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サチ姉

 震える左手で右手首を押さえてドアノブをひねり、一気に戸を開け放つ。静かに優しく戸を開ける余裕なんざなかった。背中でドアを閉める、体重を思いっきりかけて、ほかのなにかが後を追ってこれないように。
 部屋は薄暗かった。窓のところにはカーテンがかけてあった外から光が入っては来ていなかった。それでいて明かりも小さいやつだけだから、この部屋だけまわりの時間から除外されているようだった。
 ドア越しに、まだ足音が消えたのを聞いた。
 タクトはすると脱兎のように扉のそばから逃げた。向かう先は部屋の真ん中に横たわる布団。まるで滑りこむように、身をかがめながら畳に手をつけ、ハイハイの恰好になって枕の横まで逃げた。薄闇の中で、布団にくるまってタクトを見つめる目。見慣れた目を見るだけで、タクトは心が少しばかり落ち着くのを感じた。
「どうしたの、タクト?」
「サチ姉、俺、もう死んじゃうかもしれない」
「なにを言ってるのタクト、そんなことあるわけないじゃない。タクトは体が強いんだから」
「最近、変なんだ。いるはずのない人の声が聞こえたり、足音が聞こえたり、帰りにはわら人形がついてくる」
「あら、そんなこと」
「そんなことってさあ、俺に霊感とかそういうのは昔っからないのに、突然だよ。なにか嫌な前兆にしか思えないよ」
「大丈夫、そんなに怖がることじゃないよ」
 サチ姉は布団から腕を出して、タクトの頭をなでる。タクトを見つめる柔らかな視線はさながら母親が子供にするようなそれである。なでる手も、布団の中にあったからか、人肌より少しばかり温かさが強い。それだけではあるけれども、不思議とタクトの気持ちを落ち着かせるものだった。
 サチ姉は昔から体が弱かった。タクトが幼いころは、まだ庭に出てちょっと動き回るぐらいはできたものの、小学校、中高一貫の中学部へとタクトが世界を広げてゆくのとは対照的に、家の中へ、家の中へと行動範囲を狭めざるを得ないほどとなった。一日中部屋から出ないことがほとんど、出れるとしても、家の中を歩く程度。外を出るのはまずない。
 なのに、強いはずのタクトはいつもサチ姉に慰められる。ケンカで負けて悔しかった小学校のときも、今と同じように頭を撫でて慰めてくれたし――そのときはもう布団の中にいることが多かった――勉強が分からないときはいつも教えてもらっていた。
 なでる腕を離したと思ったら、姿勢を正して、背筋をぴんと伸ばした。
「そういうことはよくあること。いずれ慣れるものよ」
「慣れる? いままで俺にはそんなことなかったよ」
「そういうお年頃ってこと。いままでなかったのは、単にたまたま」
「じゃあ、サチ姉も?」
「うん、よく聞くよ。外人さんふたり組とかね」
「俺も聞いたことがある。いきなり、耳元で、言葉が聞こえるのか、ってささやかれて」
「ただ驚いてるだけ。別に悪いことをするわけではないわ。確かに、ちょっと陽気すぎていたずら好きな困ったところもあるけれど」
 サチ姉はいきなり目をつぶって軽く首をのけぞらせたかと思うと、乾いた咳を一回した。空気の塊がタクトの顔面にぶつかって、そのときにはサチ姉はまたもやのけぞった。すっと手で口を押さえて、咳を数回。乾いたものではなく、タンの絡んだ感じの湿った音だった。
 タクトはすぐに辺りを見回して、枕の上の箱ティッシュをひったくる。サチ姉の前に差し出して静かに促す。タンはのみこむよりも吐き出してしまった方が体のためである。サチ姉はお礼を口にしながらも、口を押えていた手を伸ばした。
「怖がることはないのよ。それらはどこにもいるし、それらもそれらなりにモラルを持っている。多くはね。モラルがないそれの扱いは私は慣れてるから、タクトは安心して寝なさい、いいね?」
「サチ姉は、なにか知ってるの?」
「タクトより長く生きてるから、それなりには知っているだろうけれど」
「どうして、庭で人の骨を見つけてから、幽霊みたいなのを感じ取れるようになるの?」
「ああ、見つけてしまったのね」
 優しい目が、どこか物悲しい雰囲気を漂わせた。目つきが少し変わったのを感じた。わずかばかりに細くなって、眉間にちょっと力が入っているようだった。その目で再び頭をなでてくれたが、手は先ほどよりも冷たくなっていた。でも、サチ姉になでられることはタクトにとってはなによりも心が落ち着いた。サチ姉の言葉は正しいに違いない。いままでびくびくしていたものが、頭の中で、恐れるに足りないものだという認識ができあがりつつあった。
 緊張してカチコチだった心がすっかりほぐされたところに、金切り声とともに開け放たれた扉が大打撃を加える。背後の激しい音は幽霊以上の恐ろしさをタクトに植えつける。ほぐれた心が轟音に揺れまくる。その正体は、母親だった。
 サチは体が弱いから部屋には入るなと何度言えば分かる! 出ていけ!
 頭やら肩やらをなんども叩きまくって、サチ姉からタクトを引きはがす。叩きまくる手は握りこぶしで力加減も知らないものだから容赦ない。痛いし、奇襲に心は慌てふためいているし、耳から入る音は夜な夜な耳にする足音よりも怖いしで、這いずり回るようにサチ姉の部屋から退散した。
 タクトの母はやたらヒステリックで、すぐにかんしゃくを起こしてなりふり構わない怒り方をする。ぶつ、罵る、投げる。この三点セットは当たり前である。ボルテージが高いときは蹴りも入る。昔からそういう面はずっとあって、その度にタクトは泣かされて、そしてその度にサチ姉が頭をなでた。タクトがサチ姉に母親の目やぬくもりを感じるのは、おそらくはこのためである。

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