16
母さんに何が起きたのか。
答えはやはり、父さんだった。
玄関先で話す事じゃない、と兄さんに促されてダイニングへ。
母さんがさっきまで作っていたのだろう。食卓には料理が所狭しと並んでいた。
「退院したばかりなんだから、無理するなって言ったのに」
「あら、こんなの全然無理でもなんでもないわ。それに、食事は一汁三菜がないとね。母さん、食卓にお皿が少ししかないのって、碌に物を食べられなかった頃を思い出すから嫌なの」
戸惑う私に、母さんは本来こういう人だったんだぞ、と兄さんが教えてくれる。
母さんが子供の頃はとても貧乏で、食事が満足に食べられなかったのだそうだ。
「それなのに、私ったら。母親である事を放棄して、あなた達に同じ思いをさせてしまっていたのね。本当にごめんなさい」
頭を下げた後、冷める前に食べて、と促されて席に着いた。
「昨夜ね。竜樹さんが逢いに来てくれたの」
母さんが味噌汁とご飯をよそり配膳しながら語る。
迎えに来てくれた、と喜ぶ母さんを父さんが一喝したらしい。
「子供にお腹いっぱい食べさせるのが君の夢じゃなかったのか、って怒られたわ。竜樹さんが死んだのは、誰のせいでもなく竜樹さん自身のミスだって言ってた。それで誰かを責めたり憎んだりしているなら、悲しいって」
母さんは父さんに依存しまくっていた。それは崇拝にも近いように感じるほどで。
だから父さんが死んだ後、自殺未遂を繰り返すようになったのだった。
父さんはそこを逆手に取って母さんを説得したようだ。
「二人と、特に夏樹と仲直りしないまま来たら絶対に許さないって。ちゃんと寿命を全うしないと嫌いになるって言われたの」
それは母さんにとって強力な脅し文句だっただろう。
それで今この状況なのか、と凄く納得した。
「母さん、もう死にたいなんて言わないわ。だから、ちゃんと母親として、もう一度やり直させて欲しいの」
その顔はどこか晴れやかで。
きっと、母さんは本当にもう大丈夫なんだろう。
後は私と兄さんが母さんを受け入れられるかの問題で。
ふと兄さんが私をじっと見ている事に気付いた。
今ならもう間違えない。
兄さんは私を心配してくれているのだ。
私は兄さんに頷いて見せると、母さんに向かって口を開く。
「うん、お帰りなさい、母さん」
自分でもわかるほどぎこちない笑顔を作る。
「今、母さんって……」
母さんが両手で口元を押さえる。
そう言えば、もう何年も母さんとは呼んでなかった。
七年前、母さんが部屋に火を放つ少し前くらいからじゃないだろうか。
母さんと呼ばれたのが相当嬉しかったのか、泣き出してしまった。
その後、これまでの溝を埋めるかのように、私たちはたくさんの話をした。
母さんは父さんとの出会いや思い出を語り。
私たちを産んだ時の事を思い出したと言ってはまた泣き。
兄さんは仕事の事、恋人の事を語り。
恋人の話に母さんが食いつき、今度連れてくる事になった。
私は、兄さんが聞きたがったのでバイトの話をした。
香月君との出会いや、要さんに頼まれた仕事内容。
正式にはまだ雇用されていない事も。
「そんな訳で、明日からバイトしたいんだけど」
「お金が溜まったら、出ていくのか?」
「そんな……せっかくこれから三人でやり直そうってなったのに……」
「ううん、確かに、昨日バイトするって考えたのは家を出るためだったけど。昨日今日手伝ってきた事で、私でも何かできるんだって思えたの。誰かの役に立てるって、初めて思えたの。だから、続けたい」
「……やればいいよ。ただし、あまり遅くならないこと」
絶対に反対すると思った兄さんからまさかの賛同の声が上がった。
「母さんと二人きりになる時間が短い方が良い」
「冬樹、酷いわ。……でも、そう言われるだけの事をしてしまったんですものね」
「それに、本庄さんだっけ? 一昨日も昨日も送ってくれてただろ」
「知ってたの?」
「ああ。そういうのちゃんとしてくれる人なら安心だ」
兄さんも母さんも、私がバイトをする事には賛成だという。
「夏樹がちゃんと考えた上でやりたいって言ったからな。頑張ってみればいい」
「うん、ありがとう」
私がお礼を言うと、二人とも目を丸くして私を見た。そして、
「うん、もっと早く、こうして話し合えば良かったな」
と少しだけ悲し気な笑顔で言った。
その後も一頻り話し合って、夜が更けた。
こんな夜は初めてで、夢心地のまま布団に入る。
ここ数日で私の人生を変えるくらい、本当にたくさんの事が起きた。
必要とされて、頑張ろうって思えた。
ありがとうって言われて嬉しかった。
初めて貰った給料が誇らしかった。
家を出る理由がなくなった今、今度はちゃんと自分と向き合いたい。
何ができるのか、何をしたいのか。
自分の可能性を信じたい。
自分の内側から力が湧いてくるような。
これが幸せって事なのかな、父さん?