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虫の村

それが白日のもととなったのは1981年初夏のことだった。千切られた雲雲に蝉の鳴き声が裂き入り、かんかんとした太陽はなにか見つめているようにも感じた。
 さて、手始めに何を話したものか。今考えてもゾッとするような事件だったと思う。近隣は山々に囲まれ、特にこれといった名産品、名所もないがニラとブロッコリーのおいしいS村はこの春大きな問題に見舞われていた。それは春とは思えぬ大熱波である。地面は裂け、水は干ばつ状態、更には虫による被害にあっていた。中でも虫の被害は増大で、毎年虫による被害はあるが今年は家の基礎にまで影響を及ぼすほどであった。虫はバリバリと家の基礎や野菜の苗を食べ尽くしては山に帰り、来る姿はまさにカラスの巨群であった。
 これはいかんと立ち上がった老人たちは大量の農薬を使い、虫を追い払い一時はなんとかしのいだもののいつまたやって来るか分からない巨群の虫達に百姓共は恐怖に怯えていた。虫を見ればヤァヤァと叫びたて大量の農薬を散布した。しかし虫達も黙ってはおらず毎年春には山から下り垣根を越え貪っていた。この陳腐な戦いに大きな変化をもたらしたのは1870年代後半のこととされている。大量の農薬散布によって虫達は変身を遂げた。最初は苗を食べるだけだった虫達もやがては人を襲うようになったのだ。農薬の影響で大きくなった虫達は人を囓り、人に害を為すまさに「害虫」となり何人もの死人を出した。しかし村の老人はこれを神の祟りとして、農薬のせいとは思いもしなかった。農薬散布を声かけした老人は全身を囓られ脳まで食われた。これを神の祟り、山の怒りというのだ。現代社会に生ける我々にはさぞ馬鹿な話だろう。しかし外部との連絡の途絶えたこの村ではそれが如何に恐怖であったか知る由も無い。神の祟りから逃れるためまず神社が建てられた。ここに様々な野菜を供物として置き、空っぽな神を崇拝した。だが祈れど祈れどおらぬ神には思いは届かぬ。虫は刻々とその時を待ち腹が膨れるまで人を貪るのだ。
 次に対策として取られたのは春から夏の期間だけ防空壕に逃げ込むというものであった。しかしこれでは家ががら空きになってしまう。故に虫の通り道と言わんばかりに家や畑はボロボロになってしっまっていた。春から夏は防空壕に隠れ、秋から冬に家の修理をする。そのうちこれがこの村の習慣になってしまっていた。満足に取れぬ野菜は供物に捧げられ、疲弊していく体力は家の修理で限界になっていた。ここで村の人々を思った老人が悪魔の発想にでる。いわゆる「生贄」だ。村総出で若者を吊るし上げ、やれ悪人だ、やれ忌み子だと理由をつけ春になると一人外に放り出される。当然理にかなったこの生贄は効果を出し、家も畑もそんなに傷がつかなくなった。ただし毎年秋には白骨屍体が転がるようになった。お天道様もこれを許さなかったのだろう。もともと老人の多く、若者の少ないこの村では生贄の風習はすぐにどん詰まりとなった。さらに生贄は一人では足りなくなってきたのである。若い者から順に食べられていき、ついに村の最後の一人になった。農薬も効かぬ、生贄もおらぬ、この状態を乗り切ろうと考えることはもうできなかった。最後に外の空気でも吸いながら虫に喰われようと決意した老人はもう何年もあびていない初めての春の陽の光を浴びた。なんと暖かな日差しであろう。ここで横になり老人は寝てしまった。目が醒めると小さな蝶々がひらひらと飛んで老人はあっけらかんとしてしまった。そうして気づいたのである。もう虫はこの村を見限って別の村を侵略していることに。老人は笑ってしまった。あの若者たちは餓死していたのだ。お互いを食らって生き延びようとしたのだ。虫なんてとうの昔にいなくなっていたのだと。本当の害虫は人間の脳ミソであり、悪魔の発想に至ったあの軽率な行いが起こしたものであったと。老人はゆっくりとそこにあった椅子に腰掛けた。このような暖かさなら日照りも悪くないな、と感じながら。太陽は全て見てそして奪ったが愚かなのは常に人間だと気づかせてくれる。

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