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(四)

 暖炉の中に綺麗な放射状に組まれていた薪が、燃え崩れて、火の粉を上げた。目でその火の粉を追う。それは空で灰となり、風の中に消えた。
「本当に、良かったです」
 喜色に満ちたレフの声が響く。
 昨日の夕方にこの集落へ辿り着いたばかりの時はもっと声が弾んでいて、約二年間一緒にいた私でもレフのそんな声や表情を見るのは初めてだった。
 それもそのはずだと思う。ここは二年前に壊滅したサダリアの街の生き残りが寄り合って出来た集落なのだ。
「レフ君も色々あっただろうけど……、生きててくれてよかった」
 柔和な雰囲気を漂わせた老婆は、レフにそう答えた。曰く彼女はレフがサダリアに住んでいた時の近所に住んでいた人だという。その時からレフはその老婆にかなりお世話になっていたらしい。そして、昨晩は私も含めてお世話になってしまった。
 集落の人々は表面上では私たちを歓迎してくれたが、内心はそうではないようだった。後ろめたさを抱えているような者だったり、中には怒りを露わにした者もいたりした。レフが贄としてこの人々から差し出されたことや、今生き残っていること、私がサダリアを救えなかったことを考えれば、色々思うものがいるのも当然だろうが。
 けれど、この老婆はただ純粋にレフが生きているということに喜んでいるようだった。
「それでは、私たちはそろそろ」
「もっとゆっくりしていってもいいんですけどねえ」
 早朝。
 朝食まで頂いた私たちはほんの少しくつろいでから、出立する準備を整えた。幾分かの食料ももらい、少し増えた鞄を持ち上げる。レフも立ち上がって、荷物を背負った。
「お気持ちは感謝しますが、勇者として一人でも多くの人を救いたいので」
 ネクスタが陥落してから一カ月。色々な街が陥落したという話を耳にしている。魔物たちの動きが活発化したのは明らかだった。これまでも侵攻の頻度に波があったが、今のその度を超えている。
 少しでも多くの町や村を巡れば、少しでも多くの人が救える今の状況で、あまりこの集落に留まっているわけにもいかなかった。
 扉を開けて、私たちは老婆の家を出た。
 乾いて冷えた風が吹く。季節は晩秋だった。
「レフ君も、やっぱり行くのかい?」
「はい。これが僕にできるアウレルへの恩返しだと思うんです」
「そっか……。うん、身体には気を付けてね」
「ありがとうございます。お婆さんも、お元気で」
 そう言い合って、二人は別れを惜しむように手を握り合った。
 私も一宿のお礼を言い、頭を下げる。
「それじゃあ、二人とも。またいつか」
「はい。またいつか」
 手を振る老婆に背を向けて、歩き始めた。
 時々振り返る。老婆は寂しげな風の中で、いつまでも、いつまでも、手を振っていた。
 集落から伸びる道は馬車一両が通るのが精一杯程度の幅だったが、往来は多いのかまあまあ整っていた。
 王都から物資が届いて、それで何とかやりくりしている、と昨晩老婆が言っていたのを思い出した。
 レフはいつものように隣を歩いている。足一つ分大きい歩幅を、私に合わせて少しゆっくり。けれど彼の歩調は少し弾んでいるように見えた。
 彼の顔を見上げれば、秋の鮮やかな陽光に照らされている。
「よかったね、レフ」
「うん、よかった」
 昨晩、老婆から聞いた話によると、二年前のサダリアの人々が全滅したと思っていたあの日、ワイバーンからの襲撃で死んだ人は数百人程度だったという。つまり、私の絶望は早とちりだったらしい。
 けれど、その後の春を迎えられた者は少なかったと聞いた。追って襲い来る魔物にやられた人も少なからず、王都からの救援物資は雪で届かず、更に十年に一度レベルの厳冬。衰弱した人々には疫病が蔓延したという。
 あの老婆が、ワイバーンにやられてしまった方が良かったのかもしれないと語っていたから、その過酷さは想像に難くない。
 今生き残っている人々は恐らく三百人程度だろうと言っていた。
 当時の私がその話を知っていたら、喜んだだろうか。全滅を免れたと、少しでも救えた人がいたと、そう喜ぶのだろうか。
 今はもう、そんなことに喜ぶことは無かった。勇者の責務としてなるべく一人でも多くとは思ってはいるけれど、助けられたことや、助けられなかったことに、一喜一憂したりはしない。
 私が、人間の為に最善を尽くしていることは間違いないのだから。
 自分の正義に、疑念は無い。レフが正しいと言ってくれるから。

 ドシン、と。
 重い何かが地面を踏み抜く音。
 その音を放ったモノの正体を一瞬で察知した私はレフを押し倒して、近くの藪の中に転がり込む。
 レフの腹の上に乗った状態で態勢を低くし、物言おうとした彼の口を手で押さえた。
 耳を澄ませる。
 一定のリズムで轟くその重低音。驚いた小鳥が、囀り、飛んで行った。
 オークだ。
 更に言うなら通常よりも大き目の個体。
 道の向こうから、こちらの方へ進んでいる。
 その怪音にレフも気付いたのか、口を動かそうとするのを止めてくれた。
「近くにオークがいる」
 声を潜めてそう伝えると、彼は小さく頷く。完全に状況を理解したようだった。
 オークは徐々に私たちの方へ近付いてきているのが鼓膜を通して分かる。
 ほんの少しだけ上体を起こし様子を伺う。深緑色した寸胴の異形はのっそりのっそりとこちらへ向かってきている。
 思ったより近い。
 距離がもう少しあれば逃げることも考えられたが、今動けばオークは私たちに気付くだろう。見た目に反して感覚は鋭敏だ。
 更に近付く重低音。距離にして約三十メートル程。
 身じろぎ一つしないように気を付けながら、息も静かにオークが過ぎるのを待つ。
 贄が無ければ、勇者である私も魔物には敵わない。知れたことだ。だから、今こうやって這いつくばって、見つからないように祈っているしかない。
 隔靴掻痒の感に、歯噛みする。
 オークとの距離は目測十五メートル。
 その時、レフが彼の口に当てた私の手を退かして、何か喋ろうとした。
 一瞬レフのその行動に驚いたが、手に力を入れて彼の口から言葉が出るのを防ぐ。
「静かにして」
 レフの耳元で、神にさえ気付かれないような小声で、そう囁いた。彼だって、今オークに気付かれればどうなるか分かっている筈だ。
 それでも彼は私の手を退けようとしている。
「レフ……、レフ」
 動きを止めない彼に少し語気を強めて言った。
 けれど、彼は聞こえていないのか、私の手を引きはがそうとしている。
 これではオークに気付かれてしまう。そんな私の心配を他所に、オークは立ち止まることもなく、通り過ぎていった。
 だが油断はできない。私は彼の口に当てた手の力を緩めることなく、そのままの状態で潜んだ。
 幸運にもオークの足音はそのまま離れていっている。更に気配が遠ざかっていき、遂にその重低音は聞こえなくなった。
 藪から顔を出して、辺りを窺う。
 オークの姿は見えない。
 緊張が解けた私は全身から力が抜け、ふうと息を漏らした。
「なんで」
 レフが私の下でそう小さく呟く。次瞬、レフは私を付き飛ばして、組み敷いた。
「なんで僕を殺して、あのオークを殺さなかったんだ」
 その声は、怒号にも似た叫びで。
 呆然としたままの私に、彼は更に捲し立てた
「あのオークを見逃してしまえば、僕らが昨日いた集落はどうなる。どう考えたって全滅だ」
 それは、分かってはいるけれど。
「でも、だって、使う命が……」
「僕の命を使って、あの集落を救えばよかった」
 レフの命を使って?
 その言葉を聞いて、彼の命を使うという発想を私は失念していたことに気が付いた。
 オークの吠え声が山間に轟く。
 一つ。泡が弾けるような感覚がして、私はあの集落が襲われ始めたことを悟った。
「だって。私は。いや。でも」
 分かってはいた。私がオークを見逃せば、あの集落が襲われて、恐らく全滅するだろうこと。
 けれど、なんで私は彼の命を使わなかったのだろう。
「今からでもまだ。だから、アルマ」
 彼はそう言うと、自分のポケットからナイフを取り出して、指先を切った。焦って切ったせいか深く割けたそれは、普通よりも多く血が流れている。
 彼はその指を私の口にあてがった。唇の隙間から流れてくるぬるっとして生暖かいそれは、私の舌先に触れる。
 血の味だ。
 鉄臭いその味は慣れている筈だった。
 けれど何故か今は気持ち悪くて、私は吐き出した。
「……なんで。……アルマ、君は勇者だろ」
 四つ、五つ。泡は消えていく。
 レフ一人を殺せば、助けられる命がそこにはあった。
 けれど、でも。
「だって、私にとって、あなたは」
 はたと気が付いて、口を閉ざした。私は今、何を言おうとしたのか。何か言ってはいけないことを、言おうとしていなかったか。言ってしまえば、大事なものを失ってしまうことを。
 ゆっくりと息を呑み込む。
 真っ直ぐに私を射抜くレフの黒い瞳。このまま目を合わせていれば知られてしまうような気がして、私は目を反らした。
「あなたの命は……、ここでは使わない」
 十三、十四。どんどん泡は爆ぜていく。
 彼に言えるのは、たったそれだけのことだった。
「なんで……。なん……で……」
 彼の身体から力が抜けて、口からはうわ言のようにその言葉が漏れた。
 彼の下から身体を抜くと、彼は地面へと突っ伏した。
「アルマ……。僕はアルマを守らないといけないんだと思う。世界は君の小さな肩に乗せるにはあまりにも不釣り合いだ。今にも君を押し潰しそうな重圧を殺して戦っているんだと思うと、僕は君の傍にいて、支えないといけないんだと思う」
 初めて聞く彼の吐露に、私は胸を刺されたようだった。
 そうだ。私は、レフに……。
 レフに傍にいて欲しい。
「でも、違うんだ、ダメなんだ。君と旅して、人の死の刹那を見て、抗う人々を見て、アウレルから許されていると知って、僕は分かったんだ。僕はこの世界が好きだ。この世界に生きる人が好きだ。生きる人の営みが好きだ。人は……、美しいんだ」
 消えていく命が二十を超える。
 木が叩き折れる音が響いた。
「僕は、僕の命を捨てようとも、この世界を守りたいんだ。アルマ」
 彼が私を見た。
 視線を合わせると、私の呼吸は荒くなった。その目は私がこれまで贄としてきた人たちと、全く同じ色をしていた。
 命は数だ。この世界を少しでも延命させるためなら、何も惜しまない。この世界は誰の命よりも重い。元々、彼は聖剣の贄じゃないか。何を恐れることがあるんだ。彼だって使う一つの命に過ぎない。いつも通りだ。人の命を使うのは慣れている。血を飲めばいいんだ。血。彼の指からもう流れ出している。あの鉄の味だ。飲んで、聖剣を抜き放ち、一刀する。相手はオーク一体だ。簡単だ。ものの数秒で終わる。レフがいなくなっても、独りでもやっていける。彼と会うまではそうだったのだ。だから……、だから。
「……できない」
 震える口で、私はそう言った。
「私はレフの命を……、使えない」
 弾けた泡が二十六を数えたところで、それ以上は消えなくなった。
 恐らく、壊滅したのだろう。
「なんで……。僕は……、僕は」
 いつの日からか、彼は私にとって大切な存在になっていた。
 死んでほしくない。いなくなってほしくない。
 他がどうなろうとも。世界がどうなろうとも。
「…………私は、勇者失格だ」
 小さくそう呟いた。

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