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大切な人

 社に到着したタクトがまず取りかかったのは花壇への水やりだった。アヤメの植え替えが終わった段階で水をやらなければならなかったのだけれども、そのときは精根尽き果ててしまったのだった。なので土はカラッカラに乾いていて、アヤメとは植木鉢のころからのつきあいである土もまた半ば白みがかっていた。
 ポリタンクの水のおおよそ半分を花壇に捧げたタクトはしばらくアヤメの様子を見て回った。右端のアヤメから順番に、葉っぱや茎の様子を入念にチェックしてゆく。体調不良や侵略者のシグナルはないかどうか、生長の妨げになりそうなものはないか。ひとつひとつを指でなでてゆくさまは人の肌を撫でているかのようだった。
 それぞれの葉の一枚一枚を手で触れて確かめてゆく間、タクトは中腰となっていてつま先に力をこめている格好だった。一株のチェックを終えれば腰を曲げたまま横にずれて、さらにアヤメを改めていった。
 最後の株から手を離すなり、タクトは腰に手を当ててのけぞった。緊張しっぱなしだった背中が真逆の刺激でなんともいえない心地よさに満ちた。同時に背後の世界が上下反転して見えて、そこには明らかに人の形があった。
 見られた! と思って慌てて身を正して振り返ってみれば、アヤメが新しい着物をまとってたたずんでいた。紺色一色に染められた着物は、今までの絵柄つきとは異なって、どこかの大御所といった印象だった。みずみずしい植物ですね、なんという植物でありますか。アヤメの第一声はたわいもない言葉だった。
 アヤメであると答えれば、わたくしと同じ名前でありますね、と微笑んでみせた。
「昨日は、話の途中で立ち去ってしまって申し訳ありませぬ」
「どうしていなくなったんですか」
「あの方は呪詛を願う作法が完璧であるのです。ですから、わたくしがそこにいればその呪詛を受け入れなければならなくなってしまうのです」
「アヤメ様にも願われたくないことがあるんですね、アヤメ様に対する呪詛ですか? それとも、その人が俺の姉だと知ってのことですか?」
「あの方がタクト様のお姉様であることが呪詛を望まぬ由ではありませぬ。それに、わたくしに対する呪詛では」
 アヤメはそこで言いとどまった。たちまちほほ笑んでいたのがあからさまに沈んでいって、重たい顔色となってしまった。そうですね、と言葉を置いて、視線をやや下にして首を横に振った。ある意味では、その通りでございます。
「あの方はわたくしたちのために、呪詛を願おうとしているのです」
「アヤメ様はサチ姉がなにを願っているのか知ってるんですか」
「いかにも。ですが、呪詛とならぬよう心を砕いておりますゆえ、問題とはなりませぬ」
「じゃあ、あのときいなくなったのは、呪詛を聞き入れないようにするためですか」
「さようであります。大事な話をしていたさなかであるにも関わらず、無礼の極みでありました」
「俺もサチ姉の呪詛はやりたくないですし、理由もちゃんと聞いたのでもう大丈夫です。悪く思わないでください」
「大変恐れ入ります」
 弱り切った花が水を得て力を取り戻したかのように、アヤメの頭が持ち上がって、タクトの視線と交わった。視線と視線とがぶつかった瞬間にアヤメは口角を持ちあげてタクトに微笑みかけて、ゆっくりと歩み寄ってきた。ただ一歩一歩と近づいているだけなのに、なんだか妖艶だった。
「では、昨日の話の続きをしましょう。わたくしは神の身分である以上、者どもの願いを受けなければならぬと申したのは覚えておいでですか」
「ええ、覚えてます。つまり、アヤメ様は俺にその呪詛を実行してもらいたい、ということですよね」
「わたくしはまだ申しておらぬのに、話が早いですね」
「アヤメ様の話しぶりからまるわかりです。しかし、その呪詛は有効ですか? 相当昔の時代に生まれた呪詛でしょう、アヤメ様が言ってるのは」
「もちろん、願い手を失った呪詛は無効となります。しかし、近いうちにわたくしを恨む言葉を耳にすることができましょう。我が社で生気を失った顔をしていた女が、わたくしへの呪詛を生み出すのも時間の問題でしょう」
 ヨシワラが、アヤメへの呪詛を生みだす。タクトはアヤメがはじめからとんでもないことを考えていたのでないかと言葉を失った。自分が死ぬためにヨシワラの呪詛を実行させた。ヨシワラの後悔がいずれ祠に対する憎しみに変わって、それが呪詛を醸すと見越していたというのか。
 もっと衝撃的なのが、アヤメが口にしていた、自分への呪詛はもはや無効になっていることだった。もはや呪詛としても機能しない、考えるだけ無駄な呪詛に対してもアヤメは目を向けているのである。数ある神の中でも、これだけ情の篤い神はいないのではなかろうか。
 タクトは考えていたことを尋ねてみたけれども、それはどうやら見当違いだった。
「それは違います。確かにわたくしはこの時代にわたくしを呪う者どもが必要ではありましたが、タクト様とともに呪詛を取り扱っていけば、いずれは得られるものであります」
「アヤメ様の死を願う人たちがいるうちに実行すればよかったのではありませんか」
「残念ながら、そうはできぬ由があったのであります。そして、それこそが、わたくしにとっては最も大事なことであります」
 アヤメはタクトの手をとった。胸の高さまで持ちあげたかと思うと手の甲をゆっくりとなでだした。手首から指先に向かって幾度となくなでつづけている様子には、手の甲を見下ろすアヤメの微笑みも相まって、モノをいつくしむ姿勢が感じられた。
 なでていた手でタクトのそれを包み込むと、アヤメは自身の胸に押し当てた。はじめはやさしく、半紙か不織布に包まれているかのように力が入っていなかったけれども、次第に力が伴うようになって、だが痛むほどではなかった。手に込められる力に変化がなくなってからしばらくすると、わたくしの大切な人、とつぶやいた。
「タクト様のお仕事の邪魔をしてしまいましたね」
「いえ、邪魔なんてとんでもないです。あと、アヤメ様の『由』とやらも教えてはもらえませんか」
「この話はちゃんと腰を落ち着けて話すことといたしましょう。立ち話もなんでしょうから、今夜にでもよろしいでしょうか」
 タクトがひとつうなずくと、アヤメは満面に笑みを投げかけてからお辞儀をして、顔をあげるなりきびすを返してすっと消えてしまった。不吉な内容の話を、アヤメに対する呪詛を成就させるなんてとんでもない話をしていたにもかかわらず、なんだか気持ちがよかった。ひとえに、アヤメの穏やかな顔を拝めたからだった。

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