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第1話

––––そこは、ひだまりのような穏やかな光に満たされた静かな––––とっても静かな場所であった。

「……」
身を横たえ、優しく頬をなでてゆくそよ風の中、うつらうつらとしていた金之助(きんのすけ)は、自分の顔をのぞき込む視線に気がつき、はっとして上半身を起こした。

「よぉ、金之助。どうだい小説の方は?」
声の主は、金之助にうりふたつの青年––––兄の栄之介(えいのすけ)がいた。八歳上の兄は、いつもと同じく穏やかな笑みを浮かべ、子どものころからそうしていたように、金之助の髪をくしゃくしゃとかく。

「新しいおまえの小説、楽しみにしているぞ」
後ろから声がして、金之助は首をねじ曲げ、見る––––そこにも、彼とよく似た人物がいた。
十歳上の長兄大助(だいすけ)である。
文学の道を志した末弟の行く末を危惧(きぐ)し、小説を書くことをあまりよく思っていなかった大助であったが、ある日金之助の書いたものを一読するや「おまえには才能がある」と一転、最も熱烈な支持者になった。

「兄さんたち!」
金之助ははね起きた。久しぶりの兄たちとの再会に胸が踊る。
ふたりの兄は、金之助の肩や腕をさわり、
「また背が伸びたか?」
「もう立派な大人だな」
兄ふたりは楽しげに笑う。
「兄さんたちもおかわりなく!」
金之助は素直なよろこびの声をあげた。

––––ふたりは笑うのをやめ、苦笑を浮かべる。

「……え?」
その変化があまりに露骨だったので、金之助は笑顔のまま固まる。

––––と、信じられないことに兄ふたりは忽然(こつぜん)とその場から姿を消した。

ほんの数瞬前まで兄たちがいたその場所に踏み出し、左右を見回す金之助。
「……いない」
はじめから存在していなかったように、跡形もなかった。

––––だが、声はする。

天から降ってきたか、はたまた地から湧いてきたのか、耳もとで(ささや)かれたようでありなが、心に直接語りかけてくるような、兄ふたりの言葉……

「おまえはまだこっちにきちゃダメだ」
「そちらで、日々研鑽、一心精進して、大成するのだぞ」
ふたりの笑い声が響く。

「……あぁ、兄さんたち……もう、この世にいないんだっけ……」
ふたりとも、二年前にこの世を去っている。

それに気がついた時––––世界が壊れた。

硝子(ガラス)のようにひび割れ、はがれ落ち、砕け散る。
 
あとに残るは、漆黒。

黒一色が勢いよく広がり、金之助の視界すべてを塗つぶしていく。
「……あ、あ、あ、あぁぁァァァ!」
絶叫しているつもりでも、ただ唇を揺らしているだけかもしれない。
そこから逃げ出すように駆け出した。だが、同じ場で足踏みしているだけかもしれない。

––––黒以外、もう何も見えなかった。
自分の息づかいすら、聞こえない「完全なる無の世界」に金之助はいた。

(……これが、死ぬってこと?)
金之助は心の中でつぶやく。

––––か細い声がした。
「……あなたは、死なない」
彼の心を見透かすように、若い女性の声が耳元で囁く。

「……だ、誰?」
死の恐怖に目を強くつむったまま、金之助は声の主に問う。
「落ち着いて。もう大丈夫……」
誰何(すいか)に答えないかわりに、
「目をあけて」
優しくそう語る。

「……!」
景色が一変していた。
ほんの少し前に、墨一色に塗りつぶされたはずの世界が、いまは白く光っている。

純白––––ではなかった。どこまでも続く真っ白な景色の中に、ところどころ緑と黄とが散りばめられている。
「……花⁉」
目を()らせば、視界いっぱいに広がるその白さが、白百合(しらゆり)白木蓮(びゃくれん)の花の色であることがわかった。

ふたつの花が、空の青さも土の色も見えぬほど咲きに咲き誇っている。

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