて」
「これがサバ子さんの正当な闘い方」
 がちゃがちゃとボタンを押す音がリビングに響く。何戦もする。そろそろカーテンを閉める頃だ。
「母さんは結婚した時に見えなくなったんだっけ?」
 チャーハンにとどめを刺そうとしたが、俺が使うコントローラは若干十字キーがイカれている。サバ子の出刃包丁は空を切った。
「このわたしに勝ったら教えてあげる」
「あ、婚姻届を出した日だっけ?」
「ちっ……がう!」
 チャーハンのコンボが炸裂した。母さんが独自に編み出した技だ。サバ子のように遠距離系にはキツイ。俺はこてんぱんにやられてしまった。
「勝った!」
「負けた。まぁ父さんにきくからいいや」
 俺は立ち上がり、リビングのカーテンを閉めた。窓の向こう、夕闇の通りを首の無い人が歩いていたが、これは華麗に無視できた。
「お父さんには口止めしてあるから」
 そう母さんが言ったところで父さんが帰ってきた。玄関の鍵を回す音をききつけて母さんは犬のように駆け出す。
「おっかえりなさーい!」
「ただいま。お待たせ、すぐごはんにするよ」
 俺は遅れて玄関に行った。そして苦笑い。
「父さん、後ろついてきてるよ」
「えっ、また? えー……。そこでいきなり肩が重くなったのはこれか」
「えー! じゃあお父さん行っちゃうの……?」
「ああ。わるいけど味噌汁とサラダくらい作っといてくれ」
 父さんは俺を見た。それから上着を脱ぎ、革靴からスニーカーに履き替える。後ろには、先ほどの首の無い男が立っている。
「じゃあ、いってくる」
 父さんは家を出た。男がよたよたとついていく。ぱたんとドアが閉まる。
「父さんも相変わらず憑かれやすいね」
「霊も惚れるほどハンサムだからね」
 体質的に憑かれやすい父さんには独特の除霊方法がある。強引に霊を振り切るのだ。町内をテキトーにぐるぐると走り回って。有名大学の襷を肩に箱根駅伝も走った自慢の脚力に食らいつく浮遊霊はいない。あの少女みたいにしがみつけばいいのにとか思うけど、父さんにしがみついた霊は見たことがない。
「霊感家族だよなぁ」
 俺はぼそっと呟き、副菜を作りに台所へ向かった。

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