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妄想家族

男は窃盗未遂で捕まった。だが、その自供した犯行動機が怪しくて、もしかしたら精神鑑定で無罪になるんじゃないかと噂され始めていた。
無罪とはいかなくとも、男の犯行に計画性はなく、衝動的な犯行で、しかも前科もないことから執行猶予がつくのは確実らしいと聞いた被害者の音楽家は、執行猶予で釈放されたら、再び自分が襲われるんじゃないかという不安を検察に伝え、必ず、有罪か、精神的に問題があるのなら処置入院させてほしいと訴えた。
しかし、容疑者は、「音楽大学に憧れていたが進学できなかった妻が、幼い頃から英才教育を施した娘は天才だから、世界的な名器を与えて演奏させれば、きっと誰もが納得する名演奏を披露するはずだ。だから、自分は牢屋に入ってもいいが、ちょっとでもいいから、 ストラディバリウスを娘に貸してやってほしい」と被害者の音楽家に伝えてくれと、男は取り調べで繰り返し訴えているという。
もちろん、検察や警察が、そんなことを被害者に伝えるわけがなかったが、あまりにも騒ぐので、自然に被害者である音楽家の耳にも届いてしまった。犯罪までしてストラディバリウスを与えたいという加害者の娘に興味を持った音楽家は、その娘に会ってみようとした。世界的な名器を貸し与えれば、本当に名演奏をするという才能の持ち主なら音楽家として、支援もやぶさかではなかったからだ。いくら父親が犯罪者でも、それで娘の才能が潰されてしまうのは音楽家の本意ではなかった。
だが、調べてみるとその容疑者に娘はおらず、しかも結婚さえしたことないということだった。困惑した音楽家は、容疑者の弁護士と連絡を取った。
すると、容疑者には結婚の経験は本当になくて娘がいるという事実もないそうで、弁護士の先生も、いるはずもない娘を妄想して起こした犯行だから、心神喪失状態の誰も傷つけていない窃盗未遂だったから裁判で無罪を請求するつもりだと被害者の音楽家に伝えた。
音楽家は困惑し、その容疑者の自宅を自分で調べに行った。すると、そこは狭いアパートで、近所の人に聞いても、容疑者が結婚していて、子供がいたというのは見たことも聞いたこともないと。なので被害者の音楽家は、容疑者が無罪となり、自由になったらまた狙われるんじゃないかと弁護士の先生に不安を伝えたが、裁判の結果、初犯であり、心神喪失状態の窃盗未遂だからということで男は無罪になった。
判決で無罪になると、男は再び音楽家を襲い今度は怪我を負わせ、ストラディバリウスを強引に奪い実在しない娘に会おうとしていたところを警察に捕まった。そして、再び襲われた音楽家は、そのときの怪我が原因で二度と演奏できない身体となってしまい自死してしまった。しかも、その音楽家の死について、無罪にした裁判官や弁護士、有罪にできなかった検察、警察ともに、誰も音楽家の死の責任を取らなかった。

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