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恋という毒は遅効性なのだろう。
だからこうして遠い初恋の記憶などに悩まされ、毎晩深酒などしてしまうのだ。
そう、今度の恋も緩やかに死に向かっている。
……私はその毒をいつ飲まされたのだろうか。

真知子はカクテルグラスの中身を飲み干してテーブルの端にそっと置いた。
店員が次にこのグラスを取りに来たら、お代わりを頼むつもりである。
それから、テーブルの向かいの席に座る男を見た。見れば見るほど美しい男だ。
……見た目だけは。
この男と出会ったのは一ヶ月前、この店のカウンター席に一人で座ってやけ酒を飲んでいる時だった。
「あんたみたいな綺麗な人がひとりきりでいるなんて、俺はついてるぅ」
女に声をかけることに慣れきっただらしない軽口、元の色がわからぬほど脱色をかけた金色の髪、派手なシャツの胸元を大きく開けて見せびらかすようにぶら下げた金の鎖、刺さりそうなほど先の尖った革靴……何ひとつ真知子の美的感覚にそぐわぬ男だったが、少し濃いめの南国を思わせる彫りの深い顔立ちだけが真知子の心の奥深くを引っ掻いた。
真知子は南国が好きだ。初恋の少年を思い出すから。
そもそも、真知子が一人でやけ酒など呑んでいたのは、その3日前に別れた元カレの気配を思い出すたびに自己嫌悪に陥るからだった。だから、その嫌悪感をいっときでも払ってくれるなら、相手など誰でもよかった。
むしろ後腐れない行きずりの男ならなお良かったのに、この男は真知子の容姿が気に入ったらしく、彼氏気取りで何度も真知子を呼び出すようになった。
だからと言って誠実な付き合いではない。この男に他に何人もの女がいることを真知子は知っている。
そう、真知子は見てくれのいいただのセフレとしか扱われていないのだ。
それならばいっそ、セックス以外の付き合いなど省いてくれればいいのに、と真知子はため息をつく。
「ねえ、こういうの、もうヤメにしない?」
男は真知子の言葉を一瞬では飲み込めなかったようで、舌を巻いたおかしな発音で聞き返した。
「あ?」
「だから、こうやって会うの、やめようよ。セックスがしたいなら直接ホテルにでも呼んでくれればいいから」
「あー、別れようってわけじゃないわけね、オーケーオーケー」
真知子の言葉は彼に伝わった。しかし、その真意はきっと伝わってなどいない。
いや、一生伝わることなどないだろう。男はオーバーに両手を広げてみせた上に、相変わらずふざけたような物言いだったのだから。
「てかさあ、俺が他に女の子と遊んでるから怒ってる?」
「別に、そういうわけじゃない」
「いいっていいって、嫉妬ってやつだろ?」
「だから、違うってば」
この男にははっきり言わないと伝わらない、真知子はそう思った。
「あのさあ、嫉妬したりされたりするような恋愛感情じゃないでしょう、私たちのは。あなたにとって女の子は外出の時に着る服を選ぶような感覚で、好きに取っ替え引っ替えするものでしょ。でもね、私もそうなの。あなたなんか寂しい時に都合よく取り出して抱きしめるぬいぐるみと同じ、必要ないときは構いたくも、構われたくもないの」
「なんだよそれ、俺って単なる竿扱い?」
「そうよ、それ以外の価値なんて、あなたにあるの?」
「俺、けっこうモテるんだけど?」
「そうね、どうせ抱きしめるならブサイクなぬいぐるみよりも見てくれのいいぬいぐるみの方がいいもの。みんな賢明だわ」
「なんだよ、他の女の子もみんな、そういう目で俺を見てるって言いたいのかよ!」
急に視界に黄金色の雨が降った。
いや、雨ではなく、向かいの男が飲みかけていたジョッキのビールを真知子の頭からあびせかけたのだ。
「ふざけんな、お前みたいなジコチュウ女、もういらねえ!」
ここでさっさと席を立っただけ、この男は真っ当だったといえよう。真知子の物言いに腹を立てて今までのデート代の返済を迫る男も少なくはなかったのだから。
大股で出て行く男の後ろ姿を見送りながら、真知子は軽く苦笑した。
「あーあ、またやっちゃった」
騒ぎを聞きつけて駆け寄ってきた店員が、そんな真知子におしぼりを差し出す。
「『また』じゃないですよ、これで何度目ですか」
「なのに、私を出禁にしないのよね、この店、いい店だわ」
「そりゃあ、痴話喧嘩の一つや二つでお客様を追い出すようじゃ、店としてはやっていけないですからね」
 店員はテーブルの上に流れるビールを、壁に飛んだ麦色の液体を手早くふき取って歩く。
それを見ながら、真知子はそっとその名を呼んだ。
「鈴木さん」
「なんですか」
 もう名前を覚えるほどこの店に通った。囁くような声で呼んでも返事をもらえるほどに親しくもなった。それでも、プライベートなど何も知らぬ間柄だから……
「ねえ、鈴木さん、私ね、毒を飲まされたの」
「そりゃあまた、物騒な話ですね」
「ウソじゃないのよ、その毒はね、私の恋心を殺してしまったの」
「どんな毒なんですか」
「『初恋』という毒よ。何も穢れていない、透き通ったガラス玉みたいに綺麗な恋の毒」「ずいぶんと厄介な毒を飲まされたもんですね」
「そう、すごく厄介なの。私は何人もの男に抱かれてすっかり汚れきってしまった、なのに、その毒だけは綺麗なままで、私の体の奥に引っかかっているの」
「いっそ、その毒を仕込んだ男に告白でもしたらどうですか」
「ふふ、無理よ、死んじゃったもん」
「それはまた、厄介ですね」
「そ、すごく厄介なの」
 彼は使い終わったオシボリをまとめながら顔を上げた。
「ああっ、ぜんぜん拭けてないじゃないですか!」
 オシボリを髪に押し付けようとする彼の手を押しとどめて、真知子はひどく真剣な表情をしていた。
「ねえ、鈴木さん、この毒、どうやったら消せるかな?」
「さあねえ、毒を持って毒を制すとか?」
「なにそれ」
「つまり、恋の毒を消すには新たな恋の毒を飲んじゃうのが一番じゃないですか?」
「だから、無理だって、私、誰にも本気になれないもん」
「へえ、そうなんですか」
 真知子の手を優しく押し開いて、鈴木はオシボリを彼女の髪に押し当てる。
「俺、ひとつだけ不思議に思うことがあるんですよね」
「なぁに?」
「あなたは、どうして男と別れ話するときにわざわざウチの店を選ぶんですか、それもワザと」
酔いに任せて少しだけ素直になってみようかと、真知子は彼の手に頭を擦り付けるようにして甘える。
「鈴木さんが居るから」
「つまり、俺のことが好きなんでしょう?」
「うん」
「じゃあ、俺と付き合えば良いじゃないですか」
「ダメ、それは怖い。この毒が鈴木さんへの想いすら殺しちゃうんじゃないかと思うと、怖いの」
「それって、俺が仕込んだ毒がじわじわと効いてきたって事じゃないですかね」
「え」
「ただのお客さんに、こんなに近づく訳がないでしょう。俺はね、ずっとあなたに毒を流し込んでいたんですよ、本気の恋という毒をね」
 彼がゆっくりと囁く、真知子の耳朶に流し込むように。
「その初恋、俺の毒で殺してあげますよ。その代わり、覚悟してください」
「なにを?」
「俺の毒は、めっちゃ甘いですよ」
 不意に重なる唇の感触が切なくて……真知子はそっとまぶたを下ろすのであった。

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