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運命と死

 運命っていうのはさ、ぼくにはよくわからないよ。うん。だいぶ前から考えているんだけどね、ちょっとだってわかった気にはならない。


 昔、その言葉を聞いたのは、職も持たず、家も持たず、妻子も持たず……持っているものを見つけるのが困難なほど、なにも持たない男からだった。
 その男は、以前はたいそう高貴な生活をしていたが、諸々の事情で落ちぶれ、いまはこのような生活をしていると語った。
 聞くに、たしかに豪勢な日々を送っていたようだ。物腰もやわらかだし、きれいな言葉遣いをする。それがこのような路地で這いつくばるように生きているのだから、どれだけ卑屈かと思ったのだが、男にはそのようなところは見受けられなかった。
 非常にふしぎな男で、私が食べ物がないんだと愚痴を洩らしたら、服をごそごそとやって、干し肉を出してきた。この辺では、食べ物がないやつはそこらじゅうにいた。その男だってたぶん、その干し肉が唯一の食糧だろうに、小さなそれをおもむろに出して、私の手に添えた。

 なんでかって? いや、ぼくは食べても食べなくても、もうそのうち死ぬからね。未来のありそうなきみにあげたほうが、いい気がしてね。

 温和に微笑むその顔を、いまでもよく覚えている。病かと聞いたが、いや違うと首を振った。そういう運命なのだそうだ。

 ふしぎだよね。なんとなくわかるんだ……もうすぐお迎えが来るさ。天使なんかはもちろん来ないだろうけれど、恐ろしい死神なんかが、魂を狩りに来るんじゃあ、ないのかなあ。

 それがわかったときから、長いあいだ運命を考えているそうだけれど、どうにもその仕組みなんかはまったくもってわからないそうだ。
 それでも、少しでも長くいきたいと願い、干し肉を出さなくったっていいだろうに、なぜかその男は私に肉を差し出した。
 そのあと、私は肉を持ってねぐらに帰った。次の日同じ場所にいくと、もう男はいなかった。誰のものかはわからないが、大量の血のあとが残っていた。
 男の行方は知れないが、あれのおかげで、今も生きている。
 そんな私も、あれから長らく運命について考えたが、たしかにほとほとわからない。そして数年まえだったか、そろそろ死ぬな、と思い至った。
 今、目の前に、あのときの私のような少年が、暗い瞳をもって座っているが、このポケットに隠したいくらかの食糧を、果たして渡すべきか渡さざるべきか……。
 あの男ほど運命とやらにひれ伏す気概がない私は、幾分か迷っていた。
 けれど、きっとこの少しあとには、ポケットの食糧は消え去って、私もこの世から消え去るだろう。それだけは確かだ。

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