バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

FINAL FUGA

冬の夜道をポタポタ歩く。
今日が誕生日だったことを思い出す。
27歳では死ななかったなとぼんやり考える。
アパートに着いてドアを開ける。
ワンルーム、ユニットバス、水道代込み3万5千円。
部屋の片隅にフェンダーのストラトキャスターが立てかけてある。
弦は錆び付いている。
きっと自分の人生と同じぐらい錆び付いているだろう。
かじかんだ指に息を吹きかけてから、弾く。
メリークリスマス、ミスターロレンス。
音楽は素晴らしい。
インスタントラーメン、インスタントコーヒー。
将来という文字は辞書にない。
世界は悪意で満ちている。
そして永遠に何も無いのだから。

翌日、集合時間の5分前に駅に到着。
7時半ちょうどにリーダーらしき人物がやって来て、点呼をとる。
何の説明もなく黙って歩きだしたので、その後について行く。
愛想のない、偉そうな奴。
バス停で30分待つ。
バスに乗り、現場に到着したのが8時半。
それからさらに30分待ち、仕事が始まるのが9時。
交通費は出ないし、1時間半の拘束時間にも時給は支払われない。
時給は850円×8時間×20日程度。
ギリギリやっていける。
つねづね、趣味は何かと聞かれたら銭勘定だと答えようと思っている。
そんな質問をしてくれる他人なんかいないけど。

年末年始は仕事がない。
ひたすら眠り、時間の感覚がなくなる。
布団の中でウトウトしていると、携帯電話が鳴ったので起きる。
ひと息ついてから、出る。
「...はい、もしもし」
「もしもし」
実家の父からだ。
「元気か?」
「うん、まあ...」
「仕事は?」
「ぼちぼち」
「帰ってこんのか?」
「...やめとく」
「いつもすまんな」
「え?...ああ、うん」
「寒いから風邪とかひかんように」
「...」
「いつでも帰ってきたらええから」
「わかった」
電話を切って、長いため息をつく。
生きていることを知らせるために、月に1度電話をかける。
話すのはいつも父になる。
母からかかってくることはない。
実家はアパートから自転車で20分の距離。
ひとり暮らしの費用は全部自分で貯めた。
今は毎月1万、仕送りしている。
人の心配をするより、自分たちの心配でもすればいい。
でも、こちらも年金を滞納したりしているので五十歩百歩なのかもしれない。

年が明け、今日は3日。
そろそろバイトがあるのて、リハビリがてら外出することにする。
行き先は楽器店に決めた。
iPodで音楽を聴きながら電車に揺られていると、駅に着いた。
少し歩いて、目当ての店に入る。
セール中なのか、結構人が多い。
何をかうでもなく、飾られているギターを見る。
格安のもの、ガラスケースの中の名器たち。
見ているだけで、楽しい。
zo-3ギターを見つけて、苦笑いする。
1番最初に買ったのが、このギターだった。
zo-3ギターはミニギター。
ネックが短く、チューニングが狂いやすい。
初心者向けではない。
たしか4万近くしたと思う。
10年弾いて、最後は壊れた。
今でも音感が悪いのは、このギターのせいだと思っている。
気が変わり、消耗品の弦を買うことにする。
3つセットになった、ダダリオのレギュラーライト。
レジに並ぶと、目の前の客がギブソンのレスポールを購入していた。
「22万5千円になります」
親らしき人物がクレジットカードで支払う。
ネック折れろ!どっかにぶつけてボディに傷つけ!
そんな呪いの言葉を心の中で呟いていると、自分の番が回ってきた。
「1600円になります」
支払いは現金。
親にギターを買ってもらったことなんかない。
しかもあんなに高いギター!
憮然とした態度で、支払いを済ませる。
出口に向かうと、壁にメンバー募集の貼り紙が貼ってある。
ビッシリと文字が書いてあるものがあって、ビジュアル系の募集のようだ。
そんななか、一際目立つ貼り紙があった。
"ギター急募!ほんとに急いでます"
それだけが大きな文字で書かれてある。
バカなんじゃないだろうか...
下にある連絡先の部分を破り、階段をあがった。
地上に出て破り取った紙を見ると、携帯電話の番号が書いてある。
こういうのは勢いが大事なので、すぐにかけることにする。
呼び出し音2回で、相手が出た。
頭の中で言葉を探している途中だったので「お忙しいところ失礼します」と言ってしまった。
すると「お電話ありがとうございます」と若い女性の声。
「メンバー募集の貼り紙を見て、電話してくれたんですよね?」
「え?ええ、はい」
「早速なんですけど、いつなら会えます?」
「えーと...」
「今日、時間あります?」
「ええ、まあ...」
「どっちですか?」笑い声まじりで、そう返ってきた。
「大丈夫です。空いてます」
「今、どこですか?」
場所を告げると「そうですね...4時にスタバで待ち合わせしましょうか」
「はい、わかりました」
「じゃあ、よろしくお願いします」
電話が切れた。
急転直下。
4時まで、まだ1時間以上ある。
さて、どうしたもんか...

少し考えた末、別の楽器店で時間をつぶすことにする。
さっきの電話が気になって、ギター鑑賞に集中できない。
結局、20分も前にスタバに入ることにした。
320円のコーヒーと400円のサンドイッチで合計720円。
高い...
だいたい外で飲み食いする、というのが信じられない。
たかがコーヒーが何百円もするのだ。
自動販売機で買えば120円だし、ドラッグストアでメーカーを問わなければ40円ほどで買える。
違いがわからない人間には無意味である。

食べ終わり、トイレに行く。
手を洗った後、髪を整えたことに我ながら驚いた。
人目を気にしている、ということだ。
まだこんな感覚が残っていたのかと思う。
メンバー募集の相手と会うのは、今回で2度目だ。
前の時は男性2人で、完全プロ志向だった。
彼らは、自分たちの作るオリジナル曲に絶大な自信を持っていて、インディーズでやってきた自負もあるし、周りのバンドがどうやってデビューしていったのかも知っているらしかった。
それによれば、まず路上のフリーライブで固定ファンを獲得し、その客を今度はライブハウスに呼び込み、動員数を上げるといったものだった。
練習のためには睡眠時間を削れだの、機材やライブのために借金する覚悟を持ってほしいだの、求めるポテンシャルが凄まじく高かったので、途中からどう断ろうかそればかり考えていた記憶がある。
彼らは今、どうしているのだろう...
バンド名は聞かなかった。
ひょっとすると、どこかでメジャーデビューしているのかもしれない。

その時、携帯電話が鳴った。
「もしもし」
「あ、もしもし。今、どこですか?もうスタバ、入ってます?」
「ええ、はい」
「もう少しで着きます。今お店の中に入りました。うーんと、どのへんですか?」
すると店の入り口からキョロキョロしながら携帯で話している人物が入って来たので、こちらを向いた時に手をあげて合図を送った。
「あ、いたいた。わかりました」
電話が切れる。
腕時計を見ながら「すみません、お待たせし...てはないですね。私も注文してきますね」
しばらくすると、戻ってきて席につく。
「はじめまして」
「はじめまして」
沈黙。
...おかしい。
普通、メンバー募集したほうから色々聞いてくるものだが、さっきからコーヒーを飲んだまま黙っている。
このまま黙っていてもラチがあかないので、こちらから質問する。
「...あの、メンバー募集の貼り紙を見たんですけど」
まだ黙っている。
「詳しいことがわからなくて...ギター急募、としか書いてなかったし」
「ほんとに急いでます、っていうのも書いてありましたよ」
「はあ...」
「どんな音楽を聴くんですか?」
「色々です」
「例えば?」
名前を挙げるのが面倒なので、伝家の宝刀。
「ビートルズとか...」
「私も聴きます」
若い女の子でも聴くんだな、と思う。
ビートルズとくれば次に聞かれるのが、どのアルバムが好き?というやつだ。
先手必勝だと思い「どのアルバムが好き?」と聞いてみる。
「ホワイトアルバム、かな...そういえば、まだお名前聞いてませんでしたね。私はスズキです」
「霧島です」
「下の名前は?」
あまり言いたくないが、仕方ない。
「永無」
「エイム?カッコいいですね」
どういう意味だろう。
「どんな字を書くんですか?」
「永遠の永に何も無いの無」
「ふーん、なんか、お経みたいですね」
お経?ああ、南無阿弥陀仏とかいうやつか。
霧島永無、いつまで経っても好きになれない名前。
「キリシマさんは、バンド経験は?」
「ありません」
「ギター歴は?」
「高校の時からなんて、10年ぐらいですね」
この計算でいくと、26歳だと思われるだろう。
28でバンド経験なし、というのは印象が良くない。
鈴木は何歳なんだろう?
失礼にあたらない質問を考える。
「メンバー構成と平均年齢は?」
「私以外にベースとドラムがいます。みんな女で大学生です」
大学生か...家が金持ちなんだろう。
「1度セッションしませんか?」
「え?、はあ...」
「そうですね...ビートルズならみんな聴くし...なるべく早いほうかいいですよね」
勝手に話を進めている。
どうやら一次審査は通過したらしい。
とりあえず、お互いのメールアドレスを交換することになった。
疑問に思っていたことを聞いてみる。
「さっき、メンバー募集の電話だってどうしてわかったんですか?」
「2in1してるんです。あの番号を貼り紙に書いてたんです」
「便利ですか?」
「うーん、まあまあですね。あ、今交換したのはAモードのほうですよ」
電話番号も教えてもらい、こちらは霧島という漢字を教える。
スズキは予想通りの鈴木だった。
「鈴木さんは東京の人なんですか?」
「出身は東京です。霧島さんは大阪の方ですよね」
「そうです」
「でもなんか、大阪って感じじゃないですね。イントネーションだけで関西弁でもないし」
「相手に左右されるんです。性格も暗いですね...」
「でも、話しやすいですよ」
「南のほうなんかは、訛りがキツかったりしますけど」
「ああ、いますよね。アニマル柄のシャツ着たおばさんとか」

おらは死んじまっただ~
歌っている。
規則的に胸を叩くリズム。
おらは死んじまっただ~
歌っている。
青白い顔。
これは…母さん?

翌日、携帯の目覚ましで起床。
起きて煙草を1本吸う。
何か食べようと思い、備え付けの冷蔵庫を開ける。
冷凍しておいたご飯と卵、雑炊の素もある。
メニューは決まりだ。
食べ終わり、昨日買ってきた弦を張り替えることにする。
ペグを回し、緩める。
ニッパーで切り取り、クロスで拭く。
買ってきた弦を取り出し、ボディの裏から通す。
6弦から茶、赤、黒、緑、紫、銀の順番で巻いていく。
チューニングメーターを使い、音を合わせる。
オクターブチューニング?知りません。
こんなことばかりやっているから、音感が悪いままなのである。
早速、弾いてみる。
使うのはvoxのamPlug。
せっかくなのでビートルズを弾こうと思い、スコアを探し出す。
持っているのは、青盤のスコアだけだ。
弾けそうな曲だけ弾く。
それなりに弾けた。
もっとも弾けている、のレベルが低すぎる可能性もなきにしもあらずだが...

ギターもほどほどにノートパソコンでYouTubeを見る。
実は以前、ニコニコ動画にギターを演奏したものを投稿してみたことがあった。
再生回数が少なく、下手くそという評価だったので、すぐに削除した。
次に、以前オークションで落札していたゲームをプレイ。
オープニングムービーが綺麗。
14インチのテレビじゃなかったら、もっと綺麗だっただろう。
操作に慣れるのに少しかかる。
今はゲーム中にチュートリアルがあるから、説明書は見ない。
説明書といえば、血液型別の説明書という本があって読んだことがある。
病院の待合室で読んだのだ。
なぜ病院に行ったのかというと、宅配ピザに中ったからだ。
風邪ぐらいなら薬局で済ませるけど、あの時ばかりはお腹を下して、嘔吐もしたので病院に行った。
健康保険はさすがに払っている。
たいがいどの血液型にもあてはまることが書いてあった。
占いなんかもそうだが、ラッキーカラーやラッキーデイを1ヶ月間覚えていられる能力の持ち主なら、本人の力量でなんとかなるんじゃないだろうかといつも思ってしまう。
とにかく街が広い。
王宮を奥へと進み、地下道をくぐり抜け、地上に脱出。
戦闘、物語の進行を繰り返す。
気がつくと、日が暮れていた。

適当にインスタントラーメンを食べる。
テレビをつけてチャンネルを回すと、クイズ番組をやっていた。
解答者の漢字の書き順が気になる。
子供の頃、習字を習っていたからだ。
習わせたのは父だった。
思えば、子育てに熱心だったのは父のほうだった。
父は努力して努力して、そして酒とギャンブルに逃げた。

バイトの日々が始まった。
月曜日に鈴木からメールがあり、セッションは土曜日午後3時から、とのことだった。
問題ないので、その旨を伝える。
セッション前日、{明日、楽しみにしてます}とメールがきたので{こちらこそ、よろしくお願いします}と送っておいた。
他人と合わせて、ギターを弾いたことなんかない。
ニコ動で下手くその烙印を押された自分が、通用するだろうか?
不安を抱えたまま、眠りについた。

翌日、15分前にスタジオに到着。
入り口に灰皿があったので、煙草を吸う。
そこでライターを忘れてきたことに気付く。
5分前になったので、鈴木にメールしてみると{すぐ行きます}と返ってきた。
指で煙草をもてあそんでいると、階段から鈴木が降りてきた。
先に来ていたようだ。
「こんにちは。煙草、吸わないんですか?」
「ライターを忘れてきたんで...」
「あ、私ライター持ってますよ」そう言ってポケットから差し出したので、借りることにする。
「フェンダー?それともケースと中身は別のパターン?」
持っているケースにフェンダーと書かれているからだ。
「ケースも中身もフェンダー」
「テレキャス?」
「ストラト」
「ローズウッド?」
「メイプル」
「ブラウンサンバーストでしょう?」
「いや...」
「じゃあ、ブラック」
煙を吐きながら、首を横に振る。
時間なので、エレベーターで2階に移動する。
鈴木の案内で、Fの扉を開ける。
中からドラムとベースの音が聞こえてくる。
扉を閉めると、ピタリと止んだ。
部屋の奥にドラムが置いてあり、そこに1人。
その斜め前にベースがいたので、軽く会釈する。
リズム隊は、それを無視した。
「スコア、持ってきました?」鈴木にスコアを手渡す。
「どの曲にします?」
まず、早急にイニシアチブを取らなければならない。
なぜなら、弾ける曲が4曲しかないからだ。
「get backとか...」
異論はないらしい。
鈴木は、キーボードの前に座る。
それぞれ音を出して確認。
ドラムのカウントが始まる。
イントロからタイミングがずれてしまった。
集中して合わせる。
途中でどこを弾いているのか、わからなくなる。
所々、音が途切れる。
なんとか弾き終えて、もう1度同じ曲。
誰も歌わない。
3回目、遠慮がちにサビを歌ってみた。
このほうが、しっくりくる。
最初は緊張していたけど、だんだん楽しくなってくる。
調子に乗ってきたところで「そろそろ終わりましょうか」と鈴木。
そうか、スタジオを借りている時間があるのだ。
後片付けをして、部屋を後にする。

入り口で解散。
リズム隊は無言で去って行った。
「すいません、愛想がなくて...最近いつもあんな調子なんです」
「そうなんですか...」
「歌ってましたね、好きなんですか?歌うの」
「いや、あれは...」
「いい声でしたよ」
社交辞令だろう。
「この後、時間あります?」
「いえ、ちょっと...」
早くアパートに帰って、ギターを弾きたかった。
「そうですか...明日は?」
「午後からなら」
「じゃあ、空けといてください」
「了解です」

翌日、昼過ぎに目が覚める。
携帯を見ると、鈴木からメールがきていた。
{起きたらメールください}とあったので{起きました}と送る。
すると着信があるので、出る。
「もしもし。おはようございます」
「おはようございます」
「今日、どこかで会えませんか?」
「いいですよ」
「霧島さんって、どこに住んでるんですか?」
住所を伝えると、アパートの近くのデニーズで会うことになった。

身支度を整えてダラダラしていたら、鈴木から着信。
店に到着して待っているとのことだった。
アパートを出て店に向かう。
店に入ると奥の席に鈴木がいた。
「こんにちは、早いですね」
黙って頷く。
「何か頼みます?私も頼んだんで」
ハンバーグのセットを注文する。
「昨日セッションの後、何してたんですか?」
「ギター...」
自分のコミュニケーション能力のなさに呆れる。
鈴木が頼んでいたのだろう、スパゲティが運ばれてきた。
しばらく、スパゲティを食べるのをぼんやり眺めていた。
視線に気付いたのか「霧島さんは、どうしてギター選んだんですか?」と聞いてきた。
「消去法です」
「消去法?」
「はじめはドラム希望だったんです」
「どうしてですか?」
「ずっと座ってられるから、楽なんじゃないかと思って...」
「ドラム、どうしてやらなかったんですか?」
「中学の時の友達に、左手で△右手で□を書き続けてみろって言われて、出来なかったんです」
「それでギターになったんですか?」
「いや、次に希望したのがベース」
「理由は?」
「ギターより弦が少ないから、楽なんじゃないかと思って...」
「楽したがりなんですね。それならボーカルは?希望しなかったんですか?」
「楽したがりが、もう1人いたんです」
「その時の友達とバンド組んだりしなかったんですか?」
「高校でバラバラになって、それっきりでしたね」
頼んだハンバーグのセットが運ばれてきた。
「でも面白いですね。消去法でギター選んだ人、はじめて見ました」
「鈴木さんは、どうしてギター弾き始めたんですか?」
「家にギターがあったんです。それを弾き始めたのがきっかけですね」
「ギター、何本持ってるんですか?」
「エレキが2本とアコギが1本です。霧島さんは?」
「エレキとアコギが1本ずつです」
「ストラトでしたよね」
「そうです」
「ストラト、良いですよね。フォルムが完璧」
「持ってるんですか?」
「いいえ」

「今日はこれを渡そうと思って来たんですよ」
鈴木は、鞄の中から何か取り出す。
ビートルズの赤盤のスコアだ。
「どうしたんですか?それ」
「昨日、セッションの後買いに行ったんです」
そう言ってこちらに差し出すので、手に取ってパラパラとめくる。
「霧島さん、ボーカルとるでしょう?次のセッションは、この中からの選曲にしたらいいんじゃないかと思って」
「別にそんなに歌いたいわけじゃないですけど...」
「でも良かったですよ。良い声だし。私としては霧島さんにボーカルをとって欲しいんです」
「まあ、それは保留、ということで...聞き忘れてたんですけど、プロ志向なんですか?」
「もちろん」
「オリジナルの曲は?」
「あります」
「誰が作ってるんですか?」
「私です」
「すごいですね」
「霧島さんと一緒なら、やれそうな気がするんです」
ほめ殺しである。
怪しい...
鈴木はこちらを見つめている。
急に「霧島さん、モテるでしょう?」
「いや...そんなことないですけど...」
「デートとかしないんですか?」
苦手なジャンルに話が及びそうだ。
矛先を変えなければ...
「鈴木さんこそ、どうなんですか?」
「私、今付き合ってる人いないんで」
「大学とか行ってたら、出会いも多いんじゃないですか?」
「出会えばいいってもんじゃないですよ」
なかなか意味深なことを言う。
「霧島さんは、どんな人がタイプですか?」
「いえ、別に...とくにありませんけど。鈴木さんは?」
「やっぱり、自分をわかってくれる人がいいですよね。理解してくれる人が」
「はあ...」
「でもなかなかいないんですよね、そういう人。束縛されるのも嫌なんですよ」
「そうなんですか...」
「いません?ああしろこうしろってうるさい人」
「さあ...」
「ほんと、嫌になりますよね」

駐車場で、鈴木は黒い軽自動車に乗り込む。
軽自動車か...好感が持てる。
「次のセッションなんですけど、来週の土曜日でどうですか?」
「わかりました」
「その日までにスコアの曲、マスターしといてくださいね」
アパートに戻り、赤盤のスコアを取り出す。
シンプルな曲が多く、ボーカルもとりやすそうだ。
だからといって、ボーカルになるつもりはない。
それとこれとは別なのだ。

土曜日を迎え、いつものごとく昼過ぎに起きる。
落ち着いて、ライターも忘れずに持って行く。
スタジオの前まで行くと、3人が待っていた。
「こんにちは」自分から話しかけてみる。
考えてみれば、こちらのほうが年上なのだからら、これぐらいは当たり前だろう。
「こんにちは」鈴木が答える。
2人は黙ったままだ。
鈴木が肘でドラムをつつくと「ドーモ、コンニチハ」と挨拶する。
挨拶した後、これでいいのか?といった顔で鈴木を見る。
鈴木はベース担当も肘でつつく。
すると、渋々といった感じで会釈をする。
こちらから、歩み寄ったほうがいいんじゃないかと思い「霧島です」と言ってみる。
「知ってる」
「聞いてる」
2人そろって返事をした。
鈴木が小さくため息をつき「ハットリさんとハセガワさんです」と紹介してくれた。
ドラム担当がハットリ。
ベース担当がハセガワ。
しばし沈黙。
沈黙を破ったのは、ハットリだった。
「じゃあ、行きますか?はい、入った入った」そう言って、建物の中に入る。
今日使うのは、Bスタジオ。
それぞれ、楽器のスタンバイをする。
鈴木はギターを持って来ていた。
フェンダーのテレキャスター、レイクプラシッドブルー。
こちらは赤盤のスコアを取り出し、渡す。
「何やります?」
「今日はキリーがボーカルとるんやろ?」
「ちょっと、霧島さんに失礼なこと言わないでよ。すいません」
「いえ...いいですよ」
マイクもセッティングする。
アイコンタクトで演奏が始まった。
遠慮がちに歌う。
何度か同じ曲を演奏する。
あっという間に2時間が過ぎた。
スタジオを後にして帰ろうとすると、鈴木が「霧島さん、この後時間あります?」と聞いてきた。
「いいですよ」と答える。
「ちょっと、4人でお茶でもどうかと思って」

ファストフード店に入り、注文。
少し積極的に質問してみることにする。
「3人はどれぐらい前から一緒にやってるんですか?」
「私とハットリさんが高校の時からで、ハセガワさんとは大学に入ってからです」
「ずっと3人だけだったんですか?」
「ほぼ3人」ハットリがポテトを食べながら続ける「ノアが事あるごとに誰か連れてきては長続きしない、の繰り返し」
「ノア?」
「私の名前です」
「だから今回もどうせ長続きせぇへんやろうって思ってんねんけど」
「今回は別。別格です」
「別格って...オーバーやなぁ」
「あの、プロ志向って聞いたんですけど...」
「また、そーいう大風呂敷広げるやろ?」
「あたしは現実主義者です」
「ほ〜う、オリジナルが4曲しかなくてどうすんの?なりたかったら、もっと曲書き〜や」
「完璧主義者なの!曲の断片だったら、もっとあるもん」
「結局、就活からの逃避やろ?」ハセガワが口を開く。
「違うって...2人はどうするの?」
「ウチは休みがあって、ボーナスがあったらどこでもいい」
「何それ〜ミナミは?」
ハセガワの名前なんだろう。
「バイト先の店長が雇ってくれるって言ってる」
「バンドは?」
「アマチュアでやっていければいいし...」
「夢がない〜」
「夢だけではメシは食われへんの。だいたいこのバンド、ほとんど活動してへんやん。ウチらだって別のバンドのヘルプ入ってライブやったりしてるし、ノアがライブ嫌いっていうのが問題あるんやろ?」
「だって人前で歌いたくないんだもん。でも霧島さんが入ってくれたから、もう大丈夫!」
どうやら正式にメンバーに迎えられたらしい。
ボーカルにもされてるし...
「あのクセ直せんの?」ハットリがコーラを飲みながら言う。
「クセ?」
「ま〜ちょっと聞いてくださいよ。この鈴木ノア、とんでもないクセの持ち主なんですよ」
「その話はいいじゃん、別に...」
「この子、彼氏が出来たらバンドそっちのけになるんですよ。要するに今は彼氏がいないから、バンドに熱あげてるだけってこと」
「そうなんですか?」
「誤解です」
「だから、いつまたそっちのけになるかわからんから、相手するだけ無駄なんです」
「そうなんですか?」
「違います」
「...本当にプロになる気はあるんですか?」
「あります」鈴木が恭しく言う。
「どうやって?」
「デモテープ、とか」
「ライブで動員増やさなあかんやろ?」
「ライブする気は?」
「霧島さんがボーカルをとってくれるなら」
「キリーはどうなん?」
「えーと、まあ、保留で...」
「霧島さんも本気になってもらわないと」
3人の視線がこちらに向けられる。
でも、それに応えることは今はまだ出来なかった。

相変わらずのバイト三昧。
水曜日に鈴木からメールがあり、金曜の夜バイト終わりに会うことになった。
金曜日、指定通りの場所で待つ。
いつまで経っても、黒の軽は現れない。
クラクションを鳴らしている車が1台あった。
何をしているんだろうと思っていると、その車から鈴木が出てきた。
「霧島さん!」大声で呼びながら手を振っているので、急いで車へ向かう。
ドアを開けようとしたら「違う、こっちこっち」
左ハンドルである。
シルバーのボディで、なんとなく雰囲気の良い車だ。
車に乗り込む。
「おつかれさまです」
「どこに行くんですか?」
「私の家です」
「何しに?」
「着いてからのお楽しみ」
カーステレオから音楽が流れている。
宇多田ヒカルの「Distance」

鈴木は運転が上手い。
なぜなら、下手な運転だと車酔いするからだ。
それにしても、乗り心地が良い。
すると、見覚えのあるマークが目に入った。
これは...たしか。
......ベンツ!?
なんと!ベンツではないか!
「あの...この車、ベンツですよね?」
「ええ」
「どうしたんですか?」
「母のを借りて来たんです」
親の車を乗り回しているのか...いいご身分だ。
どうりで乗り心地が良いはずである。
シートベルトまで高級そうだった。
「霧島さん、何か喋ってください」
「...何かって」
「お仕事は、何してるんですか?」
「倉庫で検品とか梱包とかしてます」
日雇い労働者であることは、黙っていた。
「私、なりたい職業となかったんですよ。子供の頃からそうだったんです。霧島さんは子供の頃夢とかありました?」
「絵描き、かな」
「へぇ、美大とか行ってたんですか?」
「まさか。幼稚園の頃の夢です」
「小学校の頃は?」
「小説家」
「クリエイティブですね」
「根暗なだけですよ」
「でも今は違います。バンドでデビューするのが夢。夢というか目標ですね」
「叶うといいですね」
「霧島さんも一緒ですよ」
「道連れ?」
「そう、道連れ」

快適なドライブの末、高そうなマンションの駐車場に入る。
車を降り、エレベーターで22階へ。
ドアを開け、中へ入る。
「おじゃまします」
「どうぞ」
真っ直ぐな通路を進み「ここが私の部屋です」
何畳ぐらいあるんだろうか、かなり広い。
見るからにお金持ちの部屋である。
部屋の中には、キーボードとギターが置いてある。
ギターはこの間見たテレキャスと、もう1本はムスタングだ。
アンプも置いてあり、voxのpathfinder10とオレンジのミニアンプ。
それにマイクロキューブがあった。
マイクロキューブは前から興味があったので「これ、どんな感じですか?」と聞いてみる。
「使いやすいですよ。ディレイとリバーブもおもしろいし」
「へー、いいな...」
「そんな物欲しそうにしてたら、あげたくなるじゃないですか。いいですよ、このアンプ、あげます」
「えっ?そんな...いいですよ」
「いいんです。私、ギターそんなに弾かないし」手に取り、渡してくる。
「いえいえ、ほんとにいいですから...」
「じゃあ、貸します」
どうしていいのかわからず、そのまま受け取ってしまう。
「今日は、オリジナル曲を聴いてもらおうと思って」そう言って、デスクの上のノートパソコンに手を伸ばす。
「一応、仮でボーカルも入ってるんですけど...気にしないでください」
耳ざわりの良いポップス。
ボーカルも良い感じだ。
「このまま鈴木さんがボーカルをとったらいいのに」
「嫌ですよ。絶対に嫌」
「良い声じゃないですか」
「どこが?ああ、嫌だ」
完成度が高いし、センスもある。
「これがギターのタブ譜です」
「すごいですね」
「あそこまで言われちゃ、黙っていられませんからね。どうですか?これでボーカルとってもらえます?」
「いや、まあ...それは」
この期に及んで、まだためらう。
話題を逸らそうと思い「そういえば、アコギも1本あるって言ってたじゃないですか?どこにあるんですか?」
「それなら、こっちです」
部屋の隅に置いてあるギターのハードケースを持ってくる。
ゆっくりと床に下ろし、開ける。
中身はマーチンのトリプルオーだった。
「すごい!」
「弾いてみます?」
「いいんですか?」
「どうぞ」
慎重に受け取り、ギターを抱える。
そのまま床に胡座をかいた。
トリプルオーといえば、エリッククラプトンである。
tears in heavenを弾き、流れで歌う。
弾き終わり鈴木を見ると、じっとこちらを見つめている。
「霧島さんって、指長いですよね。私と比べると...」鈴木は右手をあげて差し出す。
こちらは左手をあげて差し出し、重ねる。
何かのPVにこんなシーンがあったな、と思う。
「エイムさんって呼んでいいですか?あたしのことはノアでいいですよ」
2人で見つめあってしまった。
ノアは、はにかんだように笑い「さて、さっきの続き」
残りの曲も聴かせてもらう。
「これなら本当にプロになれるかも」
「ありがとうございます!これ、CD-Rに焼きますね」作業が終わり、受け取る。

ベンツに乗り、ファミレスで夕食を食べることになった。
食事をとりながら「エイムさん、Fってすぐ弾けました?」
「さほど、苦労せずに弾けましたよ」
「ほんとですか?あたし、あれでギター辞めようかと思いましたよ」
「最初、Aで形を覚えてフレットを下げていってFを弾いたんで」
「なるほど」
「あと、当時弾いてたのがzo-3ギターだったんで」
「どうでした、ミニギター?」
「最後は壊れました」
「壊れるまで弾いたんですか?」
「いや、なんか改造しようとしてブリッジとかいじってたら...」
「壊したんじゃないですか」ノアが笑って言う。
他人とこんなに話をしたのは、久しぶりじゃないだろうか。

食事が終わり、アパートまで送ってもらう。
どうやら、途中で眠ってしまったらしい。
気がつくとアパートの近くだった。
「おはようございます」
「おはよう」
「明後日のセッションなんですけど、エイムさんアコギ持ってるって言ってましたよね?持って来てもらえませんか?」
「いいですよ...」あくびをしながら答える。
車が止まり、シートベルトを外す。
「じゃあ、またメールか電話しますね」ノアの声が遠い。
無言で手を振り、それに応える。
部屋に入ると、電気もつけずコートを脱ぐ。
アルファのN3B。
たしか、2万近くしたはず...
そんなことを考えながらベッドに倒れ込み、そのまま眠りに落ちた。

翌日、起きて携帯を見るとノアからメールが届いていた。
{昨日はありがとうございました。曲を褒めてもらって嬉しかったです!明日はアコギを持って来てくださいね。では、またメールします}
アコギ?何のことだろう...
しばらくすると、昨日の記憶が蘇ってきた。
そうだ、ノアからアコギを持って来るように言われたのだ。
しまった!寝ぼけていて適当に返事をしてしまった。
持っているのはリトルマーチン。
ミニギターである。
当然、セッションには向かない。
どうしよう...
その時、脳裏に浮かんだものがある。
ずっと前から引っかかっていたものだ。
収納スペースを開け、中を確かめる。
あった。
ごちゃごちゃとした雑多な物の中に、それはあった。
ギターのケースだ。
このギターはひとり暮らしをする時、母から貰った。
その時は、母もギターを弾くのかと驚いたものだ。
父が何度も「近いんやし、いつでも帰ってきたらええ」と言っているそばで、終始無言の母。
玄関先でおもむろに「ちょっと待って」と言い、部屋に戻り持って来たのがこのギターケースである。
それを、無言で差し出す母。
それを、これまた無言で受け取る子供。
どんな親子だ...
駐車場に向かう途中、ゴミ置場に捨てて行ってやろうと振り返ると、ベランダに母の姿があった。
じっとこちらを見ている。
なんかこう、手を振るとかできないんだろうか。
邪魔なギターを捨てられなくなった。
ギターという宝物より、親から貰ったものなんか何も使いたくない、という思いのほうが強かった。
そのギターケースが、ここにある。
あれから、何年経っただろう。
「明日、アコギ持って来てくださいね!」
ミニギター。
新しいギターを買う、金銭的余裕はない。
......
よって、このケースの封印を解く。
えいっ!
中にはアコギが入っていた。
よかった...
ケースから取り出す。
形がギブソンのB-25に似ている。
色はチェリーサンバースト。
鳴らしてみる。
弦が錆び付いているので、ひどい音である。
ケースのポケットに茶色い封筒とカポと音叉が入っていた。
茶色い封筒は厚みがある。
保証書か何かかと思い取り出してみると、そこにはまっさらな1万円札が10枚入っていた。

母から譲り受けたギターはエレアコ仕様だった。
セッションにはちょうどいい。
とにかく、弦を張り替えることにする。
運良くワンセット残っていた。
手順通りに張り替え、弾いてみる。
楽しい。
これなら、ボーカルをとってもいいかもしれない。
明日、切り出してみようか...
忘れてたと思い、ノアにメールを送ることにする。
{昨日はありがとうございました。明日のセッションの時間がわかったら、またメールください}

ついでに、実家への定期連絡。
出ない...
土曜日だから、競馬かパチンコだろう。
そういえば、今月分の仕送りをまだしていない。
思い立ったが吉日というし、今から振込みに行くとしよう。
散歩がてら歩く。
銀行に到着し、振込みを済ませる。
取り引きは、月曜日になるはずだ。
明日に備えて、1万円引き出しておく。
残高が10万円。
もうひとつ郵貯に口座があり、そちらには15万円。
郵貯のほうには、手を付けないようにしている。
何かあった時のためである。
親が当てにならないからだ。
お金といえば、さっきの封筒に入っていた10万円はしまっておくことにした。
いくら親が鬱陶しいとはいえ、捨てるわけにもいくまい。

帰りにスーパーで買い物。
じゃがいも、玉ねぎ、ニンジン、牛肉。
そう、カレーだ。
久しぶりに作ろうと思い、買って行く。
ルーはたしか、アパートにあったはず。
アパートに着き、カレーの下ごしらえ。
煮込んでいる間に、ノアから貰ったCD-RをiTunesにインポート。
聴いてみると、最後に昨日聴いていない曲が1曲入っていた。
ピアノの弾き語りだった。
その時、ノアからメールで{明日、2時からいつものスタジオで}とあった。
{了解}と送り返す。
次にマイクロキューブ。
セッティングはJC CREAN。
ディレイとリバーブを試してみる。
面白い。
セッティングを変え、ハーフダウンチューニングでトライセラトップス。
夕飯はカレー。
カレーオンリーでサラダはない。
食べ終わり、食器を洗う。
シャワーを浴び、ゲームをプレイ。
砂漠を彷徨う。
次の目的地まで、かなり遠い。
ストーリーが渋い。
明日は昼前に起きればいいので、眠くなるまで遊び、3時ごろ就寝。

翌日、いつものスタジオ。
「今日はエイムさんに思う存分、歌って頂きますので」ノアが言う。
「よろしく...」
「ボーカルとるって決めたん?」ハットリが聞く。
「...みんながそれでいいなら」
ギターをケースから取り出し、7フレットにカポをつけ、歌う。
Here comes sun。
歌い終わると「ね、いいでしょう?」ノアは相変わらずベタ褒めである。
「まあ、せっかくやしバンドと一緒に合わせてみよう」鼻の頭をかきながら、ハットリが言う。
ノアはムスタングを持って来ている。
後で少し弾かせてもらおう。
赤盤の中から演奏する。
1時間ほど経ったところで、休憩を入れる。
「一昨日、オリジナル曲を聴かせてもらったんですよ」
「あたしの家に来てもらったの」
「ああ、それでエイムさんに昇格してるんやな」
「完成度、高いですね」
「3年で4曲やもん。そら、アレンジも煮詰まるっちゅうねん」
「ボーカル、ほんまにやる気なん?」ハセガワが口を開く。
「はい...」
「なんで?」
「...薦められたから、かな」
「ふぅん...」
セッション再開。
Hey Jude、Across The Universe。
ノアがキーボードを弾いているので、ムスタングを借りる。
続いてLet it be。
あっという間の2時間。
入り口で解散になるのかと思いきや「はい、今日はこの後ミーティングをします」ノアがはりきって言う。
「エイムさん、時間大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
「酒飲もう、酒!」ハットリが叫ぶ。
知っている店があるらしく、移動する。

10分ぐらい歩いた後「ここ、ここ」ハットリが指差したビルのエレベーターに乗る。
6階で降り、フロントで4人だと伝える。
案内されたのは、個室だった。
それぞれ上着を脱ぎ、座る。
「さあ、飲むぞ!」ハットリは気合いが入っている。
「ちょっと!ただの飲み会じゃなくてミーティングも兼ねてるんだから」
「わかってる、わかってる」
店員がオーダーを聞きに来る。
「食べ飲み放題、4人」ハセガワが勝手に注文する。
昨日、定期振り込みに時にお金をおろしておいてよかった。
「もう、お酒のこととなるとすぐこうなんだから...」
女子大生3人はビールを注文する。
1人、チューハイを頼む。
食べ物を頼んでいるので、まかせることにする。
ほどなくして、飲み物が運ばれてくる。
「エイムさん、ボーカル就任記念!かんぱ〜い」ノアが音頭をとる。
なんだか照れくさい。
リズム隊の2人は、ほぼ一気飲みだ。
「じゃあ、まずは自己紹介から」ノアは半分ほど飲んだグラスを置く。
「なんやそれ、合コンやあるまいし...」ハセガワがメニューを見ながら言う。
「はい、ハットリミチコです!大学3回生。趣味はドラムとお酒を飲むことです」ハットリが先陣を切った。
「じゃあ次、あたしね。鈴木ノアです。鈴木なのにノアなんです」
どういう意味だろう...
「そのギャグ言うんやめたら?いっつも受けへんねんから」
「いいの別に、反応してくれる人もいるもん。はい、次!」
そう言って、ハセガワをうながす。
「パス」
「おいおい、空気読めよ」ハットリがドスをきかせて言う。
「わかった、わかった。ハセガワミナミです」
「んで?」
「以上」
店員が来たので3人とも飲み物を注文している。
みんなペースがはやい。
3人とも黙ってこちらを見ている。
そうか、自己紹介だった。
「えーと、霧島永無です」
なぜか拍手が起こった。
何なんだろう、この空気は...
打破しようと思い「ハセガワさんは、どんなに字を書くんですか?」
「長い谷の川」
「はいはい、うちは洋服の服に部屋の部で、服部。忍者の服部半蔵の子孫なんです〜」
嘘だろう。
「ミチこそ、それ言うのやめたら?だいたい誰なの?服部半蔵って」
「忍者や忍者。忍者ハットリくんやで」
「知らない」
「にんにん」そう言って服部はポーズを決める。
「ばっかじゃないの!?」
「アホいうもんがアホなんじゃ、ハゲ」
「禿げてないもん。大阪の人ってすぐ禿げって言うよね」
「ナス、も言うで」
「あとさ、シュッとしてるって言うでしょ?何あれ、シュッ、って」
「シュッとしてるもんは、シュッとしてんねんからしゃーないやん」
「擬音が多い」
「お、出たな。京都は大阪をバカにしてるからな〜」
「大阪が勝手に京都に反感持ってるだけ」
「ちゃうちゃう。なんかこう、関西圏やけど一緒にせんといて〜みたいな?せんといてくれはります?みたいな」
「あっそ」
「はいはい、それじゃあミーティングはじめまーす」ノアが飲み物をひと口飲み「エイムさんも正式にボーカルになってくれたことだし、プロになるなめに、まず、デモテープというかCDを作ります!」
「命令?」小声で長谷川。
「さんせーい」服部は乗り気のようだ。
「エイムさんはどうですか?」
「1つ注文があるんですけど」
「何?なんでも好きなもん頼み〜や」
「いや、料理のことじゃなくて...歌詞から一人称を抜いてもらいたいんです」
ノアからもらったCD-Rには、私という一人称が出てくる。
私、と歌うことには抵抗がある。
「なんでですか?」
適当な言い訳を考える。
「一人称がないほうが、男女ともに感情移入しやすくなるんじゃないですか?」
「うーん、そうですね。じゃあ、歌詞を練り直します」
ネリナというキャラクターが出てくる小説があったな、とふと思う。
どうやら酔ってきたようだ。
「あとは、おいおい決めるっていうことで...」
運ばれてきた料理をみんなで食べる。
雑談が続く。
大学の話が多いので、会話に入っていけない。

2杯目を飲み終わったところで、トイレに行くことにする。
鏡で顔を見ると、赤くなっている。
長くため息をつく。
飲み会である。
居心地が悪い。
手を洗い、もといた個室に戻る。
入ろうと思った時、中から声が聞こえてきた。
「でもさ〜どこがいいん?」服部の声だ。
「何でよ」ノアが答えている。
酔っ払っているのか、声が大きい。
なんとなく入りづらくなって、聞き耳を立てる。
「正直言って、ギター下手くそやし歌だってひどいもんやし、なぁミナミ」
「声量はあるけど、ピッチが悪い」
「声がいいでしょう?」ノアがフォローしてくれている。
「なにより」服部が1拍入れてから「英語の発音悪すぎ」
「別にいいじゃん。オリジナルは日本語なんだから」
「まあ、本人が楽しそうなんはわかるけどさ...もう1回聞くけど、どこがいいん?」
「全部」
たぶん、酔っ払っているのだろう。
「なんかさ、エイムさんって見てたら何かしてあげたくなっちゃうのよね」
「なにそれ、母性本能?」
「こないだも家に来た時、ギターのアンプあげちゃったし...とにかく、エイムさんはもう正式メンバーですから」
「はいはい、いつまで続くことやら」
会話が途切れた。
中に入るチャンスだ。
咳ばらいをしながら、席に座る。
「大丈夫ですか?気分悪くなったりしてません?」
「大丈夫です」
ある意味、最悪の気分だ。
そろそろ時間である。
勘定を済ませ、店の外へ出る。
「あー食った、飲んだ」服部が伸びをしている。
しばらく歩き、途中で別れる。
「じゃあ、またメールしますね」ノアがそう言い、手を振る。
1人で駅へ向かう。
3人になった途端、またさっきみたいな会話でもしているんだろう。
あんな風に思われていたのか...
なんで正式メンバーになったんだろう。
ギターも歌も下手くそ。
ニコ動に動画を投稿した時と同じだ。
あの時も何かを期待した。
何かが変わるかもしれない、そう思った。
けど、それは幻想。
霧島永無。
そう、永遠に何も無いのだから...

またしても単調なバイトの日々。
アパートに帰っても、ギターは弾かない。
かわりにゲームをする。
水曜日にノアからメールがきたけど、放っておいた。
もうどうでもいい。
3人でプロを目指すか、新しいボーカルでも見つければいいのだ。
木曜日にまたメールがきた。
仕方がないので、開く。
まず1通目のメールは{この間はごめんなさい。酔うといつもああなんです、あの2人。ボーカルになるって決めてくれて嬉しかったです。土曜日のセッションなんですけど、その前に1度会えませんか?ギターのタブ譜を渡すのを忘れていたので。あともうひとつ、サプライズもあるので楽しみにしていてくださいね!}
2通目のメールは{どうしたんですか?メールか電話待ってます}
めんどくさいけど、メールを返す。
{すいません。ちょっと体調が悪くて...風邪をひいてしまったようです。今度の土曜日は行けそうにありません}
送信ボタンを押し、ため息。
ゲームに熱中していると、インターホンが鳴った。
ネットで何か注文していただろうか?
無視してもよかったけど、夜なので電気が付いている。
居留守を使うのは無理がありそうだ。
もう1度、インターホンが鳴る。
立ち上がりドアスコープをのぞくと、そこにはノアの姿があった。
「エイムさーん」ドアをノックする音。
やめろ!近所迷惑だろうが!
舌打ちをする。
どうしようか一緒迷ったが、ドアを開ける。
「こんばんわ、大丈夫ですか?メール見て心配になって...ちょっと様子見に来たんです」
「とりあえず、入って」
「病院、行きました?」
玄関先である。
これ以上の侵入を許してはならない。
「中、入っていいですか?一応、風邪薬とか買って来たんですけど」そう言ってビニール袋を見せる。
だめだ、防げない。
「...どうぞ」
「へー綺麗にしてるんで...」そこで言葉が止まった。
テレビに映っているゲーム画面を見つけたからだろう。
風邪だと言った手前、咳をしてみる。
「エイムさん」
「はい」
「座ってもいいですか」
クエスチョンマークがない。
これも防げない。
「...どうぞ」
沈黙。
「部屋、よくわかりましたね」
「ポストの名前見たんです」
「ああ、なるほど」
沈黙。
「嘘でしょう」
「何が?」声がわざとらしい。
「風邪なのにゲーム」
「ちょっと、ましになってきたんで...」
「エイムさん、なんか怒ってません?」
怒っているのは明らかにノアのほうである。
それはそうだろう、多少非常識ではあるけど心配して来てくれたのだ。
「何かあったんですか?いつもならメールだってすぐ返してくれるのに...」
「いや、水曜日は寝込んでて...」
「嘘。ちゃんと話してください」
「いや、ゲームが面白くなってきて...」
まさか居酒屋で3人の話を盗み聞きした、とは言えない。
「ちゃんと、話してください」さっきよりトーンが下がっている。
「いや、ほんとにゲームに熱中してて...」
「ふぅん」そう言って目をのぞきこまれる。
10秒ほど経過したあと、視線がそれる。
「今日のところは、そういうことにしておいてあげます」
なんとか誤魔化せたようだ。

追求し終わったノアは、部屋の中を見回している。
「あ、かわいい。リトルマーチン」
話題が逸れたのでチャンスだと思い「弾いてみます?」
「いいんですか?じゃあ」
ギターを手渡す。
コードやアルペジオを弾いている。
おもむろに、今やっているゲームのメインテーマを弾きだした。
弾き終わったところで「そういえば、何かサプライズがあるって」
「そう!驚かないでくださいね」
ノアは長い間をとる。
「新曲が出来ました」
「え!いつ?」
「ミーティングがあった日。歌詞はまだなんですけど...一人称抜きっていうのが難しくて...そんな曲、あります?」
「結構ありますよ」リトルマーチンを手に取り「例えば」と言って、歌ってみる。
スピッツの運命の人。
「たしかに、僕とか私とかでてきませんね」
調子に乗ってもう1曲。
山崎まさよしのセロリ。
間奏の早口言葉も歌う。
これは成功すると歌ってて気持ちがいい。
ノアから拍手をもらう。
「できたら、こういう風に歌詞を変えてもらいたいんです」
「了解です」
「コーヒーでも飲みます?」
「いえ、おかまいなく。そろそろ帰りますね」

ノアが帰った後、長いため息をつき、煙草を1本吸う。
新曲か...
それにひきかえ、ゲームとは...おまけに嘘までついて。
我ながら呆れる。
リトルマーチンを手に取り、鳴らす。
あの曲が弾きたい。
今度のセッションで披露してやろう。
コードをパソコンで検索。
歌詞も一緒にノートに書き写す。
翌日、ギターとボイスレコーダーを持ってカラオケボックスへ。
楽器持ち込みOKの店で、夜のフリータイムを利用する。
まずはカラオケで喉を慣らす。
ギターを取り出し、ボイスレコーダーをセット。
歌っては録音した声を聞く、の繰り返し。
チャーハンを頼み、休憩。
食べ終わり、カラオケタイム。
その後もギターを弾く、カラオケをするを繰り返し時間が迫った。

土曜日、いつものスタジオ。
ある程度、ビートルズを演奏した後、弾き語りでレディオヘッドのcreepを披露。
すると、服部が拍手をした「すごいすごい。よう声出んな〜ちょっと見直したわ」
遅れて、ノアと長谷川も拍手をする。
やった。
昨日、嫌になるほど練習したかいがあった。
「エイムさん、もう1曲歌ってくださいよ。セロリ」ノアにリクエストされる。
弾き終わり、またしても拍手。
服部の拍手が鳴りやまない。
するて、近づいてきて握手をされた。
「あの...」
「ミチ、山崎まさよしのファンなんです」ノアが説明する。
「結婚したいんやろ?」長谷川が呆れながら言う。
「うん!」
「合コンでも似たようなタイプの人、呼んできてってうるさいんですよ」ノアも呆れている。
「でも、なんかいそうでいないタイプやんな」
「譲歩して、血管!腕に血管浮いてる人!」
「あっそ」
「エイムさんは?何フェチ?」
「いや、別に...」
「好きなタイプは?」
「はあ...」
「もう、ノリ悪いな〜そんなんやったら合コンでモテへんで」
「あ、エイムさんこれ」そう言ってノアがギターのタブ譜を渡してくれた。

アパートに帰り、タブ譜を見てみる。
ストラトをマイクロキューブに繋ぎ、弾いてみる。
1曲ずつマスターしていく。
週末になるとスタジオに集まり、オリジナル曲を演奏する。
練り直した歌詞も完成して、そろそろレコーディングをしようという話になったのは3月に入った頃だった。
レコーディングスタジオを借りて、リズム録りが行われる。
ギターとキーボードはノアの部屋で宅録。
4月には4曲レコーディング出来た。
次に新曲のアレンジと、ボーカル録りを並行して行う。
ギターアレンジなんか考えるスキルはないので、まかせることにした。
問題はボーカル録りである。
これが、何回録ってもOKが出ない。
「ピッチ補正かけたほうがいいんちゃう?」長谷川がため息をつきながら言う。
「なんで?このままでいいじゃん」ノアが反対する。
結局、味があるという理由でピッチ補正なしでいくことになった。
コーラスをノアが入れる。
新曲のアレンジも、ボーカル録りが難航している間に仕上がっていた。
渡されたタブ譜通りに演奏する。
ゴールデンウィークが始まる頃には5曲録れた。
アパートで出来上がったCD-Rを聴く。
前々から考えていたことがある。
それはアルバムのコンセプトだ。
業界向けプロモーション用CD、というのが今回のコンセプトだと思っている。
だから編集を少し変えたい。
まず、1曲目のボーカルをノアのものに差し替える。
2曲目に当たる部分に、電話でやりとりしている声を入れる。
例えば「もしもし」「ボーカル募集の貼り紙を見たんですけど」といった具合だ。
本当はギター募集だったわけだが、嘘も方便。
わかりやすさ優先だ。
これで最初は3人でやっていて、あとから1人加入したんだとわかる。
3人に提案してみると、リズム隊の承諾はすぐに得られた。
問題はノアである。
とにかく自分の声がCDになるのが嫌だ、とのこと。
コーラスで入ってるからいいじゃないかと、説得した。
ちょっと考えさせてください、というのが答えだった。

バイトをしながら、メールでノアを説得する日々。
すると木曜日、バイト終わりにデニーズで会うことになった。
ノアは先に来ていた。
ついでたから、夕食も済ませることにする。
「どう?気持ち、変わった?」
「うーん...」
「別に世の中に流通するわけじゃないよ。レコード会社に送ったりするだけ」
「...何枚ぐらい作るつもりなんですか?」
そこで、パソコンで調べたCDプレスの料金表を見せる。
プリンターなんか持ってないから、ネットカフェでプリントアウトしてきたのだ。
説得材料である。
「みんな友達とかに配りたいだろうから、1人10枚渡すとして...」
「あ、あたし友達少ないから、5枚でいいです。エイムさんは?」
「そうですね...別に1枚でもいいけど、記念に5枚もらっときます」
「じゃあ、30枚ですね」
「あと、片っ端からレコード会社に送ろうと思うので100枚ぐらいで充分なんじゃないかな」
「歌詞カードとかはどうするんですか?」
「この4Pっていうのは?」
「結構、安く作れるんですね。ジャケット写真は?どうします?」
いいぞ、乗り気になってきた。
「これとか...」
そう言って1枚の紙を渡す。
「なんですか?これ...」
「玉ねぎ」
そこには拙いイラストが描かれている。
「エイムさんが描いたんですか?」
「うん、まあ...」
「アルバムタイトル、考えてます?」
渾身のイラストはなかったことにされてしまった...
創作とは得てしてそんなものかもしれない。
「ひとつ考えてるのが[ABC sessions]っていうやつで...」
「パクリですね」
「う、まあ」
「でもいいじゃないですか。うん、それでいきましょう」
ボーカルのことは完全に忘れているようだ。
OKがもらえた、ということだろうか。
「バンド名がないんですよ」
このカードも用意しておいた。
名前を伝える。
「ふーん、どういう意味なんですか?」
「星の名前です」
「ロマンチストですね」
「いや、まあ...」
まさかゲーム中に出てきた名前だとは言えない。
パソコンで意味を調べてみたら、良かったので選んだのだ。
「大学、忙しいんじゃないですか?プレスの注文はこっちでしときますよ」
「そうですね。じゃあ、お願いしようかな...」
そんなこんなでボーカルの件はクリアできた。
問題はあとアレだけだ。
アレに関しては、黙ってやろうと思う。

アパートに戻り、先程スルーされた玉ねぎをながめる。
携帯で写真を撮り、それをパソコンに送信。
無料のドローソフトをダウンロード。
さっきの写真を取り込み、修正して色もつけてみる。
タイトルを書き足し、完成。
気がつくと深夜を回っていた。
シャワーを浴び、心地よい自己満足に浸りながら眠りについた。

数日後、電話でのやり取りをノアの部屋で録音する。
あとはプレスしてもらうだけである。
秘密の作業をアパートで行い、プレスを頼む。

3週間後、CDが届いた。
ノアにメールを送ると、土曜日に居酒屋で集まることになった。
「こんばんわ」
「見して!」服部はハイテンションだ。
「お店に入ってからでいいでしょ」ノアがたしなめる。
店に入り、プレス料金を回収。
ひとしきり食べて飲んだ後、いよいよ開封。
「おお〜」服部が感嘆する。
1枚ずつ手渡す。
ビニールを開け、中身を確認する。
思っていたより、いい出来映えだ。
「いい感じやん」服部は喜んでいる。
「音、聴いてみなわからんやろ...ところで、これは?」長谷川が聞く。
やっぱり気付かれた。
ノアの顔色をうかがってみる。
黙って歌詞カードを見つめている。
問題は、裏面だ。
裏に目を通したとたん「ちょっと待って、何これ?」
沈黙。
実は、7曲目に曲を追加したのだ。
それはノアにもらったCD-Rに入っていた曲。
カウントされなかった曲。
ピアノの弾き語り。
その曲は、死を連想させる曲だった。
他のラブソングとは違い、ノアの本質が隠されていた。
だから、入れた。
入れる価値があると思った。
「帰える」そう言ってノアはお札を置いて、出て行ってしまった。
「あーあ、あれは相当怒ってんで」服部が言う。
「黙ってやったん?」長谷川が聞く。
「まあ...」
やっぱり、黙っていたのはマズかったか...
「何やってんの?」服部が聞く。
どういう意味だろう。
「はよ、追いかけーや」長谷川が怒って言う。
お札を数枚置き、急いで店を出る。
雨が降っている。
ノアの姿は、もうない。
とりあえず、駅のほうに向かう。
いない。
電話をかけてみる。
出ない。
マンションまで行こうにも、道がわからない。
仕方がないので、アパートに帰ることにした。

数日後、服部から連絡がありデニーズで会うことになった。
服部は余ったCDを持って来ていた。
「どーすんの?ノア、相当怒ってんで」
「なんて言ってた?」
「なんも。あの子が無口になる時は本気で怒ってる時やから...とりあえず、これはアンタが持っときーや」
「長谷川さんは?」
「別に。ノアに振り回されんのは、いつものことやし...あ、ちなみにウチ、就職決まっててん。みんなやる気やったし、悪いかな〜と思って黙っててんけど」
「現実的やな...」
「悪い?」声が少し怒っている。
「いや、いいと思う」
「まあ、記念にCD1枚作れて良かったんちゃう?それでええやん」
こうして、4人はバラバラになった。

雨が降っている。
6月だから、梅雨にでも入ったのだろう。
単調なバイトの日々。
それでもアパートに帰ると、時々ギターを弾く。
返しそびれたマイクロキューブも使う。
現金なやつ。
あれから、ノアに何度もメールをしたけど返事はない。
もうおしまい、ということなのだろう。
やることがないので、ゲームをする。
やり込み要素もできるだけやる。
電源を切ると、虚しさが襲ってくる。
服部に頼んで、なんとかノアに取り次いでもらえないだろうか。
でも、就職が決まっていると言っていたし、バンドのゴタゴタに巻き込むのも気がひける。
3人は大学生だ。
学歴がある。
何も無いのは、自分だけ。
ノアの家はお金持ちみたいだし、別に働かなくてもいいんじゃないだろうか。
引きこもりという存在がいる。
働かず、家にこもり親の金で生活している。
大嫌いだ。
何故なら、実はうらやましいからだ。
親が金持ちなら、自分も確実にそうなっていただろう。
社交性がなく、周りと打ち解けられない。
生きていくことに向いていないのだろう。
とくに長く生きていたいとは思わない。
その時、電話が鳴った。
ノアかと思い、急いで開く。
大きなため息。
ちくしょう!
「もしもし」
「ああ、もしもし」
「なに?」
実家の父だ。
「なんかあったんか?」
「なんで?」
「声が怒っとる」
深呼吸。
「いや、別に」
「そっちはどうや?」
「いつも通り」
「そうか...雨が多いから、気ぃ付けて」
何に気を付けろというのだろう?子供じゃあるまいし...
「いつもすまんな」
「いや、別に」
「いつでも帰ってきたらええから」
「気が向いたら...」
「じゃあ、また」
「はい...」

今日は朝から機嫌が悪い。
嫌いな現場だからだ。
スタッフからも評判が悪い、食品会社のライン作業。
薄汚れたクリーンスーツを受け取り、着用する。
指示があり、ラインに付く。
ミートボールを入れる作業らしい。
ミートボールがなくなると、空になった容れ物を下におろす作業もしなければならない。
隣に立っている男が、ミートボールの入った新しい容れ物を台に乗せる。
その時、いつも容れ物が体に当たる。
たまたまかと思い、そいつを見るとこちらをじっと見ている。
うかがうような目。
帽子とマスクをしているので、目しか見えない。
...わざとだ。
こいつ、わざとぶつけてるな。
容れ物を台からおろす時、軽く当ててやった。
すると、腰を狙って容れ物を当ててきやがった。
中身があるのでウエイトがあり、結構痛い。
中身がなくなり、チャンスが巡ってきた。
こちらは中身がない分、フットワークが軽い。
右ひじを狙い、思い切り殴る。
相手をうかがうと、怯えたような目でこちらを見ている。
マスク越しに小声で「やんのか、コラ。あ?」と言うと、やってこなくなった。
勝利。
工場系はこういう人種が多い。
なめられたら終わりなのだ。

9月になったというのに毎日暑い。
そんな最中、1通のメールが届いた。
心の中でガッツポーズ。
さて、どうしたもんか?
まずは服部にメールする。
いつものデニーズで会うことになった。
「おお〜久しぶり〜髪、切ったん?」
「久しぶり」
2人ともドリンクバーを注文する。
「あのさ...実は作ったCD、レコード会社に送ってて」
「そうなん?また黙ってそういうことするやろ〜んで?」
「そしたら、返事がきた」
「嘘!?ほんまに?」
「うん」
「何社?」
「1社だけ...」
「1社か...まあ、そんなもんやで。ウチも就活の時そうやったし」
「それが...サカタレコード」
「え!嘘?ほんまに?サカタっていったら大手やん!すごい!なんて連絡あったん?」
「とりあえず、1度会えませんか?って」
「ええやん、会おうや」
「でも就職は?」
「いいよ別に。ほんまにサカタと契約できるんやったら、内定蹴ってもいいし」
「バンドで上手くいくか、わからんで」
「それはそれ。デビューできるんやったらしたいもん。ノアには話したん?」
「いや、まだ...」
「そんなら、ウチが電話したるわ」
そう言うと服部は携帯を取り出し、電話をかける。
「もしもし、ノア?」
「あのさ〜エイムさんが」
「アンタまだ怒ってんの?もうええやんか、過ぎたことは...」
「そんなことより、レコード会社から連絡あってんて」
「サカタやで!サカタ」
「え?エイムさん?今ここにいるけど」
「変わってって」
携帯を受け取る。
「もしもし...」
「もしもし」
「久しぶり」
「お久しぶりです」
「あの、ごめん...」
「会って話しましょう」
「はい...」
「明日、空いてます?」
「大丈夫」
「デニーズまで行きます」
「了解です」
携帯を服部に返す。
「どうやった?まだ怒ってた?」
「うーん、でも話はしてくれるみたいやから...」
「がんばり〜や〜」

翌日、先にデニーズで待っていることにした。
するとノアが現れた。
ドリンクバーを注文。
2人とも、まずは煙草を吸う。
飲み物を飲み、ひと息つく。
「あの、実はCDをレコード会社に送って...」
ノアは黙っている。
「それで、返事がきたんです」
「それはミチから聞きました」
「黙って色々やって、ごめん」
「7曲目のことですか?」
「うん...」
「なんで勝手に入れたんですか?」
「ごめん...」
「ひと言相談するのが、筋なんじゃないですか?」
「...ごめん」
「黙ってこういうことされるの、嫌いなんですよ」
「あの曲、他のラブソングとは違うけど、なんで?」
「言いたくない」
そう言って、飲み物を取りに行ってしまった。
戻ってきても、沈黙。
「連絡がきたのが、あのサカタレコードなんです」
「それは後。まだ話が終わってません」
「...ごめん」
「ごめん、ごめんってほんとに悪いと思ってるんですか?」
「思ってますよ」少し腹が立つ。
こっちが謝ってるのに、これ以上どうしろというのだろう?
「なんなら土下座でもしましょうか?」
「なにそれ!開き直ってるわけ?」
「別に...でももうプレスされたものは、しょうがないんじゃないですか」
「それが開き直りだって言ってるの!ばっかじゃない!?」
ノアの声が大きいので、他の客がこちらを見る。
「もういいわ、たしかに作ったものはしょうがないし...その代わりこの間のこと説明してください。それで譲歩します」
「この間のことって?」
「風邪ひいたって嘘ついた時のことです」
ああ、そんな前のことよく覚えているものだ。
どうしよう...
これ以上嘘をつくのも疲れるので、正直に話した。
するとノアは大声で笑い出した。
「そんなことで、あんな嘘ついたんだ?ばっかじゃないの?ああ...ふてくされてたってこと?」
「いや、まあ...」
「エイムさんって面白いですよね。自分勝手だし」
なんとか機嫌が直ったようだ。
飲み物がなくなったので、取りに行く。
戻ると「メロンソーダ、子供みたい」と、また笑われてしまった。
「ところで、連絡がきたのって本当にあのサカタレコードなんですか?」
「相手が嘘をついてない限りは」
「ああ、詐欺かもしれないってこと?」
「うん、ああいう業界だから色々あると思うし...」
「でも、会ってみないとわからないでしょう?」
「うん」
「あたしはOKです。けどミナミが納得いかないって言ってるみたい」
「アドレス、教えてもらえる?自分で話しに行きます」

アドレスを教えてもらい、アパートに戻る。
早速{霧島です。きちんと話がしたいので会ってもらえませんか?}と送る。
メールはすぐには返ってこなかった。
数日後、返信があり土曜日にバイト先まで来てほしい、とのことだった。
長谷川はバーで働いているらしい。
土曜日、約束は5時。
知らない土地だったので、早めに出る。
お店を発見したのが4時。
時間があるので、近くのゲームセンターに入る。
コインを投入。
どうやって説得しよう...長谷川は頑固そうだ。
一筋縄ではいかないだろう。
紙袋を手に15分前に店の前に立つ。
メールで{お店の前にいます}と送ると、長谷川が出てきた。
店内に入る。
薄暗い照明。
マスターが「何か飲む?」と聞くので「水でいいです」と答える。
カウンターに2人で座る。
どう切り出したものかと逡巡していると「ちょっと勝手すぎるんちゃう?」と長谷川のほうから聞いてきた。
「うん、でもレコード会社に送るのは決めてたことやから...」
ごめんとは言わない。
長谷川には逆効果だと思ったからだ。
「このお店のマスターが、正式に雇ってくれるって言ってんねんけど」
「プロになりたくないん?」
「わからん...保証なんなかないし」
「今の世の中、どこでも保証なんかないと思うけど」
「アンタこそ、そんないい加減で通用すると思ってるん?」
「いい加減かな...」
「ノアといい、アンタといい勝手すぎる」
「勝手なのは認める。けど、時々勝手にでもならんと前に進まんこともあるんちゃう?」
長谷川は黙る。
今の言葉が効いたのだろうか。
もうひと押し。
「4人でサカタの人に会ってほしい」
「話したからって、デビューとは限らんやろ」
「それはわかってる」
長谷川はしばらく黙って考えている。
「アンタの覚悟は?」
「覚悟?」
「アンタさ、失うもんがないから強気なんちゃうん?その歳までバイトしかしたことないんちゃうの?」
痛恨の一撃。
「バイトも立派な仕事やし、否定はせぇへんけど...とにかくアンタの覚悟を聞かして」
覚悟って何だろう?
「アンタがみんなを説得して回ってんのは、なんで?」
「それは...ノアがプロデビューしたいって言ってたから」
「ノアじゃなくてアンタや!自分っちゅうもんがないん?ボーカルになったんも人から薦められたからやったやん。いっつも周りの顔色ばっかりうかがってんの?自分がどうしたいかっていうこと」
自分がどうしたいか、か...
たしかに確固たる思いはない。
連絡がきたから会ってみたいと思っただけだ。
長い沈黙。
長谷川を見ると、紙袋のほうを気にしている。
「どうしたん?」
「いや、それ」そう言って紙袋を指差す。
「ああ、ちょっと早く来すぎたからゲーセンで時間つぶしてて」
「ちょっと見ていい?」
「え?うん」
長谷川は「かわいい」と言いながら、UFOキャッチャーの戦利品を手に取っている。
「...それ、いる?」
「え、ほんまに?」
「そのかわりサカタの人に会って」
「...う。会うだけやからな!」
思わぬものが武器になった。
人生、なにがどこで役に立つのかわからないもんだ。

連絡がきていたのは、サカタレコードの本多という人物からだった。
{CD聴きました。よかったら会いたいのですが、都合のいい日にちを教えてください}とだけあった。
{返事が遅れてしまい、すみません。土日ならいつでも空いています}とメールする。
{次の土曜日、午後4時ごろはどうでしょう?大阪まで行きます}
{大丈夫です。お待ちしております}
土曜日、ホテルのロビーで会うことになった。
時間より早めに集まっておく。
すると、こちらに歩いてくる人物がいた。
小太りでポロシャツにチノパン。
サングラスをかけた人物も一緒だ。
あの2人だろうか?
向こうからこちらに近づいてきて、確認する。
「はい、そうです」ノアが歯切れの良い声で答える。
全員、頭を下げる。
「いや〜暑いですね。みなさん何か注文してくださいね」と言うので、それぞれ注文する。
「え〜と、まずは、はじめまして本多です」そう言って名刺を配る。
隣に座っていたノアに肘で小突かれる。
なんだろう?
短くため息をつき「はじめまして、鈴木です」
そうか、自己紹介か。
「ドラムの服部です」いつもと発声が違う。
「ベースの長谷川です」
「霧島です」
「はい、よろしく。こちらはプロデューサーの南条君」本多がサングラスをかけた人物を紹介する。
「CD、聴かせてもらいました。えーと、曲を書いてるのは鈴木さんでいいんですよね?」
「はい、私です」
「1番最後の曲は?」突然、南条が聞く。
「どういう意味ですか?」
「あれだけ毛色が違う。どういう経緯で書いた曲?」
「あれは...」
「答えたくないならいいけど」
「いえ、父が死んだ時に書いた曲です...」
「なるほど」
「もともと入れる予定じゃなかったんですよ」服部が助け舟を出す。
「と、いうと?」
「霧島さんが勝手に入れたんです」と長谷川。
「なるほど、君はなかなかいい選球眼をしているね」
やっぱり、わかる人にはわかるのだ。
怒られたけど、あの曲を入れてよかった。
「他に曲は何曲ぐらいある?」
「あの、とりあえず完成している曲はCDに入ってるもので全部です」服部が申し訳なさそうに言う。
「曲の断片なら10曲近くあります」ノアが強気に答える。
「今度、聴かせてくれる?」
南条とノアはアドレスを交換している。
「ライブ活動は?」本多が質問してくる。
「これから活動しようと思っています」
すごい、こんなにスラスラ嘘がつけるとは...恐るべし、鈴木ノア。
「ライブなんか別にどうだっていいですよ」南条がめんどくさそうに言う。
「南条君、バンドなんだからライブは大事だよ」
「ライブなんか慣れればなんとでもなりますよ。嫌ならやらなきゃいいだけだし...作詞、作曲、アレンジのインスピレーションのほうがよっぽど大事ですよ」
「また君はそういう極端なことを言う...」

その後は雑談になり、20分ほど話して別れた。
帰り道「なんかいい人そうやったやん」服部が口を開く。
「プロデューサーって、かなり話進んでるんちゃうん?」長谷川が言う。
「エイムさんはどうでした?なんかあんまりしゃべってなかったですけど」
「...スタジオ、入りたい」
「そうやな〜ウチも久しぶりに音出したい気分」
「ライブはどうすんの?これから活動します、とか言ったけど」長谷川が突っ込む。
「うーん、とりあえずスタジオ!」
「予約、とれる?」
「ねじこむ」
「今から電話してみるね」
夜遅い時間しか空いてないらしい。
それでもいいと予約を入れた。
久しぶりのスタジオ。
大きな音。
体に伝わる振動。
やっぱりいい。
またこの4人で演奏できた喜びをかみしめる。

その後、何の連絡もこなくなった。
結局、こんなもんかと思いバイトの日々を過ごす。
連絡がきたからって、デビュー出来るわけではないのだ。
何を夢見ていたのだろう。
バイトをして、日銭を稼いでそのうち歳をとって働けなくなる。
それから、どうなるのだろう。
考えたくない。
そうなる前にポックリ死ねたらいい。
服部は大丈夫だろうか?
内定を蹴ってなければいいけど...
ライブの予定はないけど、スタジオに入ることになった。
休憩の時「結局、このまま何もなしってことなのかな?」と聞くと、3人とも何故か黙っている。
「エイムさん、実は...」ノアが遠慮がちに言う。
「ノア、ええやん別に」服部がさえぎる。
「そうそう、こっちの意向は伝えたんやし」長谷川が言う。
何のことだろう?
「なんかあった?」
「いえ...」ノアが口ごもる。
「なんでもな〜い、のだ」服部がごまかす。
なんだろう、気になる。
けど、話したくないのだろう。
少し気分が悪かったけど、仕方がない。
「ライブ、どうする?」
「...別にいいんちゃう?」
今日はみんな歯切れが悪い。
こんな日もあるかと、それ以上追及しなかった。

翌週、ノアから本多がまた会いたいと言ってきている、とメールがあった。
また会いたい、ということは望みがあるのだろうか?
デビューまでの道のりが、いまひとつよくわからない。
あまり期待しないほうがいいだろう。
約束の日、前と同じロビーで待っていると本多と南条が現れた。
あと2人、知らない人物がいる。
本多が「こちらバルーンカンパニーの社長と黛さん」
バルーンカンパニー?聞いたことがない。
けど、ネーミングがモロにパクリだ。
けどミニアルバムに「ABC sessions」と名付けた自分が言えた義理ではない。
「おお、君らか?アルバム、聴いたで!」
社長という人物は、大阪弁でなんというか、いかにも業界人といった感じで非常に胡散臭い。
「まあまあ、社長みんな引いてるじゃないですか。はじめましてマネージャーの黛です」
こちらは女性で、スーツを着ている。
信用できそうな感じだ。
「ウチと契約する前に所属事務所を決めておいたほうがいいと思ってね。バルーンカンパニーは南条君が副社長を務めているし、社長もいい人だし紹介したんだよ」本多が説明する。
「バルーンカンパニー、副社長の南条です」そう言って名刺を差し出す。
名刺には南条真里と書かれてある。
「なんじょう...まり?」ノアが聞く。
「また言われちゃったわね、南条君」黛が笑いながら言う。
「まさと」南条が憮然として言う。
「そうなんですか...すいません」
「いいの、いいの。みんなからもまりちゃんって呼ばれてるんだから。早速なんだけど、ウチの事務所と契約してほしいんだけど、どう?」
女子大生3人は即座にイエスと答える。
「そちらの霧島さんは?」
「1つ、条件があります」
「あら、どんな?」
「最終的な決定権は事務所が、最終的な拒否権はバンド側にあるようにしてほしいんです」
「というと?」
「GOサインを出すのが事務所、NOと言えるのがバンド、という意味です」
「なるほど、理不尽なことをやらされるかもしれない、と思っているのね?」
「いえ、まあ...」
自分以外の3人は若い女の子だ。
保険をかけておいて損はないだろう。
「了解です」
「要するに、アクセルは事務所がブレーキはバンドが、ということです」もう1度言っておいた。
「ハンドルは?誰が握るのかしら」
それは、世間とかいう実態のない化け物が握っている。

バルーンカンパニーとの契約を結び、しばらく経った頃また連絡があった。
12月にコンベンションライブをやる、とのことだった。
レコード会社や業界関係者を呼んでやるお披露目ライブのことらしい。
ライブに向け、スタジオで構成を詰める。
そして初ライブ。
100人ほどが入るハコで、ステージと客席の床レベルはほぼ同じ。
リハーサルも終わり、本番を向かえる。
緊張する。
どうしよう、人前で歌うのなんか音楽の授業以来だ。
ただしょっぱなから歌わなくてもいい、というのが唯一の救いだった。
ライブもCDと同様、まず自分以外の3人が1曲演奏してからボーカルを呼び込む、という手筈になっていた。
いよいよライブ本番。
1曲目が終わり、自己紹介。
「ギター、キーボードの鈴木乃亜です」
「ベースの長谷川南です」
「ドラムの服部道子でーす」
「それではボーカルを紹介します。霧島永無」
ここでステージにあがる。
30人ほどいる。
少なっ。
緊張した時は人の顔をジャガイモだと思えという言葉があるが、どうみても人間である。
あの言葉には無理があることが発覚した瞬間だった。
緊張するので演奏することにする。
「カバー曲、聴いてください」
ビートルズのLet it be。
曲が終わり、パラパラと拍手が起こる。
ノリ悪っ。
まあ、ショーケースなんだから仕方がないけど...
全5曲を演奏し、ステージを降りる。
楽屋に戻ると、挨拶まわり。
会話の中心はもっぱらノアだった。
人の波が途絶えたので、離脱する。
壁に落書きがしてある。
煙草を吸いながらぼんやり眺めていると「あ、ウチらも書いて行こうや」そう言って服部はサインペンをもらいに行ってしまった。
戻ってきて「なんて書く?」
「普通にバンド名でいいんちゃう?」と長谷川。
残り少ないスペースに2007年と日付けとバンド名を書き、参上!と書いていた。

冬の夜道をシトシト歩く。
今年は12時を過ぎたと同時にノアからメールがきたので、強制的に誕生日だったことを思い知らされた。
結局、28歳でも死ななかったな、とぼんやり考える。
あれから1年経った。
少しはマシになっただろうか。
引越しの日は明日。
お金が飛ぶように消えて行った。
黛から10万借りてしまったほどだ。
東京に引越すにあたり、実家で保証人のサインを母からもらった。
特にこれといった会話はなかった。
新幹線に乗るため、駅へ向かう。
耳にはiPodのイヤホン。
恋人なんかいないけど、今の気分にぴったり。
グッバイ、大阪。
霧島永無、29歳。
最後の遁走が、今はじまる。


しおり