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女納棺師

 立ち振る舞いだけで人を感動させることを、僕は初めて知った。

 嵐がのそりのそりと近づき、龍が潜んでいるような黒く重たい雲が、次第に天を覆ってくる冬の夕暮れだった。近くの木の上で、鴉が一声鳴く。ふと気がつくと、斎場の長く冷たい木の廊下に、いつの間にかきりりとした女の納棺師が静かにたたずんでいた。若い女の弟子を引き連れた姿は、あたかも舞台の袖で出番を待つ能楽のシテのようだ。

 畳の大広間に遺族全員が集まっていることを確認すると、納棺師は棺の前に進み、深々と皆に一礼をした。そして納棺の儀を執り行う前に、まず遺族に対して丁寧に挨拶を始める。納棺師が女であることに、戸惑いと不安を隠せなかった遺族たちも、その真摯な姿勢と節度ある態度で、次第に不安が払拭されるのを感じた。

 初めは、黄泉への旅立ちの為のお召し替えだった。納棺師は、故人のお気に入りだったよもぎ色の紬の着物を、静かに取り上げた。着物は死者に被せるだけかと思っていたら、死者が身に付けていた白い着物を、ゆっくりと脱がせている。しかし決して死者の素肌はみせず、弟子と共に優美な所作は違えない。納棺の儀に相応しく静まり返った大広間では、衣擦れの音だけが響く。
 納棺師は、死者を少しでも持ち上げる際には、その無礼を詫び、あくまでも死者に対する礼節をわきまえていた。遺族が見守る中、襦袢を付け、着物を着せ、きちんと袖に腕を通し、帯をあて、帯締めを回す。それだけで死者は死者でなくなった。

 そこから、顔を剃刀で剃り、白粉を叩き、頬紅で染め、赤い紅を引き、眉を描き、マスカラを塗った。仕上げに、髪を染めあげると、生前と変わらぬ姿が蘇ってくる。
その、あまりに見事さに、これでは先に旅立った夫が見間違えてしまうぞ、と遺族から軽口が出るくらいの見事な出来映えだった。

 最後は遺族が参加となった。ドライアイスで冷やされた死者は、思いの外冷たく硬直している。氷のような死者を、何事もないような顔で扱っていた納棺師の技に、改めて皆は感嘆したのだった。やがて遺族たちにより、死者に手甲・脚絆・足袋が付けられ、黄泉の国への旅装は、こうして整った。

 死者を敬い、尊重し、最後の最後まで見事な手さばきを貫いた納棺師は、美しかった。おくりびとは、そのたおやかな所作だけで、人を感動させてしまうのだ。棺に納められた死者は、生前の美しさを蘇らせ、穏やかな顔で永眠につくことができた。

 こうして母の通夜は、しめやかに始まったのだった……。

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